2014年06月17日

開祖の合気(3)

開祖の言葉のように「合気」や「相気」「相機」という言葉が昔からあったのは確かで、2011年11月24日にブログで取り上げた時には「武田惣角師も小野派一刀流を修めているので、大東流の合気は『敵強引にくればわれふわりとはずし』辺りからの連想で名付けられたものではないでしょうか」という考えを述べました(ただし、一刀流の「合気をはずす」という概念で、意味が真逆になりますが)。
その後、2012年9月13日に『合気の創始者 武田惣角』(池月映著)を紹介した時、「第二部の『合気の糸口』では、合気の語源が禅密功(気功)の『陰陽合気法』から来たのではないかと推測しています。武田惣角師が語った合気の秘法が『大東流会報』に載りましたが、『陰陽合気法』は呼吸法によって臍下丹田に気を充実させ、気力集中をはかって精神統一をするというもので、五指を握り、静かに入息するを「陰」、五指を強く開き、出息するを「陽」と呼ぶ、とあり、この呼吸法を続けることによって、頭脳明晰となり、眼力は鋭く、『心』『気』『力』一致し、大勇猛心を養い、特に両手十指それぞれの活用により、神通力を高める、と記されています」と述べました。大東流の「合気」は、この「陰陽合気法」から来たというのが著者の研究結果です。

「陰陽合気法」は「いんようごうきほう」と読むのが正しいそうですが、“池月映のブログ”の「武田惣角探訪135 http://blogs.yahoo.co.jp/ikezuki2/archive/2012/01/22」にこの考えが詳しく述べられているので次に引用します。
「合気の語源のまとめをします。合気のアイキは語源辞典にはありません。辞書には合気道、大東流が出てきます。剣術用語の合気は相気と同じで、アイキの語感から合気になったと思います。
 大東流の説明では合気陰陽法(あいきいんようほう)からきているとありますが、疑問が二つあります。気も陰陽も中国の思想です。陰陽は陰陽五行のように最初にくるもので、熟語で後にくるのは大東流しかない。それも、アイキは日本語の訓読みで、陰陽は音読みになり、四文字熟語として訓読み、音読みがごっちゃになっているのはおかしい。昔の漢文や経典はだいたい音読みです。合気、合気陰陽法はどこから引用したのか、核心部分の説明がない。
 史実(大東流内で伝えられている史実)に語られている古事記、新羅三郎、甲斐武田家、会津藩の文献、史料に合気という文字があったという証拠はない。もし、あれば古い言葉になり語源辞典に載っていたでしょう。ないということは新しい言葉といえる。
 おそらく、合気は合い気で、間に『い』が入っていた。私は日本では非公開の瑜祗経(真言宗)の修行課程にある禅密功の陰陽合気法から、合気を引用したと考えました。そうなると、アイキではなくゴウキと読むのが正しい。非公開の合気の文字も、インド語の経典瑜祗経と中国の禅密気功が紹介され判明した。
 二文字の漢字では、相気、合鍵、気合、場合、寄合、組合などは訓読みで、江戸時代以降の新しい日本語でしょう。大東流の合気陰陽法、合気鍛錬法、合気不動縛り(不動金縛りのこと)、合気ツキなどは戦後の造語だと思います。時宗遺稿集の気合法、神通力法、合気法は密教の修行法です。
 では、惣角はどうして合気をゴウキではなくアイキを名乗ったのか。惣角も易師万之丞も本来なら密教を修行できる身分ではない。それも、大本山の高僧ぐらいしかできない高度な修行をしたので、密教の掟もあり真実を語れない。だから、惣角は密教を感じさせない合気(アイキ)を使い、合気の説明を一切しなかった。
 植芝盛平は惣角の合気から引用して合気道と名付けた。気を合わせる、愛気などの説明をしてます。合気は気を合わせる技術なのは正しいのでしょう。剣道、柔道、茶道、華道は音読みですが、合気道は訓読みと音読みの組み合わせで、なんとなく不自然です。ゴウキドウのほうが漢字としては自然です」

一刀流や無住心剣術以外に「合気」という言葉が出てくる近世の文献では、国立国会図書館に『武道秘訣 合氣之術』(武骨居士著、明治25年12月10日出版)と『武道秘訣 合氣之術』(無名氏著、明治33年4月26日発行)が所蔵されています。内容は全く同じもので、「故に合氣の術に要する。迅速無間の読心術を施さんとするには」とか「合氣の術にも、亦一個の得物を要するものあり、曰く、他なし掛声是れなり」と書かれていて、この本では「敵人読心の術」と「掛声の気合」を「合氣」としています。

大東流は、武田惣角師が遺している明治32年(1899)の『英名録』に「大東流柔術」の字が見られ、この頃から伝授が始まっているので、『武道秘訣 合氣之術』はそれ以前の発行です。この本の影響があったかどうかは分かりませんが、大東流の「合気」という術理又は技法は伝授を始めた頃からあったと考えるのが妥当だと思います。佐川幸義宗範の父 子之吉氏の大正2年(1913)9月3日のノートに「片手を両手でつかまれたる時、その手を押しだし前より“合気をかけ”後ろにまわり、しょい投げること」という記録が遺されているそうです。
また、惣角師も教える時に「技をかけながらホラこれが合気だこれも合気だと言ってやっていた」そうです。

一刀流、無住心剣術、大東流などの「合気」が、「従来の武芸者が口にする合気」ということになります。

大東流の合気は、武田惣角師は言葉で表わしたことはないと思いますので、惣角師の後を継いだ佐川幸義宗範が与えた定義、「相手を無力化する技術」「敵の力を無にする技術」ということに従って、開祖の合気との違いを明確にしたいと思います。この明確にする目的は、武道流派の比較を論ずるためではなく、稽古の目標を見定めたいがためです。
posted by 八千代合気会 at 10:04| 日記

2014年06月06日

すぐわかる日本の神々

鎌田東二先生が監修し、稲田智宏氏と堀越光信氏の共著で、平成17年(2005)12月に東京美術から出版されました。副題は『聖地、神像、祭り、神話で読み解く』です。

鎌田先生の博士論文の概要が発表されているので引用します(http://homepage2.nifty.com/moon21/ronbun03.html)。
「『国学者』(古学者)の多くがわが国固有の言語特性と優秀性を闡明しようとする意図を持っていたが、それを全面展開したのは平田篤胤である。また、同時代の国学者たちも競ってその言語特性を明らかにしようと情熱を傾けた。山口志道、中村孝道は、そうした江戸時代後期の傍流国学者群像の一人であり、後に出口王仁三郎に甚大な影響を与えることになる。山口志道と中村孝道は、言霊を生命的に理解し、声と呼吸の分節の中に宇宙論的かつ神話的な世界創成の過程を見て取ろうとした。

 山口志道は『天地の水火(かみ、註:そのまま『いき』と読んでいるものもあるhttp://kotodamart.eco.coocan.jp/mizuhonote01.htm)と人間(ひと)の水火(いき)と同一(なることを知りて、家国を治の本は己が呼吸の息に在ることを知る)』と主張し、五十音と片仮名の発生を呼吸と結びつけて解釈し、それをさらに『古事記』上巻の神々の発生と結びつけた。それに対して、中村孝道は『七十五声は即ち天地の声』と主張し、五十音ではなく、七十五音の音義を解釈し、特に『ス声』に着目した。同時代の平田篤胤にも同様の視点と志向性があるが、その言霊思想は神代文字論にも及び、特に『ウ声』を五十音の根本と考えた。

 平田篤胤の国学研究は多岐にわたり、近代の民俗学および霊学の先駆的研究となった。この三者の言霊思想や国学研究、霊学研究は、霊学者・本田親徳や言霊思想家・大石凝真素美を介して、大本教の出口王仁三郎に多大な影響を与えると同時に、その思想と実践の基盤を提供した。大石凝真素美は中村孝道の言霊七十五声説を元に、山口志道の『火水』の象徴図形を加えてみずからの言霊説を展開した。大石凝は七十五声を独特の十八稜図(コンペイトウの象)に表し、その中心に『ス声』と○(マルチョン)を位置づけた。これらの言霊論を整序し、統合し、さらには『言霊隊』なる組織『言霊閣』という建物を作って言霊の言語実践をしたのが出口王仁三郎である。

 出口王仁三郎は言霊学に基づいて『オホモト(大本)』や『タニハ(丹波)』を解釈し、言霊学と鎮魂帰神の行法を含む霊学を大本教の宗教活動の根幹に据えた。そして、浅野和三郎や谷口正治(雅春)や友清歓真などの神道系新宗教の指導者の宗教活動に大きな影響を与えた。大本から分派した友清歓真と岡田茂吉の言霊論は出口王仁三郎に対する距離に基づいて展開された。友清はより批判的・超克的に、岡田はより共感的・継承発展的に言霊論を展開した。友清歓真は従来の言霊説の牽強付会ぶりを批判し、独自の音霊法を提唱・実践した。それに対して、岡田茂吉は言霊を浄霊という病気治療の実践と結びつけた」

開祖によると「合気道は『古事記』の営みである」ということですから、山口志道の『水穂伝(みづほのつたえ)』に「是ぞ神国の教なる。既に古事記の神代の巻と唱るも、火水與(かみよ)の巻と云義にして、天地の水火を與(くみ)て万物を生し、人間の水火を與て言(モノイフ)ことの御伝なり」とあることから考えて、特に『古事記(神代の巻:上巻、開祖の言葉では一巻)』の神々について知ることができれば開祖の教えを知ることが容易になると思います。

「イントロダクション」に、「『神』という言葉は、喩(たと)えて言えばパソコンの『フォルダ』のようなものである。さまざまな情報や形態や状況を、とりあえずその中に入れ込むことで、関連するものをすべて包み込む。『神』とは日本人が抱いてきたある特定の感情や力や現象を取り込んだ『フォルダ』である」と書かれています。私は、開祖の教えを理解するためには、神(神名)とは力又は働きを表すものという捉え方が良いと思っていますので、そのような観点で参考にしたいと思いました。
例えば、伊豆能売神(大本や開祖は伊都能売)は「伊豆は厳瓮(いつへ・神聖な土器)などの厳で、斎(つつし)み清めることを意味し、汚穢をすすいで清められたことを表した神である」ということで、何となく開祖がおっしゃられていたことの意味が分かると思います。

大本については、「出口なおに『艮(うしとら)の金神(こんじん)』が懸り」、「その上田(喜三郎、出口王仁三郎)は審神(さにわ)によってなおに懸った金神を国常立(くにとこたち)尊と判断した」、「祭神は大本皇大神(おほもとすめおほかみ)という。これは天地万物の創造神の独一真神、また国常立尊や豊雲野(とよくもぬ)尊といった諸神の総称である」、「大本ではこの国常立尊を国祖神と見なすが、厳格さゆえに太古に他の神々によって、悪神として封じ込められていた」、「高天原を追放された素戔嗚(すさのお)尊は人々の罪を一身に受けた贖罪(しょくざい)神であり、さらに救世主だともされ、厳霊(いずみたま)と瑞霊(みずみたま)を統合した伊都能売霊(いずのめのたま)の神格を王仁三郎が体現しているともいう」と書かれています。

「神様をまつるということ」に、「神道は自然崇拝の宗教である。ただしこれを、神道は自然を崇めているのだ、とだけ考えていては、一面的な理解になってしまう」「総体的に見れば、自然=神というよりも、自然の中に潜む神秘的な命の働きを日本人は感得して『神』と見なしていた、とするべきだろう。つまり自然を通して神を感じていたゆえに、自然は神なのである」とありますが、ここから「神人合一」と「我即宇宙」が同じ意味であることが分かります。

「心身を浄める斎戒と禊祓い」に、「神と直接に向き合うためには、それなりの準備が必要となる。俗世間の日常的な穢れを落とさなければ神との交感はできないし、何よりも無礼を働くことになってしまう。それで祭に先立って行われるのが斎戒である」、「心身を清めるための方法のひとつに禊がある。…通常の禊は清水を浴びることだが、神社の地理的条件によっては川や海において行われる」とあり、開祖の行動や言葉の意味が分かります。

「祝詞と言霊」に、「祝詞を奏上することの背景には言霊思想がある。言葉は霊力を持ち、声に出した『言』は現実の『事』になると考えられてきた。神の名を唱えれば神は現れる。…したがって祝詞は単に神へと語りかける言葉なのではなく、神の威力を発揮させるための呪言(じゅごん)だといえるだろう」ということなので、お経を上げることとは少し意味が違うように思います。開祖が、毎日、神名を上げて祝詞を呪された気持ちを感じました。

誓約(うけひ、宇気比)は「神意や真実を得る方法」、太占(ふとまに、布斗麻邇)は「卜占」という意味で、これが本来の意味でしょうが、開祖が使えわれている意味は少し違っています。

「神楽」は「神の降臨を意味する…。つまり本来の神楽とは、神が人の体を借りて舞い、神意を顕すことにあった。やはり『歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽(あそ)ぶ』(記)ものなのである」とのことで、開祖の神楽舞も同じものかと思います。

「第V章 神々の系譜」に『古事記』と『日本書紀』に出てくる神々の説明があり、とても参考になりますが、スサノオは『古事記』では「建速須佐之男命・速須佐之男命・須佐之男命」で、『日本書紀』では「素戔嗚尊・神素戔嗚尊・速素戔嗚尊」と書かれていることが分かります。

開祖にお会いした時、道場(市民体育館でしたが)を「ここは多賀の里じゃ」と言われましたが、この本の「多賀大社」に「主祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。『古事記』には伊邪那岐神が『淡海(近江)の多賀に坐す』とあって、古くから当地で祀られていた」と書かれています。

『古事記(上巻)』に基礎を置く合気道ですが、『古事記』が和漢混交体で記されていたため、「漢文に慣れた知識人には評価されなかったようで、大きく取り上げられることはなかった。江戸時代になって国学者の本居宣長が注目してようやく、古典としての価値が認められるようになる」とのことです。

どの神社がどういうご利益があるかという本ではないので、八千代合気会の会員にも開祖のお話を理解するための参考になると思います。
posted by 八千代合気会 at 16:02| お勧めの本

2014年06月02日

開祖の合気(2)

藤田昌武先生の「合気という言葉自体を特別に取り上げ定義・説明はしていません」は、先生が総務部長であった当時の財団法人合気会 合気道本部道場としての公式に近い見解だと思います。合気道では大東流でいう「合気」のような取り上げ方はしていません、ということのようです。

斎藤守弘先生の「合気道はそもそも植芝盛平先生から伝わったもので、先生から伝えられた合気を、現在正しく伝えているのはうちしかない」という説明は「武産合気」という「合気」を指して言われているようです。斎藤先生は、「近ごろ、武産と言う言葉を簡単に口にしているが、武産とはいったいなんであるか分かっているのだろうか、何なのか分かっていれば、少なくとも日本の合気道はかなりの進歩があって良いはずである。武産とは合気道の原理を研鑽することにより、無限の技が生まれてくると言う、実技の問題である」(1993年 茨城県合気道連盟だより第16号)という言葉を遺されています。

望月稔先生の「合気の気は『やる気』。すなわち闘志です」というのは、如何にも望月先生らしいきっぱりとした捉え方だと思いますが、「合気は愛気じゃよ」という開祖の説明とは異なっているのではないでしょうか。開祖について習っていた時期が皇武館道場時代なので、その当時は「やる気」で良かったのかもしれません。確かに『武道』(昭和13年刊)には「氣勢を以て」という言葉が何か所か出ています。

既に触れましたが、最近(とは言っても、開祖の没後、大東流のことが世に知られるようになってから)、「大東流の合気」とこれに対比して「合気道の合気」という言葉が使われるようになっているので、『月刊フルコンタクトKARATE』の特集はそれに沿ったものだと思います。これは、「大東流の合気」がとても不思議で素晴らしいものであると認識されるようになったことに因ると思いますが、私は、「大東流の合気」と少し違ったもの(modifyしたもの)として「合気道の合気」があると考えると開祖のおっしゃられた合気(又は合気道)が後進に正しく伝わらないのではないかと危惧します。

「『合気』という名は、昔から有るが、『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』と呼ぶ事にした。従って、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異なるのである」。(植芝盛平監修・植芝吉祥丸『合氣道』p.50)

「『合気』という名は、昔から有るが」と言われているとおり、「合気(あいき)」という言葉は一刀流では「合打 敵と打合ってどうしても合打となって中々勝負がつきにくいことがある。われが面を打つと敵も面を打ち、敵が小手を打つにわれも小手を打ち、われ突に出ると敵も突いてくる。吾が一尺進むと敵も一尺進み、われが五寸退くと敵も五寸退く、いつまでたっても合気となって勝負がつかない。遂には無勝負か共倒れになることがある。これは曲合(間合)が五分と五分だからである。こんな時は合気をはずさなければならない。合気をはずすのには先ず攻防の調子を変えなければならない。わが遅速長短の調子の旋律を急に変え、横縦上下の喰違いの形をとり、心に於て敵の気を離れ、互いに引張りを解き放し、敵強引にくればわれふわりとはずし、敵無為となればわれ厳しく打つ。かく手を変え品をかえるとわが曲合の利が生れてくる。これを利してそこに乾坤一擲の大技をかけると目が覚めるような新鮮な勝が我手中に帰する事になる」(笹森順造著『一刀流極意』)と述べられている意味で古くから使われていました。本来の言葉「相機」が「相気」から「合気」へと変わったのではないかと考えられています。
また、『天真独露』(無住心剣術 小田切一雲)に「兵法諸流、先を取るを以て至要と為す。恐らくは不可也。我先を好めば則ち敵もまた先を取らんと欲す。此則ち先々之先也。是の意にして合気之術也。敵もし我の不意を討たば則ち敵は常に先々、我は以て後也。故に負を蒙る。剣術は無益の数ならんか。然らず。ただ先と後とに拘らずして、無我の体、円空の気を備ふれば、すなわち千変万化して勝理常に己に有り。人、恬淡虚無なれば、その気乾坤に充満し、その心古今に通徹す。神霊万像に昭臨して、白日晴天に麗らかなる如し。一物前に現るれば、見聞に随て、意已に生じ、気已に動く。若しこれに執着すれば、則ち神霊忽ち昏晦して浮雲大虚を覆ふが如く、最初の天真之妙心を失却して、散乱麁動の妄意に転倒せむ。これ則ち合気の為す所なり。平日の工夫修養合気を離るるの一法にあるのみ」とあり、一刀流と同じく攻防の調子(拍子)が敵と同じになってしまうという意味で「合気」という言葉を使っています。
posted by 八千代合気会 at 22:06| 日記