2015年12月28日

古事記 現代語譯 古事記(7)

武田祐吉が、「昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御三方は皆お獨(ひとり)で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました」と書いている部分は、本居宣長の古事記傳「天地(あめつち)の初發(はじめ)の時 高天原(たかまのはら)に成りませる神のみ名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) (訓高下天云阿麻效下此。「高の下の天は阿麻<あま>と読む、以下同じ」という意)  次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ) 次に神産巣日神(かみむすびのかみ) 此の三柱(みはしら)の神は みな獨神(ひとりがみ)成りまして み身を隠したまひき」の現代語訳です。

古事記の「高天原」を、武田祐吉は「天」と訳しています。一般的にはその理解で宜しいかと思いますが、開祖は「宇宙の姿、全大宇宙」を意味していると捉えられ、その宇宙と一体となることを説かれています。関連する道文を挙げてみましょう。
「高天原(たかあまはら)というのは、宇宙の姿である。宇内の生きた経綸の姿、神(かん)つまります経綸の姿なのである」(『合気神髄』p.111、『武産合氣』p.87)
「高天原ということは、全大宇宙であるが、ことごとく魂のふりかえによって、地上は立派な営みの斎場(さいじょう。神道で祭祀を行う清浄な場所、いつきのにわ)にならなければならぬ」(『武産合氣』p.59、p.77も同)
「天をさがしても地をさがしてもタカアマハラはどこにもありません。ではどこにあるのか。大宇宙がタカアマハラであります」(『武産合氣』p.72)
「生き通しの生命を腹中に胎蔵し(過、現、未の全部を引きしめて)、宇宙も悉く腹中に胎蔵して、自分が宇宙となるのであります。自分が宇宙と一体となるのであります。それはとりもなおさず高天原と一体です」(『武産合氣』p.70)

宇宙と一体(神人合一)なので高天原は自分自身にもなります。
「タカアマハラはまた自己であり、(補足 彼我の対立なく)みな共に手を取合って」(『武産合氣』p.98)

古事記の「高天原」を、開祖は「タカアマハラ」と読まれています。合気神社の例大祭であげる天津祝詞(あまつのりと)も「タカアマハラ」ですが、神社本庁の祝詞では「タカマノハラ」と唱えられているので、「訓高下天云阿麻效下此」と書かれていても本居宣長は当時の祝詞そのままに読みを付けたのではないでしょうか。
「全大宇宙を高天原と称す。…この義(こころ)を声にあらわし、タとは対照力(たいしょうりょく)、カは掛け貫く力(p.120 内部の光が輝いて来る)、アとは神霊顕彰(けんしょう、彰らかに顕る)、宇宙全く張りつむるなり。マとは全く張りつめて、玉となることをいう。またこの極微点の連珠糸(さぬき)となす。神霊元子が活気臨々(かっきりんりん)として活動している義(こころ。気は誤り)を称して、一言にハという。これは活気臨々、至大熙々(きき)というなり。またその造化の機が運行循環している義(気は誤りか。こころ)を称して、ラという。即ち循環運動のことである。 タ(対照力)  カ(掛け貫く力)  ア(神霊顕彰、而して宇宙為る)  マ(全く張りつめたる玉)  ハ(神霊活気臨々、至大熙々)  ラ(循環運行)  かくして至大天球成就畢(おわ)るというなり」(『武産合氣』pp.92-94)
「つまりタカアマハラは造化器官で、すべてのものを生み出す家なのです」(『武産合氣』p.120)

霊界物語でも主に「タカアマハラ」と読んでいますが、言霊で「タカマガハラ」と解いているのもあります。これらが開祖の言霊解の基礎となっています。
「ここに宇迦須美(うがすみ)の神(ウの言霊)⦿(ス)の神の神言(みこと)もちて、大虚空中に活動し給ひ、遂にオの言霊を神格化して大津(おおつ)瑞穂の神を生み給ひ、高く昇りて(補足 アの言霊を神格化して)天津(あまつ)瑞穂の神を生ませ給ひぬ。大津瑞穂の神は、天津瑞穂の神に御逢ひてタの言霊、高鉾(たかほこ)の神カの言霊、神鉾(かむほこ)の神を生ませ給ひぬ。高鉾の神は太虚中に活動を始め給ひ、東に西に南に北に、乾坤(けんこん)巽艮(そんごん)上下の区別なくターターターター、タラリタラリ、トータラリ、タラリヤリリ、トータラリとかけ廻り、神鉾の神は、比古神(ひこがみ)とともにカーカーカーカーと言霊の光かがやき給ひ、茲(ここ)にいよいよタカの言霊の活動始まり、高鉾の神は左旋運動を開始し、神鉾の神は右旋運動を開始して円満清朗なる宇宙を構造し給へり。茲において両神の活動は無限大の円形を造り給へり。この円形( まる)の活動をマの言霊と言ふ、天津真言(まこと)の大根元はこのマの言霊より始まれり。高鉾の神(タ)、神鉾の神(カ)、宇宙に現れ給ひし形( 神霊顕彰。ア)をタカアと言ひ、円満に宇宙を形成し給ひし活動をマと言ひ、このタカアマの言霊、際限なく虚空に拡がりて果てなし、この言霊をハと言ひ速言男(はやことのを)の神と言ふ。両神は速言男の神に言依(ことよ)さし給ひて、大宇宙完成の神業を命じ給ふ。速言男の神は右に左に廻り廻り鳴り鳴りて螺線形をなし、ラの言霊を生み給ふ。この状態を称してタカアマハラと言ふなり。高天原の六言霊(ろくげんれい)の活動によりて無限絶対の大宇宙は形成され、億兆無数の小宇宙は次で形成さるるに至れり。清軽なるもの、霊子の根元をなし、重濁なるものは物質の根元をなし、茲にいよいよ天地の基礎はなるに至れり」(『霊界物語』73-1-2)
「復(ま)たこの至大天球を全く張り詰めたる億兆劫々数の限りの対照力(たたのちから)は、皆悉く両々相対照してその中間(なかご)を極微点(こごこ)の連珠糸(さぬき)にてかけ貫き保ち居るなり。この義(こころ)を声に顕はして「対照(タ)」「掛貫力(カ)」「全く張り詰め玉と成る(マ)」といふなり。故(か)れこの至大天球は極微点の連珠糸なる神霊分子を充実して以て機関とし、活機臨々乎(かっきりんりんこ)として活きて居る也。この義を称して一言に「神霊活機臨々(ガ)」と言ふ也。復たその膨脹焉(ぼうちょうえん)として至大熈々(しだいきき)たる真相を一言に「至大熈々(ハ)」と言ふ也。復たその造化の機が運行循環しつつ居る義を称して一言に「循環運行(ラ)」と言ふ也。故にこのタカマガハラと言ふ六言の神霊機を明(あきらか)に説き明かす時は、天地開闢の秩序を親しく目撃したる如く聞く者の心中確乎として愉快に感得するに至るべし」(『霊界物語』75-0-2)

比較してみると、『霊界物語』75-0-2の言霊解にないアの言霊について開祖が「神霊顕彰、而して宇宙為る」(『武産合氣』p.120)、「神霊顕彰 宇宙全くはりつめる」(『武産合氣』p.93、p.120)という解を与えていることが分かります。これは『霊界物語』10-2-27の「アの言霊は天(あめ)也、海(あま)也、自然也、○(わ)也、七十五声の総名(そうみょう)也、無にして有也、空中の水霊(参照 水穂伝)也。これを以て考ふれば、吾(あ)とは宇宙万有一切の代名詞である」と同71-2-8の「これ即ち言霊学上(げんれいがくじょう)アの言霊活用だ。アは天(てん)なり父なり、大宇宙なり、大権威なり」から来ていると思われます。
アの言霊だけでも「天也、海也」「吾(われ。補足 アとも読める)とは宇宙万有一切の代名詞」ですから、古事記の「高天原」は合気道においては天だけでなく海(や地)、及び自己をも含んだ「大宇宙」という概念に繋がります。

タカアマハラを総括すると大宇宙という造化器官で、それに含まれる小宇宙である自己(という造化器官)と一体となり、その造化の機(エネルギー)が螺旋運動(円転)しながら運化する、宇内の生きた経綸の姿ということになり、それが神人合一した武産合気の働きになります。
これを稽古の中で生かすためには、開祖の言葉そのままに信じて、イメージを持つことだと思います。科学的には、量子力学で自然界に存在するものはすべて波動性を持つということで、その目で見ると皆同じで、一体のものです。そう理解すると相手も含めた空間に存在するものすべてが愛おしくなって来ることでしょう。その自然界(無限大の宇宙)の中心は自分の腹中にあると思うと対立心が消え、自ずと結べると思います。
また、時間的にも、神道の「生き通し」や「中今」、仏教の「今を生きる」という精神で、そのイメージを抱くことだと思います。科学的には、目で見て認識している今は神経伝達に要した時間だけ過去の世界なので、これは自分にとっても相手にとっても同じと理解して、勝速日(戸を開けるとサッと光が入って来る速さ)で、何か感じてから動くのではなく、何か感じた時には動き始めている位の感覚を持って稽古をすると良いのではないでしょうか。ビッグバンの最初の時に存在した素粒子が原子や元素、分子、そして物質に姿を変えて、今もそのまま宇宙空間に存在していると考えると、誰であろうと何事であろうと懐かしく感じて、万有(宇宙に存在するすべての物)に対して愛護の気持ちが湧いてきます。
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2015年12月24日

開祖の合気(14)

9) 合気の稽古
「合気の稽古はその主となるものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真に大なるものが真剣勝負である。武道においては本来、いわゆるスポーツ的試合はない。試合うとすれば生死をかけた試合となる」(『合気神髄』p.161)

「気形」は「きがた」と読みます。「気形の稽古」は「気の型稽古」ではありません。「気形」は英語ではそのまま“energy shape”や“energetic form”と訳され、“fluent attacks, tori(取り)will not allow to be grappled”(http://sanshinkai.eu/glossary/)という定義がなされています。『合気道―剣・杖・体術の理合』(斉藤守弘著)に述べられているところの気体技法の稽古になるかと思います。「相手の手、足に触れない…。気を導き、同化和合することを省略するものではなく、流体技法(気の流れの稽古)の極みが真の気体技法である。この技法は嘗て開祖が見せて呉れた技法である」(同書 第五巻p.36)という説明がなされています。
前掲の道文は『合気道講習会用テキスト』(https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00224/contents/023.htm)にも載っており、また、「それから星哲臣に稽古をつけた時のことである。彼は柔道より出た者であるが、気形として前進法を教えている時、急に背負い投げを掛けて来たのである」(『合気神髄』p.162)と続いている文章からも、開祖の稽古でよく見せられた技法(稽古法)であったと思います。

YouTubeで「気形」「kigata」で検索すると次のようなものがありました。
https://www.youtube.com/watch?v=S6_pEJGfJqY&spfreload=10
都城合気道錬成会H23冬季おさらい演武会 気形・気結びの舞の解説
https://www.youtube.com/watch?v=asVmUhh6Xxw
Katate Ryotetori - kotegaeshi (Kigata)
https://www.youtube.com/watch?v=0hPZ8iJwh5g
Kotegaeshi. Katate Ryotetori. Kigata
https://www.youtube.com/watch?v=huis5oZ2Lc8
Kiriotoshi. Katate Ryotetori. Kigata

開祖の演武や稽古では、次の動画の6:17 以降にあるのと同じような技法(気形の稽古、気体技法)が多見されると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=PaKHSjPlpys

「気形の真に大なるものが真剣勝負である」と述べられていますが、この真剣勝負はガチンコとかフルコンタクトとかいう意味での実戦勝負を指しているわけではありません。文字どおり生死を分ける真剣勝負では、常に勝つ(死なない)という絶対不敗が求められる故、自己を宇宙の中心に帰一して無敵(敵、即ち相手がない無抵抗主義)になるための気形の稽古が欠かせないのだと思います(真剣勝負の話の後に「先生はいつも勝ってばかりいられたのですか」という質問があるので、開祖のお話を聞いていた人は絶対不敗のお話をされていると理解していた。『合気神髄』p.162参照)。
そのような稽古をしようとする時のヒント(道文)があります。
「合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする、自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのです」(『合氣道技法』pp.262-263)
「私は宇宙と一つ、私は何物もない。立てば相手は吸収されてしまう。植芝の合気道には時間も空間もない。宇宙(往古来今謂之宙、四方上下謂之宇。宙:時間、宇:空間)そのままがあるだけなのだ。これを勝速日といいます」(同書pp.260-261)
「植芝の合気道には敵がないのだ。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いです。真の武道には相手もない。敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇宙の中心に帰一することです。合気道では強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要になるのです」(同書p.261)

気形ですが、『霊界物語』に「気形透明」「気形透明体」という言葉があり、そこでは「きけい」と読んでいます。「透明な気体の状態」というような意味でしょうか。気形(きがた)の稽古の気形は、この気形(きけい)という意味と連なります。
「出雲国は何処諸(いづくも)の国と云ふ意義で、地球上一切の国土である。肥河上(ひのかわかみ)は、万世一系の皇統を保ちて、幽顕一致、神徳無窮にして皇朝の光り晴れ渡り、弘(ひろま)り、極まり、気形透明にして天体地体を霊的に保有し、支障なく神人充満し、以て協心戮力(きょうしんりくりょく)し、完全無欠の神政を樹立する至聖至厳至美至清の日本国といふ事なり」(『霊界物語』15-2-11)
「至大浩々漂々恒々として撒霧(さんむ)たる⦿(ス)の時において、その機約の両極端に対照力を起して、恒々湛々たるが故に、その至大の両極端に対照力を保ちて、至大悉く両々相対照してその機威の中間を極微点(こごこ)の連珠絲(さぬき)がかけ繋ぎ、比々(ならびならび)隣々(となりて)ヒシト充実極まり居る也。しかれども気形透明体なるが故に人の眼には見えざるなり。見えねどもこの連珠絲が霊気を保ちて初めて至大天球(たかあまはら)を造る時に、対照力を以て至大の外面を全く張り詰りて球となりし也」(同書81-0-1)

この気形の稽古については、「みだりに(補足 目に見える外の形だけを)真似ることは差し控えるべきであり、又、真似しても何の得にもならない筈である。ここまで練り上げるのが真の稽古であると思う。開祖は『わしは60年間固い稽古を続けてきたから、今日のわしが在るのじゃ』と、気体技法を行った後に我々に語っておられた事をお伝えしておく」(『合気道―剣・杖・体術の理合』第五巻p.36)と戒められています。
しかし、固体(基本)技法と気体技法がまったく違ったものであると思わないで、ある程度の型を覚えたら、気形の稽古とは何かという工夫を重ねるのが良いと私は思います。無抵抗主義ですから、無理矢理に自分の腹中(中心)まで相手を引き込まなくても相手が入って来てくれるのを迎え入れるという心(自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心・意識)の鍛錬は早くから取入れて、自分のものになるよう練り上げるのが良いと思います。

「過ぎし年、入門した或る武道家が道主(開祖)に向い、『私は過去六ヵ月先生について教えを頂いたが、残念なことにまだ極意の技を教えて頂かない。先生、極意技とは如何なるものか形だけでも見せて頂けないでしょうか』と言ったことがある。道主は呵々と笑いながら、『君は何を言っているのか。日々極意の技をやっているではないか。今日教えた入身の投げ技などは、極意中の極意だ。奇想天外な極意などというものは、武道に於てはあり得ないよ』と言ったことがある」(昭和32年刊『合氣道』pp.129-130)
開祖は、この極意の部分を技で示されるのと同時に、長々とした難しいお話の中で説かれていると思います。八千代合気会の会員の皆さんは、ここまでの「開祖の合気」にまとめたことを参考にし、日々の稽古の中で極意(理合)の技を意識し工夫して行きましょう。稽古相手から「吸い込まれるように感じる」という言葉が聞けるようになると、進展していることが分かると思います。

「天地の呼吸に合し、声と心と拍子が一致して言霊(ことだま、ス声と理解すべきか)となり、一つの技となって飛び出すことが肝要で、これをさらに肉体と統一する。声と肉体と心の統一が出来てはじめて技が成り立つのである。霊体の統一ができて偉大な力を、なおさらに練り固め磨きあげていくのが合気の稽古である。かくしてゆくと、世の中の武道の大気魂が、その稽古の場所、および心身に及んで、練れば練るほど、武の気魂が集まって、大きな武道の太柱ができる。柳生十兵衛も塚原卜伝も、あらゆる古今の達人、名人の魂が全部集まり、また武道の気も神のめぐりによって全部集まりくるの理を知り、稽古に精魂をつくすべし」(『合気神髄』p.62、『武道練習』p.15が原典)
posted by 八千代合気会 at 14:28| 日記