公益財団法人合気会のホームページを開くと、「歴代道主略歴」の開祖の年譜に『大正末年 武道の新境地を開く。本格的に「合気の道」と呼称する』と書かれています。これは流名が「合気の道」となったのではなく、この武道の新境地のことを「合気」と称したことを示していると考えられます。
開祖が「合気」と称するものは、次の文章から、当初、「神人合一」を意味していたことが分かります。この意味付けは出口王仁三郎聖師によるものであったと思われます。
『道主(開祖)が北海道から綾部に移って来、武田惣角が綾部に来るに至って、門人たちは大東流と呼んでいたが、大正13年(1924)頃から昭和6年(1931)頃までは植芝流といい、また植芝流合気柔術(原文は植芝流合気術)といっていた。それがここ(大日本武道宣揚会が出来た昭和7年)で「合気武道(原文は合気道)」と名称されたのである。
「合気」という言葉は古事にも見られるが、その意味は違うようだ。また道主(開祖)のいう「合気」そのものは、無限に深く、広く、道の発現の真意を至極簡単明瞭に表し、
神人合一の意を簡略にした意味をももつのである』(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 164)
また、これに関連して「合気道の精神(
註 神示によって与えられたもの)」に示されているように、「
合気とは愛なり。天地の心を以って我が心とし(神人合一して・万有愛護の心で)、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂すること(である)」という意味、すなわち「神の愛」という意味も含まれています。
次の黄金体体験がこのことをそのまま伝えています。
『植芝翁が、
神との一体(神人合一、我は即ち宇宙なり)観を体験された事を ― たしか大正14年(1925)の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。・・・その瞬間私は、「
武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。・・・真の武道とは、宇宙の気を整え、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産みまもり、育てる
神の愛の力を、我が心身の内で鍛錬することである、と私は悟った。― と申されている』(『武産合氣』pp.17-18)
開祖が言われる「合気」という言葉には「神人合一」の意味がありましたが、ご自身の体験により「神の愛(の気)」という意味も付加され、「真の武」を表す言葉として意味づけられています。
道歌にも「まねきよせかぜをおこしてなぎはらい ねり直しゆく神の愛気に」と詠まれています。
この大正14年(1925)の末に竹下勇海軍大将が開祖に会い、上京を促します。
「大正14年には、往時の海軍大将竹下勇が、友人の浅野正恭(浅野和三郎の兄、海軍中将)から、彼の達人振りを聞かされて感心し『そんな武道の大先生を、丹波の山奥で埋れ木にさしてたまるものか』と、矢継ぎ早に出京勧誘の手紙を出し、又使いを立てて上京を促す事、実に5度に及んだ。こうなっては流石の盛平も、人生意気に感ぜざるを得ない。それから間もなく植芝が時々上京することになった」(品川義介『合気道の開山、植芝盛平翁』)
竹下勇大将は日記を付けていて、大正14年(1925)12月1日に次のように記されています。『竹下勇日記』の研究は早稲田大学の志々田文明先生がされているので、その論文から引用させて頂きます。
「午前十一時頃、浅野氏、植芝盛平、井上與一郎(要一郎が正しい)氏ヲ伴ヒ来訪。大東流柔道ノ形ヲ示ス。能ク研究ヲ極メタルモノニシテ、稽古スルノ価値十分ニアリ。明日ヨリ習フコトニ約束ス」
日記には「大東流柔道」と書かれていますが、「大東流柔術」をそのように聞いたのだと思います。
何度かの上京を繰り返す間、大本教の信者であるということが問題になったこともあります。
「植芝は竹下の希望で上京し、島津公爵(旧藩主)、山本権兵衛、西園寺八郎(公望の婿養子)といった名士の前で武術の実演をしています。
山本権兵衛なんかはかなり感心して、薩摩人は支持を惜しまないとまで言い出した。
そこから青山御所で侍従武官や側近に武道を教えるところにまで話が発展しています。(実際教えていた)
ただこの時点でこの方々、植芝が(第一次大本事件を起こした)大本教ということは知らなかったようで、結構な騒動になった(警察、検察、内務省、宮内省といった周囲が)。
植芝としては不愉快なことが多く、上京して綾部に帰りというのを2、3度繰り返した所、山本権兵衛と竹下の口添えで警察からの監視はスルー。
山本清(権兵衛長男)が借家を準備してくれたり、山本権兵衛が援助してくれたりと、上京した際は山本家の人々がかなり植芝を助けていたようです」(
http://murakumo1868.web.fc2.com/01-modern/0082-2.html)
このことから、開祖の軸足は大本教(出口王仁三郎聖師と言った方が良い)にあったことが分かります。
昭和2年(1927)になって、出口王仁三郎聖師の勧めもあり、一家をあげて上京します。そして、竹下勇大将の全面的な支援を得ますが、『竹下勇日記』から流名の変遷が分かります。
昭和3年(1928)2月17日
「午前柔術稽古。本日ヨリ相生会ニテハ相生流合気柔術ト称スルコトニセリ。午后再ビ柔術稽古」
相生会という同好会(会長 竹下勇)の柔術ということで「相生流合気柔術」と称したようです。
「彼(竹下勇)は後述のように、植芝の稽古場所づくりから、住居、稽古人の募集にいたるまで植芝を全面的に世話した植芝後援者の中心人物である。彼のこうした人柄を考えると、相生会による新呼称宣言の裏には、恩師武田に恐れ(畏れ)の気持ちを抱いていたといわれる植芝に代わって、植芝を独立させ、守り育てていこうとする竹下の配慮があったかもしれない」(志々田文明:「海軍大将竹下勇・武術日記」と大正15年前後の植芝盛平)
この時をもって「大東流合気柔術」から「相生流合気柔術」という流名変更がなされました。
この「相生流」という流名について吉祥丸二代道主が次のように説明されています。
『相生(あいおい)流は、父にいわせますと、植芝家に昔から伝わってきたということでした。だから紀州にあった武道ですね。「これが相生流だ」と2、3回示されたことがありましたけど、私にはわかりません』(『植芝盛平と合気道1』p.11)
私には、ただそれだけのことで「大東流合気柔術」を「相生流合気柔術」にしたとは思えません。家伝の流名を冠したというだけでは、武田惣角師に対して大東流でなくても相生流にも合気柔術があると盾つくことになると思います。
私は、この「相生」が「相生(あいいき)」とも読めるので、出口王仁三郎聖師にも相談されたのではないかと思います。武田惣角師に畏れの気持ちを抱いていたといわれる開祖のことですから、惣角師にも王仁三郎聖師にも、そして竹下海軍大将にも気を配って選ばれた流名だと思います。
昭和3年(1928)3月に竹下勇大将の次女 節(みさお)氏に「相生合氣柔術秘伝目録」が授けられています(富木謙治口述『合気道と柔道』に写真掲載)。
また、門弟に授けられた相生流の奥儀書を、大本の出口栄二先生が示しています。(
http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=59)
これらの伝書の後ろには「武田惣角門人 植芝守高(盛平)」の名が記されていて、「合氣柔術」の割印が押されています。「大東流合気柔術」の伝書の場合、「大東流合氣柔術」の割印になりますので、「相生流合氣柔術」の割印になっていない点にも注目です。
『竹下勇日記』には、「相生流合気柔術」と称する以前の「大東流合気柔術」を指して「大東流」「大東流柔術」「大東流柔道」「合気柔術」と書かれています。
posted by 八千代合気会 at 13:45|
日記