2014年07月31日

開祖の合気(5)

前回(2014年07月15日)、開祖が惣角師に初めて会ったのは大正4年(1915)2月と述べましたが、公益財団法人 合気会のホームページに「合気道の沿革」があり、そこには、「明治45年(1912年) 遠軽の久田旅館で大東流柔術の武田惣角に会い、教えを請う。」と書かれています。合気会に問い合わせたところ、開祖から植芝家に伝わるのは明治45年に初会とのことで、大正5年(1916)に免状(秘伝目録)を受けているので、大正4年が初会だと目録を受けるまでの期間が短すぎて無理があると考えられているそうです。「合気道のしおり」は昭和50年(1975年)以降、『合気道開祖 植芝盛平伝』は平成11年(1999年)版から訂正されているとのことです。今後、本ブログでもこれに従いたいと思います。

さて、話を戻します。大東流合気柔術第36世を継がれた佐川幸義宗範の側から見ると、「合気」が出来ていないのに「合気道」という名称を使って、すっかり本家を乗っ取ったような形になっているのが許せないところではないかと思います。これは、惣角師も同じ気持ちであったようです。
余談になりますが、「植芝に合気は教えていない」とか「こんな手をしてやっていたら百年たっても合気はわからん」という惣角師の言葉からは次に伝えなければならないという嫡伝者としの気持ちが感じられず、大東流は三十何代も続いた武術ではなく惣角師一代で創り上げられた武術だという池月映氏の説が正しい気がします。何代も続いている流儀であれば、数ある弟子の中からこれという者を見出して、一子相伝すれば、自分の代の責任は果たせるので、離れて行った者に拘ることはないと思うからです。

間違いなく、開祖は、まったく新しい合気を見出しています。

もう一度、開祖の言葉を見てみましょう。
「『合気』という名は、昔から有るが、『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』と呼ぶ事にした。従って、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異なるのである」。(植芝盛平監修・植芝吉祥丸『合氣道』p.50)

これまで見てきたように「合気」という言葉の意味はいくつかあるので、新しい意味を加えても差し支えないと思います。また、流名に「合気」を加えたのが出口王仁三郎聖師の発案であったことを考えると、開祖が「合気」という言葉を自分が創始した流名に入れても不思議ではありませんし、王仁三郎聖師の意向も含まれていたのではないかと考えられます。なお、流名は「新陰流」と「神影流」、「(香取)神道流」と「(鹿島)新当流」の違い以上のものがあり、「大東流合気柔術」と「合気道」とが同じであるという間違いは起こり得ません。

流名でいえば、昭和17年(1932)に大日本武徳会が合気道部を作り、呼称を「合気道」とするようになりましたが、当時の「合気武道」では特定の流派の名称になり、さりとて柔術だけではない総合武術を柔道として組み込むことは出来ないので、一般的な名称をということで「合気道」と命名されたのが最初です。
「講道館から武徳会役員となった久富達夫が主唱したことだと平井稔(皇武館道場総務)が証言している。この時久富は、『総合武術部門は剣杖などの要素も包括的に含めたい。そのため従来から在る各武術流派との軋轢を生じさせぬよう、特定流派を連想させず、また勇ましさを前面に出したものでなく、当たり障りのない柔らかい印象の名前が良い』として『合気道』を提唱した」ということで、異論なく認められています。
この時、開祖は、合気武道が戦闘の手段として使用されることを嫌われて、岩間に隠棲されてしまいます。

終戦後、昭和23年(1948)に財団法人の申請に当たり、文部省から「合気道」にするよう勧めがあり、それを受け入れて、以後、「合気道」という名称が定着しました。当時は、昭和17年(1942)の神示に従って、もっぱら「武産合気」が使われていたようです。
ラジオのインタビューでの質問に開祖は次のように答えています。
(聞き手)「合気道というお言葉は、どういうところからお付けになったのでございますか」
(盛平翁)「付けたんじゃない。国のこれは至宝やからな、個人が勝手に付けるものじゃない。そこでほっといたらやな、文部省の中村光太郎さんの方から、合気道としたらどうだな、という相談があった。で、向こうから合気道とせよということだった。結構な話やから合気道にしようと、こういうことや。 その後ですね、付けたものの合気道について、少し自分も調べてみなあいけない」

開祖が、「神人合一の武道」とこの「合気」を結びつけるようになったのには、前述の出口王仁三郎聖師との邂逅がありますが、次のような背景も後押ししたようです。

大正8年(1919)12月21日に白滝の家屋敷と50町歩余りの土地をそっくり惣角師に無償で譲渡し、一家を挙げて危篤の父の元に向う開祖ですが、「白滝王」と慕われた開拓民を残して白滝を引き上げる段階で、何か問題が生じていたと思います。国事に奔走することを喜びとしていて、開拓団を率いることに責任と生甲斐を感じていた開祖がその責任を放棄した裏には、惣角師との軋轢があったと思います。

大正7年(1918)6月2日に上勇別村会議員に当選し、務めを果たしていた開祖ですが、翌年4月に1年足らずで辞めています。
「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。(武田先生は)邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分の家のようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部取られれてしもうた」という開祖の語ったテープがあるそうです。
思うに、惣角師が、見込みがあると思って開祖を巡回指導に連れ回すために、公務を優先しようとする開祖の邪魔をしたのではないでしょうか。惣角師に付いていると身の回りの一切の世話をしなければならず、それで、これ以上開拓団の責任者は務められないと悟って、白滝を離れようとしたのだと思います。開拓事業を進めるか、武術の道を歩むか二者択一を迫られて決断したのだと思います(参考:http://www2.ocn.ne.jp/~aiki0325/kousatu5.html)。
その時、開拓民には、田辺に帰って武術を教えると伝えたそうですから、長男(一人息子)として両親(又は母親)の面倒を見なければならないという気持ちもあっての選択ではなかったかと思います。
posted by 八千代合気会 at 13:22| 日記

2014年07月24日

古武術と身体

日本における玄学(『老子』『荘子』『周易』の三玄をもとにした学問)の第一人者といわれる大宮司朗氏が著者で、平成15年(2003)5月に原書房から出版されました。副題は『日本人の身体感覚を呼び起こす』です。

「はじめに」に、「自らが宇宙そのものとなったとき、勝ち負けの世界は消え、そこにはもはや敵はないのである。この境地まで至ることは、私たち凡人にはなかなか難しいが、東洋的身体観である『人間小宇宙論』を学び知り、また肚(丹田)の動作における大切さを知ることで、多少はそうした境地に近づけるのではなかろうかと思う」
「もはや、刀や槍などを持って戦う時代は過ぎ去った現代において、武術を学ぶことになにか意味があるのであろうか。『無功徳』とでも答えるのが禅的でよいのかもしれないが、とりあえず、私としては『武術は人間に心身の自在を得させる』ところに意味があると答えたい」
「禅は姿勢を正し、丹田に気を落ち着け、気息を調えることで、自らの仏性を悟る。同じ武術も姿勢を正し、丹田に気を落ち着け、丹田を主体として、気息を乱さず各種の形の動作をすることで、自らの絶対性(神性)を悟ることを要諦とする。実はそのことを知るか知らないかが、武術においての上達にも実は大きな影響がある。つまり、身法としては各種の動作は肚(丹田)でなし、心法としては自らが絶対なる者、全宇宙、あるいは神、仏であることを確信する。このことが王道といえないことはないのである」
「天地と我は同根、万物一体という語があるが、我は宇宙そのものと一つなのである。もっともその我とは単なる我ではない。仏教的にいうならば、仏性の顕現としての我である。天地万物一切は仏性の顕現であり、自己の本性と異ならないということなのだ」
「言い換えれば、我と一切の物は宇宙全体に充満するところの真実の存在、仏の身体であるということである。その写しとしての肉体があって我々はこの世界に生きているのだ。武術などの修行も究極的には、この本来の尽十方界、真実人体の修行として、その写しとしての身体を正し、一切のものと一体になって、全大宇宙の真実の中に生きていることに目覚める修行なのである」などあり、学校教育の短い期間では求められないでしょうが、生涯にわたる人間追及の道として武道の存在意義があるのではないかと考えさせられました。

「真澄の鏡」という七十五声を記した言霊図表は、「言霊学によれば、この言霊図表は宇宙の仕組みを表徴した図表であり、天地開闢から、天文地文、修身斉家、君臣父子の序など、あらゆることの原理がここに照らして明らかになるとされる」
「最下段にあるあ行は最も重い音であり、最上段にあるか行は最も軽い音である。この十五段の音の階梯は同時に存在のヒエラルキー(位相秩序)であって、根の棚の右端の『あ』から始まり、天津棚の左端の『き』に終わる。『あ』は『あらわれ』、『き』は『きわまり』である。その中心にあるものは『す』声であり、一切の音は澄みきって『す』に収斂する」と解説されていて、よりはっきりと意味が理解できます。

江戸時代の言霊学者中村孝道(出口王仁三郎聖師の祖母 上田宇能は孝道の姪)によれば、「是す声は真寿御(真澄)かがみの真心真中央(まんなか)に位して、七十四の音韻を御心のままに総(すべ)給ふ。くしびに霊妙、活用不可思議の妙音なり。七十四の音韻も此の一音により活用自在を為し給ひ…中略…天の活用、神明の妙用、万物の為行、此の一音の内に備らずと云事なく、かけたらずという事なし」(『言霊中伝』)とのことで、著者は、「身体に当てはめれば『す』こそは丹田である」としているので、「二、宇宙を取り込む技〜大東流を中心に」を読む時に、そのような観点で読むと分かり易いと思います。
この「我は宇宙の中心−入身投げ」に、開祖の入身投げが紹介されています。
「当然入身投げを実践する場合には、自らが天上天下唯我独尊との気持ちをもって行い、自らが至上の存在であるとの悟りに到達しなければならない。『我は宇宙の中心である。我はここを動かずして相手が我がまわりをまわるのである』として、植芝盛平翁は、自分はその位置を動かずに、弟子をして自分のまわりを自由自在にぐるぐるとまわらせ投げ飛ばしたことが伝えられている」

大東流の合気と合気陰陽法についても触れています。
「武術における動作は呼吸と深いかかわりがある。また大東流において、基本中の基本としてほとんどの流派で行われる合気上げは、実は呼吸法とも大いに関連がある。このことについては、『大東流合気武道』紙の第7号(昭和50年8月号)の『合気武道の解説』というところに大東流を世に広めた武田惣角翁の嗣子・武田時宗師範が記している。その内容をみてみよう。

大東流に合気の秘法がある。人の生は気に依るもの、気を養う事である。呼吸法に依り臍下丹田に気を充実させ、気力集中をはかり、精神統一。不迷不怖の不動心を養い、無念無想の神気境地に到達せしめ、天地万物の気に合(あわ)せ、吉凶禍福を悟り、是れに対処する身の軽重、人心透視、未来予知の秘法に至る。

ここで語られている合気とは単に両手を握られて自在にその手を上げる合気上げにのみ用いられるような狭義なものではない。…まさに人の命というものは気に依存しており、気を養うことが大切で、それには呼吸法が大切だと続いている。呼吸法は大東流においては『合気陰陽法』と呼ばれている。その呼吸法の練磨によって、不動心を養い、無念無想の境地に至れば。己の気を天地万物の気に合わせ、吉凶禍福を知り、それに対処する方法も分かり、人の心を透視し、未来を予知することもできる合気の秘法が完成するというのである」

その合気陰陽法についても、もう少し詳しく紹介されています。
「呼吸法。五指を握り、静かに入息するを陰。五指を強く開き出息するを陽。是れ合気陰陽法である。頭脳明晰眼力鋭く、心気力一致し、大勇猛心を養い、特に両手十指そおれぞれの活用により、人を自在に操り、更に神通力(超能力)迄も高める。

つまりは合気陰陽法とは、呼吸法のことである。ただ、吸うときには五指を握り、吐くときには五指を開いて行う呼吸法である。ただし、これはあくまで一人で行う場合である。二人で行う合気陰陽法が、(大東流の)合気上げとか、(合気道の)呼吸力の養成法と呼ばれているもので、それを時宗師範は合気鍛練法と名づけられている。その説明は

二人相互にて合気陰陽法を行う。相手、我が両手首を握る時、我、丹田、脇下、指先に気を充実させ、両手を開き、相手の脇下に向い、押上げる様になして、相手の体を崩し、四方八方に投げる。呼吸法の鍛練故無理な力を用いず、相互に練習すること。片手も同断。心気力増進、腕力増大する事妙なり。

と右(上)のとおりである。ここには呼吸の仕方について書かれてはいないが、文脈上、当然、息を吐きながら行うと考えられる」

「終わりに」に、「しかし、日本古来の武術の意図するところはそれ(不意の変に応ずること)だけではない。どの武術にしろ、その各種の形のなかに、あるいは最終の奥儀において、絶対者あるいは宇宙と自分とは一体であるとか、この身体は小宇宙であるという観念あるいは信念に至ることが要求された」と述べられ、次のような例が挙げられています。
新陰流 「その神髄は『転(まろばし)』という円転自在な動きであるが、それはまたこの大宇宙の実相でもあった。…大宇宙が円であれば、己も円である。それを勢法(かた)の中に表し、日々の修練で円転・自由・自在な働きをする正しい身体の使い方を学び、さらにその転の玄義を体得することこそ、新陰流という武術が目指すところであった」
真新陰流 「人は天地人の三才なり。天地に目鼻を付けたるものは人なり」(小笠原玄信)
一刀流 「武術というのは、人が霊止(ひと)という存在でありうる絶対唯一無二、神人合一の道をその法形(かた)によって、会得せしむる実践的な修行なのであるとし、自らの霊性を悟り、神人合一の道に至る修行が武術であり、それが法形に込められているとしている」
浅山一伝流 「人間を小天地と云ふ」(伝書)
起倒流 「人間が万物の霊長であり、天地の理(ことわり)を一切備えたものであること、つまり人間小宇宙論をその伝書などに記し、そのような思想を根底とし、天地の理を示すものとして各種の柔術の技を教伝していた」
大東流 「神、仏となること」(口伝)
合気道 「植芝盛平翁は自分が宇宙そのものであるという大自覚を表明していた」
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2014年07月15日

開祖の合気(4)

開祖が、武田惣角師の話を聞き、吉田幸太郎氏の紹介で初めて惣角師に会ったのは大正4年(1915)2月のことで、遠軽の駅逓 久田旅館でした。大東流の合気を知ったのもこの時が最初でした。後年、大東流から離れたことで、開祖のことを良くは思っていない佐川宗範の言葉では、「大正4年2月に吉田幸太郎が遠軽の久田旅館に植芝盛平を連れてきたとき、丁度、父親(子之吉)が教授代理として教えていた。既に柔術をやっていて自信を持っていた植芝は『何、この田舎武芸者が』という感じで偉そうにやって来たので、武田惣角にさんざん技をかけられたうえに極められ、隅で涙を流していたとのことである。武田惣角も『植芝は雁の涙(かりのなみだ、「露」を表す季語)を流した』とよく言っていたそうだ。しかしこれにより武田惣角の実力を知った植芝はこの武術の修行に夢中になっていった」とのことですが、その場で入門を許され、その後、惣角師の巡回指導にも随行しているので、その時はこの文章のような毒はなかったと思います。
開祖は、この時に惣角師の合気を身をもって体験し、「武田先生には武道の目を開いていただいた」と言う程の出来事となりました。「目を開かれる」ということは「触発される」とか「啓発される」という意味なので、「大東流の合気」は、これ以後、開祖の真の武道開眼に大きな影響を及ぼしたはずです。

大正11年(1922)に授けられた目録が「合気柔術秘伝奥義之事」で、9月15日に教授代理を許された時に、それまでの「大東流柔術」は「大東流合気柔術」と流名を変更しています。これが「合気」という術理が流名や伝書に取り入れられた最初です。これには出口王仁三郎聖師が「合気」を名乗るよう開祖に勧め、開祖が「合気」を大東流の名に加えることを惣角師に進言し、惣角師がこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言があるそうですが、私も事実であったと思います。
当時の師弟関係では、開祖の発案で惣角師に流名変更など申し出ることは憚れることであったと思いますが、惣角師にお渡しした餞別金4,000円を立て替えた(開祖に「貸すから」と言って与えた)王仁三郎聖師なら出来たであろうと思います。
その時、王仁三郎聖師のことですから「合気」に「神人合一(神と人との合気)」か「愛気」又は「相生(あいいき、あいき)」という言霊による意味を込めたのではないかと思います。大正9年(1920)に開祖が一家を挙げて綾部に移住した時、王仁三郎聖師は、「神人合一の武道を作りなさい」と開祖を励まし、植芝塾を開設しているので、十分に考えられることだと思います。
また、王仁三郎聖師のことですから、既に『武道秘訣 合氣之術』などは読んでいたことだと思いますので、その辺りからの発想もあったかもしれません。

吉祥丸二代道主の証言では、「私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正11年の前半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正11年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです」(『植芝盛平と合気道1』)と言われています。この流名変更は術理としての「合気」が素晴らしいものであったという証でもあろうかと思います。

惣角師による半年間の講習が終わった後のことだと思いますが、大正11年に「合気武術」と呼称するようになったと伝えられていることにも、王仁三郎聖師の介在があったと思います。
竹下勇日記には、昭和3年(1928)2月28日に大東流合気柔術から「相生流合気柔術」に変えたと記されていますが、この「相生(あいおい)」は「あいいき、あいき」から来ていると思います。
もっと後年の昭和8年(1933)のことのようですが、甥の井上方軒(鑑昭)先生によると「合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流(合気)柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝叔父(盛平)を呼んで、『大東流(合気)柔術というのはやめとけ、合気(武道)という名前にしたらいい』といったわけです。(中略)それまでは皇武武道といってました」(『植芝盛平と合気道1』)ということなので、大東流から離れる段階で流名が次々と変わったのには、王仁三郎聖師の考えがあったと思います。皇武武道と称したのは、昭和7年(1932)8月13日の大日本武道宣揚会発足後のことのようです。

さて、惣角師が合気の秘法を開祖に伝授されていたかというと、「否」と言うことになると思います。惣角師が唯一伝授したのは行き倒れになっていた惣角師の面倒を見た山本角義氏であったようで、これは佐川幸義宗範にも伝授されていません。それで、昭和11年(1936)に大阪朝日新聞社に惣角師が突然現れた時に「植芝にはまだ十分教えておらん。習うなら我より習え」と言われていることは、そのとおりです。

68歳の時に師の惣角にも出来なかった触れただけで多数の人を飛ばすことのできる新しい合気の原理を発見した佐川宗範が、「合気の原理は実に細かいものだ、若し聞いたらみんなびっくりしてしまうよ。植芝盛平はわからなかったのであんな風にして教えたのだね」と言っていますが、確かに「大東流の合気」と「開祖の合気」は違っています。
その優劣について佐川宗範の側から論じられていますが、合気揚げだけで判断出来るものではない程、開祖の合気は違っています。
posted by 八千代合気会 at 18:24| 日記

2014年07月02日

武士道とキリスト教

小野派一刀流第17代宗家の笹森建美(たけみ)師が著者で、平成25年(2013)1月に新潮社から新潮新書として出版されました。

著者は、『一刀流極意』を著された笹森順造のご子息で、年期の入ったクリスチャンです。帯には「牧師にして小野派一刀流第17代宗家が説く混迷を生きる心得」「武士道とは愛することと見つけたり」と書かれていて、牧師兼剣術家宗家というのは、日本で唯一人とのことです。
この本では武士道と武道を明確に分けてはいませんが、武士道、武道、そして宗教(信仰)というものを考えるために読んでみました。

「はじめに」に、「この本では、まず日本における明治以降のキリスト教の歴史を振り返り、次にキリスト教のどこが武士道に一致するのかを見ていきます。おそらく読者のみなさんが考えもしなかった共通性や融通性が明らかになるでしょう。日本の文化や歴史について別の観点から眺められるようになることと思います。一方で、武士道が語っていない『魂』の問題、つまり私という人格をどう受け止めるべきかについては、キリスト教の教えを分かりやすくお話ししたいと思います。この新たな視点は、混迷の度を深める社会にあって、ひとつの光明を与えてくれるのではないかと考えています」と書かれています。

武士道とは、「一言で言えば…相手に対する『思いやり』だと考えます」と述べており、「『武』の字はかつて戦う意味を持っていたにせよ、紀元前数世紀にはもう『平和を保つためのもの』という意味に変わってきているわけです。その漢字が伝わった日本では、最初から『武』とは争いを収める意味だと理解されてきました。『はじめに』で触れた平安時代の武術書『闘戦経』にも『兵は本、禍患を杜(ふさ)ぐに在り』とあります。武の本質は世の中の禍患を絶つ事にある。わかりやすく言えば、武の目的は地上から禍(わざわい)を取り除き平穏さを保つ事とはっきり教えています」と武について説明されていて、刮目させられました。

徳川幕府による禁教令が解かれたのは明治6年(1873)でした。それ以前の幕末から明治初期に布教に来ていたアメリカ人宣教師ジェームス・H・バラの下に集まった塾生の中に各藩および仏教界からのスパイが混ざっていたそうです。祈祷会で、おそらく日本を呪っているのだろう、と側耳を立てて聞いていたところ、聞こえてきたのは「この国民は非常にいい人たちです。私たちは犠牲になってもいいから、是非日本をお救いください」という言葉で、スパイたちもこれに心を打たれたという話が載っていて、「この人たちの信仰とは一体何なのか」と深く考えさせられるようになったそうです。

一刀流の極意「切落(きりおとし)」についても述べられていて、刀をまっすぐに振り下ろすためには「まず自分の弱さや迷い、傲慢さを断ち切り、勝ち負けへの執着も捨てる必要があります」ということで、このような心境になれることが、武道が人格形成に資するところかなと思います。

「何事でも名人に近づくと何も考えない境地、つまり無念無想に至ると言いますが、それすらも邪魔です。一刀齊はこの心構えについて、『蚊が飛んでくると自然に手が動く。そのくらい無意識のなかで動けるようになりなさい』と教えています」、
「この一刀流に、剣道のような試合の場はありません。普段の稽古のなかに負ける稽古、勝つ稽古があり、常に勝ち方を教えているからです。また竹刀でなく、木刀で打ち合えば相手を死に至らせるという事情もあるでしょう」などの言葉は、合気道の稽古でも参考になると思います。

「聖書が伝える四種類の愛」には、「ヘセド(アガペー)」という「裏切られても、裏切られても、なお相手を許して受け入れる愛」、「エロス」という「肉欲的で、奪う愛」、「フィリア」という「「親兄弟、友人のために忠誠を尽くす愛」、それに「ストルゲー」という「親が子のためには自己犠牲を厭わないように、自己犠牲を伴う愛」があるそうです。キリスト教の教会において福祉活動が盛んなのは、こういう概念があるからだそうです。
私は、「万有愛護」を「ストルゲー」になぞらえて教えていますが、「ヘセド(アガペー)」というのが神の愛に近いのかもしれません。

これからの日本、或いは日本人が、如何にして世界と関わっていくかを考えたとき、「見ざる、言わざる、聞かざる」や「日本は神国」という価値観ではやって行けないと思います。世界の人々の3人に1人が信じているキリスト教について知り、また、5人に1人が信じているイスラム教について理解を深めることで、日本人である私たちが信じている「和の精神」を発揮できると思います。
この本によって、武道という側面からそのキリスト教についての理解が進むと思います。

「武士道では語られず、解決できない問題とは、自分の『魂』にどうやって向き合えばよいのか、そして死んだ後どうなるかということです」ということですが、今年、稽古仲間や先達に旅立たれた身としては、次は自分と思って死計と取り組む時を告げられたと感じながら読みました。
「キリスト教の魂は人を生かす力であり、同時に私という人格の根元をなすものです。『私という魂』は神から祝福されていると考えられており、個という存在が非常に大切とされています。余談ですが、アメリカでは自己主張しないと生き残れないことが知られています。日本語で『変わった人』はたいへんなマイナス評価ですが、アメリカでは褒め言葉、むしろ周囲と同じ人というほうが気持ち悪いというほどです。そのような国では、小さな頃から自分の個性を伸ばそうと努力しなければならないので大変ですが、実は根っこのところにキリスト教の『あなたという人格は唯一無二』という考え方があります。ですから日本人と比べてみると、『自分には価値があるのか』『何か他人より得意なものがあるだろうか』という問いを飛ばして、個性を磨くことにスムーズに力を注いでいけるという違いがあると考えています」ということですが、これを読んで、さて、人格の形成という面でどれだけ魂を磨けたか、残された時間の中でどのように持っていくか、もっと計画的な人生を送ろうと思わされました。

『大空のサムライ』の中で、第二次世界大戦中、零戦パイロットで撃墜王と呼ばれた坂井三郎が、空中戦の前に落ち着く方法として、「深呼吸を3回して『平常心!』と叫びながら腹に力を入れると落ち着くし、深呼吸をする暇がない時は深呼吸をする事を考えよ」と書いています。戦後、坂井が米軍のパイロットと話をする機会があって尋ねたところ、アメリカ人(クリスチャン)はその時腕時計の針を見たそうです。日本人は「今」に集中したことでしょうし、アメリカ人は次の世でも神が祝福されるようにと祈った上で「今」を捉えたことと思います。アメリカ人に接し、また外国の戦争映画を見て、時計を見る行為の裏にそんなことがあったと思っています。

あるアメリカ人のクリスチャンが言っている次の言葉も、日本人なら、自分ならどう考えるか比較してみるのに良いと思います。
「勇気は戦場に限られるものではなく、或いは家に押し入った泥棒を勇敢に取り押さえることだけに限られるのものでもない。勇気が本当に試されるのは、もっと目立たないところにある。それは、誰も見ていなくても忠実さを保つ、…理解されていなくても信念を保つという、内なる心の試しである」(『Choices That Change Lives』)
やはりクリスチャンであった笹森順造について、「表舞台に立つ一方で、人からはずいぶんと裏切られたものです。『剣道をやる人間には悪い人はいない』という信念を持ってもいました。ただ本当に剣道家に騙されたとき、私が『剣道家にも悪い人がいるじゃないか』と言うと、『あの人は本当の意味で剣道をやっていなかったのだ』と答えるような人でした」と語っていますが、父君も内なる心(魂)の練磨が出来た人だったと思います。
親団体が公益財団法人の認可を得て、公認道場にはそれを維持する高いモラルが求められていますが、「あの人は本当の意味で合気道をやっていなかったのだ」と言われることのないよう、八千代市に限らず合気道をやっている道場の会員一人一人が神様(サムシンググレート、ハイヤーセルフ)を相手にして心を引き締めて行きたいと思います。

posted by 八千代合気会 at 11:15| お勧めの本