2012年01月04日

開祖の資質

人生とは何か? と考える時、2つの側面があることに気付きます。与えられる側面と築き上げる側面とで、与えられる側面については、無神論者は偶然という言葉で説明しますが、日本人は「命(めい)」という捉え方をしてきたのではないかと思います。伊邪那岐命(みこと)・伊邪那美命と呼ばれるのも「修め理り固め成せ」という命(めい)を受けて生まれたという意味があるのではないかと思います。開祖にも命があり、与えられたものがありました。開祖に与えられたものは、神示であり、武田惣角師や出口王仁三郎聖師との出会いであったと思います。

この与えられるものには、決して歓迎すべきものばかりではなく、出来れば避けて通りたいものもあります。昨年の大震災とそれに続く一連の災害・事故も歓迎出来るものではありませんが、避けることが出来ないものでした。自分が引き起こしたものではなく、自分の思いや力でコントロール出来るものではありません。これに対して、「自分が悩んでも何とも出来ないものは、何とも出来ないのだから、悩まないこと」と達観するか、「仕方がない」と諦観するか、「こうなったのには何か意味(意思)があることだろう」と受け止めるか、様々の受け止め方があろうかと思いますが、この部分は築き上げる側面に関係して来ます。
成功している人は、「つらい時期があったから、今の自分がある」と言うそうです。今が一番大変と思う時に、「もう(自分は)駄目だ」と思って自分自身を見限ったり過小評価したりしなければ、必ず乗り越えられるものです。阪神大震災の時に、フィリッピンの人が寄せて下さった手紙がありますので引用します。
「親愛なる日本の友人達へ  お元気ですか。私達は日本で最近起こった地震のことを知りました。ここフィリピンでも同様の大災害を経験したことがありました。そしてその度に乗り越えてきました。もう一度生きる意味を問い直すチャンスです。もしかしたら、この地震で愛する誰かを失くしてしまったかもしれませんが、できる限りの力で生き続けてください。私達が受けた数々の試練の中にも、必ず希望の灯はともっていることを忘れないで。自分を信じて現実に立ち向かってください、それが大切です。この試練の中、あなたは決してひとりではないことをいつも心に留めておいてください。自分たちにできることなら何でもしようという、私達のような者たちが世界中にたくさんいるのです。心を強くもって、この試練に屈しないで! 試練はつらいものだけど、これこそ生きている証なのです。
このような困難な状況の中にこそ、生きることの意味が隠されているのです。それを乗り越えることで、人生が豊かになるのです。めいっぱい人生を実りあるものにしましょうよ。災い転じて福と成す! あなた方のことを心より思っています」(ローズ・リール)

さて、築き上げる側面ですが、自分に与えられた経験を通しての刷り込みや時としてトラウマが人格の一部や価値判断の基準になり、周りから自分の中に取り入れ、また、表に行動として表す際の選択を行う弁になります。同じ電車に乗って通勤していても、人それぞれに自分で価値があると思っていることや好きなものが目や耳に入ってくるので、「今日の富士山は・・・」と感じたり、「あの桜は・・・」とか「良い音楽が・・・」と思ったりして、違ったものを見たり聞いたりしています。
したがって、気が付きませんでしたという言い訳は、そのことに価値を置いていませんでしたということにもなります。仏教の因果律は、本当はこの部分に当てはめるべきで、年を重ねるに従って自分が選んだものの結果には自分が責任を負わなければならないことが段々と分かってきます。悩むのなら、この自分がコントロール出来る部分で悩んだら良いと思います。

開祖の価値判断の基準となっている際立った資質は、「世のため、人のために」という気持ちだと思います。これは、村会議員をしていた父親の与六を見て育ったことによるのかもしれません。あるいは、母親のゆきが土地代々の由緒ある家柄の出であることから、世話好きであったのかもしれません。
開祖が、明治34年(1901)の漁業法反対・改正運動の「磯事件」に参加したのは、零細漁民を守るためでした。明治36年(1903)に軍隊に入隊、日露戦争にも従軍し、その後陸軍予備士官学校に進むつもりであったのも、お国のためでした。明治43年(1910)に南方熊楠と神社合祀策反対運動を行ったのは、村の杜(環境)を守るためでした。明治45年(1912)に北海道開拓移住民団体募集に応じて白滝に入植したのは、「わしはかねがね南方翁から、将来の日本の食糧問題の容易ならざることを聞かされており、戦後は現実に食えない連中がごろごろいるのを見てもおった。それで、よしここはひとつ世のため、国のため、人のためにひと肌脱いでやろうと決意をかためたのじゃ」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p.82)ということでした。
このようなことを考えて来ると、大正9年(1920)に一家を挙げて綾部に移住したのも、出口王仁三郎聖師の「世の立て替え、立て直し」に共鳴したからかもしれません。大正13年(1924)に聖師に付いて満蒙へ渡ったのも、ボディーガードということだけではなく、日本の将来の食糧補給という目的があったことでモティベーションが上がったことだろうと思います。

開祖の場合、父・与六が39歳にして初めて授かった男の子で、溺愛に近い愛情の中で育てられ、開祖がやりたいようにやらしてもらえるという育て方をされたため、金銭や財産に無欲(合気道でいえば無抵抗主義)で、人を愛するということが身に付いていたことも大切な資質になります。

白滝の土地や財産を捨てるようにして帰郷の途についたのも、何か、この点で価値判断が行われたのではないかと思います。

昭和33年(1958)頃から開祖と親交のあった白光真宏会の五井昌久先生は、「今日まで、武というものは、すべて戦うためのもの。荒々しいものとしてみられてきたが、植芝盛平先生が合気道をひろめられてから、武というものが、実は絶対調和への道、世界平和のためのものであるということが、はっきりしてきた。植芝先生と私とが、まったく一つの心に融け合っているのも、合気道と世界平和の祈りとが、現われの形が異なってはいるが、その根底において全く一つのものであるからなのだ」(『心はいつも青空』)と述べられ、開祖が、「わしの正体を見破ったのは、五井先生お一人じゃ」(『武産合氣』p.209)と言われた正体(資質)、一つの心とは「世界平和のため」ということになってきます。

合気道の「地上天国建設」も、ここに根差したものであることが分かるでしょうか。千葉県合気道連盟会長の清野裕三先生のお話では、昭和44年(1969)に開祖が病床にあった時、枕頭に駆けつけた清野の先生に「合気道は、世のため、人のため、天皇陛下のため」と話されたそうです。臨終を悟られた時の言葉ですので、これが開祖の人生を貫いた資質であったと思います。
なお、天皇陛下というと戦争と結びつけて考えるかもしれませんが、「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立ち 海原は 鴎立ち立ち うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」(舒明天皇)や「新嘗の み祭果てて 還ります 君のみ衣 夜気冷えびえし」(美智子皇后陛下)で偲ばれる国や国民を想われる天皇陛下のためにということで理解したら良いと思います。

そのことが分かってくると、「武道は神の立てたる神の道にして眞善美なる無限絶対の全大世界御創造御経綸の精神の道也と思考す」(『武道』)という昭和13年(1938)の本の言葉も理解出来るようになり、何故、陸軍に教えるのを辞めて岩間に籠もられたかも分かってくると思います。

合気道は、開祖が「世のため、人のため」という弁を開けて創られた武道で、この道に入る人にもその発願が求められていると思います。ちょうど大震災の後ですので、その必要性が身にしみて理解出来ることでしょう。
今年は辰年、八千代合気会の指導員の奥様の中鉢東鳳さんの龍の絵を見て、その気持ちを高めて下さい。
龍(中鉢東鳳画).jpg
posted by 八千代合気会 at 23:30| 日記

2011年12月31日

古事記 まんがで読破

イースト・プレス社から2010年に出版された漫画です。「合気道は古事記の営みである」(開祖)ということをイメージとして思い浮かべる時に漫画は役立つかもしれません。1959年に東宝映画1000本製作記念作品として『日本誕生』が上映されましたが、この予告編がYouTubeで見られます。「天の浮橋」は、この漫画では「雲の通い路」、映画では「虹(天空橋)」として描かれています。ただし、予告編には「天の浮橋」は出てきません。
これらを元にして、合気道の「天の浮橋」を想像するのも良いと思います。「一人さへ渡れば沈む浮橋にあとなる人はしばしとどまれ」(和泉式部)と歌に詠まれている浮橋は、筏や舟を水上に並べて、その上に板を渡した橋のことです。膝に力が入っていてはバランスが崩れてしまうという橋でもあると思います。

漫画の中で登場人物が語ったり、説明がある言葉や文章を抜粋します。なかなか深い意味が表現されています。
「実は神話は目には見えない『こと』を表現しようとしているのですよ。 ・・・ 『何を言わんとしているのか?』 ・・・ それを探る気持ちで読まなければ 神話はまったく意味のない物語になってしまうでしょう」
「実はここで出てくる二柱の神が『古事記』を通して重要で、善く萌え上がろうと立ち上がる力(ウマシアシカビ)が天に常に立ち昇る(アメノトコタチ)ことで後にさまざまな神々が生まれ世界が形成されていくのです」
「更に天の神々が生まれたことで 地上にもさまざまな神が生まれていきます。まず生命を生む大地(クニノトコタチ)、そして豊かな土壌(トヨクモヌ)、芽吹くもの(ウヒヂニ)・原生生物(スヒヂニ)が生まれ、脊椎(ツノグヒ)や贓物(イクグヒ)が化成され、雄性(オホトノヂ)・雌性(オホトノベ)が分かれて・・・ 思いのままの肢体(オモダル)・知的機能(アヤシコカネ)が化成され、そして最後にイザナギ・イザナミ・・・ 人類の祖先の誕生です」
「こうして生まれたイザナギとイザナミは、天津神の『この漂へる国を修め理(つく)り固め成せ』の命を受け 国作りをはじめます」
「死とは生命力が枯れた状態で、ここでの『穢れ』は「気枯れ」です。その「気枯れ」を祓い、もとの生き生きとした活力を取り戻そうとする儀式を『禊祓い』といいます」
「この『ウケヒ』は『誓(うけ)い』と書き、正しくは『受け霊(ひ)』です。お互いの魂が宿っているものを吟味して具現化することで真意を確かめようとしたのです」
「そしてスサノオが通した部屋は毒蛇が住んでいる部屋でしたが、『もし蛇が襲ってくるようなら、この比禮(ひれ)を3度振って追い払ってください』(と比禮を差し出した)スセリビメの助けによりことなきを得ます。さらに今度は、ムカデと蜂のいる部屋に入れられますが、同じくスセリビメの比禮のおかげで無事朝を迎えます」
「日本の神とは唯一絶対の存在ではなく、自然とともにある存在です」「え・・・? でも それじゃあ・・・ 自然の力に逆らわない・・・ですか?」「そうです! それこそが我々日本人のとってきた道なのです。自然こそは『大いなる存在』であり『目に見えない力』の存在を裏づけています。その『目に見えないもの』こそを世界の中心としているのです」「特に現代社会は、さまざまなものが溢れ、物質的に非常に豊かといえるでしょう。ですがこれらは、すべてが目に見えない力の働きが形となって表れたに過ぎません。そして『ウマシアシカビ』の気によってここまで世界は成長しました」
「日本語の『言葉』とは、もともとは『事ハ』であり、『コト』を表現する言語です。これは他国語にはほとんど見られない特徴で、ひとつの言葉に多くの事柄を含めて伝え合う日本独特の文化が実によく表れています。その文章の中に込められた『こと』を探って読み解けば『古事記』はさまざまな発見に満ちた、すばらしい古典であることがわかるでしょう」

大晦日を迎え、今年起こった大震災、大津波、原発事故のことを振り返り、次の部分を引用して来年に希望を繋げたいと思います。
「そういえば、この『古事記』では国作りって完成していないよな・・・?」「そうね・・・、オオクニヌシもイザナギ・イザナミの国作りも中断しているし、完成したなんてどこにも書かれてないわ・・・」「え? 日本建国で完成じゃないの?」「私もそう思うんだけど・・・」「じゃあ日本ってまだ完成していないってこと・・・?」「うん、たぶんそれが正しい読み解きだよ」「物事は未完成だからこそ、完成に向けて常に進化し続けることができるんじゃないかな? そうすると未来って無限に広がって見えると思うんだ」「ってことは今も『国を修め理り固め成せ』の神勅は続いているわけか・・・」「ねぇ、それって私たちも何かしないといけないのかしら?」
posted by 八千代合気会 at 13:32| お勧めの本

2011年12月06日

合気道の概念化

現在、私たちが習っている合気道を考える時、大本教(正式名称は大本)と出口王仁三郎聖師のことを抜きにすることは出来ないでしょう。宗教や政治のことは信教の自由、政治的自由に関わることで、武道に関わらず一般社会でも話題に上げることはタブーとされていて、合気道を広める上からもあまり強調されず、顧みられることが少ないと思います。しかし、開祖の目線で眺めなければ合気道は理解出来ないと思いますので、八千代合気会の会員の皆さんも、開祖を理解し合気道を理解するために『霊界物語』と『古事記』を読み、そこに何を見ておられたのだろうかということを思い巡らされるのが良いと思います。

植芝吉祥丸道主が書かれた『合氣道』には、「綾部に神霊者現わるの声は、予ねて聞いてはいたが、北海道の帰途たまたま人にすすめられ、父親の病気祈願もかねて大本教をたずね、出口王仁三郎氏と相識ることになったのである」(p.182)と記されていますが、これは大正8年(1919)12月のことでした。『合気道開祖 植芝盛平伝』(p.109)では、「開祖が途中の列車内で、たまたま『奇蹟をおこなう大本教というすばらしい新宗教が綾部にあるそうだ』と相客から聞かされて、即座に立ち寄る気になったとしても不思議ではない」と書かれていますが、これだけでは開祖はその場その場の思い付きで行動される方であるかのような印象を与えます。
「予ねて聞いてはいたが」と書かれていることは、甥の井上方軒氏(本名は要一郎、吉祥丸先生の本では与一郎)が大正6年(1917)に入信しているので、少なくとも方軒氏を通して聞いていたということでしょう。その上に列車で相客からも話を聞かされたので、田辺に帰る途中で進路を変え綾部に立ち寄ることになったのではないでしょうか。何よりも、王仁三郎聖師の霊力の聞こえと開祖が父親(76歳)に生きていて欲しいと願う気持ちがそうさせたことでしょう。

大本教には『坂の上の雲』の主人公の一人 秋山真之が入信していた関係で、大正5年(1916)頃から海軍関係者の入信も多くなっていて、大正10年(1921)で5万人位の信者がいたということです。ちなみに昭和9年(1934)に社会運動の団体「昭和神聖会」を結成した時には賛同者が800万人を超えたということです。
2度にわたる政府の弾圧に遭い、現在は規模が縮小していますが、大本教から生長の家、世界救世教、三五(あなない)教などが分派し、生長の家から白光真宏会、世界救世教から世界真光文明教団などが生まれ、現在、多くの新興宗教と呼ばれるもののルーツとして有名です。

『合気道開祖 植芝盛平伝』には、12月27、28日ごろ綾部に着いて3日間滞在して、大正9年(1920)1月4日に田辺に帰郷したと書かれていますが、12月28日から1月2日まで綾部に滞在したと書いているものもあります。父与六は1月2日に亡くなりました。
この初見で、王仁三郎聖師から「自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ」と言われています。綾部では、大本の教義を聴講し、鎮魂帰神の実修を受けました。父の葬儀が終わり、大正9年2月に一家を挙げて綾部に移りますが、『合氣道開祖植芝盛平』(砂泊兼基著)には、「大本教には、彼が放棄した北海道の厖大な財産のかわりに、あり余るほどの、人として求めていたものがあったに違いない」と書かれています。綾部に移って後、植芝塾を開き大本の人々に武道を教えている訳ですから、私は武田惣角師から教えを受けた武術の奥にあるものが大本で得られると感じられたのではないかと思います。そして、ここで「真の武」を求めるように王仁三郎聖師から方向付けられます。

大本教は、出口なお開祖に神憑りがあって始まったシャーマニズム的な宗教ですが、王仁三郎聖師によって国学が組み入れられ、教義が打ち立てられた宗教となります。国学は、古くは日本や日本人としてのアイデンティティを確立するための学問であったようですが、契沖−荷田春満−賀茂真淵と続き、本居宣長に至り『古事記』が読み解かれ、次いで平田篤胤が法華教、密教、神仙道に禁書であった中国語の聖書を手に入れるなどしてキリスト教の教えも加え、復古神道(古神道)が形作られました。そして、言霊、太占(ふとまに)、鎮魂、帰神法が4つの柱となり体系化されます。これに王仁三郎聖師の言語能力と霊覚が加わり、「宇宙の真理」が明らかにされ、『霊界物語』に述べられます。

開祖が王仁三郎聖師をどのように見ていたかということが、「弟子というものは、師のなさることは何でも真似び(学び)、そしてやらなければならんものだ。あれはオレにはできん、それは嫌だ。これはおかしいなどの逃げ口上や批判は、口が裂けてもいうべきではない。だからわしも、聖師が書をよくされるので下手は承知で書道を稽古し、聖師が和歌や俳句を好まれるので一所懸命、歌や句をひねっとる」(合気道開祖 植芝盛平伝p.127)という言葉から分かりますが、大正10年(1921)の第一次大本事件を乗り越えて聖師に従い、大正13年(1924)の満蒙での死線を越える体験などを通して霊覚を研ぎ澄まされたことと思います。そして、大正14年(1925)に黄金体体験をし、大本教の行や王仁三郎聖師の教えの力を実感したことと思います。

王仁三郎聖師との緊密な関係は昭和10年(1935)の第二次大本事件までは続いたようですが、聖師は昭和17年(1942)の保釈出所まで獄中にあったため、第二次大本事件以降途切れます。この終戦までの間に、岩間で神示を受けることになる訳ですが、「合気道は宇宙の真理に従い、万有の条理を明示するということは、何回も述べているから各位は御理解あることと思う」(合気神髄p.16)と述べられている「宇宙の真理」は『霊界物語』と『古事記』がベースになっている「宗教の真理」であると思います。
「これが宗教の奥義であると知り、武道の奥義も宗教と一つなのであると知って法悦の涙にむせんで泣いた」(武産合氣p.131)と言われるのが昭和20年(1945)のことです。この「宗教」は、開祖の宗教遍歴を考えてもほとんどが大本の教えのことで、「奥義」を「真理」と読み替えたらもっと理解しやすいかと思います。
その一方で「私の武産の合気は宗教から出てきたのかというとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内である」(合気神髄p.115)と言われていますが、これは開祖が武道に軸足を置かれて、魄(肉体)ではなく魂(気、心)の世界から宗教の真理を見直されていることを物語っていると思います。

今までにない「真の武道」を創始するということは、武技の理合が宇宙の真理に合致しているだけではなく、真の武道の新しい概念を言い表す言葉が必要です。後世のことだと思いますが、一刀流も「一刀流の縁起」を説き起こすのに、「天之御中主神−天地創造」「高御産巣日神−宇宙生産」「神産巣日神−霊界生産」・・・というように『古事記』に関連付けています。このような概念を表す言葉が宗教の真理を表す言葉であるというところが合気道の特徴になっています。その言葉が、言霊で理解されたので、魂(こん)が玉(たま)として感じられるというような自由な発想を呼びました。この宗教的な言語がなければ、合気道の創始もなかったと思える程です。

「万有愛護」はキリスト教から、「生成化育」と「修理固成」は『古事記』から来て、大本教の教え中に流れ込んでいます。
「一霊四魂三元八力の大元霊が一つなる大神の御姿である。大神は一つであり、宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄の姿である。・・・ポチを包みて、はじめて「ス」の言霊が生まれた。・・・」(合気神髄pp.110-113)は、天地剖判の件(くだり)ですが、『霊界物語73-1-1』よりも分かりやすく示されています。『霊界物語』のこの部分は、開祖が何回も読まれた所で、大変重要な部分です。この部分を読んで、「真の宗教も武道も同じですが、一霊四魂三元八力の活動の実体である」(武産合氣p.139)を読むと、「一霊四魂三元八力」は「スの言霊、ス声、スの神」即ち「愛、神の愛」であり「愛の気」ということが分かります。「合気とは、言霊の妙用であり、言霊の妙用は一霊四魂三元八力の分霊分身である」(合気神髄p.113)という箇所も、「合気とは、スの言霊の妙用であり」と読め、そうすると「合気とは愛の気の妙用であり」ということが分かってきます。
「神人合一」は『霊界物語』にありますが、「スの神」との合一ということから、「愛の気」そのものになることを示していることが分かります。
「正勝 吾勝 勝速日」は『古事記』の「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」から来たものです。

宗教の真理を表す言葉によって真の武道の概念が示されていることに気が付けば、合気道がもっと身近になると思います。「合気道は古事記の営みである」と開祖が話されていたと聞いていますが、まったくそのとおりで、『古事記』を読む時には天地は神の愛によって創られたという観点から読むことが大切です。そして、他の武道のようにこれを禅語で表すことは難しいということが誰にでも分かることだと思います。
「合氣道の修行にとって何が大切であるかと申しますと、自己生命の歴史、幾億万年以上の宇宙の始源まで戻して、この血潮のたぎる自分の生命を内観することであり、そうすれば自己の中に胎蔵されている、過去、現在、未来を貫いている宇宙の大生命としての神なる意志と大愛の心を関知することができます。栄光ある人間生命の細胞一つひとつの中にも神の仕組みと大愛を感得すれば、宇宙には対立も分裂もない大いなる一つの宇宙感を胎蔵することができるのです。つまり、宇宙の氣と一体となった合氣の極意を悟るのであります」(伝承のともしびpp.88-89)を読んでも、大本で学んだ宇宙の真理(宗教の真理)とその真理を表す言葉が、合気道の概念を表す大切なものであることがお分かりいただけると思います。

開祖が、合気道を明確に概念化されていたということが、白光真宏会で話された次の言葉からも分かります。
「今日はお尋ねにより、合気道とは何か、ということについて申し上げましょう。
合気道とは、宇宙万世一系の理であります。
合気道とは、天授の真理にして、武産の合気の妙用であります。
合気道とは、天地人、和合の道とこうなるのであります」(武産合氣p.28)
ここで、「理とは宇宙経綸の一元(ス)の現れである」(武産合氣p.59)ということになります。

ここに述べたようなことが合気道の核心部分だと思いますが、開祖が王仁三郎聖師から学んだことは、言霊や宇宙の真理の他にも言霊の妙用(言霊はエネルギーで力)や神人合一のための行法があり、また、影響を受けたということでは開祖の人生(武道)の方向付けをして下さったということが大きいと思います。
開祖が大本に入られた年齢と同じ30歳代後半から合気道を始める人は、この部分から入られると良いと思います。人生の30歳代は「人生とは、自分とは」ということを深く考えるようになる哲学的な時期だと思います。
posted by 八千代合気会 at 10:09| 日記

2011年11月24日

一刀流極意

笹森順造が著者で、昭和40年(1965)に一刀流極意刊行会から出版されました。笹森順造は、青森県弘前市の人で、弘前藩に伝わっていた小野派一刀流の第16代を継いだ人です。伊藤一刀斎影久が開いた一刀流は、弟子の神子上典膳(小野次郎右衛門忠明)が将軍家剣術指南役となり、分派・支流と区別するために小野派一刀流と称するようになり、今に続いています。この流儀は、第5代 小野次郎右衛門忠一から津軽5代藩主 津軽土佐守信寿に伝えられ、その後、正統直伝が津軽家に移りました。大正になって津軽義孝から第16代を笹森順造が継いでいます。別に小野家から山鹿家に伝えられた一刀流もあり、これも笹森順造に伝えられ、これらの伝に検証を加えた後、すべての技法、理論、伝統を統合し、再確立されているそうです。

私は、昭和45年(1970)発行の再版を昭和47年(1972)に手に入れましたが、その時は刊行会の方が、わざわざ勤め先の会社まで届けて下さいました。日本武道界に冠たる剣道の流儀でありながら、世の中ではそれ程メジャーではないということでしょうが、この本の価値は世評の影響を受けないものであると思います。

緒言には、「一刀流は不世出の英傑伊藤一刀斎影久が、日本に大昔から伝わった剣道の教えを、室町時代に大成した日本剣道流儀の最高峰である。(略)剣道は武技か体育か競技か哲理か道徳か宗教か、それはその人の修得と悟達の深浅如何によって異る。古来剣道の一門を開いた流祖はみな生死を賭けた一生の鍛練と宗教的霊験によって妙奥に達している。一刀流は卒爾として室町時代に偶発したのではなくそのよって来る所が頗る宏遠である。往昔から日本民族性に発祥し伝達された日本独自の剣太刀(つるぎたち)の思想を承け継ぎ、これを大成した日本剣道の精華である」 「日本の武は神武不殺と言って殺さないばかりではなく武は『む』であり『産』『うむ』『むすび』の義であるとして、われらの先祖は生命の根源と生産の働きを矛や剣で考え、これを神聖な宝器不可思議な珍器とし、日本民族の象徴としてきた。この生成と平和の特性から生れてくる道義は即ち育成教化、仁愛慈悲、寛忍忠恕、正義大勇、真鋭純潔、清浄無垢、礼儀撙節、淡泊瀟洒、公明正大、犠牲奉仕、協同互助、勤勉努力、向上進歩などの能動的諸徳である。剣道の真髄はどんな時代になっても、個人にも社会にも欠いてはならない哲理と道義の上に成り立つものと教えられてきたのである」と記されています。著者は、14歳でキリスト教に入信し、教育者(青山学院院長など)で、昭和21年(1946)に60歳で衆議院議員に初当選するや、GHQに日本の武道の素晴らしさを説明し武道禁止政策を変えるよう働きかけた、日本武道界に関係する人々が忘れてはならない人物ですが、何としても日本武道を残さなければならないというその時の純粋な気持ちがこの緒言に尽くされています。この本は80歳の時の出版です。

この緒言と開祖の言葉を比較して、日本武道に対する認識がよく一致しているのに驚かされます。武道の真髄を得るには、肉体の鍛練だけでは難しいようです。
剣道は門外漢の私が感じるところですが、一刀流の技の名称だけでも、妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣(こんじちょうおうけん)、独妙剣と、名付けられた方(鐘捲自斎)の教養も並大抵ではなかったと思います。これらは高上極意五点と呼ばれる秘技とされていますが、高上(高い位)と言えば、道歌の「高上は 秘事も稽古も あらばこそ 極意のぞむな 前ぞ見えたり」を思い出します(『合気道開祖 植芝盛平伝』 p.281の道歌一巻の写真では「向上」でなく「高上」)。

合気道や開祖の技を理解するのに参考となる箇所を抜粋します。
八方分身 須臾転化 欲在前忽然而在後
「多数の大敵に取り囲まれた時には敵のくるのが百方からであるが次第に吾に近寄っては十六方、八方となる。これを切りぬける教えは八方に散乱している敵を心得ながら、吾は一番近い敵を目懸けまっしぐらにその一方を切って払いぬける。一方に切り抜け出さえすると他の敵は全部一方になる。この一方からくる敵を近い者から、切り払い切り払いさえすればわが身を八方に分身させたも同じことであり、一人で八人の働きをなす所である。八方の敵を切り払うのには八人を一遍に切り払うのではなく、一人一度八遍に切り払うのである。八方分身の働きはこれである。この働きを現すには是非とも須臾(ほんの少しの間)にして転化しなければならない。手の裏を返し表を返すように速やかに働く事が肝要である。わが前後左右への転化は敵には神出鬼没にも見えるであろう」
多人数掛けの心得であり、「敵多勢 我をかこみて攻むるとも 一人の敵と思ひたたかえ」という道歌そのものです。「取りまきし槍の林に入るときは 小楯は己が心とぞ知れ」という道歌もあるので、敵が円陣を狭めて攻め込んで来ると思ったら転化できなくなります。

即意付・続飯付
「そくいの心 敵の意を見てその意に即しつきまとい、敵が嫌ってのがれようともがく所を意表にはずし、その転機に生じた虚を捉えて勝つのはそくいの心である。そくいつけは即意付とも続飯付とも書く。そくい付けは敵の意の赴く所を見て先ずその通りにくっついてゆく事である。糊をもってくっつけてゆくことである。敵の太刀にわが太刀をぴたりと付け、敵の意に添うてどこまでも付いて行って敵に技をかけさせないことである」
『合氣道』(昭和32年発刊p.184)に、「或る時、故郷和歌山の漁師町に行ったところ、そこで非常にねばりのある、五尺七、八寸、二十七、八貫の素人相撲をとる男に勝負を挑まれた。この時は、さすがの道主も手古摺ったそうである。というのは裸全身ズルズルに汗をかいて容易に捉めなかった。しかし、とかくする中、相手も疲れて来たのであろう、手が触れたら指一本で抑えることができた。この時に『ウナギ掴み』、即ち気を以て相手を抑える『続飯づけ』の妙法を悟ったという」と記されているものとは違いますが、開祖が同じ用語を使われているのは、同じ理合が存在するものと思われます。

合気
「合打 敵と打合ってどうしても合打となって中々勝負がつきにくいことがある。われが面を打つと敵も面を打ち、敵が小手を打つにわれも小手を打ち、われ突に出ると敵も突いてくる。吾が一尺進むと敵も一尺進み、われが五寸退くと敵も五寸退く、いつまでたっても合気となって勝負がつかない。遂には無勝負か共倒れになることがある。これは曲合が五分と五分だからである。こんな時は合気をはずさなければならない。合気をはずすのには先ず攻防の調子を変えなければならない。わが遅速長短の調子の旋律を急に変え、横縦上下の喰違いの形をとり、心に於て敵の気を離れ、互いに引張りを解き放し、敵強引にくればわれふわりとはずし、敵無為となればわれ厳しく打つ。かく手を変え品をかえるとわが曲合の利が生れてくる。これを利してそこに乾坤一擲の大技をかけると目が覚めるような新鮮な勝が我手中に帰する事になる」
武田惣角師も小野派一刀流を修めているので、大東流の合気は「敵強引にくればわれふわりとはずし」辺りからの連想で名付けられたものではないでしょうか。これに対して、合気道でいう合気は、「愛の気」の言霊的用法で、一刀流とは異なっています。「『合気』という名は、昔からあるが、『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異るのである」(『合氣道』 p.50)と言われているとおりです。

この本の構成は次のようになっています。
第一編  道統
第二編  組太刀の技
第三編  剣道強化
第四編  伝書
第五編  極意秘伝
posted by 八千代合気会 at 22:27| お勧めの本

2011年11月12日

武道の目を開く

『合気道開祖 植芝盛平伝』p.94に、ある新聞記者から「大東流を習っているとき、合気道を悟られたのですか」という質問を受け、開祖が、「いえ、武田先生には武道の目を開いていただいた、といった方がいいでしょう」と答えられたことが紹介されています。これについて、大東流の方からは「武道の目を開いた」という程度のものではなくて大東流そのものである、という声もあるようですが、この短い言葉の中で大東流と合気道は違うということを、はっきりとおっしゃられています。ただ、私は、「武道の目を開いていただいた」という言葉は大東流に対する最高の賛辞だと思います。

開祖は、大正4年(1915)2月22日(24日と記しているものもあります)、所用にて宿泊中の北海道遠軽町の駅亭旅館「久田旅館」で武田惣角師に邂逅します。吉田幸太郎氏(元新聞社主幹、惣角師の弟子)の紹介があったとのことですが、手合わせを願って、惣角師の秘技に感服させられます。剛力自慢の開祖でしたが、自分より小柄な惣角師の多彩な極め技に抗う術もなく捻じ伏せられました。それから1か月間、久田旅館で、その後さらに惣角師を白滝に招いて15、6人の使用人や弟子と一緒に入門し、私設道場を提供して教えを乞うています。
その後も惣角師の巡回指導に随行しています。大正8年(1919)11月になって、故郷の田辺から「チチキトク」の電報が届き、12月21日に家屋敷をそっくり惣角師に寄贈して、田辺に向かいます。

大正11年(1922)には、綾部に惣角師が一家で現れ、植芝塾で谷口正春氏(後の生長の家総裁)らと共に指導を受けています。指導は約半年間に及びましたが、9月15日に大東流合気柔術教授代理を授けられています。大東流に「合気」という名称が加えられたのは、大本教の出口王仁三郎聖師の指示があり、開祖が惣角師に相談したからということで、大東流が大東流合気柔術と名乗るのは、この時が初めてです。このことから、大東流に「合気」という秘術があったことが分かります。北海道でもそうでしたが、惣角師一家の滞在期間中のまかないは開祖がすべて負担し、一家中で心をこめて接待しています。なお、この時に稽古料以外に大本教から借りて、当時のお金で4,000円の餞別を渡しています。

開祖が最後に指導を受けたのは昭和6年 (1931)3月20日〜4月7日で、大正11年からの10年間で惣角師と数回顔を会わせています。そして、当時、大東流の最高の免許証であった解釈総伝証も授かっています。

開祖は、生涯、惣角師に対して特別な気持ちを抱いていたと思います。薪水の労をとった師ですから、容易に決別することはできなかったはずです。しかし、インタビューで「大本の教団に、父病気全快の祈願に行った折に、いろんなことを見聞きしたのでありますが、その折に王仁三郎先生が、『植芝さん、あんたはね、自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ』といわれた。
けれども折角、武田惣角さんという方がわざわざご親切に訪ねてきてくれたのだから、一手二手は、極意まではいかなくても、少しくらいは覚えたほうがいいと思って、一時稽古をしましたけれども、神様が『絶対それはいかんぞよ』といわれた。『そんなことを稽古せんでもおまえにはついてくれている、生まれた折からの神さんがあるのや、それから汝にはいつもいうじゃないか、「天の叢雲九鬼さむはら」という神さんがついている。この神さんは武道の一番の司神さまである、この世の中でいちばん古い神様である、この地球の修理固成、生成化育のご神徳をお授けになって、ことごとくあんたには教えてくれているんだ。これからは稽古して、思いっきり稽古すれば必ずや出てくるから安心してやれ』といわれた」と答えられていることから、神様と王仁三郎聖師の許しが得られず、惣角師から徐々に離れて行かれたと思います。

大正11年に教授代理を授かった後、「合気武道」の名で教えていますが、弟子には「大東流合気柔術」の巻物を与えています(昭和8年(1933)、望月稔先生に「大東流合気柔術奥伝印可」)。昭和6年4月以降も惣角師が皇武館道場を訪ねられることがあったようですが、指導は受けていません。これは昭和7年(1932)に大本教団内に「大日本武道宣揚会」(総裁:王仁三郎聖師)が誕生し、開祖が会長に任命されたことが大きかったのではないかと思います。また、昭和10年(1935)の第二次大本事件以降は、行き来が途絶えたようですが、開祖が大阪で警察に捕まった時に、惣角師は心配して安否を問うています。

さて、大東流の「合気」ですが、開祖はそれを会得されたのでしょうか? 私は、会得されていないと思います。会得したかどうかは、会得した人が見れば一目瞭然のようです。大東流の「合気」は、惣角師の最期を看取った山本角義氏に伝えられたのは確かのようです。佐川幸義氏がこれを会得されたのは1972年、70歳の時のようで、この時に山本氏が「佐川先生が今気付いたというのが見えた」と言っているそうです。これは、佐川氏が「私は70歳の頃になって一瞬でとばしてしまう新しい合気を発見した」(『透明な力』p.64)と言っていることと符合しますが、大東流の中で高い評価を得ている佐川氏にしてそうですから、かなり高いレベルのもので、会得には年季と工夫が必要のようです。

池月映著『合気の発見』によれば、大東流の「合気」は真言密教から来たもののようです。開祖が大東流の「合気」を会得していないことは、惣角師が、「植芝には合気は教えていない」(『透明な力』p.111)とはっきり言われているので間違いはないでしょう。大東流と合気道の演武を比較しても、技の掛かり方が違うことから、惣角師の言葉は正しいと思います。

開祖が、「今迄の武道は、長い年季を入れないと自分になれなかったのですが、私はすぐにも了解し得る道を開いたのであります」(武産合氣p.70)と言われていることからも、大東流の「合気」の術理でないもので、大東流の「合気」に比べてすぐにも了解し得るものを会得されたということです。強いて言えば、大東流の「合気」と開祖に神示として与えられた「武産合気」は、どちらも気を使うという点で共通していると思います。違いは、合気道が「愛の気」の結びという精神的な理合によるのに対して、大東流の合気は「相手を無力化する技術」という点です。
したがって、開祖のような技を会得したくて大東流の「合気」を身につけようとするのであれば、木によって魚を求めることになるのではないでしょうか。

『透明な力』p.111に佐川氏が武田時宗氏に伴われて(財)合気会 本部道場を訪れられた時の話が載っています。昭和31年(1956)1月23日のことですが、この時、佐川氏が合気上げをやってくれと言い、いやがる開祖の手を無理やり掴んだとのことです。佐川氏の話では、「実は武田先生のような合気があるかどうかを知りたくてやったのだが全くなくて動くことができなかった。最後には悪いから手をあげさせてあげた。(それに比べて)武田先生の手はどんなに押さえても上がってしまった。やっぱり(武田先生とは)全然違ったね」ということです。
時宗氏が、大東流の大同団結の話で訪れた時の話で、前述のインタビューの話のように、それはできない相談であり、開祖はやんわりとお断りしたのでしょうか。少なくとも話がスムーズに進んでいれば、いやがることを無理やりしなかったはずです。
その時、大東流と合気道の交換教授の話がまとまったとのことですから、開祖としては事を荒立てないでおきたいという気持ちがあったのでしょう。佐川氏は53歳、開祖は72歳でしたが、佐川氏は開祖の2年先輩の兄弟子です。ここは兄弟子の手が上がらなくても恥とすることではありません。それで、この時に開祖は「武産合気」を使っていないと私は見ます。開祖が上げられなければ、佐川氏の腕が立ったということで、その場が丸く収まります。

佐川氏は、開祖が髭を蓄えているのも気に入らなかったようですから、開祖と反りが合わなかったようです。そのこともあり、この合気上げを『透明な力』に述べられているように合気道と大東流の勝負と見るべきかどうか判断が難しいところです。

この話の後、天丼を取り寄せてごちそうしています。昭和31年当時の天丼は、本当にごちそうでした。植芝家としても最高のおもてなしであったことでしょう。
『武田惣角と大東流合気柔術』で、時宗氏は、「植芝さんは惣角の高弟でもあるし長く稽古もしていたので、私は上京の際は一番先に植芝さんのところに挨拶に行きました。植芝さんが亡くなってからは行きませんが、惣角も門人として植芝さんが一番可愛かったんじゃないですか」と述べています。『透明な力』に述べられている開祖像とは違っているところですが、これは時宗氏が大人の対応をされているからでしょうか。

ともあれ、理合は変わりましたが、大東流なくして合気道の創出はなかったものと思います。「武道の目を開いていただいた」という言葉には、合気道の術理を生み出す目標になったということや、武道というものの見方が変わり、その後の武道の真髄探究の原動力になったというような意味を含んでいると思います。

池月映の『合気の発見』で明らかにされた惣角師の実像も、無欲の人で名声を求めなかったという点に好感を覚えます。
posted by 八千代合気会 at 01:24| 日記

2011年11月01日

規範 合気道

基本編は植芝吉祥丸二代道主と守央本部道場長(現道主)、応用編は植芝守央現道主が著者で、平成9(1997)と平成13年(2001)に出版されました。
基本編は吉祥丸道主が著わされた合気道の教本の中で最後の方に属するもので、内容も一番詳しいものですので、集大成と考えて良いと思います。応用編は現道主が完成されました。規範と銘打たれた本ですので、この本が出版された時に現道主に、指導者によって様々なスタイルがある合気道の技をまとめる意図があるのかお尋ねしましたが、そのような意図はありません、参考にしていただければ結構です、というお答えでした。

規範ということについては基本編の「はじめに」に次のように示されています。
「本書が生まれた理由は、タイトルに使われている、『規範』の二文字にこめられています。(略)おかげさまで今日は老幼男女・人種・国籍を問わず世界百数十万人の人々に普及するに至りました。この現状にかんがみ、より幅広く合気の道を伝えていくためには、無数にあると言える合気道の技の中から、規範となるべき技を選び出し、幼少年にも老年者にも、また女性にも、より稽古し易く、効率を上げる具体的な指標をつくる必要を痛感するに至りました。さらに、合気道には武道としてのさまざまな哲理が含まれています。それはまた人類共通の真理にも通じるものと確信しますから、合気道の技法とともに、その精神をぜひ広く伝えたいと念願いたします。(略)すなわち。タイトルに使われている『規範』の意味は、稽古の指標という意味の『規範』であると同時に、合気道本来の姿を示す『規範』でもありたいのです」
この部分を読むと、吉祥丸二代道主が、合気道の技と哲理をより分かり易く、より広く伝えようとされていることが分かります。そのための「規範」を示されていますので、指導者は必読、必携の書であると思います。

初心者の方が読まれるときは、あまり細部に拘らないで、最初に「合気道とは何か」と「合気道の歴史と組織」を読み、 技については名称を知る程度で良いと思います。他のスポーツも同じですが、レッスンブックだけで上手になった人はいないと思います。

基本編には、呼吸法を除いた技が10種類示されていて、攻撃方法などを変えた39のバリエーションが示されています。応用編では、6種類の技と武器取り、多人数取りが加わり、114(表と裏は1つとして)のバリエーションが示されています。

応用編に「呼吸力」について巻頭に頁が割かれています。
「合気道の技の骨子となるのが、呼吸力、つまり自分の持っている自然の力です」
「人間の体は自然に動かせば、呼吸力が出るような仕組みになっています」
「とはいえ、稽古になると、相手を崩す、投げるということを意識してしまいます。そうなると、よけいな力が働き、普段の生活でできているはずの動作ができなくなってしまいます」
「もちろん相手によって、動作のタイミングやスピード、また間合いも変わります。そのなかで無理のないような自然な動きをする。一方的に合わせる、合わせてもらうのではなく、お互いが一つに溶けあうような稽古をめざす。そのなかで自分のことを考えながらも、相手を尊重すると いう、真の協調性も養われていくことでしょう。『万有愛護の道』という開祖が唱えた合気道の基本精神が、稽古法そのもののなかに生きているのです」
呼吸力には、時間的なタイミングやスピード、空間的な間合い、それに精神的な相手を尊重する心が関係していることが分かります。相手を崩そう、投げようと意識した時に、意識した場所に力が作用し、その場所によけいな力が働くということを知って、そうならない工夫が必要になります。

どれほど詳しく書かれた本でも、武道の本である限り、極意のようなものは隠されていることが多いと思います。また、書き表されたものには必ずといって良いほど誤字があります。そのことを弁えて、指導者が教本にされると良いと思います。

初版本には次のような間違いがあります。
基本編
・ p.6の目次で「正面打ち四方投げ(逆半身)(表・裏)・・56」は「片手取り四方投げ(逆半身)(表・裏)・・56」に
・ p.8の「植芝吉祥丸道主と植芝守中央本部道場長」は「植芝吉祥丸道主と植芝守央本部道場長」に
・ p.44の「小手回し法」とp.45の「小手返し法」の上の解説写真は逆転(編集部により正誤訂正済み)
応用編
・ 支部・道場一覧の八千代市合気道連盟の電話番号「0475(49)6065」は「047(459)6065」に
・ 支部・道場一覧の柏合気道連盟の責任者「浦田敏春」は「浦田敏晴」に

基本編のp.25の座り方、p.26の立ち方は、「右座左起」(右足を退いて座り、起つときは左足を立ててから起ち上がる)になっていますが、剣道では刀を扱う関係から「左座右起」が基本です。「右座左起」は神道の「進左退右(左進右退)」(神様に正対したときには左(霊的な側)から進み右(体的な側)から退く)というところから来ているのかもしれませんが、『合気道講習会用テキスト』
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00224/mokuji.htm)では「左座右起」となっていますので、どちらからということにあまり拘らなくても良いと思います。

茶道では表千家(左進右退)と裏千家(右進左退)で異なるようです。小笠原流では、「昔は男は左足から、女は右足から立つことが原則であった。しかし、上座をうけて、下座の足から立つ方が相手の人に対して好ましい感じを与えるものであり如在(いますがごとく)の気持ちが大切である」(小笠原清信著『小笠原流』)と教えていますので、男性は「右座左起」が本来のものであったようです。
いずれにせよ、指導者になると、その意味まで知っておくのが良いと思います。
posted by 八千代合気会 at 18:57| お勧めの本

2011年10月13日

合気道の起点

『合気道開祖 植芝盛平伝』で、吉祥丸二代道主が、「道統の起点」(p.34)という言葉遣いをされています。それに続いて『武産合氣』の「私の合気道修行方法に記されている「宇宙と人体は同じものである。これを知らねば合気はわからない。(略)それがために自己の愛の念力(念彼観音力)をもって相手を全部からみむすぶ。愛があるから、相手を浄めることが出来るのです」」(pp.125-128)の一節が引用されています。昭和15年(1940)12月14日(旧暦の11月16日、旧暦での開祖の誕生日)に初めて受けた神示について述べられた部分です。

開祖も、「このような今日の時代になって、神示によってはじめて現れたのが武産合気である」(武産合氣p.56)と言われていますので、「神示」が合気道の起点になっていることは確かです。「ずーっと以前は、いろいろの人々の熱誠をこめたところの武道をば、私も教えを受けたのでありますが、昭和15年(1940)の12月14日、朝方2時頃に急に妙な状態になりまして、禊からあがって、その折りに今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。あらためて先祖からの技をやらんならんことになりました」(合気神髄pp.23-24)とも言われています。この「全部忘れてしまいました」という言葉は合気道の独自性を強調せんがための方便ではありません。「釈迦に会っては釈迦を殺し」や「仏に遭うては仏を殺し、師に逢うては師を殺し」という禅の言葉と同じです。殺すというのは否定するという意味ではなく、本来の自分と向き合って取り組むという意味が近いでしょうか。

このように「宇宙とは何か、自分とは何か」(武産合氣p.64)ということを深く追求し、また、神示により初めて現れたのが合気道です。この場合の合気道は、武産合気とか武産合気道と考えた方が良いでしょう。
神示は英語であればrevelationで、「啓示」とか「黙示」と訳されています。revelationには「隠されているものを明らかにすること」という意味もあります。新約聖書の最後に「ヨハネの黙示録」があり、読んでみると非常に難解ですが、使徒ヨハネにとっては非常に分かりやすい神示であったと思います。それと同じように開祖に与えられた神示も開祖にはよく理解できたことと思います。そして、その気になれば私たちにも理解出来ますので、黙示のままにしておいて良いと考えないようにしましょう。

合気道の起点となっている神示は、昭和15年(1940)の12月14日以降幾つか受けています。「合気道の精神」で知られる「合気とは愛なり云々」の神示も大切な神示です。これについては「神示の解き明かし」(2010年9月27日)で解説を試みていますのでご覧下さい。もう一つ「武産の神示」が重要だと思います。これは『合氣道で悟る』(pp.42-45)に記されています。少し長くなりますが、次に引用します(番号は便宜上付記)。
「この武産の言葉はいつ頃開祖に現れたものであろうか。翁に、御神示として降ろされたのが、昭和17年(1942)であったことが、最近の調べで分かったのであるが、どのようにして、翁に降ろされたか、その詳細を知ることはできない。武産の言葉が降ろされたのは、(天の村雲九鬼さむはら竜王、又の名を速武産大神の命による)猿田彦大神の御神示と記されている。
その御神示を列記して、大神が、翁に対して何を与えようとなされたのか、いま、その奥を覚りたいと思うのである。
1)武産の武を法座を以て使命付けられてゐるものは汝一人以外に過去現在にない。この有難い使命を精神を以て達成する様努力を以て貫け。
2) 魄の武と組織に対しては隠居して終え、隠居する年になって武産の武の使命が大神から授かった因縁を思え、魄をすてて魂に精進して武産の武を楽しんでいたせ。
3) 無手の戦いは魂のひれ振りじゃ。武産の武の精進は茲(ここ)から出発するのじゃ。
4) 型を破って型なき型を工夫せよ、いくらでも機に応じて型が形に添って結び生じる。これが魂の武産である。自在の生みの氣を結ぶことが肝要ぞ。
5) 自然の力、仕組を念頭において、之に合う所の自然の武を生み出すのが武産なり。常に新しきを生み出すのが武産である。
6) 皆(みな)、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する。之、武産なり。
7) 種を有しても大地が愛をすくってうけてくれねば結び生ぜぬ。故に、初の兆の愛の氣に結びて武産の愛の氣を以て業を生め、一時のからくりでなく、神業の神力が生じてくる。
8) 魄の観念信念にとざされて、常に気ぜわしく、心乱して、物の仕組に明け暮れ、心を煩わすのは、武産の精進とは、はるかに違ふぞ。
9) 天地の理に即応した変化自在の創造が武産の本義なり。
10) 武産の武は、形より心を以て、本とし、之の魂のひれぶり、武としての活躍なれば、之大神の愛の氣結(きむすび)である。
11) 自然の力、仕組を念頭において、之に合する所の自然の武を生出すがのが武産なり。
12) 武は常に変化を以て生命とする。常に恒に新しきを生み出すのが武産である。
13) 型を破りて型を創造生成発展すべし、武産の武は廣大且つ微妙なり。
14) 武を授ける時は、武産のことあげを用いよ。
15) 眞の武は武産の意義を明(あきらか)にするにあり。
16) 武産には眞の自在がなければならない。魄には行き詰りが来る。
17) 魂のひれぶりは自在にして極りなし、これ武産の極意なり。武の極意は形はない、心自在に生ず、これ極意なり。
18) 形をすてて心の精進を第一義として武産の武を火の玉となって求めよ。魂の土台がしっかりと中心に定まらねば、枝葉の術や、仕草は、無駄となるぞ。
19) 武産の武に精進するは魄の為にあらず、これ魂の縁の結びなれば、よく肝に銘じて心得よ。
20) 魄は人の身にとりて必要なもの故、其眞義を悟りて魂のひれ振りは此魄の表れによるもの故、身と心、二つが一つになって武の変化を生む故、なくてはならぬ魄である。只、魄を主として心を第二にする順序の、転倒、矛盾を正すために魄をすてろと申すので、決して魄を不要とするに非ず、魄はむしろ大切なものである。
21) 今日まで、神の使命にたずさわりて武をなしたる者、一人もなし、植芝として感泣して精進せよ。
大神が翁に授けた神示は、まことに厳しいものであった。
翁は御神示を受けられた頃は、戦争中でもあり、心身共に疲労の極に居られたと思うのである。それは、それまでのある年月を、魄の世界を御自分の意志に反して歩かざるを得なかったことから、生じたことである。その極に達したとき、大神の御神示が降ったのであろう。これからは魄では駄目だ、魂の世界を火の玉になって精進せよと警告されたのである」

この神示から、開祖の合気道は武産合気道であったことが分かります。合気道新聞第103号(昭和44年(1969)2月10日号)に「武産合気」が出てくるのが最後の言挙げであったと思いますが(#14参照)、そこに「合気の道を究めるには、先ず真空の気と、空の気を性(さが)と技とに結び合わせ、喰い入りながら技の上に科学を以って、練磨するのが修行の順であります」と書かれています。これと#3の「無手の戦いは魂のひれ振りじゃ。武産の武の精進は茲(ここ)から出発するのじゃ」という神示が同じ修行の順序を示しているので、「魂の比礼振り」と「真空の気と空の気の結び」は同じ概念で、武産合気道の根本的な技法、根本的な理合を表したものであると推測出来ると思います。

武産合気は目に見える型・形(肉体的な動き、魄)ではなく、魂の比礼振り、即ち形より心(愛の氣、魂)による氣結びを根本としています(#2、#6、#7、#10、#16、#17、#18、#19参照)。「自己の愛の念力(念彼観音力)をもって相手を全部からみむすぶ」ということも同じ技法・理合です。

そして、もう一つ「皆、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する」(#6)ということも根本的な技法・理合です。「円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」(合気神髄p.121)とか「念を去って皆空の気にかえれば生滅を超越した皆空の御中心に立ちます。これが『武道の奥義』であります」(合気神髄p.80)とあるので、合気道を何年、何十年とやってきて到達するものだと思います。
「これは合気の武の根元でありますが、魂の円を体得した極意には、相対の因縁動作を円に抱擁し、掌に握るごとく、すべてを吸収します。己れに魂があれば、人にも魂があり、これを気結び、生産びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します。いかなるものも自由にとけるのが円であります。円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」(合気神髄p.121)とも教えられています。「生滅を超越する」とは、「相手を制して」とか「相手を崩して」という心と対極にある心で「万有愛護の心」を持つことです。別の言葉で表せば「愛の氣結び」です。

道歌に「上段は吾も上段このままに 打ち突く槍を崩して勝つべし」とありますが、「崩して」と自分中心に考えると、それは相手に伝わり、また、自分の動きも遅くなります。それよりも、相手が打とう突こうとする気を、避けようとか勝とうとか思わず、そのまま受け止めれば相手が満足して自然に崩れると考えた方が良いと思います。「種を有しても大地が愛をすくってうけてくれねば結び生ぜぬ。故に、初の兆の愛の氣に結びて武産の愛の氣を以て業を生め、一時のからくりでなく、神業の神力が生じてくる」(#7)ということですから、このことによって「神力(呼吸力)」を発揮できるということです。
「皆空」とは仏教での「あらゆる現象や存在には実体がなく、空(何もないということではありません)である」という意味ではなく、「相手も自分もない空間、争いがない空間」と理解したら良いと思います。

これが分かると結びが分かるようになります。結びが出来るようになると、相手の手や体がくっついて離れなくなると言いますが、これも手や体という魄が結ぶのではなく、気や心という魂の結びにならなければなりません。

砂泊先生が、「試行錯誤の毎日であったが、体力で効かないものを、いつまでも体的な技で、それを求めようとしても無駄なことである」(合氣道で悟る)と述べられています。八千代合気会の会員にあっても無駄な努力をされないように願っています。
「開祖植芝盛平先生の書かれた精神を知り、それを体的にどう表すかに方向を変えていったのである。(略)ただひたすら、相手と一体になる(一切を抱擁する)心を、毎日の練習の中に探求し続けたのである。十数年ほど経って、やっとそれらしい技が出るようになった。それが呼吸力と言えるかどうかは分からない」(合氣道で悟る)ということですから、私たちも大いに試行錯誤を繰り返すのが良いと思います。

ここで言う「愛の氣」で行う武道が「合気道」です。
開祖と同じスタートラインに立つため、合気道の起点の神示を熟読吟味することが重要です。そして、日々の稽古で試行錯誤を繰り返すことも大切です。
posted by 八千代合気会 at 14:46| 日記

2011年09月27日

合気道−剣・杖・体術の理合(全五巻)

斉藤守弘先生が著者で、昭和48年(1973)〜昭和51年(1976)にかけて港リサーチから出版されました。斉藤先生は、昭和21年(1946)に岩間で入門され、23年間開祖に仕えられた方で、亡くなられるまで合気神社を守り続けられました。31の杖などの型をまとめられたのも斉藤先生です。

植芝吉祥丸道主が「発刊を祝して」という一文を寄せられていて、「此度、斉藤さんの本が、合気道の剣理を主体として愈々出版されるという。お目出度うと心からお祝いする気持で一杯です。というのは、開祖夫妻の晩年、斉藤さんが常に師礼をとって勤めた懸命な姿が、私の脳裏に焼ついて離れないからです。(略)開祖は常に“剣の理合いを体に現したものが合気道の動きである。”と言われたものです。更に“体術で基礎を体得し、然る後、剣を持つのが常道である。合気道に於いて体の基礎が出来ていない者に剣を持たせる事は、生兵法という事になる。”と修行者をいましめて居られた事も記憶しています」と述べられています。

技は固体、柔体、流(気)体の順に習い、少なくとも三段までは固い稽古(楷書の技の稽古)をするようにとの教えです。この本が出るまでは、吉祥丸道主の本の他、師範部長の藤平光一先生、日本合気道協会の富木謙治先生、養神館の塩田剛三先生の本が出ていましたが、斉藤先生の本は技(の写真)がしっかりしていて、他の本にない口伝が記されているという特長もあって、八千代市で指導を始めるようになって教本とさせていただきました。

口伝では、「肩も肘も気持ちも下げる(立技呼吸法)」、「大地から湧き上がるように(正面打ち第一教 表)」、「押し気味ねじり気味に丸くおさえる((正面打ち第一教 裏))、「背の高い人は畳んで投げろ(半身半立技・正面打ち入身投げ)」などが記されています。斉藤先生の教え方はポイントがはっきりしていて、今までの迷いが晴れるような分かり易いご指導でした。

この本は、絶版になっていて入手が難しいと思いますが、指導する立場の者にとって教えられるものが多い本だと思います。
「弟子は(わしの)左を歩け! 何かあった時、右手を封ずるな。お前を守るのは師匠だ」という開祖の言葉が紹介されていますが、私の大学の合気道部の創立者が斉藤先生をお招きして列車で隣に座った時、斉藤先生は創立者を窓側にご自分は通路側に座られたそうです。この時の斉藤先生は、創立者が危難に遭う時には守らなければならないという心掛けだったと思います。
指導者とか先生と呼ばれる者がこの心掛けを忘れなければ、合気道は正しく伝わって行くと思います。
posted by 八千代合気会 at 17:54| お勧めの本

2011年09月20日

合気道の使命

吉祥丸二代道主は、「神人合一」を発展させて「人格形成の道」と唱えられたと思いますが、開祖は、「日本人は、戸(こ)ごとにこれを行うべきです。つまり家々に、これは至宝として行うべきものです。それをこの爺(じじい)が私(わたくし)せんとしたり、あるいは謝礼取ったり、お礼を貰って教えに行くものではない。日本国全体に対してご奉公すべきところの技です。何故なれば、この合気道というものは人類上の自己大成の道です。自己大成の道ですよ」(http://www.youtube.com/watch?v=k-Sugag-Ncs)とインタビューに答えられていて、大変重い言葉で表現されています。
何十年か昔、合気道新聞(だったと思いますが)で「戸ごとにこれを行うべきです」という言葉を目にして以来、この言葉の意味するところは何だろうかと考えて来ました。自分が合気道を続けているのは合気道が好きだからという段階から合気道を楽しむという段階になっても、まだ「戸ごとに」という言葉とは隔たりを感じています。オリンピック選手などが「楽しんできます(enjoy, enjoying)」と言っているのをよく耳にします。私の「楽しむ」には、これにもっと神への感謝や「法悦の涙を流した」という気持ちが加わっていますが、それでも不十分であると感じています。

「戸ごとに」という言葉から思い浮かべるのは「衆生済度」や「人の救い」という言葉で、自分が好きだからとか自分が楽しむという自分を含め、自分だけという範囲を超えたところに合気道の使命があることがうかがえます。使命ということから神示の「武産の武を法座を以て使命付けられてゐるものは汝一人以外に過去現在にない。この有難い使命を精神を以て達成する様努力を以て貫け」(合氣道で悟る)が思い出されます。「武産の武は、形より心を以て(精神を以てと同じ)、本とし、之の魂のひれぶり、武としての活躍なれば、之大神の愛の氣結(きむすび)である」(合氣道で悟る)とも示されていますので、今まで習った武道をすっかり忘れてしまう必要がありました。その過程を経て、形(魄)でない心(魂)、それも万有愛護の心(愛の氣と同じ)で相手と心を結ぶ武道の創出が成ったと思います。そのような真の武が完成するように神様から何度も修正されています。このことは「神様に叱られちゃったよ。“一からやり直せ、殺人武道(愛の氣結びでない武道)は駄目だ”と」(開祖の横顔)と開祖が洩らされた言葉から肯けると思います。

「愛の氣結び」こそが「呼吸力」であり、「神人合一(我即宇宙)」の表現であると思います。技の形(form)を覚えるために「相手(の肘)を制する」とか「相手を崩す」という言葉は分かり易いと思いますが、形を覚えたら「形より心」を主体にした稽古に重点を移すべきだと思います。そうすると「相手を制して、相手を崩す」というものが「相手と結び、一体となる」というものに変わってくると思います。
「合気とは愛の力の本にして 愛は益々栄えゆくべし」(道歌)をそのままに読めば合気道の理念になりますが、「合気とは愛が力の本にして 愛は益々栄えゆくべし」と読めば合気道の理合に変わります。
「相手を制して、相手を崩す」という言葉を心の中で思い浮かべながら技を施す稽古は、相手に抵抗感を抱かせると思います。「自分が無抵抗になり、相手と結んで一体となる」という心であれば、相手も受け入れられたという気持ちを抱くことでしょう。理念は大切ですが、稽古の時には理合(万有愛護の心による氣結び)の稽古を行うことが必要なのではないでしょか。
「合気道で宇宙の魂を磨く者は、この源(宇宙の一元の神の働き、即ち万有愛護の働き)をよく究めて、宇宙の真理にかない、宇宙の御心にかなうように、万有愛護の心をもって、世の中の生きとし、生けるものに喜びを与えるように接しなければならない。このことは、やがて己に宇宙の喜びの大声に迎えられる日がくることなのである。この喜びは合気道を稽古するものの務めの一つを完遂することになる」(合気神髄p.114)ということも、合気道の使命(務め)を表わした言葉です。稽古の時には「世の中の生きとし、生けるもの」は「稽古の相手」で、「宇宙の喜び」は「神の喜び」であり「相手の喜び」でもあると思います。そして「自分の喜び」にもなります。

「戸ごとに」ということですが、開祖は「言ぶれせずに」(道歌)ということですから布教活動のようなことは考えていらっしゃらなかったと思います。
「その宇宙は一つのものから分れてできていて、宇宙全体が一つの家族の様に和合し、平和の極致を表現しております。こうした宇宙観から出発している合気道は全く愛の武道でなければならないということです」(合氣道p.199)
「みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります」(武産合氣p.128)
「その目標に想いを定めることによって自己を造り、自己を導くのです」(武産合氣p.98)
「それが社会の上なれば、自分の宇宙にすべて吸収してまた社会を神の気(愛の氣)で浄めるということになります」(武産合氣p.82)

まず自分自身が万有愛護の心に一致出来るように浄めれば、次にそれが必ず相手に伝わるということを前提にしての「戸ごとに」という言葉だったと思います。「言ぶれ(宣伝)」はしませんが、そのような心が伝わり、お互いに思いやりの気持ちが持てる世の中になれば、「戸ごとに」が達成されると考えます。
「自らの(相手に勝とうという)邪気や欲心を払い、禊(みそぎ)して清明心(きよきあかきこころ)に立直(たてなお)し、神の大精神たる宇宙の秩序に神習い、その大愛の心に神人合一するのが、日本の太古よりの武という本義としての御教示であります」(伝承のともしびp.77)
「祈る折りには、自我はなく、あらゆる執着も去って光となる。・・・自分も大宇宙のみ光の中に住んでいるように感得する。・・・自分がこうなれるからといって、人に一度にそうなれとは望まない。また私は特別に人よりすぐれているとは思っていない。ただこのような境涯にすめるようになったからには、人々の下になり、下僕となって奉仕の道を進むことが出来ると思う」(武産合氣p.47)

合気道が「惟神(かんながら)の道」であることは道歌で合気にかかる枕詞のように「かんながら」が使われていることからも分かります。「惟神」とは神の御心(万有愛護の心)のままにという意味で、「天地の真象(神の律法)に倣うという事である。又、大自然、或いは真理(不変の法則)のままと云ふ事」(出口王仁三郎)です。
合気道は、また、「皇武」即ち「神の武道」でもあります。

ここまで読まれたら、それが「愛の武道」であることを素直に受け入れられることでしょう。そして、合気道には使命があることも。
「万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にはありません」(武産合氣p.140)
日頃の稽古が、相手を制して、相手を崩してとならないように、相手との接点に意識を集中するというとにもならないように願っています。
posted by 八千代合気会 at 20:02| 日記

2011年09月01日

伝承のともしび 合氣道開祖・植芝盛平の教え

五月女貢(みつぎ)先生が著者で、2011年6月に出版されました。五月女貢先生は、17歳で合気道を始め、23歳(1961年)の時に内弟子になられた方です。八千代合気会の会員である高橋さんの学生時代の師範で、現在、アメリカを中心に活躍されています。

私は、開祖は人を見て法を説かれる方であったと思っています。他の内弟子の方がどうであったかは分かりませんが、五月女先生に対しては、開祖が「なぜこのわしの教えることを筆記しようとしないのだ。油断するな。君ら内弟子たる者が身近におって、このわしの話や教えというものを書き残し、記録しなければ、将来と後世にこの植芝の教えや心というものを誰が伝えるのだ! これからは努めて記録するように。それが必ず君らの修業の糧となるであろう。そして、君たちにおいては武術の修業ばかりでなく、油断なく古今の聖賢の教えを尋ね、努めて心の修業と養成を自己の成長に課すことが大切である」と諭されていますので、五月女先生の性格や態度を見て、後世に伝えたいことを託されたのだと思います。この本を読んで、「開祖の話は難しくて理解出来ない」「理解出来なくても、技の稽古をしていれば合気道は上手になる」と考えることは危険であると、ますます強く思うようになりました。
また、『合氣道探求 第42号』(平成23年7月発行)の栗田豊師範のお話に「本部道場の内弟子として入って1、2年経ったころのこと『わしの言うことを書いてみろ』と大先生に言われました。そこで、大先生のお話しになられたことを、大学ノート3冊に、日々、書き留めていきました。しばらくして、『栗田、読んでごらん』と言われるので読み上げると、『違う、違う。焼き捨てなさい』と言われました。私は命じられたままに焼き捨てました。けれども私は、大先生の言われたことをそのままに書いたつもりです。後になって悟りました。実は、大先生は常に進んでおられ、日々新たなものに変わっていっているのに、それについていけなかったのです」とあることから、言葉を残す務めは五月女先生に託されたのではないでしょうか。
村重有利先生は、技を教えても「書き留めてはいけない、忘れなさい」という教えでしたから、開祖のお話も書き留めた人はいないのかと思っていましたが、そうではなかったようです。

「はじめに」に、「この小著『伝承のともしび 合氣道開祖・植芝盛平の教え』は、私の記憶している大先生の言葉と多くの講和の中から、合氣道開祖のメッセージをたくさん折り込み合氣道の人々に理解してほしいと希望し、試みました」とありますが、『合気神髄』や『武産合氣』にはない、広く社会、人生のことについての話が出てくるので、発行元のどう出版に確認しましたが、五月女先生が、開祖が話されたことを聞いたとおりに記録したものですとの返事でした。

中表紙の裏に「本書を合氣道開祖の御霊と世界の合氣道修業者に捧げる」と書かれています。これは、『合気神髄』や『武産合氣』にこの本を加え、開祖の求めたるところを求めるための手掛かりにしなさいということだと思います。この本は『合気神髄』や『武産合氣』程には難しい神道の言葉が少ないので、開祖の言葉を理解する橋渡し的なものになるかもしれません。

「1964年4月7日、今でもはっきり記憶しているが、午前4時頃に、自分のアパートの一室で不思議な体験をした。このことについて、大先生に申し上げたのであるが、その時に先生は、ある時期が来るまで他人には話さないほうがよい。誤解されないためにも内緒にしておきなさいと忠告された」という辺りを読んで、開祖は確かに特殊な能力の持ち主であったと思いました。この話から、開祖は、誤解されないため人に話されなかったことも多かったのではないかと思います。

最近は八千代の会員の中から開祖の言葉について質問が出るようになって来たので、私も励みになっています。それで、この本も何回も読んで理解し、引用させていただきたいと思います。

比礼振りに「バイブレーション」「霊波」と注記がありますが、五月女先生の理解だと思います。先述の栗田先生は天の浮橋を「右脳と左脳の架け橋」と理解されたとのことで、人の探究、理解の深さによって、見えてくるものが違ってくるようです。開祖について、「私が知っている大先生は、これが絶対に正しいと教えませんでした。大先生は『この植芝はいまだに修業中であり、今日より明日は向上しているでしょう。私は一生が修業です』と言い続けながら、私たちに教示しておりました」ということですから、私たちも少しずつでも真理に近づく努力を続けたいと思います。

この本は、季刊『道』に連載されている「伝承のともしび」の2006年〜2009年分をまとめ直したものです。連載は今も続いているので、更に続刊が出ることも考えらえます。
posted by 八千代合気会 at 23:36| お勧めの本