2014年03月13日

天の浮橋(10)

3月1日に八千代市青少年スポーツ指導者講習会(八千代市体育協会・八千代市小中学校体育連盟主催)が開かれ、順天堂大学女子バレーボール部の宮崎和一(かずいち)監督からお話を伺いました。テーマは「子どものやる気を育てるスポーツ指導」でした。その中で指導者が指導に当たって参考にしているもののトップが「自分のスポーツ経験」であるという統計が示されました。
合気道などの武道の指導も「自分の経験」を拠り所にしていることが多いと思いますが、宮崎監督の発表された内容は、監督ご自身の経験だけでなく、よくここまで研究されていると驚くほどの最先端と思える科学的な指導法でした。この講習を受けて、私たちも、もっともっと指導の仕方を研究しなければならないと考えさせられました。

また、宮崎監督は、このブログで取り上げたことがある辻秀一先生の言葉を引用されていました。

「目的地が決まっていなければ、どんなに頑張ってオールを漕いでも、船はどこにも着きません。しかし、実際にはオールを漕ぐこと、プレーしたことからくる肉体的疲労を感じるだけで何かを達成した気分になりそれで満足してしまう選手やチームが実に多いのです」(『スラムダンク勝利学』集英社)

この言葉も心に残りました。私達の合気道の稽古も、適度の疲労の後の一杯の楽しみだけで終わらずに目的地を見定めてやりたいものだと思いました。
合気道では、開祖が「この山彦の道がわかれば合気は卒業であります」(『合気神髄』p.182)と言われているので、「山彦の道」が一つの目的地だと考えて良いでしょう。
この「山彦の道」は、次の道歌から「天の浮橋に立つ」ことで体得できるものであるようです。

「天地人 和楽の道の合気道 大海原に行けるやまびこ」
「日地月 合気になり橋の上 大海原は山彦の道」

この「山彦の道」は、「相手が歩いてくる。相手を見るのじゃない。ひびきによって全部読みとってしまう。(略)合気は相手がきたらスパーといく。今ここに相手がくる。坐って立とうとすると必ず分かる」(『合気神髄』p.119)の「ひびきによって全部読みとってしまう」ということを指していると思います。この「ひびき」は「波動」であり、「気」のことです。

平成の侍と称される居合の町井勲氏が飛んでくるBB弾(直径6mm、時速154km)を斬る動画が見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=qJCrVVGhjqE (2:50〜5:00)
中学生の頃、友達と空気銃で遊んでいて、弾が竹に当たって跳ね返ったのだと憶えていますが、耳元で「ピューン」という音が通過するのを聞いたことがあります。その時にはもちろん弾などは何も見えませんでした。BB弾が空気銃の弾より遅いとしても動体視力では対応出来ないことで、町井氏も心眼だと言われていて、この目に見えないBB弾を見事に斬っています。
http://www.youtube.com/watch?v=5Xn45XRZVUw (2:36〜4:05)を見るともっと良く分かりますが、目隠しをして斬っているので、町井氏も射撃場でピストルの弾を避けた開祖と同じように気配が分かるのだと思います(開祖の逸話は火野葦平著『王者の座』、塩田剛三著『合気道修行』参照)。開祖のときには砂埃が舞い上がったということなので、弾は地面に向けて発射されたのではないかと思われますが、拳銃の弾の場合、時速1200km(初速340m/s)程だと思いますので、射撃手が引き金を引いてから0.07秒で開祖が立っていた25mの位置に到達したはずです。
私は、「ひびきによって全部読みとってしまう」とこの動画のようなことが出来るというイメージで「山彦の道」を捉えています。

この目的地に到達するための気の鍛練法、心の鍛練法について述べてきて、体の鍛練法についても少し触れました。
それで、最後に「天の浮橋(3)」で触れた「無抵抗主義」というものについてもう少し考察を加えて、この「天の浮橋」の項を閉じようと思います。「山彦の道」まで説明しきれないかもしれませんが、「無抵抗主義」にならなければ心眼が開いてこないのではないかと思う故です。

「無抵抗主義」については、「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである。・・・敵が、『宇宙そのものである私』とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。・・・合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。・・・だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武とはいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである」(『武産合氣』pp.13-14)と述べられています。また、「無抵抗主義、これこそ霊界の処理法であり、念彼(ねんぴ)観音力と申します。武の極意に形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります」(『合気神髄』p.129)ということなので、心や気、すなわちイメージや言葉(言霊)でコントロール出来ると思います。

開祖の「無抵抗主義」という言葉はガンジーからではなく大本教の出口王仁三郎聖師からだと思います。大本教では「無抵抗主義」を次のように図で示しています(図は「オニド 出口王仁三郎と霊界物語」http://onido.onisavulo.jp/modules/rssc/single_feed.php?fid=256から引用)。

無抵抗主義.jpg


開祖はこの図を頭に思い浮かべながら「無抵抗主義」を技に表されたと思いますので、この図の意味を考えてみるのが良いと思います。
この図でAは相手、Bが自分です。

「暴力による抵抗」は霊と体でいえば霊がなく体ばかりで、合気道では相手と自分の接点に物理的な力が掛かっていて、力が入った状態を表しています。開祖が魄の武道と表現されているものの一つです。

「ガンジーの無抵抗主義」は逆に霊ばかりで、物理的な力は出さず(非暴力)、精神的なものだけでコントロール(不服従)しようと思うやり方です。合気道では腕を取られた時に目を瞑り、ひたすら無念無想になろうとしている様を表しています。無念無想になって脱力すれば相手から押されても引かれても動かず、逆に相手が軽く飛んで行ってくれると信じていることに似ていますが、霊だけでは魂の武道にはなりません。

「三五教の無抵抗主義」は霊主体従(霊五、体五で霊と体のバランスが取れた「霊体統一」の状態)で、霊だけでも体だけでもありません。大本では『古事記』にある「言向け和(やわ)す」ことがこの「無抵抗主義」のやり方であると言っています。実際に王仁三郎聖師が第二次大本事件の時に裁判長と行った「虎穴問答」http://www.onitama.net/modules/ot/index.php?content_id=43が「言向け和す」の典型です。この時、王仁三郎聖師が「愛」というものについて説明していて、その概念自体が「言向け和す」ですが、この問答をすることによって王仁三郎聖師が裁判長を言向け和していることも分かると思います。大本では「刑罰を与えたり脅迫したりして暴力的な方法で人々を改心させるのではなく、善言美詞(ぜんげんびし)の言霊(ことたま)で言向け和す、という方法で改心に導くのが三五教のやり方である」と言っています。

王仁三郎聖師が示した、この「無抵抗主義」を武道に応用したのが合気道であるといわれています。
確かに、開祖が「合気道とは、言霊の妙用であり、宇宙のみそぎの大道であります」(『武産合氣』p.28)と言われる裏には「言向け和す」という概念が隠されていると思います。

次にもっと掘り下げて説明したいと思いますが、少し「三五教の無抵抗主義」の図を眺めて、合気道との関連を考えてみて下さい。
posted by 八千代合気会 at 12:48| 日記

2014年03月01日

武道的感性の高め方

空手家の柳川昌弘氏が著者で、平成22年(2010)11月にBABジャパン社から発行されました。副題は『兵法の知恵で万事に勝つ!』です。

「はじめに」の冒頭に「本書は、日本武道における感性『武道的感性』の向上を目的とし、武技の深化、相手の意図を読む、など、具体的で実践的な内容となっている」と書かれています。また、「本書を読んでゆくと、世界の宗教や占術、また予言や予知にまで話が及ぶから一見奇異の感を受けるかもしれぬ。けれども、日本文化としての武道を本当に理解しようとすれば、それらとの関係は避けて通れないのである。日本人や日本文化が、どこか日本の地面から突然湧いて出たわけではないからである」と書かれているとおり、体を動かして稽古をしている武道の範疇を超え、シンクロニシティや気から法華経や大集経(仏教)、果てはカバラ哲学(ユダヤ教)にまで及び、最後は宮本武蔵の『兵法九箇条』(武道)に戻ってくるという構成になっています。このように説かれる内容が広範囲にわたっているのは、合気道開祖が武道の真理も宗教の真理も一つであると悟られたように、これらがどこかで通底しているからだと思います。
武道のことだけに限定して分かり易くまとめて欲しいと思うより、この機会に真理の大海に船出するつもりで、興味の対象を広げられると良いと思います。

目次は次のとおりです。
第1章 武道的感性とは何か
第2章 シンクロニシティ(共時性)
第3章 呼吸と気配
第4章 見の目弱く、観の目強く
第5章 音に意識を集中する
第6章 応用トレーニング
第7章 無心・不動心を作る
第8章 武道の理と感性
第9章 宗教・占い・予知と感性
第10章 感性で読む武蔵「兵法九箇条」

読み進むと、「坐禅中の僧侶の中には、遠い山門近くに来た人が誰であるか、敏感にわかる人も少なくない」という言葉に目が留まり、これは開祖の神がかった逸話と同じだと気づきました。
著者自身も「ブラジル人の一人に組手を指導した。組手の間、彼は(が?)何か技を出そうとする度に『こう攻撃したらどうだろう』とか『こんな場合はどうなるのだろうか』とか、内容はすべて忘れたが、とにかく明瞭な日本語が独り言のように聞こえてくるのである」という体験をされたそうです。武道的感性が秀逸であった寺田宗有や白井亨の話と似ています。

「相手の意図を読む感性は、相手の動きや技の起こりを読むことより大事な能力である。なぜなら、相手の動きや技の起こり(始動)をとらえても、絶対に先手を取れるとは限らないからだ」と、武道的感性が動体視力よりも重要な能力であると強調されています。
ソチ五輪で、トップアスリート達が本番になって集中力、直感力、瞬発力を如何に発揮するかが勝敗の分かれ目になる場面がありましたが、この本で触れている武道的感性はこの中の直感力と言い換えても良いかと思います。
感性は「脱力なくしては得られない」、「正中線が、心(無意識)、技(攻防一体の動き)、体(攻防一体の捌き)のコントロールセンターとなるように鍛錬できれば」「一段と鋭くなる」と説かれています。まず、そのように意識して、体の動きと結びつけてゆくことではないかと思います。

「呼吸の停止(リラックスして)と音への集中の組み合わせこそが、感性の向上の秘訣であると断言できる」ということで、武道的感性を高めるために「呼吸停止訓練と無心(無用な理性を働かせない)」が説かれていますが、詳しくは本書を読まれると良いと思います。ここでの「無心」は「不動心」ということで、何も考えないということではありません。脳波でいえばβ波ではなくα波やθ波にすることだと理解しました。
「心としての目的意識(最終目標)」が明確になっていなければならないということも、無心になることに関係していると思います。
「音への集中が五感を磨く」とも説かれ、お寺の鐘の音を追う訓練などが紹介されていますが、天風会で行われているブザー音への集中なども同じ効果があると思います。

シンクロニシティでは、「ユングの説く個人的無意識の内容(構造)では、似た物同士の間にはシンクロニシティが働き易いという。人の意志というものがエネルギーであり、振動性(波動性)を持つとすれば、それが発信機であると共に受信機でもあるような性質が個人的無意識の性質なのだろう」と書かれ、武道的感性の場合、発信機としてよりも受信機としての働きを重要視しているように受け取りました。そこで、開祖のお話にある「六根清浄」や「禊」と同じ概念で「個人的無意識をいかにして清浄にするかにかかっている」と述べられていて、「個人的無意識のなかに、あってはならない業(煩悩障と所知障の二障と呼ぶ)と呼ぶ習性化した拘わりが入り込んでいると、各意識間の交流の障害となる」と強調されています。
シンクロニシティは共時性と訳されていますが、「共振(共鳴)」であるという意味付けがされていて、武道の「読み」がシンクロニシティの一つの型だと言っています。

「おわりに」に「本書は、日本文化の核ともいえる武道(とりわけ空手)を中心としながら、大変広い分野を貫いた内容となった。しかし、その底流にあるのは日本文化の源泉といわれている『摩訶止観』に基づくシンクロニシティに導かれた『縁』による『報』といえるだろう」と書かれていますが、本書の中で宗教的真理との共通性の説明があります。これは良く考えてみると、単なる一致やこじつけではなく、同じ深層意識や振動(波動)ということで宇宙と繋がっている(一体である)という真理があるからだと思います。

http://www4.ocn.ne.jp/~m.uno/kagakuwokoete.htm (心は実在か)に、著者や武道的感性を獲得された方々のことが載っているので参考になります。
また、https://www.youtube.com/watch?v=_vag_o-9Mas (日本武道の素晴らしさ)という動画も武道的感性を目で見ることができます。

著者は実践家なので、開祖の言葉と共通しているものを見つけることができると思います。「感性の世界には、時間の観念が明確でない」などもそうですが、そういう世界があると信じられるようになると、武道に対する取組み方も違ってくることでしょう。
posted by 八千代合気会 at 01:52| お勧めの本