2014年04月23日

天の浮橋(11)

「三五教」と書いて「あなない教」と読みます。
「あなない」は古語辞典を見ると「あななひ:高い所にのぼる足場」とあります。漢字では「麻柱」と書くほか「輔(あなな)ひ」と書き、「助けること」という意味もあります。また、王仁三郎聖師が「晴れわたる三五(あななひ)の月を眺むれば心の曇も消えうせにけり」と詠っているように、三五の月は3×5=15で十五夜の望月を表していて、三五教は穴(欠点)の無い完全無欠な教えを指しています。「この三は瑞(みず)、五は厳(いず)を象徴し、よって三五は厳と瑞の結び(産霊)、すなわち火と水に代表される相反するものの結びとしての宇宙構成の原理を意味しているのである。『三五』は「あなない」と読み、神社の鈴のひもを指しており、これはまた『天』と『地』を結ぶことを象徴している」(錦之宮神示http://hanakine.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=12475931から引用)ということなので、「天の浮橋に立つ」と同じ概念だと思います。

開祖は、「これをあなないの道という、日本精神の働きであり、武産合気というのです」(『武産合氣』p.57)と話されていて、「日本精神」即ち「大和魂(大きく和す心)」の働きで、武産合気を指す言葉とされています。
開祖の言葉から、道歌の「又しても 行き詰まるたびに思ふかな 厳(五)と瑞(三)との有難き道」は武産合気のことを詠っていることが分かります。

この「厳と瑞との有難き道」を「心身統一」「霊体一致」「陰陽一体」等と捉えると、稽古の時に手を取らせてから目を瞑って、肩を上げ下げして「ウーン」と唸ることで簡単に相手が動くと思ってしまわないか心配します。

私は、開祖が、簡単な理合を大本教で学んだ言葉で難しく表現されたとは思えないのです。むしろ、完全無欠な武道(絶対不敗の武道)を完全無欠な言葉で説明されようとして、言葉を選んでおられると思います。
「弟子というものは、師のなさることは何でも真似び(学び)、そしてやらなければならんものだ。あれはオレにはできん、それは嫌だ。これはおかしいなどの逃げ口上や批判は、口が裂けてもいうべきではない。だからわしも、聖師が書をよくされるので下手は承知で書道を稽古し、聖師が和歌や俳句を好まれるので一所懸命、歌や句をひねっとる」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p.127)と話されている方なので、歌や句だけではなく、王仁三郎聖師のように、説明される言葉の的確性もよく検討されていると思います。

王仁三郎聖師のように、ということですが、私が思うところ、王仁三郎聖師は「いろは歌」を作ったといわれる空海のように言語能力に秀でた方のようです。
それが分かる一つの例が「十二段返しの大本宣伝歌」です。これは、普通に縦に読むと、「神の在れにし竜宮の高き館を何ぞ知れ 神統べたもう後の世の綾の錦をものされて 広き天下に宣伝し 皇典古事記日本の元津仕組みを知らしめつ 世人を改心第一と説きつ語りつ照る妙の 玉の曇りを残りなく取りて世界に真なる只一厘の御稜威仰がん」ですが、4段目を右から左に順に読むと「綾部に天子を隠せり」(四段門の上流を掬いて天下の正段を知れ)、8段目を逆に読むと「今の天子偽物なり」(八段の逆くに流るる)という言葉が隠されていることが分かります(オニドhttp://onido.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=32から引用) 。

十二段返しの大本宣伝歌(上).jpg
十二段返しの大本宣伝歌(下).jpg


この宣伝歌に隠された言葉が第二次大本事件で不敬罪の証拠とされました。この意味については機会があれば触れますが、「師のなさることは何でも真似び」と言われる開祖のことですから、言葉については慎重であったと思います。
「何度も書くようだが、植芝先生は、リラックスしろなどとは一言も言わなかった。ましてや私の言う心身統一の四大原則のようなことはまったく見向きもしない」(『氣の確立』)という批判もありますが、開祖は、宇宙の真理(神の仕組み、真の合気の道)を表すに相応しい言葉を選ばれたことだと思います。「言葉には命が宿る」と信じていれば尚更です。「リラックス」では表しえない概念や働きがこの「無抵抗主義」に込められていると考えた方が良いでしょう。

大東流の合気が「相手を無抵抗にすること」といわれていて、例えば、片手取り四方投げの技で、大東流では相手の踵が浮き上がるような崩しが見られますが、合気道では必ずしもそうではありません。この時、相手(受け)には、手首を握ったという感覚がない程、取りが無抵抗になっているのが分かるはずです。これを「結び」「合わせ」「触れ」といった言葉で説明されることが多いと思います。
ただ、肉体的(物理的)な接触の強弱だけでは相手が崩れていないので、取りの動きに受けが付いて来るということは起こり得ないかもしれません。それで、受けが進んで受身を取るから技が成立しているように見えるだけだという批判があります。

開祖の合気道では、手を取らせた時に「言向け和す」ということをされているはずです。開祖の合気道は「言霊の妙用」ですから「スの言霊(造り主の愛の情動、万有愛護の心)」で、念彼観音力の「念」を使って、英語で表現すれば“onto”(ガンジーの無抵抗主義の図)ではなく“into”(三五教の無抵抗主義の図)で、相手がお臍までではなく自分の体の中心まで入って来られるよう迎え入れていると思います。正にこの図が表しているとおりだと思います。

開祖の手を取った時、「大先生の技には無理が全く無いのですね。投げ飛ばされても気持ちよく受身が取れるのです。まるで吸い込まれる様な感じで。熟達していない人の技だと、変な風に痛かったり怪我をさせられることもありますが、そういうことが全く無く、本当に動きに無理がないのです」(『開祖の横顔』)という感想のとおり、実際に開祖が気持ち(念)で臍(onto)ではなく体の中心(into)にまで導き入れられるので、吸い込まれると感知されるのです。
これを傍で見ていると、次の写真(入身投げ)のように、開祖がそれ程踏み込まれなくても、受けが仰向けになるような位置まで吸い込まれていることが分かると思います。

開祖の入身投げ.jpg


「武産とは引力の練磨であります」(『武産合氣』p.32)と言われていることは、「皆空(みなくう)の御中心に立ちます(宇宙の中心と自分の中心を一致させる)」(『合気神髄』p.80)の御中心まで迎え入れることだと思います。このときに、「虎穴問答」に示されているように「人間より虎のほうがつよいから逃げようとすると殺される。刃むかっていっても同じことだ。ジッとしていても虎が腹がへってくると殺しにくる。どっちにしても助からない。けれどひとつだけ生きるみちがある。それは食われてはだめだ。こちらから食わしてやるのだ。食われたらあとにはなにも残らんが、自分のほうから食わしてやればあとに愛と誇りとが残るのだ」という気持ちで、自分の体を投げ出すような気持ちが「万有愛護の心」になります。「禊(みそぎ)して」(『合気神髄』p.80)という言葉も自分の身の安全(自己の利益)を心配しないということで、その時の気持ちを表しています。
「念も身(臍や制空圏上にある手)に結ばず心(臍下丹田、正中線)に結んだら、念彼観音力となります」(『合気神髄』p.80)の「念」は「万有愛護の気持ち」です。このような念で迎え入れられるので、気持ちよく吸い込まれるのです。

もっと掘り下げれば、「大先生は道場に現れただけで吸い込まれる感じでしたね。山口清吾先生も吸い込まれるんだけど、大先生は『同化する』という感じが強くて、取る取られるの相対的な関係では無く、『一つに成ってしまう』感覚。言葉もね、根源の所、魂で話して居る感じでしたね」(『秘伝』2010年1月号 p .59)という先達の言葉が示すように、「(相手の中心も自分の中心も、皆、宇宙の中心に)一つに成ってしまう」ということが感じられると思います。
開祖が人差し指一本で内弟子の方の首を抑えられたのを見て、別の直弟子の師範に「指一本でどうして動けなくなるのですか?」と尋ねたところ、「痛いとかいうことではなく、動こうという気にならないのです」という答でした。気持ちよく一つに成ってしまうようです。このことを高岡英夫氏が「淀光」と定義しているのかもしれません。
「(意識的に抱く)念力は魂(万有愛護の心)に勝る能わず。(相手の手や剣をどうにかしなければならないという)目前の勝敗という形にとらわれて、この真義を見逃すなかれ」(『合気神髄』p.81)という言葉が続いていますが、「念力の大橋(火と水のむすび、十字にして天の浮橋)によって全大宇宙の真の妙精(スの言霊、中心)とむすび合うて、わが身心にくいこみ、くいとめて」(『武産合氣』p.134)ということですから、相手も自分も、宇宙の中心と一つに成ってしまう、ということで、その中心は自分の臍下丹田、又は正中線にあるので、引力という表現になるのでしょう。
ちなみに、「求心力」という言葉で説明されたりしますが、この「引力」は物理的な「求心力」とは違うと思います。
「生通しの生命(宇宙の妙精)を腹中に胎蔵し、宇宙も悉く腹中に胎蔵して、自分が宇宙となるのであります。自分が宇宙と一体となるのであります。それはとりもなおさず(自分−小宇宙−が)高天原(大宇宙)と一体です」(『武産合氣』p.70)ということでもあり、これが「天の浮橋に立つ」という表現にもなっています。

「気の仕組みは向こうから歩いてくる。それを迎えにいってやる愛の教育」(『合気神髄』p.94)の「迎えにいってやる」という言葉も引力ということを表していると思います。
このようになれば、「相手が歩いてくる。相手を見るのじゃない。ひびきによって全部読みとってしまう。・・・合気は相手がきたらスパーといく。今ここに相手がくる。坐って立とうとすると必ず分かる」(『合気神髄』p.119)という境地も体得できるようになると思います。
この境地は、YouTubeの「日本武道の素晴らしさ」で紹介されています。



片手取り四方投げの技に戻れば、この宇宙の中心が「キリッと円を描く」(『合気神髄』p. 94)と、「こうして合気妙用の導きに達すると、御造化の御徳を得、呼吸が右に螺旋して舞い昇り、左に螺旋して舞い降り、水火の結びを生ずる、摩擦連行作用を生ずる」(『合気神髄』p. 87)で、連行作用(受けが吸い込まれる様な感じを受ける作用)によって手が自分の額までスムーズに上がるようになります。この螺旋の動きは、裏の転換だけではなく、表の入身の時にも意識されていると思って、私は稽古をしています。
「円を描く、円の中心こそ・・・・・・。それを、愛の教育に移すのです」(『合気神髄』p.100)の「円を描く」は「円転の理」で、入身と転換の体捌きかもしれませんが、「円の中心」は体捌きで描く目に見える円の中心ではありません。体的なものでは「愛の教育に移す」ことが出来ないと思います。

このようにして一体となった後に、宇宙の中心が動くと宇宙全体が動くので、自分(宇宙)と一体となっている相手が動いて倒れると考えてみたら如何でしょうか?
「それだから、合気道においては常に相手がなく、相手があっても、それは自分と一体になっていて、自在に動かせる相手なのです」(『合氣道』p.201)
そのためには、四方投げで投げる時に相手の肩に付けた手ばかり見るのではなく、少なくとも2、3 m先が動くと思って、そのような目付けで大きく技をかけることが求められると思います。三五教の無抵抗主義の図で、U字形に大きく曲がった矢印がそれを示しています。

立技呼吸法や座技呼吸法でも、まず、中心がキリッと円を描いて一体となったら、結果的に掴ませた手が上がると思いますが、上げることが目的ではありません。それ故、座技呼吸法は大東流の合気上げとは名称も理合も異なているのだと思います。軽く上がるのは、相手が拮抗する力を感じない程、自分が無抵抗になっているからです。但し、物理的には、合気道の呼吸法も大東流の合気上げも接点で拮抗する力をずらしている(無くしている)と思います。
次いで、宇宙の大きさを感じながら動くと相手は導かれて倒れます。これが「導即倒」ということで、「気の流れ」の技のことだとも理解されていると思います。
初心者に限らず、立技も座技も取らせた手に抵抗を感じ、次に投げようとした時に相手に接している腕や手に抵抗を感じると思います。「和と統一に結ぶ」という言葉は、「和=無抵抗になる」「統一=一体となる」と理解すれば、稽古の時に上に述べたような心の働かせ方ができると思います。工夫してみて下さい。

開祖が示された稽古法は次のとおりです。もう意味が分かると思います。
「我々は魂の気の養成と、また、立て直しをしなければいけません。合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の身の内に吸収し、結ぶ。そして世界中の心と結んでいくのであります。仲よく和と統一に結んでいくのです」(『合気神髄』p.28)
「それ故、合気により、天界と不離一体となる修行をすることが必要なのである」(『武産合氣』p.62)

言葉は大切です。概念が伴い、力も伴うからです。「大東流の合気」と同じで「合気道の合気」が論じられることがありますが、ここまで読まれると、開祖のおっしゃられている「合気」には違った意味が込められていることがお分かりになると思います。

人は理解していることをやろうとするように造られていますが、行動に移すためには理解した(理由を解する、分かる。感情とは別)上に納得する(自分の体に納める。感情を伴う)ことが必要です。
理解出来ないから「分からない」とつぶやいたり、心の作用に力があるなんて納得出来ないからという理由で開祖の言葉は関係ないと思ったりしないで、苦労したらそれだけ喜びも大きいと思い、地上天国建設(天の浮橋に立って、修理固成の業を行う)の夢を追いながら精進を続けましょう。
少なくとも八千代合気会の稽古に集って下さっている会員は、そのような縁があったのだと思って頂ければ幸いです。

「天の浮橋」の解説はこれで終わります。次の言葉も解説なしで意味が分かると思います。
無抵抗主義の稽古を積んで至る「ひびきによって全部読みとってしまう」という境地も、絶対不敗(絶対に何ものとも争わぬ)というために必要であろうかと思います。
「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、『宇宙そのものである私』とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持をおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる『愛』である。『愛は争わない。』『愛には敵がない。』何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(註  神道の真理の言葉)ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである」(『武産合氣』pp.13-14)
posted by 八千代合気会 at 11:32| 日記

2014年04月22日

指導者の器

山下泰裕氏が著者で、平成21年(2009)11月に日経BP社から発行されました。副題は『自分を育てる、人を育てる』です。

「はじめに」に、「どうして、あなたはこんなに恵まれた人生を歩めたと思いますか?」という質問を受けて、「確かに恵まれてたなぁ。本当についていたよなぁ。何でかなぁ?」と考えこむ場面の描写があります。そして、「もしかしたら、それが良かったのかなぁ」という答えにたどり着いたのは、「試合で勝ったり、活躍したりして有名になると、周りの人がよくしてくれます。親切にしてくれます。そういうときに、私は少なくとも『ありがたい』という感謝の気持ちだけは忘れないようにしていた」ということが頭に浮かんだ時だったそうです。

ロスアンゼルス五輪の柔道無差別級で金メダル、そして国民栄誉賞を受けた著者には好感を抱く人が多いと思います。その源が「感謝」にあったということですが、素直にそのとおりだなぁ、と私も思います。
長い間勝ち続けたからということで山下選手のようになりたいと思って稽古をしている人も大勢いると思いますが、あの試合の時のすくっと立った姿勢に感銘を受けて山下選手のような人に育てたいと思っている監督や指導者も多いと思います。
この本では、その山下選手の心の姿勢や方向が明らかにされていて、学ぶところが多いと思います。

各章の冒頭やところどころに挿入されている短い言葉からも、著者の経験に裏打ちされた物事に取り組む態度を窺い知ることができます。
それをいくつか引用して、ご紹介します。
「人が一番よく聞くのは、誰の言葉でしょうか。
それは自分自身の言葉です。
ほかの人に言われた言葉より、
自分が心の中で言っている言葉を
一番たくさん聞いています。
口に発しなくても、
脳は自分の言葉を聞いているのです。
だから、自分自身の心の言葉を良くしていくことが、
人生を良くすることにつながると思います」
「自分の経験だけで物事を判断してしまい、
周囲の人の意見を受け入れようとしないと、
せっかくのチャンスをふいにするかもしれない。
得られるはずの成功を取り逃がし、
大きな損失になるかもしれない。
誰かが親身になって
アドバイスしてくれたときは、
実行するリスクが大きくないのであれば、
素直な心で聞いて、
試してみることが大事なんじゃないか」
「一つだけ確実に言えるのは、
常に問題意識を持って行動していると、
いろいろなものが見えてくるし、
いろいろな人が寄ってくる。
逆に、何も考えていない人は、
良い人や良いものが脇を通り過ぎても、
見過ごしてしまう」
「人生は思い通りにいかないものです。
けれど、人生に無駄な経験など
一つもないと思います。
良いことも悪いことも、
起きたことから何を学ぶかで、
人生は大きく変わる」
「目に見えない何者かの存在を
信じられるか」
「他人のことを
思いやれないまま強くなった人は、
指導者に転じたときに
必ず壁にぶち当たります」
「相手に非があるからといって、
相手のことを責め立てるばかりでは、
自己の成長はない。
いかなる事態に遭遇しても、
『自分に何か不足があったのではないか』と
自己を省み、自己を高めていく」
「上に立つ人の
一挙手一投足がいかに大切か。
上が少し変われば、
下は劇的に変わります」

このような格言の元になった実際の出来事が記されていて、素直に読める本です。国内でのことだけではなく、グローバルな活動をされている中で気付かれたことも書かれているので、これからの武道普及に必要なもっと広い視野を与えられると思います。

最後に体罰や暴力ということに対する指導者としての考え方が示されているので、引用します。
「私個人は、『殴って指導する』という考え方を全面的には否定しません。メディアなどには『殴る』ことに大変な嫌悪感を示す向きもありますが、手足の暴力以上に、言論の暴力のほうが、時に深く、癒やし難い傷を残すことも知ってほしいと思います。(略)ただ、手を出すのは、指導法として最もレベルが低いものであることは、指導者たるもの、肝に銘じなければなりません。腕力や権力で相手をねじ伏せるというのは、非常に安易で、それゆえに麻薬のような中毒性も持ちます。結果として拳骨を選んでしまったときには、本当にほかにやりようがなかったのか、深く自問しなければなりません。
結局のところ、『殴った、殴らない』だけにとらわれていては、問題の本質を見誤るのではないでしょうか。指導者が何より考えるべきは、『その人を導くのに一番いい方法は何か』。それが本質だろうと、私は思うのです」

武道における体罰・暴力問題について知ることが出来るサイトをご紹介します。八千代合気会の皆さんには「何も考えていない人」にならないで、どうするべきかを考える人になってほしいと思います。
全国柔道事故被害者の会 http://judojiko.net/
剣太の会 https://ja-jp.facebook.com/pages/%E5%89%A3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E4%BC%9A/235348386600798
       http://ameblo.jp/kazenoneshoten/theme-10050596685.html
合気道(体罰という名の暴力) http://www.geocities.jp/tokudaiaiki/kiryu/sensei_kiryu2003.htm
posted by 八千代合気会 at 08:51| お勧めの本