2012年11月30日

天の浮橋(4)

前述のとおり「合気道はどうしても『天之浮橋に立たして』の天の浮橋に立たなければなりません」(『武産合氣』p.29)とか「この道は、天の浮橋に立たなければならないのです。天の浮橋に立たねば合気は出て来ないのであります。(略)この合気も、また天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。これを武産合気といいます」(『合気神髄』pp.26-27)という程に重要なもので、これを水火(いき)の力、結びの力、呼吸力の働きの土台と解きました。

開祖の合気道を特徴付けているものに、この呼吸力と相手の気を感じるという2つのものがあると思います。
後者の「相手の気を感じる」ということについても、道歌の
日地月 合気になりし橋の上 大海原は山彦の道
が、お話の中で「とにかく宇宙の営みの霊波のひゞきをよく感得することです」(『武産合氣』p.135)の説明に使われていることから、天の浮橋という概念に含まれているか、関連付けられていると思います。

開祖から直接、天の浮橋の秘伝を伝えられた野中日文氏は、「『天の浮橋』とは植芝初代が晩年に到達した言霊学の秘境だが、要するに武術の鉄則である『先手必勝』を極点まできわめた間合いの心得と思えばよい。この位置にいれば相手には反撃の余地はない。つまりこっちが必ず勝つ。筆者は開祖に口伝の形で『天の浮橋』を伝えられた。間合いの心得だった」と述べられています。
また、坪井香譲氏は、「もう、50年にもなるが、私が20歳台のときに、強い弱いの武道にはほとんど興味がないのに、10代の時に私に起ったあることが理由で道場に通い出したある時、翁は、ふと何気なく、『天の浮橋に立って眺めれば、みんなわしの孫の孫じゃ』と、見た人なら忘れられない、実に魅力的な愛嬌のある笑顔をしながらも半ばいたずらっ子のような表情で言ったことがある」と伝えられています。
「天の浮橋」を野中氏は「間合い」、坪井氏は「『浮身』に通じる立ち方、構え方、運足法」と説明されていますが、私は、「勝速日」という言葉で開祖が説明されている時間的な間合い(このような表現方法が許されるなら)で、相手の気を感じることではないかと思います。
「私は宇宙と一つなのです。私には何物もない。立てば相手は吸収されてしまうのです。植芝の合気道には時間もない空間もない、宇宙そのままがあるだけなのです。これを勝速日といいます」(『武産合氣』p.191)と言われる時の「私は宇宙と一つなのです」が「天の浮橋に立つこと」と同義と思う故です。

野中氏の話にあるように、「天の浮橋」の概念化が完成したのは、「生産霊、足産霊、玉留産霊の三元」と同じで、晩年のことのようです。

昭和13年(1938)に出された『武道』には、「夫れ技は水火の眞妙を出し 天地の道又皇道精神を畫(えが)き 其業は言魂の妙用を示し 理は世界万有の教導となり 世界万有を和し 天地神人合一和合たり。其徳は光となり熱となり 両者天地人合気のみつるぎとなり 時に乗じては天地の理より来る邪気を天地人共につるぎの道にて常に悪魔を切り払ひ 美しく世を清むるの道と思考す」と書かれていますが、「天の浮橋」という言葉での言及はありません。
勿論、昭和8年(1933)の『武道練習』にもありません。
それぞれの本の中に示されている道歌にも「天の浮橋」や「橋の上」を歌ったものはありません。

昭和20年(1945)の敗戦後、白い幽体との稽古をされていますが、その時のことを「私は自己のうちに天台をつくり、自己が天地と宇宙と常に交流するように心がけた」(『合気神髄』p.14)と話されている「天台」が概念的に「天の浮橋」と同じものです。この天台は、「水火の精台」(『合気神髄』p.77)や「水精火台」(『武産合氣』p.44)と同じ意味です。この頃、「天の浮橋」という概念が合気道の理合いと結びついて明確になってきたのではないでしょうか。

昭和23年(1948)の財団法人上申書に、「そもそも合気道とは、大自然界の生物相互愛の雰囲気(註 万有愛護)に法(のっと)って、体を三面に象(かたど)り、『之を放てば六合(りくごう、宇宙)にわたり、之を巻けば退いて密に蔵(かく)る』という中道(中庸)の理にも適(かな)ひ、天地に融合する心身の保健、加害に対する護身の技術でもありまして護れば一つの球(註 ○)となり、展(ひら)けば四角(註 □)となり、構えては錐(すい、註 △)となり、動いては繭(まゆ)型(註 ∞)となり、縮みては珠玉となり真に千変万化名状することが出来ません」(『合気道一路』p.102)や「其の運動操作の極に達する点に於ては心も空、身も亦空、実に真空妙有の極地に至れるものでありまして、心身の爽快なことは、所謂(いわゆる)「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮(きわ)む」と言う心境も味わい得るのであります」(『合気道一路』p.103)と書かれており、三元や天の浮橋(真空妙有の極地)について触れられているようです。

昭和25年(1950)の『合気会報』3号に、「大八洲は、島生み国生みの順序に従って、之を斉(きよめ)つつ道を歩むのであります。
西北(乾)は物と心の始り、西と東北(艮)はこれに順じて三位一体になります。
おかぐらの斉めの図は、二輯からつづきます。
物は女(つるぎ)
心は男(やり)
右足国常建神(くにとこたてのかみ、女神)を中心にして始まります。
左足を軽く天降りの第一歩として、左足を天、右足を地とつき、受ける事になります。
之が武産(たけむす)合気の「うぶす」の社(やしろ)の構えであります。天地の和合を素直に受けたたとえ。之が天の浮橋であります。片寄りがない分です。之より八尋殿(やひろどのとは、気体と(補足 気体とが)正しく打ち揃う斎場の真を見立て、神定め給う処、また建国のみ働きの真を云う)と大神様の目的たる処の大宇宙のみ心、み姿の動きを生み経綸(けいりん)のもと、武は物と心を生むものであります。
武は物と心が満足りたる為の力を喰い入り、喰い込み、喰い止めて、光と熱と力が充実し発揮するものであります。・・・
魄を脱して魂に入れば、
左は正勝−豊雲野神(男神)
右は吾勝−国常建神(女神)
勝速日の基、左右一つに業の実を生み出します」(『合気道一路』pp.171-173)と書かれていて、文書になっているものでは恐らく初めて「天の浮橋」という言葉が出て来ます。

合気道新聞では、昭和35年(1960)10月10日号(第19号)に、「日月は合気になりし橋の上 大海原は山彦の道」という道歌が出ています。

言霊学者の小笠原孝次氏が、「植芝盛平氏が筆者に斯う云った『合気道は伊耶那岐神、伊耶那美神の天の浮橋の神わざである。私はこれを日本の武道の精髄として世界に示す。言霊布斗麻邇は同じく岐美二神の神わざである。小笠原君はこれを神道の理論として開顕する。形と霊、肉体と心と云ふあらはし方の異いはあるが、両者は一つのことの裏と表だ。私は学問は不得手だから、そっちの方は貴方にお任せする、提携呼応して行こう。
古来日本の武道は何れも絶対の立場に立っている。禅が背景であったためであろう。柳生の剣も、宮本武蔵の剣も、対立を絶した不動明王の剣の姿は出なかったのではあるまいか、峻厳な彼らの生活態度の上からそのように想像される。剣は権であった。その権は時の権力に結び付いた。この武道の絶対性を乗り越えて主格相対の関係として、無骨な武道を優雅な舞踊の境域まで高めて、武道即神道を唱道した植芝翁の功績は大きい。武道に於けるアインシュタイン的転換である。
植芝氏と筆者の因縁は大本教に端を発する。昭和の初め筆者に竹内歴史と天理教大本教の予言を教えて呉れたのは海軍大佐矢野祐太郎氏で、神秘的な奇怪な書『神道密書』は矢野氏の口授を筆者が文章に編纂したものである。その矢野氏が大連の特殊機関長だった頃、紅卍会との提携を図った大本教の出口王仁三郎氏の蒙古旅行の便宜を図った。その時出口氏の護衛として一行に加わっていたのが武芸者植芝氏で、出口京太郎著『出口王仁三郎伝』にこの話しが載っている。戦争中白鳥敏夫氏の紹介で初めて植芝氏にお目にかかって以来、合気道の動きに注目して来た」(『第三文明研究』59号、昭和45年9月)と書かれていることから、戦争中から戦後の昭和23年か25年頃までの間に概念化されたものと思います。

武産合気の神示が降りたのが昭和17年(1942)なので、昭和20年(1945)頃に「天台」として考えていたものを昭和23年か25年頃までに「天の浮橋」としてまとめ上げ、「この合気も、また天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。これを武産合気といいます」という関連付けがなされたものと思われます。

昭和44年(1969)1月15日の鏡開き式で、「合気道は気の御業(みわざ)であります。言霊の妙用であります。宇宙組織の魂のひびきであります。万有ことごとくを産みなし、むすびなしてゆく道であります。わたしはいま『天の浮橋』に立ち、世界人類の大和大愛を希いつつ神楽舞い昇り、舞いくだろうと思います」と話されたのが最後だと思いますが、天の浮橋に立つということは、地上天国建設(島生み、国生み)と結びついた大変重要な概念になっています。
posted by 八千代合気会 at 23:45| 日記

2012年11月15日

凶悪犯から身を守る本

サンフォード・ストロング氏が著者で、玉置悟氏の翻訳で、平成17年(2005)9月に毎日新聞社から出版されました。副題は『あなたと、あなたの家族のための読むサバイバル・トレーニング』です。

「読者のみなさんへ」という注意書きがあり、「本書の中で示されている方法やアドバイスは、すべて著者が長年警察で暴力犯罪担当者として仕事をし、犯罪被害者とも語り合った個人的な体験をもとに書かれたものです。犯罪、とりわけ暴力犯罪というのは予測がつかない展開になることが多く、どのような状況のもとであれ犯人の行動が予測した通りになるとは限りません。したがって、著者の考えに基づいて行動する場合には十分な注意が必要です」と書かれています。
そのことを了解した上で、実際にそのような状況に遭遇した時の対処の仕方を予め考えておくことが、武道を嗜む人の心構えとして必要だと思います。

「はじめに」に、「かつて、暴力犯罪の被害に遭わないようにするには、危ない場所に近づかなければ十分でした。しかし、今やそんなことも言っていられない時代になりました。
今日の暴力犯罪は、いつどこで何が起きるかわかりません。思いもかけない時に閑静な住宅街で殺人が起きたり、高級ショッピング街の店が強盗に襲われたりすることも、もはや珍しくはありません。犯行そのものも以前よりずっと大胆で、はるかに残虐になってきています。しかも、今や凶悪事件が起きることに関しては都会でも田舎でも変わりはありません。犯罪の傾向を分析する社会学者は『犯罪を働く者の年齢はつぎの十年間にますます下がり、犯行はさらに残虐になっていくだろう』と分析しています。
私たちが今日直面しつつある凶悪犯は、昔は存在しなかったような新しいタイプの犯罪者たちです。彼らはいとも簡単に大胆な犯行に及び、他人の命に対して驚くほど無関心です。そういう犯人に襲われた時、被害者は一つの冷酷な事実に直面するでしょう。その事実とは、『襲われた人が助かるかどうかは、最初の数秒間に本人がどう行動するかにかかっている』ということです」と書かれています。

暴力犯罪に対して効果のないこととして、「防犯具(催涙スプレー、携帯式防犯ベル)を持つ」、「武道を習う」、「女性のための護身術(を習う)」、「何もしないでいる(抵抗しない)」が挙げられています。
武道と護身術について、武道の国際殿堂入りしているデービッド・ダイ氏(30年間市警勤務、空手八段)の次の言葉を引用しています。
「武道というのは、長い年月をかけて修錬した自己鍛錬そのものと言っていいでしょう。黒帯を取るには、汗まみれの練習が何年も必要ですからね。短時間に簡単にできることを求める人には、武道は向いていませんね。現代の凶悪犯から身を守るための方法と武道は本質的に異なります。というのは、拳法は17、8世紀頃に発達したものですが、現代の凶悪犯罪では、使われる凶器や犯人の行動パターンなどの状況が当時とはまったく違うからです。・・・暴力犯から効果的に身を守るには、現実的な犯罪のシナリオをもとにしたトレーニングが必要になります。生徒たちが現実の犯罪に巻き込まれた時に、その心理的なストレスとプレッシャーのもとで訓練を思い出すことができるようにするには、可能な限り現実と同じような状況を作ってトレーニングしなければなりません。・・・道場内の稽古というのは、ルールも秩序もある環境のなかでの練習ですが、現実の犯罪が起きる時にはそういうものはいっさいないのですから、それに対処する方法も当然変わってくるのです」

逆に、凶悪犯罪に対して効果がある大切なことは、「生き延びるための正しい心構えを持つ」ということに尽きる、と述べています。その心構えは、最悪の事態が起きた時に「すべきこと」と「してはいけないこと」を前もって決めておくことである、とのことです。そして、実際に危機に直面した時、その瞬間に訪れる最初の重大事は、つぎの瞬間に「犯人が何をするか」ではなく、「自分が何をするか」です、と教えています。

「殺されないための四つの鉄則」として示されているのは次のとおりです。
@ ただちに行動せよ
ケガをすることは、凶悪犯から逃げるために支払わなくてはならない対価なのだ、という事実を受け入れる。
どうやって逃げるかを普段からビジュアライズしておくことにより、恐怖を乗り越える心構えを作っておく。
ベストチャンスは、最初の数秒間にある。
A 抵抗せよ
ケガをすることを恐れず、抵抗する(犯人の言う通りにしても、事態は好転しない)。抵抗することによって逃げるチャンスが与えられる。
B 犯罪の第二現場はさらに危険になる
もし、犯人に連れ去られたら、その第二現場は、事件が発生した第一現場よりさらに人目につかないところになる。
C 絶対にあきらめない
たとえ重傷を負っても、精神力があれば生き続けることができるが、精神力が尽きたら、命が尽きる。

刑法での凶悪犯は、殺人、強盗、放火、強姦ですが、凶器を持った犯人に出くわしたら、「直ちに全速力で走って、危険から遠ざかる」ことが最も確実な方法とのことです。相手が凶器を持っていない場合には、「目をえぐる(五本の指を使い、満身の力を込めて相手の目の中に突っ込む、目とのどを攻撃)」、「噛みつく(相手の頬でも、鼻でも唇でも首でもいい)」が効果的であったとのことです。

南アフリカのダーバンで、昼閨A二人の日本人が歩いていて、後ろからナイフを突きつけられた事件がありました。後で被害に遭った人から聞きましたが、その時、一人の人は、直ぐに、一目散に逃げたそうです。その時は友達を見捨てるなんて、と思いましたが、この本で、このような場合、逃げることが正解だとわかりました。なお、逃げ遅れた人は、腕時計を取り上げられそうになったが、腕から外せなかったので、幸い実質的な被害はなかったそうです。

襲われている人を助けなければならないことがあるかもしれませんが、次の三つの要点が挙げられています。
@ 犯人との距離を保つ
A 犯人から目を離さない
B 犯人に心理的プレッシャーをかけ続ける
どんな状況のもとでも、直接介入するのは危険なので、直ちに警察に通報して、犯人には近づかないというのが鉄則だと述べられています。

この本には、実際に起こった強姦(レイプ)、繁華街でドライバー襲撃、路上強盗、少女誘拐(性犯罪目的)、路上での発砲、車で拉致、殺人、レストランでの無差別殺人、レストランの強盗・殺傷、アパート襲撃等の凶悪犯罪と、その時にどのように対処したかが書かれていて、心構えを作る上で役立つと思います。
著者は、パトカーに乗っていて火炎ビンを投げつけられたことがあったそうですが、その時、警察学校で教えられたことが役に立ったと述べています。
もし、車に火がついたら、三つの選択肢と1秒の時間しかないそうです。その一は、「そのまま何もせずに車のなかに座っている」、その二は、「素早くドアを開けて飛び出す」、その三は、「全速力で車を走らせる」ですが、さて、どれが正解か分かりますか?
posted by 八千代合気会 at 10:33| お勧めの本

2012年11月06日

天の浮橋(3)

「天の浮橋とは、火と水の十字の姿である」(『武産合氣』p.48)ということは、神人合一(宇宙即我、心身統一)の姿です。
「この合気の技の生み出しは、悉く天ノ浮橋がもとになっている」(『武産合氣』pp.133-134)の「技の生み出し」と、「人は地球修理固成するときに、天の浮橋に立たされるのでありますが、それがすべての発兆です」(『合気神髄』p.66)や「心身の統一は進んで、業の発兆の土台となり、念で業が無限に発兆する」(『合気神髄』p.104)の「発兆」「発兆の土台」とは同じ意味で、「呼吸力」の働きを指していることが分かってきます。それで、「合気道はどうしても『天之浮橋に立たして』の天の浮橋に立たなければなりません。・・・またほかに何がなくとも、浮橋に立たねばならないのです」(『武産合氣』p.29)と言われるのです。

この「呼吸力」は、「心身統一をして、それからさらに進んで、そして技の発兆の土台となる。それは念で技が無限に発兆するのである。・・・この念で正しい稽古を積まなくてはいけない」(『合気神髄』pp.174-175)とのことから、「念力の大橋」(『武産合氣』p.134)に関連した「愛の念力(念彼観音力)」(『武産合氣』p.128)と同じ意味です。

「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである。・・・敵が、『宇宙そのものである私』とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。・・・合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。・・・だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武とはいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである」(『武産合氣』p.13-14)は、観念的な話でもあり、「武技を争って」ということから実際的な話でもあります。その実際面が「呼吸力」そのものの説明となっています。
合気道の技で「争う」部分は相手が掴んでいる部分、触れている部分(接点)になりますが、その部分で争いがなくなる、即ちその部分に力が加わらないのが開祖の「呼吸力」です。それで「植芝先生の二ヶ条は、やられた我々には痛いという感じはありませんでした。しかし、知らないうちに、カクーンと崩されるのです。手首の痛さではなくて、力が全部、腰と膝にくる感じでした」(塩田剛三著『合気道修行』)とか、「大先生に投げられると、身体の中心に力が加わるんです。普通だと投げられるとボールが弾むような感じになるのですが、大先生だけは潰れるように倒される。あれはとても不思議でした」(『開祖の横顔』)いうふうに感じます。

開祖のような「呼吸力」は中々身につけられないようで、昭和30年(1955)の初の一般公開演武会で、弟子たちの演武を公開することに対して「あんな連中に演武させるなんてもってのほかじゃ。わしの合気道が誤解されてしまう」(『合気道一路』)という開祖の反対は、そんなところから出たものでしょう。
 
「『ウ』は浮にして縦をなし、『ハ』は橋にして横をなし、二つ結んで十字、ウキハシして縦横をなす。その浮橋にたたなして合気を産み出す。これを武産合気といいます。今までは形と形との物のすれ合いが武道でありましたが、それを土台としてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる。自分に愛の心が無かったら万有愛護の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいかぬ。無抵抗主義、これこそ霊界の処理法であり、念彼(ねんぴ)観音力と申します。武の極意に形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります」(『合気神髄』P.129)から、触れる(形と形との物のすれ合い)ということではありません。それで、念(イメージ)で相手の腰や膝、相手の身体の中心などを想っても、開祖の技のような感じは出て来ません。そのようなイメージも、開祖の話されている天の浮橋のイメージとは違うからでしょう。

前述のように、開祖は写真のような「神楽舞」を天の浮橋に立つために舞われたようですので、この辺りにヒントがあると思います。開祖の神楽舞は、天の浮橋に立つ所作をされるので「天神楽(あめのかぐら)」とも呼ばれています。

神楽舞.jpg

「神楽舞の始めは『天の浮橋に立たして』という。水火のむすびであります。天の浮橋に立つことになる。五井先生(白光真宏会 開祖)のようなお方は、立てばそこが即ち天の浮橋であり、天の浮橋に立つことになる。しかし、ご修行の足らん人は、導かねばならないので、そのお導きのために形を一寸お見せします」(『武産合氣』p.187)
「オーム、オーと引きのばされた言霊がひびき、杖をささげもった植芝先生のお体が二回、三回とまわります。いよいよ神楽舞が始まりました。神楽舞といっても、神社などでとり行われるたぐいの舞ではなく、杖の動き、お体の動きはそのまま合気のわざとなっています。『これが天の浮橋です。オの言霊とウの言霊(オーム、オー)です。これは日本では誰もやっていません。私はいつもやっています。これは物のはじまりであります』 植芝先生は説明を加えられながら、言霊とともに神楽舞の一つ一つの形を舞われていかれました」(『武産合氣』pp.188-189)
posted by 八千代合気会 at 02:03| 日記

2012年11月01日

合気道一路

植芝吉祥丸二代道主が著者で、平成7年(1995)10月に出版芸術社から出版されました。副題は『戦後合気道発展の風と雲』で、『合気道開祖 植芝盛平伝』の続編と考えてよい本です。平成7年春の叙勲で、吉祥丸道主が、勲三等瑞宝章を受章されたことを記念して発刊された本でもあります。
加来耕三、森山武両氏が編集協力をされていて、戦後の合気道の歴史書として信頼できる本になっています。

「はじめに」に、「なるほど、試合をして、強弱の順番を定めれば、ピラミッド型の組織は造りやすいかもしれません。組織の中で対立する意見が出ても、強者がその実績で下位者を押えることもたやすいでしょう。それで一応、整然としている武道・団体も存在しています。しかし、逆に見れば、常に強者を目指しての戦いが前提として起こるわけで、自己の人格完成を目指そうという、高邁(こうまい)な武道の理念からは遠のく恐れがあります。いたずらに力に頼り、技を誇り、他人と相対して勝負を争う――そうした覇道ではなく、むしろ相手と相和して互いに切磋琢磨(せっさたくま)を図り、自己の人格を磨くことこそ、武道の王道といえるのではないでしょうか」と書かれています。この考えは、人生の目的に関わることで、吉祥丸道主が、この姿勢を貫き通されたことに改めて頭が下がります。「無為に為す」という言葉を信条にされた吉祥丸道主あったればこそ、と思います。なお、この「無為に為す」は「正道(王道、天道)を歩む」という意味に受け取って良いと思います。

吉祥丸道主は、生前、折に触れて「中心」の大切さを説かれましたが、「それは即ち、中心を明らかにするということでした。創始者を知らしめると同時に、その哲理をこそ正しく普及せねば、合気道は完璧とはいえない、と考えてきたのです」という箇所を読み、「創始者(開祖)」と「合気道の哲理」のことだった、と再認識しました。
吉祥丸道主が、父親である開祖に抱いていた感情は複雑であったと思います。同じ頁に、「これは・・・、対応処置として周到な父が考えたものでした」と「父の行動は、いつも閃(ひらめ)きによって行われました」と、まったく正反対と思われる人物像が示されていることから、そのように感じました。このような開祖の下で育ったことが、逆にぶれない性格を築き上げたのではないかと思います。また、母親の性格をそのまま受け継がれたようにも思います。
人もしっかり見ておられます。「合気道は試合がないため、えてして<天狗の集まり>になりがちです。強弱・順位が客観的にわからないので無理はありません」という言葉を読んで、私も自分を見つめ直したいと思いました。

「併せて、今まで公開されてこなかった記録や、あまり知られることのなかった文献につきまして、整理のつきましたもの――たとえば、開祖・植芝盛平の口述記録や、『合気道新聞』の古い号の記事など――も、多数、再録・掲載しました」とあり、昭和23年(1948)の財団法人『合気会』認可申請の上申書、昭和25年(1950)の『合気会報』、昭和34年(1959)以降の『合気道新聞』に掲載された文章や道文が抜粋されていて、史料として大変貴重なものになっています。

巻末に「合気道年譜」がまとめられています。
この年譜で、皇武館道場の道場開きは昭和6年(1931)3月になっていますが、『合気道本部道場創建80周年 合気会財団設立認可80周年』記念祝賀会で頂いた『合気道・合気会の歩み』では4月と書かれています。
合気神社の建立は昭和18年(1943)となっていて、合気神社の立札(由来記)も同様に書き改められていますが、本文中では、「岩間の合気神社は、昭和18年から翌19年にかけて神殿が落成しました」(p.26)となっています。
一応、新しい方を正しいとしておきます。

その他、「日常建神」(p.172)は「国常建神」の、「戦前に父が人に書かせたもの、また開祖としてまとめた『武道練習』の二冊があっただけです。とくに後者は、賀陽宮(かやのみや)様から、是非とも植芝のやっている武道の内容を本にしてほしい、とのご依頼があり、小数部作られた・・・」(p.180)の『武道練習』は『武道』の間違いです。読んでいて混乱したので、付記します。
posted by 八千代合気会 at 17:41| お勧めの本