この与えられるものには、決して歓迎すべきものばかりではなく、出来れば避けて通りたいものもあります。昨年の大震災とそれに続く一連の災害・事故も歓迎出来るものではありませんが、避けることが出来ないものでした。自分が引き起こしたものではなく、自分の思いや力でコントロール出来るものではありません。これに対して、「自分が悩んでも何とも出来ないものは、何とも出来ないのだから、悩まないこと」と達観するか、「仕方がない」と諦観するか、「こうなったのには何か意味(意思)があることだろう」と受け止めるか、様々の受け止め方があろうかと思いますが、この部分は築き上げる側面に関係して来ます。
成功している人は、「つらい時期があったから、今の自分がある」と言うそうです。今が一番大変と思う時に、「もう(自分は)駄目だ」と思って自分自身を見限ったり過小評価したりしなければ、必ず乗り越えられるものです。阪神大震災の時に、フィリッピンの人が寄せて下さった手紙がありますので引用します。
「親愛なる日本の友人達へ お元気ですか。私達は日本で最近起こった地震のことを知りました。ここフィリピンでも同様の大災害を経験したことがありました。そしてその度に乗り越えてきました。もう一度生きる意味を問い直すチャンスです。もしかしたら、この地震で愛する誰かを失くしてしまったかもしれませんが、できる限りの力で生き続けてください。私達が受けた数々の試練の中にも、必ず希望の灯はともっていることを忘れないで。自分を信じて現実に立ち向かってください、それが大切です。この試練の中、あなたは決してひとりではないことをいつも心に留めておいてください。自分たちにできることなら何でもしようという、私達のような者たちが世界中にたくさんいるのです。心を強くもって、この試練に屈しないで! 試練はつらいものだけど、これこそ生きている証なのです。
このような困難な状況の中にこそ、生きることの意味が隠されているのです。それを乗り越えることで、人生が豊かになるのです。めいっぱい人生を実りあるものにしましょうよ。災い転じて福と成す! あなた方のことを心より思っています」(ローズ・リール)
さて、築き上げる側面ですが、自分に与えられた経験を通しての刷り込みや時としてトラウマが人格の一部や価値判断の基準になり、周りから自分の中に取り入れ、また、表に行動として表す際の選択を行う弁になります。同じ電車に乗って通勤していても、人それぞれに自分で価値があると思っていることや好きなものが目や耳に入ってくるので、「今日の富士山は・・・」と感じたり、「あの桜は・・・」とか「良い音楽が・・・」と思ったりして、違ったものを見たり聞いたりしています。
したがって、気が付きませんでしたという言い訳は、そのことに価値を置いていませんでしたということにもなります。仏教の因果律は、本当はこの部分に当てはめるべきで、年を重ねるに従って自分が選んだものの結果には自分が責任を負わなければならないことが段々と分かってきます。悩むのなら、この自分がコントロール出来る部分で悩んだら良いと思います。
開祖の価値判断の基準となっている際立った資質は、「世のため、人のために」という気持ちだと思います。これは、村会議員をしていた父親の与六を見て育ったことによるのかもしれません。あるいは、母親のゆきが土地代々の由緒ある家柄の出であることから、世話好きであったのかもしれません。
開祖が、明治34年(1901)の漁業法反対・改正運動の「磯事件」に参加したのは、零細漁民を守るためでした。明治36年(1903)に軍隊に入隊、日露戦争にも従軍し、その後陸軍予備士官学校に進むつもりであったのも、お国のためでした。明治43年(1910)に南方熊楠と神社合祀策反対運動を行ったのは、村の杜(環境)を守るためでした。明治45年(1912)に北海道開拓移住民団体募集に応じて白滝に入植したのは、「わしはかねがね南方翁から、将来の日本の食糧問題の容易ならざることを聞かされており、戦後は現実に食えない連中がごろごろいるのを見てもおった。それで、よしここはひとつ世のため、国のため、人のためにひと肌脱いでやろうと決意をかためたのじゃ」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p.82)ということでした。
このようなことを考えて来ると、大正9年(1920)に一家を挙げて綾部に移住したのも、出口王仁三郎聖師の「世の立て替え、立て直し」に共鳴したからかもしれません。大正13年(1924)に聖師に付いて満蒙へ渡ったのも、ボディーガードということだけではなく、日本の将来の食糧補給という目的があったことでモティベーションが上がったことだろうと思います。
開祖の場合、父・与六が39歳にして初めて授かった男の子で、溺愛に近い愛情の中で育てられ、開祖がやりたいようにやらしてもらえるという育て方をされたため、金銭や財産に無欲(合気道でいえば無抵抗主義)で、人を愛するということが身に付いていたことも大切な資質になります。
白滝の土地や財産を捨てるようにして帰郷の途についたのも、何か、この点で価値判断が行われたのではないかと思います。
昭和33年(1958)頃から開祖と親交のあった白光真宏会の五井昌久先生は、「今日まで、武というものは、すべて戦うためのもの。荒々しいものとしてみられてきたが、植芝盛平先生が合気道をひろめられてから、武というものが、実は絶対調和への道、世界平和のためのものであるということが、はっきりしてきた。植芝先生と私とが、まったく一つの心に融け合っているのも、合気道と世界平和の祈りとが、現われの形が異なってはいるが、その根底において全く一つのものであるからなのだ」(『心はいつも青空』)と述べられ、開祖が、「わしの正体を見破ったのは、五井先生お一人じゃ」(『武産合氣』p.209)と言われた正体(資質)、一つの心とは「世界平和のため」ということになってきます。
合気道の「地上天国建設」も、ここに根差したものであることが分かるでしょうか。千葉県合気道連盟会長の清野裕三先生のお話では、昭和44年(1969)に開祖が病床にあった時、枕頭に駆けつけた清野の先生に「合気道は、世のため、人のため、天皇陛下のため」と話されたそうです。臨終を悟られた時の言葉ですので、これが開祖の人生を貫いた資質であったと思います。
なお、天皇陛下というと戦争と結びつけて考えるかもしれませんが、「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立ち 海原は 鴎立ち立ち うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」(舒明天皇)や「新嘗の み祭果てて 還ります 君のみ衣 夜気冷えびえし」(美智子皇后陛下)で偲ばれる国や国民を想われる天皇陛下のためにということで理解したら良いと思います。
そのことが分かってくると、「武道は神の立てたる神の道にして眞善美なる無限絶対の全大世界御創造御経綸の精神の道也と思考す」(『武道』)という昭和13年(1938)の本の言葉も理解出来るようになり、何故、陸軍に教えるのを辞めて岩間に籠もられたかも分かってくると思います。
合気道は、開祖が「世のため、人のため」という弁を開けて創られた武道で、この道に入る人にもその発願が求められていると思います。ちょうど大震災の後ですので、その必要性が身にしみて理解出来ることでしょう。
今年は辰年、八千代合気会の指導員の奥様の中鉢東鳳さんの龍の絵を見て、その気持ちを高めて下さい。