2014年11月27日

開祖の合気(6)

帰途、綾部に寄り、王仁三郎聖師に会いますが、そこで祈祷料を納めて祈願が終わったら早々に田辺に向うところだと思いますが、案に相違して翌年1月2日まで逗留しています。これも想像ですが、白滝に決別し、36歳になった開祖が、これからどうして生きて行こうかという悩みをこの時に打ち明けたのではないかと思います。王仁三郎聖師は霊能者です。只の祈祷だけではなく、この時にカウンセリングのようなものをして悩みを聞いたと思います。
その時にテープで話しているようなことも打ち明けたとすれば、「自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ」という聖師の言葉と辻褄が合ってきます。「黙って親の言うことを聞け」と言って育てられた子ではなく、「この子は熊野神社の申し子だ」と言って、一度も父親から声を荒げて叱られるようなことがなかった開祖は、自主独立の人に育っています。したがって、王仁三郎聖師の言はぴったり当てはまりました。
「芸術は宗教の母なり」という芸術観を持つ聖師ですから、綾部に来て武芸を生かす道についても説いたと考えれば、その年の春も過ぎようとする頃、母親も同道して一家で綾部に移住したことに納得がいきます。

大正9年(1920)春、事前に開祖が綾部移住を決意した旨の挨拶に行くと、王仁三郎聖師は、「あんたが来ることは前からようわかっとった」とひどく喜ばれ、「わしの近侍になりなさい。(中略)あんたはな、好きなように柔術でも剣術でも鍛錬することが一番の幽斎になるはずじゃ。武の道を天職とさだめ、その道をきわめることによって大宇宙の神・幽・顕三界に自在に生きることじゃ。大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ。真の武とは戈を止ましむる愛善の道のためにある。植芝流でいきなされ。大本の神さんが手伝うのやさかい。かならず一道を成すはずじゃ」、ざっとそのような意味の言葉で諭されたと、後に開祖は嬉しげに語っていたそうです。

綾部に移ってからは、「神人合一の武道を作りなさい」という王仁三郎聖師の言葉に従うことになり、その後も10年余り惣角師には師弟の礼は尽くしますが、聖師との邂逅により求めるところがはっきりと違ってきたと思います。この時から求め始めたものが「開祖の合気(神人合一から生れる神の愛気という意味の合気)」として結実します。

惣角師について、「観相に長じた出口王仁三郎師は、いちおう一道に達した人物とは見ながらも『数奇な運命の持ち主』では有るまいかと開祖にいい、なにやら『血の匂いがする』とて、人間的には余り好まなかったと聞いている。(略)出口師は、武田惣角師に対する開祖の態度が謙虚に過ぎるのを不思議がり、時には歯がゆがりもしたらしい」(『合気道開祖 植芝盛平伝』)ということから、王仁三郎聖師の手前、開祖が惣角師を避けるようになったのではないかと言われていますが、既にこの頃から武道において求めるものが違ってきていたので、当然の帰結かと思います。

大正11年(1922)の惣角一家の来訪について書かれている文章を読んでも、師弟の礼は尽くしていますが、喜んでお迎えして、少しでも「合気」を習得しようというニュアンスが伝わって来ません。
「(惣角師には住所も教えず綾部に移住し、第1次大本事件で取り壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。)そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。多忙な取り込み中ではあったが、しばらくの間でも柔術を教えてもらった先生であるから、盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい」(砂泊兼基著『合気道開祖植芝盛平』)

井上方軒(鑑昭)先生も開祖が師弟の礼を尽くしたことを述べていますが、何故その必要があるのかと疑問を投げかけています。
「武田惣角先生には、貿易商の私の父と植芝の祖父が道場も作り、一生生活に困らんだけの現金を毎月送って居た。盛平叔父と武田先生がどういう約束をしたのか知りませんが、家土地迄差し上げて、何で叔父が武田先生に遠慮するのか、私は分からなかった」(『植芝盛平と合気道1』)

礼ということに厳格であったか、女兄弟の中で育った所為で、開祖は、優柔不断と思われる程やさしい面を持っていたのではないでしょうか。
posted by 八千代合気会 at 14:53| 日記