2017年09月19日

古事記 現代語譯 古事記(16)

「天之武産合氣業」図は、常盛謹書となっていることから、常盛という号を使われていた昭和28年(1953)〜昭和36年(1961)に描かれたものであることが分かります。武産合気の神示は昭和17年(1942)に降されていますが、その前後の関連した道文を列挙します。
「ずーっと以前は、いろいろの人々の熱誠をこめたところの武道をば、私も教えを受けたのでありますが、昭和15年(1940)の12月14日、朝方2時頃に、急に妙な状態になりまして、禊(みそぎ)からあがって、その折に今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。あらためて先祖からの技をやらんならんことになりました。・・・それで、それによりまして体育を、この地球の修理固成『美(うる)わしき、この天地(あめつち)の御姿は、主(ぬし、スの神)の造りし一家なりけり』と、世界は一軒の家、けっして他人というものは一人もいない。一日もはやく最も幸福なるところの楽しさ(地上天国)の建設であります。これに行かねばならぬと思っております」(『合気神髄』pp.23-24)
「合気道は・・・。何故なら、神生み島生みから始まっているからであります。だから今迄の武道とは全然違うのです」(『武産合氣』pp.112-113)
「那岐(なぎ)、那美(なみ)二尊の島生み神生みに準じて、このありとあらゆるすべての霊の元、体の元を生みなして、完成されたるところのみ心、み振舞に基いて、武産合気は生れたのです。日本武道のはじめはここに基いています」(『武産合氣』pp.110-111)
「合気道は小戸(おど)の神業(かむわざ)であります。本当に日本の最初の仕組みのもとに禊をはじめ、すべて伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神様に神習うて鳥生み、神生み、すべて新しき天の運行を生み出していかなければなりません」(『合気神髄』p.23)

「先祖からの技」は「伊邪那岐、伊邪那美の神様の業(わざ)」であり、武産、結びの技ということが分かります。「小戸の神業」は後で『古事記』の「身禊の段」で触れますが、禊の技です。これに対して「岐美の神業」は結びの技です。
「我々が今やっていることは己れの肉身をもって、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神に神習うて、地球、宇宙組織を営むところを神習うて、全部の立て直しのことに奉仕しなければならない、国家修斎の道である」(『合気神髄』p.139)

結びの技は、呼吸力(イキ・水火の力、気の力)による技とも言い換えることが出来ます。
「左は伊邪那岐(いざなぎ)(補足 にして霊)、右は伊邪那美(いざなみ)にして体、その本能によって( あるがままの真理によって)経綸が行われる。また伊邪那岐は火、伊邪那美は水、宇宙の気( 水火、イキ)をいざないならう」(『合気神髄』p.127)

「誘いならう」から「連行」という言葉が思い浮びます。呼吸力は「摩擦連行作用」を生じさせるものです。
「また、地球修理固成は気の仕組みである。(即ち)息陰陽水火の結びである。そして御名は伊邪那岐、伊邪那美の大神と顕現されて(右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞をされた)、その(それを)実行に移したのが合気、どんなことでも出来るようになってくる」(『合気神髄』pp.88-89)
「こうして合気妙用の導きに達すると、(古事記にあるように)御造化の御徳を得、呼吸が右に螺旋して舞い昇り、左に螺旋して舞い降り、水火(魂魄、霊と体)の結びを生ずる、摩擦連行作用を生ずる。・・・この摩擦連行作用を生じさすことができてこそ、合気の神髄を把握することができるのである」(『合気神髄』p.87)

天の村雲九鬼さむはら龍王の御道ですが、「この武道は、神サンから授かったお道やで、三ヵ月修行したら天下無敵になるんだ」(砂泊諴秀著『合氣道で悟る』p.46)と開祖が言われているように神示で降ろされたものです。その経緯は中西清雲氏が語っています。
合気の植芝を導き 言霊研究にも着手
中西夫妻が修法研鑽に明け暮れていたときに出会ったのが、合気道の開祖・植芝盛平だった。
その出会いは、茨城県岩間町に住んでいた大本教信者・赤沢善三郎という人物の仲介による。中西夫妻に心酔していた赤沢が、彼らの活動を植芝盛平に話したところ、植芝が非常に興味を持ち、昭和12年(1937)のある日、突然、東京・板橋の大山に住んでいた中西夫妻のもとに訪ねてきたのである。
ちなみに、植芝は大正9年(1920)に大本教に帰依し、大正13年(1924)には出口王仁三郎(おにさぶろう)の用心棒として王仁三郎と蒙古へ同行、パインタラ(中国名は内モンゴル自治区の通遼)で遭難し、あやうく救出される一幕もあった。帰国後、植芝は大本教団とは一線を画し、合気道の研鑽に努めていたのである。
植芝は中西夫妻に対して『合気( 原文は合気道。文の繋がりから流名ではなく神人合一・神の愛気という意の合気が正しいと思われる)という気の原理を開眼するために指導を受けたい』と申し入れてきたという。
そのころ、中西夫妻は『日高の法伝(ほうでん)』のために奈良の葛城山で参籠修行しなければならなかったが、それを一時延期して、植芝のために合気道に関係する神々を降ろして秘伝を教授した(武産合気の神示は天の村雲九鬼さむはら龍王のみ言として降ろされた)。また、古来の武具のいわれや合気と気合の相違など、いろいろ伝授したという。
その後、太平洋戦争となり、昭和16年(1941年12月)に赤沢が中西夫妻を岩間町に招聘、夫妻はその地で翌年から本格的に『古事記』(ここにいう『古事記』とは、神より特別に清雲に下賜されたもので、正式名称は『布斗麻邇古事記伝』といわれるものである)をベースにした言霊の解明に挺身することになる。この研究は単に書斎的なものではなく、法座(人間の理性では解決できないような問題があれば、それを担当する神々に降臨を願い、その方法や教示を得るために行う修法)を立てて霊的に順次調べて解明していくという、神秘主義的なアプローチの異色のものだった。
具体的には、清雲が神憑りになって『古事記』の一字一句を口述、光雲がそれを書記するのである。一回で2時間から3時間かかるが、それを毎日、3、4回も繰り返すのである。
『古事記』の解明のために清雲に神懸った担当の神は、常陸言代主命(ひたちことしろぬしのみこと)。その前身は、岩間の愛宕山の十三天狗のひとりであった。
『古事記』の言霊研究は、戦後の昭和23年(1948年、中西清雲のプロフィールでは昭和22年)まで続けられた。さらに各種の祝詞や大祓の言霊の解明なども行った」(月刊『ムー』「古神道を現代に甦らせる中西清雲」1997年4月号p.179)

八千代合気会の皆さんは、「合気の気の原理」について考えてみて下さい。

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2017年08月30日

合気道の創始−命名(4)

公益財団法人合気会のホームページを開くと、「歴代道主略歴」の開祖の年譜に『大正末年 武道の新境地を開く。本格的に「合気の道」と呼称する』と書かれています。これは流名が「合気の道」となったのではなく、この武道の新境地のことを「合気」と称したことを示していると考えられます。

開祖が「合気」と称するものは、次の文章から、当初、「神人合一」を意味していたことが分かります。この意味付けは出口王仁三郎聖師によるものであったと思われます。

『道主(開祖)が北海道から綾部に移って来、武田惣角が綾部に来るに至って、門人たちは大東流と呼んでいたが、大正13年(1924)頃から昭和6年(1931)頃までは植芝流といい、また植芝流合気柔術(原文は植芝流合気術)といっていた。それがここ(大日本武道宣揚会が出来た昭和7年)で「合気武道(原文は合気道)」と名称されたのである。
「合気」という言葉は古事にも見られるが、その意味は違うようだ。また道主(開祖)のいう「合気」そのものは、無限に深く、広く、道の発現の真意を至極簡単明瞭に表し、神人合一の意を簡略にした意味をももつのである』(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 164)

また、これに関連して「合気道の精神( 神示によって与えられたもの)」に示されているように、「合気とは愛なり。天地の心を以って我が心とし(神人合一して・万有愛護の心で)、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂すること(である)」という意味、すなわち「神の愛」という意味も含まれています。

次の黄金体体験がこのことをそのまま伝えています。

『植芝翁が、神との一体(神人合一、我は即ち宇宙なり)観を体験された事を ― たしか大正14年(1925)の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。・・・その瞬間私は、「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。・・・真の武道とは、宇宙の気を整え、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛錬することである、と私は悟った。― と申されている』(『武産合氣』pp.17-18)

開祖が言われる「合気」という言葉には「神人合一」の意味がありましたが、ご自身の体験により「神の愛(の気)」という意味も付加され、「真の武」を表す言葉として意味づけられています。
道歌にも「まねきよせかぜをおこしてなぎはらい ねり直しゆく神の愛気に」と詠まれています。

この大正14年(1925)の末に竹下勇海軍大将が開祖に会い、上京を促します。

「大正14年には、往時の海軍大将竹下勇が、友人の浅野正恭(浅野和三郎の兄、海軍中将)から、彼の達人振りを聞かされて感心し『そんな武道の大先生を、丹波の山奥で埋れ木にさしてたまるものか』と、矢継ぎ早に出京勧誘の手紙を出し、又使いを立てて上京を促す事、実に5度に及んだ。こうなっては流石の盛平も、人生意気に感ぜざるを得ない。それから間もなく植芝が時々上京することになった」(品川義介『合気道の開山、植芝盛平翁』)

竹下勇大将は日記を付けていて、大正14年(1925)12月1日に次のように記されています。『竹下勇日記』の研究は早稲田大学の志々田文明先生がされているので、その論文から引用させて頂きます。

「午前十一時頃、浅野氏、植芝盛平、井上與一郎(要一郎が正しい)氏ヲ伴ヒ来訪。大東流柔道ノ形ヲ示ス。能ク研究ヲ極メタルモノニシテ、稽古スルノ価値十分ニアリ。明日ヨリ習フコトニ約束ス」

日記には「大東流柔道」と書かれていますが、「大東流柔術」をそのように聞いたのだと思います。

何度かの上京を繰り返す間、大本教の信者であるということが問題になったこともあります。
「植芝は竹下の希望で上京し、島津公爵(旧藩主)、山本権兵衛、西園寺八郎(公望の婿養子)といった名士の前で武術の実演をしています。
山本権兵衛なんかはかなり感心して、薩摩人は支持を惜しまないとまで言い出した。
そこから青山御所で侍従武官や側近に武道を教えるところにまで話が発展しています。(実際教えていた)
ただこの時点でこの方々、植芝が(第一次大本事件を起こした)大本教ということは知らなかったようで、結構な騒動になった(警察、検察、内務省、宮内省といった周囲が)。
植芝としては不愉快なことが多く、上京して綾部に帰りというのを2、3度繰り返した所、山本権兵衛と竹下の口添えで警察からの監視はスルー。
山本清(権兵衛長男)が借家を準備してくれたり、山本権兵衛が援助してくれたりと、上京した際は山本家の人々がかなり植芝を助けていたようです」(http://murakumo1868.web.fc2.com/01-modern/0082-2.html

このことから、開祖の軸足は大本教(出口王仁三郎聖師と言った方が良い)にあったことが分かります。

昭和2年(1927)になって、出口王仁三郎聖師の勧めもあり、一家をあげて上京します。そして、竹下勇大将の全面的な支援を得ますが、『竹下勇日記』から流名の変遷が分かります。

昭和3年(1928)2月17日
「午前柔術稽古。本日ヨリ相生会ニテハ相生流合気柔術ト称スルコトニセリ。午后再ビ柔術稽古」

相生会という同好会(会長 竹下勇)の柔術ということで「相生流合気柔術」と称したようです。
「彼(竹下勇)は後述のように、植芝の稽古場所づくりから、住居、稽古人の募集にいたるまで植芝を全面的に世話した植芝後援者の中心人物である。彼のこうした人柄を考えると、相生会による新呼称宣言の裏には、恩師武田に恐れ(畏れ)の気持ちを抱いていたといわれる植芝に代わって、植芝を独立させ、守り育てていこうとする竹下の配慮があったかもしれない」(志々田文明:「海軍大将竹下勇・武術日記」と大正15年前後の植芝盛平)

この時をもって「大東流合気柔術」から「相生流合気柔術」という流名変更がなされました。
この「相生流」という流名について吉祥丸二代道主が次のように説明されています。
『相生(あいおい)流は、父にいわせますと、植芝家に昔から伝わってきたということでした。だから紀州にあった武道ですね。「これが相生流だ」と2、3回示されたことがありましたけど、私にはわかりません』(『植芝盛平と合気道1』p.11)

私には、ただそれだけのことで「大東流合気柔術」を「相生流合気柔術」にしたとは思えません。家伝の流名を冠したというだけでは、武田惣角師に対して大東流でなくても相生流にも合気柔術があると盾つくことになると思います。
私は、この「相生」が「相生(あいいき)」とも読めるので、出口王仁三郎聖師にも相談されたのではないかと思います。武田惣角師に畏れの気持ちを抱いていたといわれる開祖のことですから、惣角師にも王仁三郎聖師にも、そして竹下海軍大将にも気を配って選ばれた流名だと思います。

昭和3年(1928)3月に竹下勇大将の次女 節(みさお)氏に「相生合氣柔術秘伝目録」が授けられています(富木謙治口述『合気道と柔道』に写真掲載)。
また、門弟に授けられた相生流の奥儀書を、大本の出口栄二先生が示しています。(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=59
これらの伝書の後ろには「武田惣角門人 植芝守高(盛平)」の名が記されていて、「合氣柔術」の割印が押されています。「大東流合気柔術」の伝書の場合、「大東流合氣柔術」の割印になりますので、「相生流合氣柔術」の割印になっていない点にも注目です。

『竹下勇日記』には、「相生流合気柔術」と称する以前の「大東流合気柔術」を指して「大東流」「大東流柔術」「大東流柔道」「合気柔術」と書かれています。
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2017年07月19日

古事記 現代語譯 古事記(15)

「淡道之穂之狭別島(あはみちのほのさわけじま)といふは 烏うゆ(む声)と結ぶ言霊」(『霊界物語』6-5-28)と出ていますが、「烏うゆ(む声)」は「淡道之穂之狭別島」の霊返し( たまかえし、言霊を約めること。例:フジの霊返しはヒなり)ではなかろうか、というのが大本の方のご意見でした。「烏(う)」と次の「う」は表記が違うので、王仁三郎聖師によると、最初のウと2番目のウは、違うウなのだそうです。この部分は「淡道之穂之狭別島」と称えると、「ウウユ」となり、最後は「ム声」になりますというような、「・・・になる」「至る」というのが自然で、「結ぶ」に近い表現かと思っています、と教えて下さっています。

「天之武産合氣業」図と同じ言霊で示されているのは、「スーウウウウユ−ム 淡道之穂之狭別(あわじのほのさわけ)の行という」(『武産合氣』p.89)です。
⦿(ス)からウが生まれ、ウウウユームと、最期に結ぶ言霊(ム声)に至って、このムスビによって島々の生成(産み出し)が行われるところが武産合気の技の産み出しと同じなので、開祖が取り上げられているようです。これらの言霊の意味は詳しくは分かりませんが、次の部分が参考になるかと思います。
「大虚空一点のヽ(ホチ)あらはれて スの言霊は生れ出でたり ・・・ 主の神の初声(うぶごゑ)にあれし言霊は 宇迦須美の神のウ声なりけり ・・・ 一さいの真中にまして万物の  根本にますスの言霊よ ・・・ むしわかし結び連ぬる活動は ムの言霊の活用なりけり  穏かに強き弱きを引きならす 功(いさおし)はユ声の言霊なるも ・・・ ワ行ウの生言霊は生み生みて 生みの果しを守らす神なり」(『霊界物語』73-1-6)
「ウ列は森羅万象の結びに居り
(中略)
ムームームーム ム結びの神業の鳴り鳴りて 今生(あ)れまさむ国魂の神
ユーユーユーユ ユ白雪よりも清らけき 畏き御子の生れます今日(けふ)はも」(『霊界物語』75-2-8)

恐らく簡略化したものだと思いますが、合気道新聞 第90、98、99、104号には「ウーユームー」「すーうーゆーむー」「すーぅーゆーむ」と書かれている箇所があります。
「言霊と云うのは宇宙組織のひびきのことをいうのであります。スーウーユームー、これをホノサワケの島というのです」(『合気神髄』p.29)
「合気は和と統一に結んでいくのである。・・・これは艮(うしとら)の金神の神の御教(みおし)え、そして小戸の神業で、真人養成の道である。ホノサワケの島。天の浮島( ホノサワケの島)というのは・・・自ら巡るというのが天の、浮島の方は・・・二つのものが水火結んでいく、霊界も顕界も一つにする。(天のは)アオウエイという天の御柱(みはしら)、(浮島は)スーウーユームー(と水火の結び) 合気は気の仕組み、魄と魂、魄は宇宙組織の魂の糸筋を磨いていく、魂に神習うていく己れの岩戸開きである。・・・いつも我々は気を通して魂を磨く。そして太古の昔に舞い戻って太古から立て直しをする」(『合気神髄』pp.140-141)

「天之武産合氣業」図には、吉祥丸二代道主が次のような解説を付けられています。
「開祖は、合気道という武道がそのように、心性的にはもっぱら「言霊」により「業」となって産み出されるものと解し、『古事記』にいうところの産霊(むすび)の思想にもとづいて「武産(たけむす)あいき」と称することを好んだ。「天之武産合気業」図において「ホノサワケ」なる語が見えるが、これは『古事記』の国産みと関連する「穂狭別(穂之狭別)」の意であり、要するに産霊をさす。また「合気之母」と自称する語が見えるが、これも産霊を念頭においての謂(いい)であろう」(『植芝盛平生誕百年 合気道開祖』p.11)

愛の言霊「ス」によって結び(相手を腹中に吸収し)、一体となって導く業(技)を産み出すことを武産合気といい、それを「天之武産合氣業」図に示されたのだと思います。

「むすび」について、安岡正篤著『日本の伝統精神:この国はいかに進むべきか』に次のように説明されています。
『しからば神むすびの神の本質・使命というものはどういうものであるか、という事になりますると、これは深い神道上の「神ながらの道」の問題でありますが、かいつまんで申しますと、いうまでもなくこれは「むすびの精神、むすびの道」の一つの代表であります。
「ムスビ」とは糸ヘンのあの結びという字を書き、これを古典に徴(ちょう)しますると、「霊を生む、魂を生む、産霊(むすび)」という字を当てはめたり、これを具象化して、鳥の巣を太陽が暖かく照らして、そこに卵が孵化(ふか)する。「産(う)む」という字と、鳥の「巣」という字と、太陽の「日」という字とを並べて「産巣日(むすび)」とも書いてある。
それらによってもわかりまするように、創造(クリエーション)即ち生命を生み、いろいろの力や業を作り上げてゆく働き、これを「ムスビ」というのであります。
今日の科学によっても明らかでありますように、孤立単独では何物も生まれませぬ。原子と原子とが結びつかなければ(核融合)それは大きな力にはならない。核分裂の原子力もあるではないかと言いますが、これは分裂の奥に融合があるから、分裂の力にもなるのであります。融合統一のない分裂はないのであります。
人間も如何なる英雄、偉人でも単独ではお産ができませぬので、どうしてもやっぱり「縁結び」といって男女が結ばれぬというとお産にはなりませぬ。釈迦も講師も、キリストもみな結ばれて出来た人間であります。
その結び、即ちいろいろの力、生命、徳というものが組み合わさって、新しい力、生命、徳を生んでゆく。その創造を意味する所の「結び」に二種の作用がある。それが「高御産巣日(たかみむすび)」と「神産巣日(かみむすび)」であります』

破壊の武でなく創造の武になると、きっと相手(受け)は「ある時期、私は不思議なことに気がついた。先生に近寄ったとたん、自分の心と体が何か透明な感じになる。そして先生に触れると、それはよりはっきりして、まるで自分と先生の心と体の境の区別が、無くなったような感じとなるのである。それは先生の修行で得られた、対峙を超えた心から生じる大きな気の力が、我々を包み込んだのであろう」(多田宏先生の感想)という気持ちになると思います。

天神楽(あめのかぐら)は「淡路之穂之狭別の行」とも呼ばれていました。開祖は、この時に「スーウウウウユ−ム」と言霊を発しながら舞われたようです(http://blog.goo.ne.jp/takemusu_001/e/a58814cef881d3cce9cbb77e4f9f7ad5参照)。

昭和42年(1967)4月9日に開祖の演武を拝見した時、最初に見せられた技が正面打ち入身投げでした。その時、開祖は、「スーウ〜ウ〜ウ〜ウ」と抑揚のある気合(言霊)を発せられ、360°転換して相手を導かれてから投げられました。今になってやっと、「ムスビ」をお示しになられたのだと感じます。
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2017年07月12日

合気道の創始−命名(3)

大東流合気柔術が「門弟その他一般には植芝流合気柔術(原文は植芝流合気武術)の名で通った」ということは、大正9年(1920)に開祖が綾部移住を決意した時、出口王仁三郎聖師から「大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p.116)と諭されたことと関係があります。大東流柔術は大東流合気柔術と改称されましたが、真の武を求めるために、それを植芝流の神人一如(合気)の武(柔術)−植芝流合気柔術−として区別して呼んだのだと思います。
これは大東流合気柔術からの独立ではなく、合気柔術の中で目指すところ(目標)が違ったことを表していると思います(到達した位置ではなく、到達すべき方向を示す名称)。

武術や武術名が意味する範囲を考えたとき、武術>柔術>合気柔術であり、柔術から合気柔術へと特定されたものを(合気)武術にまで拡大するには、柔術に加えて剣術や槍術のような+αがなければ考え難いことです。大正11年(1922)のこの時点で、開祖が「武道の目を開かれた」と言われた大東流柔術の他にこれを凌ぐ剣術や槍術などの習得や工夫はなかったと思います。

既に植芝塾が開設された時点から、出口王仁三郎聖師と開祖(+大本の神さんの手伝い)の「真の武」を求める旅は始まっています。大東流合気柔術とは違う植芝流合気柔術と殊更に呼称した背景には、聖師から学んだ言霊の妙用を加えたこともあるのではないかと考えられます。それを物語る出来事が武田惣角師来訪の前にありました。
『また大本では、神苑に配置して庭造りをするために近くの山から出た石や、近郷あるいは遠国からの石を送って来ることもあって、中には何千貫(千貫は約3.7トン)という大石もあった。
盛平がある時、ミロク殿の西門口まで来ると、作業中の一人が、「植芝さん、ちょうどよいところへ来てくれました。あなたのところへ今使いを出そうと思ってたところです。この石を持ちあげてくれませんか」というのであった。見ると千貫もありそうな大石である。それが底地にめりこんでいる。「これはダメですよ、いくら力があってもムリですよ」と盛平が答えているところへ王仁三郎が来て、「植芝さん、これは言魂(正しくは言霊)で力を出してうごかさねばあきまへん」といった。「コトタマって何ですか」と聞くと、「この石を動かすには、ウ( 浮く、動くの意を持つ言霊)の言魂やな、真気を集めて、ウの言魂を発して浮かせるんや」といって、言魂の説明をした。
盛平は、「やってみましょう」ともろ肌をぬいで巨石に両手をあて、渾身(こんしん)の力をふりしぼり、「ウ・・・・・・」の言魂を発すると、不思議や、巨石はむくむくと動いて、ほんの少し移動した。どんな強力でも、とても動かせまいと思われた巨石は言魂で動いたのである。自分の力量を知っている彼は、全く驚くべき奇跡を体験したのである』(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』pp. 71-72)

確かに、開祖は綾部に来てから格段に強くなったという話が伝えられています。
『和歌山の田辺に、講道館が柔道を普及するためにつくった道場があった。そこを任されていた人物に鈴木新吾さんという方がいた。
実は植芝先生は、兵役を終えて大陸から帰ったあと、ここで鈴木さんに入門して柔道を習ったのだという。
私(藤平)が植芝先生のお供をしてこの田辺を訪れたときのことだ。鈴木さんが植芝先生と昔話を始められた。
「植芝先生は、私に入門したころは弱かったよね。いつかあなたくらいに強くなれるんだろうか、なんて私に聞いていたものね。熱心なのはいいけれど、藪に肥桶を隠して稽古にくるから臭くてね」
先生は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
あろうことか鈴木さんは、私の目の前で、植芝先生が「弱かった」と言われたのだ。今まで聞いていた話と全く違う事実に、私は困ってしまった。
話はさらに、植芝先生の北海道の開拓時代に及び、武田惣角先生に大東流柔術を習ったいきさつにもふれられた。
(中略)
それでも先生は、なにしろあの武田惣角先生に習ったのだからずいぶんと強くなったはずだ。今度は負けないだろうと、田辺に帰ってきたときに再び鈴木さんに試合を申し込んだのだという。
鈴木さんはそのとき、柔道をやめて相撲をやっていた。
私は田舎相撲の大関ですよ、と言って、試合をしたらしい。
「あのときもダメだったよね。大東流を習ってきたから負けない、なんて言いながら、やっぱり弱かったよね。あのときは、先生、一カ月寝込んだね」
鈴木さんは笑いながら言う。植芝先生が鈴木さんを投げようと思った瞬間に、爪先でぽーんと飛ばされてしまったというのだ。しかも先生は、このとき腰を痛めて1ヵ月くらい寝込んだとまでいうのだ。
(中略)
「でも、先生、大本に行って修行して帰ってきたときには強くなっていたね。あのときに強くなったんだね」
鈴木さんによると、どうやら先生は綾部(京都府、大本教の本部)へ行ってから強くなったらしい。それも以前とは見違えるほど劇的に、だ』(藤平光一著『中村天風と植芝盛平 氣の確立』)。

大正13年(1924)に開祖は、出口王仁三郎聖師の片腕(ボディガード)として満州、蒙古へと乗り込みます。この時、中国武術と接点があったそうです。ブルース・フランチス(Bruce Frantzis)氏が「私は日本での学生時代に合気道開祖の植芝盛平翁先生に学びました。(中略)道場で私はしばしば、彼(開祖)は中国で何年も過ごして合気道の基礎である超自然的な「気」を持ち帰ったと聞きました」と伝えています(http://www.energyarts.com/ja/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3%EF%BC%88morihei-ueshiba%EF%BC%89-%E5%90%88%E6%B0%97%E9%81%93%E3%81%AE%E9%96%8B%E7%A5%96)。
「気」だけでなく、体捌きの「転換」はこの時に中国武術の影響を受けたものではないかと思います。

大正14年(1925)には、黄金体体験によって「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟ります(『武産合氣』pp.17-18)。『「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので・・・』(昭和32年刊『合氣道』p.50)というのは、この時の体験に根差しているのではないかと思います。
posted by 八千代合気会 at 13:46| 日記

2017年07月01日

ほんとうに危ないスポーツ脳振盪

古事記の解説を一度中断して、合気道の安全配慮に関する本を紹介します。
部活動などで夏合宿が始まる時期になりました。柔道事故の統計解析から、合宿の始めに下回生(下級生)が重大事故の犠牲になる確率が高いことが知られています。学生合気道や地域社会指導者研修会で、安全配慮の講義を聞いていると思いますが、この本も参考にして、事故ゼロを続けましょう。

この本の著者は谷諭(たに さとし)医師で、平成28年(2016) 8月に大修館書店から発行されました。
八千代合気会の指導員は地域社会指導者研修会の安全講習で「頭部外傷」と「熱中症」対策について学びましたが、脳振盪は頭部外傷に関連するものです。

著者は、東京慈恵会医科大学付属病院副院長、脳神経外科教授です。スポーツ活動中における頭部外傷、特に「脳振盪」についての権威で、脳神経外傷学会や臨床スポーツ医学会でご専門の脳神経外科領域で先頭を切ってこの問題を取り扱っておられる先生です。

「はじめに」には次のように述べられています。
「ラグビーや柔道で頭に衝撃を受ける、体操で高い所から落ちる、サッカーや野球、バスケットボールで勢いよくぶつかる、スキーやスノーボードで立ち木などに衝突する――。そのようなアクシデントで頭部にケガをすることを、頭部外傷といいます。
結果として頭の骨折や出血に至らない場合でも、衝撃によって脳が激しく揺さぶられると、脳の組織や血管が傷つく脳損傷や脳の活動に障害が出る脳振盪が起こります。
これまでスポーツ医学の世界では、頭のケガ、特に脳振盪に関してはブラックボックスのようなところがありました。それが近年、ようやく注目されるようになったのは、フィギュアスケートの羽生結弦選手の転倒による脳振盪(2014年)、大リーグ(MLB)の青木宣親選手の死球とフェンスへの激突による脳振盪(2015年)などが大きく取り上げられたということもあるでしょう。
それは以前にも、たとえば全日本柔道連盟(全柔連)が20年ほど前に事故に関する調査をしてデータをとりました。すると学校教育現場では、100名以上が命を落とすような頭のケガをしていたことがわかりました。
結局、それは大きく社会に公表されることはなかったようです。現在と比べ、昔はスポーツでのケガなどネガティブアスペクトは、見て見ぬふりをする傾向にあったのです。…しかし現在は、広くリスクを開示し、当然ながら事故に対して真摯に向き合わなければいけないという流れが出てきました」

『「脳振盪」といえば、単に「頭を打って気を失うことでしょう」と考えている人がたくさんいます(医師にもいます)。しかし、それだけでは「脳振盪」を正しく理解したことにはなりません。次のような5つの症状も含めて理解する必要があります』と書かれ、「脳振盪の5つの症状」について説明が加えられています。
1 意識を失う
2 健忘、記憶障害
3 頭痛
4 めまいやふらつき
5 性格の変化、認知障害

この本の目次は次に載っています。
http://www.taishukan.co.jp/book/b241789.html

この本を読むと、脳振盪を発症する機序(メカニズム)がよく分かり、その危険性を理解することが出来ます。
「本書のまとめ−10の提言」も役に立ちます。
 1 頭をぶつけなくても、脳のケガはある
 2 倒れた選手はすぐサイドラインへ
 3 血が出た場合の処置
 4 変な症状があったら脳振盪を疑う
 5 意識消失・健忘があったら病院へ
 6 打撲後は何度も頭痛や吐き気の確認をチェック
 7 帰宅後24時間は、1人にしない
 8 24時間は休み、症状がなくなってから段階的に復帰する
 9 いつまでも頭痛が続くなら、もう一度頭の検査を
 10 頭蓋内にケガを負ったら、競技復帰は原則禁止

2008年5月に起きた柔道の頭部外傷事故で、少年柔道教室の指導者に片襟体落としという技で投げられた小学校5年生の少年が遷延性意識障害(植物状態)を負いました。この事故は、被害者が頭を打っていないのに急性硬膜下血腫になったということと、民事裁判によって2億8千万円で和解した後、刑事裁判でも有罪判決が出たということで画期的なものでした。
「揺さぶられっ子症候群」もそうですが「加速損傷」ということで、頭を打たせていなくても脳の架橋静脈が破綻することに対する注意義務を果していなかったということです。
合気道でも、昭和57年(1982)頃に大学のサークル活動で新入の女子部員が単独で後ろ受身の練習をしていて、300回程繰り返した時に意識を失ったという事故が新聞に載りましたが、今にして思えば「加速損傷」によるものではないかと思います。

また、「脳振盪を何度も繰り返していくと、将来、慢性外傷性脳症といったカテゴリーに入る可能性が高いので、引退したほうがいいかもしれません」、「頭にケガをして急性硬膜下血腫を起こした人は、絶対に同じスポーツに復帰させはいけない」と警鐘を鳴らされています。セカンド・インパクト症候群(セカンド・インパクト・シンドローム)というものの怖さについて、http://sports-doctor93.com/second-impact-syndrome/などを参考にして下さい。

そのセカンド・インパクト症候群によるものだと思われますが、平成4年(1992)に大学の春合宿で次のような事故が起こっています。
http://repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/bitstream/11334/249/1/kiyo_hw011-012_03.pdf
「翌3月10日は、午前6時に起床し、午前6時20分から、準備運動の後に武器(杖)を使用した練習が午前7時20分ころまで行われた。その後、大学構内へ移動し、朝食後、午前10時30分から第2体育館で、日頃の練習と同じく、準備運動・受け身の練習後に、2人1組となって、入り身転換、両手持ち呼吸法、座技第1教及び第2教四方投げ、正面打ち入り身投げの順に、主将及び副将による演武を挟んで各練習が行われた。Aは、卒業生である合気道2段のB(分離前共同被告)と組み手相手となり、上述の順序に従って練習を行った。Bは、Aを相手にしたのは当日が初めてであったが、四方投げの最中にAの息が上がってきたため、同人に対し乱れた着衣を整えるように指示して休息をとらせ、再度四方投げの練習を続けた。Aは、主将である被告Tの号令により四方投げの練習を終え、正面打ち入り身投げの演武を見学した後に、再びBと正面打ち入り身投げの練習を開始した。そして、午前11時30分頃、AとBが互いに技を掛け合って練習し、Bの投げが通算して3ないし4セット目に入ったとき(投げが約10回目となったとき)、Aは意識が朦朧となり、立ち上がろうとするも立ち上がれない状態となった。そのため、部員らがAを体育館の板の間に移動させて約5分間様子をみていたが、同人の意識がなくなり、いびきをかき始め、頬を叩いて呼びかけても応答しない状態となった。そこで、Aは、直ちに部員らによって、松山赤十字病院、さらに、愛媛県立中央病院へ救急車で搬送され、緊急手術が行われた結果右側頭部に急性硬膜下血腫が認められ、それを除去するなどの処置が行われた。その後も、Aは集中治療室で治療を受けたが、3月16日には肺炎を、18日には多臓器不全を起こし、意識が回復しないまま、翌19日午後2時5分死亡した。
 なお、本件事故から約1年前である平成3年3月5日、合気道部の春合宿中に、同部員Hが、上級生の部員を相手に組み手練習をしていたところ、頭部を数回畳で打ち、急性硬膜下血腫の傷害を負って入院するという事故(以下「Hの事故」という)が発生している。また、昭和62年8月にも、当時1回生が3回生の部員に練習中に投げられ、脳内出血で1週間程入院する事故が発生している」
これは、私の出身合気道部で起こった事故で、直接、加害者から聞いたところでは、四方投げの時に頭を打っていたかもしれない、というものです。裁判では、「(Aが)いつ頭を打ったか分からなかった」と答えていますので、加害者が安全と考えていた軽い頭打ちはあっても硬膜下血腫を引き起こす(と思っている)ような強い頭打ちがあったとは認識していないという答弁であったようです。
最後の入身投げの時は、抵抗なく(受身も取らず)投げられた(倒れた)後、立ち上がろうとしたということなので、私は、セカンド・インパクト症候群による事故だと推測しています。

それを裏付けるようなことが判決で触れられています。
『また、判決は、「頭部を床畳に打ちつけるような危険な練習が伝統的、恒常的に行われていたかどうか」については、「合気道部においては、少なくとも、本件事故前において、練習中に下級生部員が頭部を床畳に打つことの危険性についての認識が甘かったといわざるを得ず、その結果、練習中に下級生部員が床畳に頭部を打つことが稀とはいえない状況にあったことが窺え、(中略)、右認識の甘さが本件事故発生の下地となったとの批判は免れ難く、・・・同部の指導的立場にあった関係者には強い反省が求められる」としているが、最終的には、諸般の事情を考慮して、「上級生らが故意又は重大な過失に基づき下級生の頭部を床畳に打ちつけるような危険な練習が伝統的、恒常的に行われていたとまでは認めるに足りない」としている』

この裁判の初審で、加害者は賠償金を支払うことで和解しています。主将も訴えられましたが、二審では将来がある身なので、ご遺族にお願いして外して頂きました。この論文の要約に「大学の課外クラブ活動においては高度の自主性が求められること、これに参加する学生は自主的判断能力・自立的行動能力が備わっていることから、個々の具体的なクラブ活動については、原則として学生が自らの判断で対処し、自分自身で責任を負うべきであり、大学は事故防止の直接的、具体的な安全配慮義務を負うものではない。こうした判例の考え方は、大学の課外クラブ活動の実態を考慮するならば、おおむね妥当なものと評価できる」と書かれていることは、大学(と顧問)の責任に対する判決の妥当性を論じています。

事故が起こってしまうと(起こしてしまうと)、命を失ったり重い後遺障害で、被害者だけでなく家族も大変な重荷を負います。事故前は和気藹々としていた部員や会員の間でも被害者のことを思う人と加害者を擁護する人に分かれ、乖離が生じます。
私も、先輩として時々、指導をしたことがあり、この春合宿には『合気ニュース』の事故事例を持参して、安全配慮を促すつもりで駆けつけましたが、合宿所に着いた時は事故を起こしてしまった後で、その時の何とも言えない気持ちを25年間引きずっています。
参考:「合気道における事故の研究」(合気ニュース80号と同一内容)
     https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/21/1/21_60/_pdf
    合気ニュース80号の抜粋 http://ameblo.jp/lomeon/entry-11525511018.html

私は、再発防止や予防のためには、過去の事故情報を共有すべきだと思います。文部科学省で情報をまとめたというような公的なものは発表されていませんが、次のサイトが参考になると思います。
学校リスク研究所 http://www.dadala.net/index.html
全国柔道事故被害者の会 http://judojiko.net/

「合気道は安全な武道です」と言えるためには、「安全配慮をすれば」という条件が付きます。この本に書かれているようなことを指導者が知っていることは勿論必要ですが、合気道の稽古方法が組み稽古なので、広く合気道の稽古をしている人が読んで、相手にケガをさせないような安全配慮をして頂きたいと思います。

参考(激突事故):事故防止、用心にまさるものなし https://note.mu/doushuppan/n/n2e138d52cbd4

posted by 八千代合気会 at 12:32| お勧めの本

2017年06月29日

合気道の創始−命名(2)

「盛平はそれまでに、起倒流柔術、柳生流柔術、大東流柔術の免許を受けているが、綾部に来てからは、彼の武道に対する観念もその技術も、一日一日と変化し、進歩したのである」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 79)と書かれていますが、開祖が最初に与えた伝書は「大東流合気柔術」のものでした。それから「相生流柔術」「大日本総合武道旭流柔術」「天真流合気武道」「武産合気道」「合気道」などの伝書や昇段証を出しているので、どうしてそのように流名が変わったのか知りたいところです。

平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』のp.96に「武田惣角師から受けた『秘伝奥儀』一巻」の写真が載っていますが、これは大正5年(1916)に授けられた伝書です。この時は大東流柔術でした。
p.131に「綾部植芝塾道場における開祖(大正10年ごろ)」という写真があります。開祖の右に看板がありますが、「大東流合氣柔術 総務長 武田惣角 門人 植芝盛平」と書かれているようです。したがって、これは大正11年(1922)頃の写真でしょう。開祖は大正11年9月15日に「大東流合氣柔術 教授代理」の免許を受けていますが、大東流柔術が大東流合気柔術になったのはこの時以降です( これに先立ち8月に「合気柔術秘伝奥儀之事」を授与されている)。

教授代理.jpg


それまでに、大東流では相手を無力化する技術を「合気」と呼んでいて、相手を浮かせるか泳がせるかして崩すことを「合気をかける」というように表現していたようです。そのことは開祖もよくご存じであったはずです。
「武田は1922年、同流を大東流合気柔術に改称した。盛平の子息植芝吉祥丸によれば、盛平が合気という言葉を使い始めたのは1922年からだという。当時盛平は京都府綾部の大本教布教所である「植芝塾」で恩師武田惣角から学んだ大東流柔術を指導していたが、1922年、武田が一家を引き連れ来訪して3、4 ヶ月( 正しくは6ヶ月)滞在した。その時に盛平が大東流柔術に合気という言葉を入れることを進言した結果、1922年の暮れに大東流合気柔術に改称された。進言の理由は、盛平が信服していた神道系の新興宗教である大本教(開祖・出口なお)の最高指導者・出口王仁三郎(1871 - 1948)から、「合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろう」といわれたことにある、という(合気ニュース編,2006,pp. 11-12)」(工藤龍太、志々田文明「合気道における合気の意味:植芝盛平とその弟子たちの言説を中心に」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/55/2/55_09024/_pdf
流名に「合気」が加わったのには出口王仁三郎聖師が関わっているということですから、聖師が技術の素晴らしさに感銘を受けたというよりも「アイキ」に言霊的な意味を見出されてのことだと思います。その意味は、神人合一(神と人との合気)や、後年、開祖が「合」は「愛」に通じる、と言われたことと同じであったと思います。「惣角先生にも話をもっていったらよかろう」と言われた時に聖師から開祖にそのような説明があったのではないでしょうか。

流名としては、大東流合気柔術と合気道は別のものです。竹内流(竹内流捕手腰廻小具足)と柔道、新陰流と剣道が別のものであるのと同じです。新陰流と陰流も別です。

大東流合気柔術と合気道に共通する名称「合気」ですが、大東流では技術に重きを置き、合気道では言霊的な意味に価値を置いていると思います。それで、合気道ではどこも「合気をかける」という教え方はしていないはずです。
「抜き合気」という言葉が大東流で使われます(http://www.asahi-net.or.jp/~DE6S-UMI/jtkm0778.htm参照)。開祖の流れを汲む方が『合気道「抜き」と「呼吸力」の極意 相手を無力化する神秘の科学』という本を出されていますが、私は、「抜き」とか「無力化する」という言葉で合気道を伝えようとされることに違和感を覚えています。「呼吸力」は合気道で使っている言葉ですが、これと「大東流の合気」とは異なるものです。剣で、一刀流の「切り落とし」と新影流の「合撃(がっし)打ち」の術理が違うのと同様です。
八千代合気会の指導員や会員の皆さんが、開祖が紡ぎ出された正しい言葉を使って合気道を伝えられるようにと願って踏み込みましたが、この本の著者は私も面識があり、尊敬する方のお一人です。他意はありませんので、失礼があったらお許し下さい。

話を戻しますが、武田惣角師が綾部に来訪されたことについて、開祖にはその意味がよく理解できなかったようです。
「(第一次大本事件の)弾圧の嵐は大正10年の2月12日から10月20日の破壊工作が始まり、それが終わるまでつづいたのであるが、盛平はその間、武術の稽古、天王平農場の仕事をしながら、取壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。
多忙な取り込み中ではあったが、しばらくの間でも柔術を教えてもらった先生であるから、盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 77)

武田惣角師は、亡くなられるまで白滝に家を持ち続けられています(http://masakatsu03akatsu2.wixsite.com/shirataki/single-post/2016/03/13/%E7%99%BD%E6%BB%9D%E4%BD%8F%E6%B0%91%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%83%A3%E8%A7%92%EF%BC%88071117%EF%BC%89参照)。このことから、別に食い詰めたという訳ではなく、武術の相伝者(創始者が正しいようです)としての目的があってのことだと思います。この時、ご家族も同伴で、スエ夫人は代稽古をされています。4月28日〜9月15日の半年間教えられ、教授代理の免許を出されたことから、目的は正にこのことであったと考えられます。開祖が、大正9年(1920)に植芝塾という道場を持たれ、主に大本関係者に武術指導をされているということを聞きつけられ、教授代理(弟子を教えるために必要)の資格を与えるまで夫人の代稽古も含めて半年間はかかるとのことで、お子様も連れて来られたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

『合気道開祖 植芝盛平伝』の年譜には、「大正11年、正式に「合気武術」と呼称。門弟その他一般には「植芝流合気武術」の名で通った」と書かれていますが、前述の「大東流合氣柔術 総務長 武田惣角 門人 植芝盛平」の看板が掲げられた写真や、教授代理の免許を授かったことから、「合気武術」は「合気柔術」の間違いではないかと思います。聖師が「合気」じゃ、と言われ、大東流「合気」柔術とされた流名を、武田惣角師が帰られた後、更に「合気武術」にせよ、というようなことは仰らなかったはずです。植芝塾は大本の教団内の道場なので、聖師の意向が大きかったはずですし、変えるなら「合気武道」にせよと、「武道」にされたと思います。

武術における古来のしきたりにより、開祖が弟子を教える資格を得た最初の武術は「大東流合気柔術」で、時として植芝流合気柔術として教授されたが、入門者からの入門料(束脩)の内3円は惣角師にお渡ししたというのがこの当時の実態だったと思います。
posted by 八千代合気会 at 15:27| 日記

2017年01月11日

古事記 現代語譯 古事記(14)

「あなたのからだは、どんなふうにできていますか」とお尋ねになられている部分は身体の構造的な面からの解釈もあるでしょうが、言霊学では「成成不成合處一處在(成り成りて、成り合はざる処、一処あり)」を「鳴り鳴りて、鳴り合はざる声」とし、「成成而成餘處一處在(成り成りて、成り余れる処、一処あり)」を「鳴り鳴りて、鳴り余れる声」と解釈しています。それで、鳴り余れる声と鳴り合はざる声とを合わせて五十音、七十五声、無量無辺(万のものを表す)の音声を生むのが、島生み・神生みの業であるというのが言霊学の考えです。
出口王仁三郎聖師によれば、鳴り鳴りて鳴り合はざる声(アーといつまでも他の音に変化しない声)はア声で伊邪那美の命、鳴り鳴りて鳴り余れる声はウ声で伊邪那岐の命とされています。
「『古事記』三巻、其解釈法は高低深浅種々に分れて、十有二種にも達するが、最も高遠なる解釈法は、一部の言霊学書としての解釈である。伊邪那岐、伊邪那美二神が島を生み、国を生み、山川草木風雨等の神々を生むということも、そはただ表面の辞義であって、内実は五大母音(アイウエオ)の発生から、五十正音の発達を説き、更に語典、語則の綱要を説明して居るので、言わば一部の言霊学教科書なのである。
言霊学より岐美二神の働きを解すれば、伊邪那美の命は鳴り鳴りて鳴り合わざる声、即ち『ア』声である。又伊邪那岐の命は鳴り鳴りて鳴り余れる声、即『ウ』声である。岐美二神は、各々『ア』『ウ』の二声を分け持ちて、一切の声を産み出し玉うので、いやしく音韻学上の知識ある人は、一切の声音が此の二声を基本とすることは熟知する所である。二大基礎音が一たび増加して五大母音となり、二たび増加して五十正音となり、三たび増加して七十五音声となり、四たび増加して無量無辺の音声となり、同時に森羅万象一切は成立する」(『大本略義』理想の標準)
ウ声の場合、ウーと鳴り合はざる声にもなると思いますが、ウアでワ声に変じるので鳴り余れる(他の音に変化する)声としています。
「鳴々而(なりなりて)鳴合はざるはあの声ぞ 鳴余れるはうこゑなりけり  うあのこゑ正しく揃ひて結び合ひ 変転(はたらき)するは美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)  うあの声結びてわ声に変化(はたら)くは 阿那邇夜志愛上袁登古袁(あなにやしえーをとこを)といふ」(『霊界物語』6-5-28)

それで、伊邪那美の命から声を出された時、アウとなって他の音声に変化しなかったので、伊邪那岐の命から声を出し直されてウアとして淡路のホノサワケの島をお生みになられています。
島生みはこの淡路のホノサワケの島が最初で、続いて伊豫の二名の島(いよのふたなのしま)を生まれますが、言霊学では淡路のホノサワケの島の言霊(ム声)が分かれて伊豫の二名の島の言霊(ミメモマの四声)になるというように、次々と島(言霊)が生み出されて行きます。
「淡道之穂之狭別島(あはみちのほのさわけじま)といふは 烏うゆ(む声)と結ぶ言霊  伊予之国二名島といふ意義は 母音む声(註 大本言霊学ではアオウエイを五大父音〈ふおん〉という)にい(声)を結び み声(伊予国愛比売)に変化し  むゑ結び め声(讃岐飯依比古)に変化し  むおを結び も声(阿波国大宜津比売)に変化し  むあを結び まごゑ(土佐国健依別)に変化す  この故に むごゑの父音( イヱオア)みめもまの 四声に変化を身一而(みひとつ) 面四有(おもよつあり)と称ふなり」(『霊界物語』6-5-28)

開祖は、ホノサワケが豊葦原の「中津國(高天原と黄泉の国の間にある国)」とされています。通常、中津国は日本の国土のことを指しますが、開祖は、「天の浮島」という表現をされ、天の浮橋と同じ意味で使われています。「合氣之母 常盛謹書」と書かれた「天之武産合氣業」図から、「天の村雲九鬼さむはら龍王(が示されたところ)之御道」で、ムスビによる「天之武産合氣業」をホノサワケとされていることが分かります。

天之武産合気業.jpg
posted by 八千代合気会 at 12:28| お勧めの本

2016年09月10日

合気道の創始−命名(1)

開祖 植芝盛平大先生は合気道開祖で、合気道の創始者とも呼ばれています。
これまで「開祖の合気」について調べてきましたので、次にその創始された武道の名称についても経緯や背景を調べてみようと思います。

Wikipedia「合気道」には合気道の名称について、『盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした』と書かれています。
また、平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』の年譜に次のように記されています。
『大正11年(1922)、正式に「合気武術」と呼称。門弟その他一般には「植芝流合気武術」の名で通った』(p.304)、
『昭和11年(1936)〜14年(1939) 武道界における開祖の実力および名声はきわめて高く、とくにその諸古武術を踏まえた上での気・心・体独創の“神技”は、武道史上画期的なのと自他ともに認められるにいたった。ここにおいて開祖は従来の「植芝流・合気武術」(「皇武」と称される場合もあった)を新たに正式に「合気武道」と呼称するむねを表明、大東流ほか同系ないし類似の諸柔術・体術から本質的に飛躍した全く独自の新武道であることを明らかにした』(p.309)、
『昭和17年(1942) 当時、戦時下各種団体統制の一環として合気武道も武徳会と関係を持つことになり、平井稔道場総務が開祖に委任されて財団法人・皇武会より派遣され、武徳会合気道部としての運営にあたった。以後終戦時まで武徳会規約に基づき、一時期合気道範士、教士、練士の称号を交付するなどの変化があった。この武徳会との関係もあり「合気武道」の呼称を改め、初めて正式に「合気道」を名のることになった』(p.310)、
『昭和23年(1948) 戦後の混乱が鎮静しはじめたので、吉祥丸(二代道主)は藤田欽哉、西勝造、富田健治氏らと相談して東京に本拠を再興すべく決意。その第一歩として財団法人皇武会を改組し再編成することを決定。開祖はその件に関する一切を吉祥丸に委任、吉祥丸は藤田欽哉、瀬古静市氏らと相談しつつ関係各方面と粘り強い折衝を重ねた。2月9日、文部省から「財団法人合気会」として認可がおり、寄附行為改正が認められた』(p.311)。

「開祖の合気」が「大東流の合気」から出たものではないということ、別の言葉で言えば「開祖の合気」で述べたように「大東流の合気」とは異なるものであるということですが、「合気柔術」と「合気道」という、どちらも「合気」を含んだ呼称から混乱や誤解もあるようです。

ネット検索をしていると、『武田惣角先生からすれば、金銭的なことで不満があったり、何よりも「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されました』という記述がありました。
惣角師は、昭和18年(1943)4月25日に青森県で客死されています。昭和16年(1941)には福島県の柳津温泉で中気(脳卒中)の発作に襲われ倒れられていますが、昭和17年(1942)には回復し、最期を迎えられるまで大東流合気柔術を伝えられています。この頃、大日本武徳会で合気道という呼称が使われたことを耳にされたとは思われませんし、知っておられたとしたら武道が戦時統制下に置かれたこともご存知であったはずです。開祖は、岩間(現 笠間市)に移られていて、大日本武徳会では活動をされていませんでした。したがって、「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されたということは誰が言ったことでしょうか? 惣角師だと言うのであれば「合気武道」に変えたことを指して言っているのでしょうか?

これに限らず大東流と合気道の間で行き違いや誤解があるように思いますが、惣角師は、晩年まで「大東流合気柔術」で通されています。「大東流合気柔術」を次に伝承する宗家というお立場から考えて、開祖が別の名称を使って新しい武道を興すこと(大東流から離れること)を許さないということはないはずです。
少なくとも、開祖には「大東流合気柔術」を「合気道」に改めようなどという考えはありませんでした。

「合気道」という名称が、「柔道(1882年制定)」、「剣道(1911年制定)」、「弓道(1919年制定)」に次いで「合気柔術」を一般名(一般的な武道名)に変えたものと考える人もいるようですが、果たしてそうでしょうか?
普通、自流に誇りを持っている人であれば、大東流合気柔術という名称にこだわりがあるはずですので、開祖が大東流の合気も会得出来ていないのに勝手に合気を名乗るということでけしからんと思う人がいるのでしょうか? 確かに次のような人はいました。
『それは、(三浦真)将軍がそれまで大東流の武田惣角師の門にあったという修行歴に由来する。すなわち将軍は開祖を、惣角一門でありながら勝手に分派独立した者ときわめて単純に誤解し、憤慨していたらしい。…合理よりは直情を好む人物であったらしく思われる将軍は、開祖の昨今の大いなる盛名を耳にして「たかが同門同輩ではないか、なにほどのことやある、いっちょう懲らしめて、道場の看板でも担いで帰ってやろう」ぐらいの豪傑気分であらわれたようだ。ところがいざ手合わせしてみると聞きしにまさる達人であり、しかも話し合ってみれば人格まことに高潔かつ謙虚である。…そこで己れの早合点の誤解を悟った将軍は、そこは武人らしくさっぱりと事情を告白し、改めてその場で開祖に入門を乞うたのだという』(平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』p.198)

人にはいろいろな立場や見方があって、事実の見え方が異なるかもしれませんが、八千代合気会で合気道を学ぶ人にとって、どのような経緯で合気道が産み出されたか、合気道という名称がつけられたかということを知ることは有益であると思います。
posted by 八千代合気会 at 23:57| 日記

2016年04月20日

古事記 現代語譯 古事記(13)

次に続くのが、成婚の段です。
「その島にお降りになつて、大きな柱を立て、大きな御殿をお建てになりました。
そこでイザナギの命が、イザナミの女神に「あなたのからだは、どんなふうにできていますか」と、お尋ねになりましたので、「わたくしのからだは、できあがつて、でききらない所が一か所あります」とお答えになりました。そこでイザナギの命の仰せられるには「わたしのからだは、できあがつて、でき過ぎた所が一か所ある。だからわたしのでき過ぎた所をあなたのでききらない所にさして國を生み出そうと思うがどうだろう」と仰せられたので、イザナミの命が「それがいいでしよう」とお答えになりました。そこでイザナギの命が「そんならわたしとあなたが、この太い柱を𢌞りあつて、結婚をしよう」と仰せられてこのように約束して仰せられるには「あなたは右からお𢌞りなさい。わたしは左から𢌞つてあいましよう」と約束してお𢌞りになる時に、イザナミの命が先に「ほんとうにりつぱな青年ですね」といわれ、その後(あと)でイザナギの命が「ほんとうに美しいお孃さんですね」といわれました。それぞれ言い終つてから、その女神に「女が先に言つたのはよくない」とおつしやいましたが、しかし結婚をして、これによつて御子 水蛭子(ひるこ)をお生みになりました。この子はアシの船に乘せて流してしまいました。次に淡島(あわしま)をお生みになりました。これも御子(みこ)の數にははいりません。
かくて御二方で御相談になつて、「今わたしたちの生んだ子がよくない。これは天の神樣のところへ行つて申しあげよう」と仰せられて、御一緒に天に上(のぼ)つて天の神樣の仰せをお受けになりました。そこで天の神樣の御命令で鹿の肩の骨をやく占い方で占いをして仰せられるには、「それは女の方が先に物を言つたので良くなかつたのです。歸り降つて改めて言い直したがよい」と仰せられました。そういうわけで、また降つておいでになつて、またあの柱を前のようにお𢌞りになりました。今度はイザナギの命がまず「ほんとうに美しいお孃さんですね」とおつしやつて、後にイザナミの命が「ほんとうにりつぱな青年ですね」と仰せられました。かように言い終つて結婚をなさつて御子(みこ)の淡路(あわじ)のホノサワケの島をお生みになりました」

大きな柱は「天之御柱(あめのみはしら)」、大きな御殿は「八尋殿(やひろどの)」です。
合気道では、天之御柱は皆空(みなくう)の中心、自己の正中軸で、宇宙の中心と感得されるものです。八尋殿はムスビによって島生み、神生みを行われる建物で、武産合気の道場と理解して良いかと思います。道文に産屋とあるのも、この八尋殿から来ています。産屋はお産をするための小屋ですが、武産の武の場合、結び(産び)によって武を産み出す道場になります。合気道の産屋と固有名詞で呼ぶときは、合気神社の隣にある現在の茨城支部道場を指します。
したがって、これらは合気道の根本的な理合「結び」を示すものとして大変重要です。その理合が、天之御柱をイザナギの命が左から廻られ、イザナミの命が右から廻られた部分にも示されています。

開祖が古事記の営みによって合気道の理合や技法を説明されるのは、イエス・キリストが譬(たと)えによって教えや信仰のあり方について語っておられるのと同様、聞く者の理解力に応じて具体的で目に見えるように理解できるためだと思って下さい。
開祖の信仰が神道にあったからとかある特定の宗教にあったからと考えて理解しようとする眼を閉じてしまわないで、あるいは開祖が武道の秘密主義によって大切なことを隠されようとしているためだなどと諦めてしまわないことを願います。

「合気道の……〈ここでは結び〉とは、正に古事記の営みの……のようだ」と譬えられているのです。
「(古事記の)タカアマハラというは全大宇宙のことであります。宇宙の動きは、高御産巣日神、神産巣日神の右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞の摩擦作用の行為により日月星辰(じつげつせいしん)の現れがここに存し、宇宙全部の生命は整って来る。そしてすべての緩急が現れているのです」(『武産合氣』pp.77-78)
「こうして合気妙用の導きに達すると、(古事記にあるように)御造化の御徳を得、呼吸が右に螺旋して舞い昇り、左に螺旋して舞い降り、水火(魂魄、霊と体)の結びを生ずる、摩擦連行作用を生ずる。…この摩擦連行作用を生じさすことができてこそ、合気の神髄を把握することができるのである」(『合気神髄』p.87)
「また、地球修理固成は気の仕組みである。(即ち)息陰陽水火の結びである。そして御名は伊邪那岐、伊邪那美の大神と顕現されて(右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞をされた)、その(それを)実行に移したのが合気、どんなことでも出来るようになってくる」(『合気神髄』pp.88-89)

この結びは、手と手が触れる接触点や自分の臍と相手の臍とを結ぶ中間点で出来るものではなく、宇宙の中心、皆空の中心、自己の正中軸、即ち天之御柱を右旋して舞い昇る相手の気と左旋して舞い降る自分(宇宙)の気との摩擦作用( 包容同化といってもよい)によって生じるものです。相手の攻撃は、後ろ足で地を蹴って、その反発力を手(剣先、拳先)に伝えようとして上昇して来ます。それを受入れながら同時に相手を皆空の中心(腹中)に吸収する(結ぶ)と下降の気となって、これに相手が導かれ(連行され)下に倒れます。

八千代合気会の皆さんにはこれだけの説明で分かると思いますが、直ぐに分からなくても結構です。分からないなりに、ここから得られるイメージを大切にして、摩擦連行作用とは何だろうかと考え、こうだろうかと工夫を重ねて下さい。
そのイメージ作りのために、なぜ右旋が昇りで左旋が降りになるのかということについて図示しながら説明を加えます。

私が古神道を学んだ時に講師の先生から、気は右回りに昇って、左回りに降る、と教えてられました。開祖の話とぴったり一致しているので、その先生に、気が見えるのですか、と不思議に思ってお尋ねしたら、昇り龍、降り龍もそのように彫られているという答でした。また、樹木は右回りに上に伸び、雷は左回りに落ちるとも言われましたが、昇り龍・降り龍は必ずしもそのように彫られていないようです。植生も朝顔は上から見て左巻きです。
それで、これは古神道の解釈だと思い至りました。
右旋・左旋と上昇・下降の関係は古神道では常識のようで、『古神道入門』などを著わされている小林美元先生が「地の気は陰の気であり、天の気は陽の気である」、「地の気は時計回り(上から見て右回り)で上昇し、天の気は時計と逆回り(上から見て左回り)で下降するエネルギーである」と教えられています。
古神道の右旋が上昇で、左旋が下降というのは、陰陽五行説からではないかと思われます。

古事記の成婚は天之御柱を廻って行われましたが、平成26年(2014)に高円宮家の次女典子さまと、出雲大社権宮司の千家国麿さんがご結婚された時も天之御柱の周りを国麿さんは左回りに典子さまは右回りに廻られました。

この報道記事に基づいて右旋・左旋のイメージを絵にしたものが次の図です。右旋しながら上昇して、左旋しながら下降するとしたら図のような螺旋階段を昇降することになります。昇り龍も写真のものは右旋です。
気の交流1.jpg


このように陰の気は右旋して上昇し、陽となり、陽の気は左旋して下降し、陰となるということを、開祖が合気道の結びの説明に用いられています。
気功で、右回りの気はエネルギーの集中を左回りの気はエネルギーの開放を意味しているそうです。多田宏先生が開祖から受けられた印象のとおりではないでしょうか。
「ある時期、私(多田先生)は不思議なことに気がついた。先生(開祖)に近寄ったとたん、自分の心と体が何か透明な感じになる。そして先生に触れると、それはよりはっきりして、まるで自分と先生の心と体の境の区別が、無くなったような感じとなるのである。それは先生の修行で得られた、対峙を超えた心から生じる大きな気の力が、我々を包み込んだのであろう」

開祖が「スミキリ」と言われたりするのも、この回旋のイメージをお持ちだからと思います。
「腹中に吸収して」と言われるものは、左半身で入身すると相手が右回りに腹中に入ってきて、それを迎えて一体になって左回りに技を施すと摩擦連行作用によって相手が導かれて倒れるということかと思います。
この時、表層筋の動きだけに気を用いると上手く行かないと思います。脊柱にその名も回旋筋(深層筋)というものが付いていますが、深層筋から動くということも必要だと思います。この時の構えや足運びは「うぶすな(産土。「うぶす」は誤り)の社の構え」(『合気神髄』pp.69-70)で、この記述とも一致します。
この辺りまで考えを及ぼすと、開祖が古事記の営みで説かれるところは奥が深いと思います。各々の理解に応じてという所以かと思われます。

posted by 八千代合気会 at 10:58| お勧めの本

2016年04月10日

開祖の合気(20)

以上述べた開祖の合気が大東流の合気から見たらどうなのかということが大東流の佐川幸義宗範によって検証されていますので、それを加えて締め括りとしたいと思います。
このことは、『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』、『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』、『大東流合気武術 佐川幸義 神業の合気 ―力を超える奇跡の技法“合気”への道標』などを読むと目に入ってきます。

私は大東流を習ったことはありませんし、佐川宗範も存じ上げません。佐川宗範の技の動画は撮影されていないようですが、本に写真が載っていて、そのわずかな知り得る範囲内でも大東流内では卓越された方だと思います。惣角師の没後、宗家を継がれ、武田時宗師にその宗家を譲られてから総師範という意味の宗範という称号を与えられていることからも、関係者が認める確かな方だと思います。武道家としても、修行に取り組む姿勢が真摯で、自分を厳しく律しておられ、武田惣角師の名誉を守ろうとされている姿も尊敬に値すると思います。
それだけに何故、合気揚げで開祖の両手首をつかみ、開祖が手を揚げられないと見て、面目を失わせないため「最後には悪いから手をあげさせてあげた」というようなことを他人に吹聴するのかということが長い間の疑問でした。
幕末の剣聖 男谷精一郎は、必ず試合で3本に1本は相手に勝ちを譲ったことで有名ですが、その場合、決して打たせてやったというようなことは言わず、「お見事でござる」とか「参った」と言って相手を立てたようです。その点で、佐川宗範に対して武道家らしからぬという印象を抱いてきました。

しかし、よくよく読んでみると、これは勝負をしたのではなく「(武田惣角)先師のような合気が植芝にあるかどうかを知りたくて」ということが目的であったと書かれていました。その結果、開祖には惣角師のような合気が全くないことを確認して手を上げさせた、と内部の人に語ったことが本に載ったようです。
大東流の合気に対する佐川宗範の目は確かなようですので、これで少なくとも開祖の合気は大東流の合気とは違うということが認められました。

しかし、開祖がご自分でおっしゃられている(これまでにまとめた)合気がないかというと、そうとは言えません。
開祖は、今武蔵と恐れられた國井善弥師に、合気道はインチキだ、許しておけないと思って勝負を挑まれた時、「國井先生、よくいらっしゃった、さあどうぞ道場の看板を持ってお帰り下さい」と切り出し、その言葉を聞いた國井師が、バツが悪くなって苦笑いしながら引き上げたというエピソードのある方です。
佐川宗範のときも、その意図を察していて対応されたと思います。惣角師が「植芝には合気は教えていない」と言っていたそうですので、開祖が惣角師の合気は示せなかったはずで、手首をつかまれた時に揚げられませんという反応をされたと思います。このことで、佐川宗範も満足したはずです。
この時は大東流の宗家も(大同団結を呼び掛けるため)同席しての上のことです。佐川宗範は、合気道は大東流の一派と考え、大東流内部のこととして惣角師の合気(補足 宗範は惣角師が作ったのであろうと言っている)を開祖が会得しているかどうか確認しようとしていますが、開祖は、それに応じて開祖の合気で手を揚げると、合気道と大東流の優劣を争うことになるとはっきりと認識されていたことでしょう。確かに大東流の合気はマスターしていなかったでしょうから、手を揚げるなら合気道の理合で揚げることになってしまいます。そして、そのことは佐川宗範には直ぐに分かってしまうことです。

皆さんならこういう時にどうされるかですが、開祖が執られたこの二つの対応に共通するところは敵を作らない、争わないということのようです。大東流とは事を荒立てないで(自分の方から口に出さないで)、静かに去らせて貰いたかったのではないでしょうか。
昭和6年(1931)4月に惣角師の教授を受けた後は、惣角師が来訪されても居留守を使ったりされたようですが、これもやんわりとした意思表示ではなかったかと思います。昭和7年(1932)7月26日に大本内に大日本武道宣揚会が創立(8月13日発会)され、開祖が会長となっているので、居留守はこれ以降のことではないかと思います。出口王仁三郎聖師が惣角師に対して「血の臭いがする」と言って、人間的には余り好まれなかったことと無関係ではなかったと思います。

「いくら精神力とか気の流れとかいったってそんなもので自分よりはるかに大きい者を倒す事はできるものではない」とか「合気は気の流れなどといった考えからは、いくら何をやっても出てこない」というのが佐川宗範の大東流の合気から見た開祖の技に対する評価です。
倒すことが出来るか出来ないかは別にしておいて、このことで宗範といわれる人から合気道は大東流の一派ではないとみなされる(惣角師の合気を受け継いでいないと判定される)ことになりました。
これは昭和31年(1956)のことでしたが、佐川宗範にとっては大東流の合気が開祖にないということを確認する機会となり、合気道側から見れば、晴れて大東流と合気道は違うということが宗家にも佐川宗範にも受け入れられることとなりました。
双方にとってWin-Winですので、これからも大東流は大東流、合気道は合気道として認め合って行けば、日本の武道界にとってプラスになると思います。

開祖の技については、私も昭和42年(1967)4月9日に間近で拝見しました。目にしたのは気形の稽古の動きそのものでした(同じ時期の動画https://www.youtube.com/watch?v=XoDK3XuvZWw参照)。弟子の剣を額に当てておいてから、弟子がその位置から降り下ろす剣をスッと避けて、手に持った扇子で面を突くと、2、30 cm扇子から顔が離れているのに、弟子がパッと仰け反って受身を取って倒れていました。立技呼吸法では、開祖の手を取ろうとする弟子の手が60 cm位離れていましたが、開祖が弟子の方を見ないでパッと手を振ると、これも弟子が開祖の手に触れないまま後ろに倒れていました。
私も、佐川宗範ではありませんが、触れてもいないのに倒れるのは弟子が勝手に受身を取っているからではないかと疑問に思い、後になってからですが、教えを受けていた直弟子であった師範にお尋ねしました(弟子が開祖の腰に手を当てて押すのもありましたが、この時は畳表に皺がよる程弟子の足に力が入っているのが分かりましたので、不思議でしたが疑問に思うことはありませんでした。)。
その時、師範は、次のようなエピソードを話して下さいました。
「開祖が顔の前で腕を振られると腕が太い丸太のように見え、パッと手を上げられると手がグローブのように大きく見えるのです。それで、離れていても直ぐ目の前に開祖の腕や手が来ているように感じて受身を取るのです。ある時、それを不思議に思った弟子が、目をつむっていたらどうなるだろうかと考え、開祖が向こうを向いたまま手を振られた時に目をつむりました。案の定、直接当たっていないので、上を向いて目をつむったまま、その弟子は飛ばされないで突っ立っていました。そしたら、バタンという音がしないので後ろを振り返った開祖が、『馬鹿者!(真剣勝負で目をつむって、じっと突っ立っている馬鹿がどこにいるか)』と怒鳴られ、仰向き加減になっている顔を上から手で叩かれたら、グシャッというような音がして、弟子が畳に叩き潰されていました。そして、その後2、3日フラフラしていました」

宇宙と一体となった自分の腹中に相手を吸収して同化する(宇宙に結ぶ)開祖の合気は、実際に開祖のお話のとおりであったのです。それは、佐川宗範の見ているとおり大東流の合気とは異質の理合に拠るものです。開祖が「私は今まで、各流儀を三十流ほどやりました。柳生流の体術をはじめ、真揚流(天神真揚流)、起倒流、大東流、神陰流(加藤田神陰流)などいろいろやりましたが、合気はそれらを総合したものではないのであります」(『合気神髄』pp.31-32)とおっしゃられているとおり今までにないものです。

八千代合気会の皆さん、確かに開祖は新しい道を開かれたということが理解出来ましたら、これまでの「開祖の合気」を最初からもう一度読まれ、概念を自分の言葉でまとめてみて下さい。そして「今迄の武道は、年期を入れないと自分( 真我、愛の存在)になれなかったのですが、私はすぐにも了解し得る道を開いたのであります。それだけ今迄の武道と合気道は違うのであります」(『合氣神髄』p.70)と言われているので、それを稽古に取り入れられるようにしましょう。
私も、最初から全体の構想がまとまっていて書き上げた訳ではないので、何度も読み返してみます。そして、このブログも間違いがあれば修正しながら稽古に生かして行きたいと思いますので、時々、このブログを開き直してみて下さい
また、お互いに高めあって行きたいと思いますので、何か気付かれたことがあればフィードバックをお願いします。
posted by 八千代合気会 at 07:39| 日記