2015年01月28日

開祖の合気(7)

記録上、開祖が師に礼を尽くし教授を受けるのは昭和6年(1931)4月7日で最後になっていますが、昭和11年(1936)になって大阪朝日新聞社で惣角師に挨拶もなく立ち去った後、師弟の関係は完全に途絶えます。このことで、大東流側からは惣角師に対する開祖の態度を詰る言葉もありますが、この時には第二次大本事件で王仁三郎聖師や大本の幹部が獄中にあり、その手前とても顔を合わせられるような状況ではなかったかと思います。

『月刊 武道』2014年4月号に、その時の状況が次のように掲載されています。
「昭和7年、久(琢磨)は東京から大阪朝日新聞社に庶務部長として転勤した。赴任直後、久は石井(光次郎)から、天才的な柔術家として植芝盛平を紹介され、警備責任者として、守衛を中心とした社員数名とともに、毎朝早朝、植芝の教授する柔術の修行につとめた。
4年ほど経過した昭和11年6月3日(21日という記載もあり)、大阪朝日の受付に、右手に鉄杖を突き、腰に鎧通しをさした、小柄ではあるが眼光炯炯たる老人が現れ、植芝の師、武田惣角と名乗った上で『ここで植芝が大東流合気柔術を教えているが、彼はまだまだ未熟だ。真の大東流を学ばんと志すならば、自分の門人となって習え』という趣旨のことを述べた。
驚いた久がこのことを植芝に知らせにゆくと、『そうか』と言っただけで、出迎えにいこうともしなかった。
当時、植芝は、技法に関する考えの違いから武田を避けていたらしいが、そのことを植芝・武田両師とも説明しようとしなかったので、要領を得ないまま、久らは翌日から、早朝には従来のごとく梅田の村山邸内に設けられた道場で植芝の指導を受け、午後は武田を社内の宿直室に迎えて稽古をするという状態が何日間か続いた。だが、しばらくして植芝は内弟子を連れて大阪を離れた」

久氏が伝えている以上のことから推測すると、これより以前に師弟の関係は壊れていたようです。それで、惣角師が弟子(開祖)の教え先に突如現れ、前述のような口上になったと思います。それでも開祖は、諍いをせず、大阪朝日新聞社に開祖を紹介した人物である石井光次郎氏には連絡を取り、了解の上で、静かに大阪を離れたと思います。
この時、石井氏に了解を得るか事情を説明していなければ、後に石井氏が財団法人 合気会の理事になったり、開祖の葬儀(当時、衆議院議長)で友人代表を務めたりするようなことはなかったと思う故です。
石井氏は、この後、後輩に当たる久氏との交流も続けていますが、すっかり惣角師の言うことを信用し、惣角師に心酔している久氏にはその事情が伝えられなかったものと思われます。

歴史は、当事者それぞれの事実があると思いますが、この『月刊 武道』の文章から分かることは、開祖が惣角師と技法に関する考え方が違ってきていたことです。このことは、昭和8年(1933)に発刊された『武道練習』に「百事神と人との合気より言霊表現の誠を以て」と書かれていて、「合気」の意味が大東流と違ってきていることから分かります。

この時点での惣角師の合気と開祖が表せる技術レベルとではまだ格段の差があったと思います。『月刊 武道』には続けて、「武田が最晩年に朝日新聞社で久らに教授した技法は、それ(伝書の内容)をさらに武田自身がより高度に発展させたもので、レベルの上では伝書の域をはるかに超えたものであったと思われる」と書かれています。一方、開祖の技が力を使わないものになったのは戦後のことです。
「私が稽古を付けていただいたが、あまりにも柔らかいので、私も稽古すれば戦前の翁先生のような力が出てくるのですかと尋ねました。翁先生は『戦前は解らず力で稽古していた。今は力は不要。此れが武産合気じゃ』と申された」(高岡貞雄談 http://sighar.com/aiki/syumi04.htmlより)

開祖が惣角師を離れるようになった経緯については、吉祥丸二代道主はもっと詳しく聞かれていたと思います。また、武田時宗氏は、大正11年(1922)に惣角師一家が綾部に滞在した時に6歳で、昭和11年(1936)には20歳ですので、もっと良くご存知であったと思います。
時宗氏は、「植芝さんは惣角の高弟でもあるし長く稽古もしていたので、私は上京の際は一番先に植芝さんのところに挨拶に行きました。植芝さんが亡くなってからは行きませんが、惣角も門人として植芝さんが一番可愛かったんじゃないですか。植芝さんが大阪で警察に捕まった時(一日だけだったが、早朝から深夜まで12、3時間の事情聴取を受けた時)も惣角は心配してました。佐川さん(佐川幸義)と私は、『様子を見てきてくれ』と惣角に言われて行ったのです。その時植芝さんは和歌山の田辺で謹慎していました。元気でいるということで、帰って惣角に報告したところ、『それはよかった』と言っていました。惣角は植芝先生をしょっちゅう心配していました。彼を信頼していて何かあると植芝、植芝と言っていました。とにかく植芝さんはよく稽古していましたよ」(『武田惣角と大東流合気柔術』)と話されています。大人の対応をされての話だとは思いますが、これも事実だと思います。
私は、お二人の武道や合気についての考え方が違ってきた経緯については、開祖が王仁三郎聖師に出会い、求めるところが違ってきたため、やむを得ないことであったと思います。

この時点で、まだ、真の武(真の合気の道)を見出しておらず、獄死の仲間(幹部30名が検挙、16名が獄死又は発狂)の報もあり、開祖も必死であったと思います。

ここまでで、開祖が求めた「合気」が、惣角師の合気とはほとんど正反対になった(根本的に異なる)ようだということにだけ気付いていただければ幸いです。
posted by 八千代合気会 at 15:05| 日記