2014年01月14日

天の浮橋(9)

新たな年を迎えました。
私がまとめた『開祖の教え 天の浮橋』をお読みいただいた先達の方から「開祖の研究に打ち込まれている姿勢に頭が下がります。後進のために、このような貴重な資料は大変に重要です」というお言葉をいただきました。改めて、自分の頭が働いている内に後進のために開祖の教えをより分かり易くして行きたいと思いましたが、私自身、開祖を知ることを一つの楽しみにして行きたいと思います。

心の中をフローにする言葉を考えてみました。口にする言葉、心の中でつぶやく言葉を選ぶことは大切なことです。
「難しい、とても自分には出来ない」ではなく「面白そうだ(不思議だ)、やってみよう」、
「また、上手く出来なかった」ではなく「どうして出来なかったのだろう、出来るはずなのに」、
「もうこれ以上はダメ、出来ない」ではなく「ここからが頑張りどころだ、出来たらスゴイ」、
「ああ、疲れた」ではなく「よく頑張った」
こんなことを考えていると、開祖が難しいお話をされてから弟子の方に「分かるか?」と問われた時、必ず「ハイ!」と答えられた意味が分かってきます。「難しくて分かりません」と答えたら「頭が悪い」と開祖に叱られるからということではなく、「分かりません」ではいつまで経っても分からないままにしてしまうから口にしてはいけないのです。
東京ディズニーランドに行った時、あるアトラクションの中で「絶対に出来ないとは絶対に言わない」という言葉に出会いました。合気道は絶対に出来ないものではなく、誰にでも出来るというのが売りです。

開祖の後に続く人はいいとこ取りが出来るアドバンテージがあります。羽生名人の言葉、「どうして若い人のほうが、斬新な発想ができるのか−。それは、明確な割り切り、いいとこ取りができるからではないかと思っている。思い入れが生じてしまうと、いいとこ取りはできない。たとえば、『十年間かけてこの形をマスターした』『この手で勝ち抜いた』などといった思い入れがあると、それを切り捨てることはできなくなる」からその思いを強くしました。いいとこ取りが出来る道が開かれているのです。それなのに「合気道は難しい」と言い、「難しいから素晴らしいのだ」などと正当化してはいけないと思います。

今年の本部道場の鏡開き式で、多田宏師範が、「明るく、朗らかに、伸び伸びと、丁寧に行う」というお話をされました。開祖は、初対面で、当時、学生であった多田師範に「植芝でございます」と丁寧にご挨拶をされ、稽古では「申し上げます」と言われて、7人ほどの稽古生一人一人を相手にされて投げて行かれたそうです。そのような開祖が遺された道文を読む時も、自分に対して開祖が「申し上げます」と言われて丁寧に教えられていると考えて、謙虚に対したいものだと思います。

心の状態をフローに保つため、無欲になることも必要なことです。これは道徳的、倫理的な意味の金銭や権力に対して恬淡であれということだけではないようです。もっと深い心の状態をいっています。
「一つの道を貫くためには、他のことには無欲になって進まねばなりません。無欲になった時こそ絶対の自由となるのです」(『合気神髄』p.49)
「私は人間を相手にしていないのです。では誰れを相手にしているのか。強いていえば神さまを相手にしているのです」(『武産合気』p.74)
無欲になるとは、「禊」や「大愛」という言葉で表わされている状態になることだと思います。

羽生名人が、「頭が飽和状態にあるとき、そこからは何も生まれてこない。私はある程度の隙間、空っぽの部分があるときでないと、創造的な思考はもちろん、深い集中はできないと考えている。深く集中するためには、体力を使う。知的な思考活動をしているときには前頭葉を使い、非常な体力を使うと聞いたことがあるが、(補足:それとは違い)ものすごく集中してしまうと、時間の観念がなくなることもある。後からふり返ってみても、どれくらい時間が経っていたかが分からない。したがってそのときのことが思い出せない。そのとき何を考えていたか、どういった道筋で結論を出したのか思い出せない。逆にいえば、自分が考えていたことを後から思い出せるようなときは、実はそれほど集中していなかったのではないかと思うのである。それが、熱中するということかもしれない」と言っている状態になること、これも「天の浮橋」に立つことです。
「祈る折りには、自我はなく、あらゆる執着も去って光となる」(『武産合気』p. 47)
「祈りは、本当に祈りがもとになり大橋となる。大橋というのは、天の浮橋のことである」(『武産合気』p. 48)

自分に正直になることも必要です。「至純」「至誠」などと表現されています。他人に嘘がつけても、自分には嘘がつけません。一つ嘘をつくと、次々と嘘をつき続けなければならず、常に自分を正当化しなければなりません。
「何にもまして自分に誠実であれ。 それを昼も夜も続けるように。 そうすれば誰にも嘘をつかずにすむ」(シェークスピア)
「合気の目的もまた、この禊を実行することにある。禊は合気であり、合気は禊から始める」(『合気神髄』p.145)

合気道の「心の鍛錬」について触れてきましたが、年末に全国柔道事故被害者の会のシンポジウムに出席して、大分県立竹田高校剣道部で起こった工藤剣太君の死亡事故の話を聞いてショックを受けました。顧問の剣道7段の教師により、平成21年(2009)年8月22日、足腰が立たなくなるまで稽古すると、1時間半にわたり水も休憩も与えず、「もう限界ですと」訴える剣太君に「演技じゃろうが」と責め続け、遂に熱中症で死なせた事故(私は過失致死事件だと思います)で、遣り切れなさを通り越して憤りを感じました。この事故についてはネットで状況がつかめると思いますので割愛します。

日本人の価値観の根底に根強く横たわっている根性論、精神論。人生は苦しみに耐えることであるという共通認識。このため、武道やスポーツで敢えて自分を窮地に追い込んで苦しめ、指導者も鍛えてやろうという気持ちが愛情や善意に基づいていると信じている。そのような苦行ともいえる鍛錬を通過した者が指導者となって、厳しい稽古に依らなければ勝てないとか本物になれないと考えて、肉体の限界ギリギリの危険な練習を課す。そして、熱中症や急性硬膜下血腫の兆候が出ていても経験則によって自分の時は問題なかったと無視してしまう。

剣太君を死に追いやった顧問の指導法は正しくないと思う人も、暑中稽古や寒稽古の意義は是としていると思います。1994年の東京オリンピックで女子バレーボールが金メダルを獲得したのは、鬼の大松と呼ばれた大松監督流の「生命ぎりぎりのところで闘っている」から金メダル以外にないという練習法の成果であると信じ込んでいると思います。その延長線上に女子柔道の体罰問題があります。
自分はそうではないと思っている人も、「体罰」「厳しい指導」という言葉をそのまま使っている。そろそろこの考え方を見直さなければ、正しい「心の鍛錬」が見えて来ません。

1年の計を立てる正月。一生の計、人生の目的を明確にして、「人生は苦しみに耐えることである」という人生観を改めたい、人にも伝えたいと思いました。人生は喜びを得るために与えられているのです。
「合気道で宇宙の魂を磨く者は、この源(宇宙の一元の神の働き、即ち万有愛護の働き)をよく究めて、宇宙の真理にかない、宇宙の御心にかなうように、万有愛護の心をもって、世の中の生きとし、生けるものに喜びを与えるように接しなければならない。このことは、やがて己に宇宙の喜びの大声に迎えられる日がくることなのである。この喜びは合気道を稽古するものの務めの一つを完遂することになる」(『合気神髄』p.114)

最後に「体の鍛錬」について一言触れますが、これも足腰を鍛えるだけではありません。「呼吸力」というものに結びついた「体の鍛錬」です。したがって、「触れ」とか「結び」とかいわれている感覚がどのようなイメージに依っているか知り、それを言葉で表現出来るようになるまで行う必要があります。
「心と肉体とを一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる」(『合気神髄』p.177)ということなので、心や気と肉体とを結びつけて考えなければなりません。単なる「心身統一」「精神集中」「リラックス」「タイミング」などで片付けないで、「心の持ちよう」(『合気神髄』p.67)をどうしているかを吟味して欲しいものです。

力学的に説明すれば、自分が動かそうとして力を出す位置(力点)が相手との接点(作用点)であってはならないということに尽きると思います。「筋運動の原則」というものがあって、「筋肉はある閾値(レベル)を超える強い力(緊張、圧迫)を受けると、錐体外路系が危険を感じて(防御反射として)反対の動きを命令もしくは許可し、体が崩れたり倒れたりしないように関節を動かしてバランスを保とうとする」というものです。そのため、力点と作用点を接点に一致させると人間と同じフィギュア(姿、形)の銅像なら簡単に倒せるのに、生身の人間は重くて動かせないということが起こるのです。それを避けるために転換や入身で角度を変えたり、接点に対して触れる感覚以上に力を加えたりしない工夫をしていると思います。
「宇宙万有の活動」という言葉は、「原則」「法則」「理法」「理合」などという言葉で置き換えられます。「理を知って学ぶは一日の長あり」です。今年も、八千代合気会の稽古では「理合」を大切にしたいと思います。
posted by 八千代合気会 at 10:18| 日記