2016年01月31日

古事記 現代語譯 古事記(9)

古事記伝の「此の三柱(みはしら)の神は みな獨神(ひとりがみ)成りまして み身を隠したまひき」は「この御三方は皆お獨(ひとり)で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました」ですが、霊界物語では「この三柱神者(みはしらのかみは)並独神成坐而(すになりまして)、隠身(すみきり)也」(『霊界物語』13-0-3)と読んでいます。
ここでも、元は大石凝真素美がそう読んだからのようです。
「此の天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神 此の三柱の神が獨神(す)に成りまして隠身(すみきり)玉ふと申す」(『眞訓古事記』)

どちらで読んでも同じような意味ですが、「この三柱の神は すになりまして すみきりなり」と読むと少し動きが出て来ます。
眞訓古事記には次のように書かれています。
「又 玉ふといふ四聲に澄極(すみきり)と描く時は 只 獨が澄む事となる。又 住極(すみきり)と書く時は 動物が巣に久しく住み極(き)り居る事のみに聞こゆる也。又 炭切(すみきり)と描く時は 仕事となる。此のすみきりといふ事は 蜻蛉が宙宇に中(すま)して 敢て進退上下左右せず 唯 中して居るを能く見る時は、其の四枚の羽を紙の薄さ程に扇ぎて 空氣を叩いて居る也。是を 嗚呼善くすみきりて居るトンボ哉と云ふ也。又 善き獨樂を廻して 其の獨樂が風を起こしつゝ盛に廻り居りて 敢て飛び走らず、唯 一所に止まりて隆々(るる)盛々(るる)と廻り居るを よくすみきり居る獨樂也と云ふ類の、其の動き目が敢て目立たざるを以て、すみきり居ると云ふ也。古事記の爰(ここ)にすみきり玉ふと云ふは、此の三柱神はスに鳴りまして 極乎恒々烈々として、現在 大造化を行ひつゝ 天上天下億兆萬機の往來を一身に保ちて、晝夜を止めず萬機を運轉し玉ひつゝ居玉へども、其の全部を見る事は敢て能はず。愚者は此の天球、地球の大造化の極乎恒々たるを見て 一種の器械の如くに思ひ居る也。
かゝる大々活機を日本語に 唯 四聲に収めすみきり玉ふといふ也。此の四聲に正當する字は決してない故に、衆人は 唯 鼻頭の一少部分許りを見て居る也。其の全身は隠れて居て決して見えないといふ事を示す為に 隠身の二字を用ひる者なり」

したがって、まったく隠れられて何もされていないのではなく、現在も右旋・左旋され造化の業を行われているという意味が強くなります。
開祖は、それを「大神は一つであり宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄(いやさか)の姿である(『合気神髄』p.110」と、現在も造化の業を行われていることを「弥栄」という言葉で表わされています。

「すみきり」を、合気道では「独楽(こま)が最高にフル回転しているさい直止しているごとく映るのと同様に、<気・心・体>が一如となって自在に発動されつつある時には無心無我、魂が静かに澄み切ってある状態に達することをいう」(『植芝盛平 生誕百年 合気道開祖』p.20)と捉えています。眞訓古事記にある独楽(獨樂)の説明と同じです。
これは吉祥丸二代道主による説明ですが、開祖もそうおっしゃられていたのだと思います。

「独楽が最高にフル回転している」から類推すると、この理合は次の道文に関係しています。
「自分の中心を知らなければなりません。自分の中心、大虚空(皆空)の中心、中心は虚空にあるのであり、自分で書いていき、丸を描く。…きりりっと回るからできるのです」(『合気神髄』p.154)
心の状態や意識に関わる理合ですが、体的な技法や鍛錬法としても成り立ちます。「すみきり」を、心を澄ました無念無想とだけ捉えずに、現在も造化の業(愛の働き)を行われていると意味を拡大して、万有愛護の精神が溢れるものと受け取るべきでしょうか。

今年の箱根駅伝を制した青山学院大学が、コアトレーニング(身体のコア<核>となる脊柱<体幹>に近い部分から意識的、優先的に鍛えるトレーニング方式)を取り入れていることはよく知られていることです。参考になるかと思います。開祖の「自分で書いていき」とコアトレーニングの「意識的」にという部分が共通しています。神経伝達から考えても、脊柱に近い部分の筋肉に命令が達するのに要する時間の方が手足の末梢部に達するまでの時間よりも短いので、コアを意識したりコアから動いた方が、動きが早くスムーズになると肯けるところです。

この「すみきり」は次の道文に出ています。
「そして常在(すみきり)、すみきらいつつすなわち一杯に呼吸しつつ生長してゆく」(『合気神髄』p.111)
霊界物語の相当する部分も、もう一度併せてお読み下さい。
「天もなく地もなく宇宙もなく、大虚空中に一点のヽ (ほち) 忽然と顕れ給ふ。このヽたるや、すみきり澄みきらひつつ、次第々々に拡大して、一種の円形をなし、円形よりは湯気よりも煙よりも霧よりも微細なる神明の気放射して、円形の圏を描きヽを包み、初めて⦿(ス)の言霊生れ出でたり。この⦿の言霊こそ宇宙万有の大根元にして、主 (ス) の大神の根元太極元となり、皇神国 (すめらみくに) の大本 (だいほん) となり給ふ」(『霊界物語』73-1-1)

「すみきり」を「常在」と書くときは、次第次第に拡大して、元の雲や霧などの水の粒子がより微細になって全体に散らばって(満ち満ちて)存在している状態を指しています。一方、「澄みきり」と書けば、霧や雲の蒸気が拡散して晴れ渡った青空が現れたイメージです。
開祖が「常在」を当てられているので、「(宇宙)一杯に」ということを表現されていることが分かります。

次に「すみきらい」とは何でしょうか? 
長い間、私には漢字でどう書くのか良く分かりませんでした。それで、思い付いて古語辞典を開いてみました。古語辞典には「霧(き)らふ《上代古語》」があって、霧や霞が一面に立ちこめるという意味でした。それで、「すみきらい」は「澄み霧らひ」という古語だと思います。
霊界物語には、他に「澄切り澄渡りつつ」とか「澄みきり澄み徹(とほ)らひつ」という表現も見られます。

「すみきり、すみきらいつつ」は即ち「一杯に呼吸しつつ生長してゆく」ことで、ムスビの働きを表しています。合気道のムスビは、「腹中に吸収して(すになりまして)、同化・一体化する(すみきりなり)」ということになります。このようなことを見いだされて(道文にはそこまでは書かれていませんが)、開祖は法悦の涙を流されたのではないかと思います。

「昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御三方は皆お獨(ひとり)で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました」と、たったこれだけの短い文章の中に合気道の大切な理合や動きが述べられています。
古神道の神道理論を打ち立てられた方々が古事記の中に宇宙や地球の成り立ち、即ち神の御業(宇宙の営み)が書かれていると考えたように、開祖が見出された真の合気の道の理合や技法が古事記に書かれているというのが開祖のお考えです。

もう一度、開祖の言葉を味わってみましょう。
「無性(むしょう、魂、実体のないこと)と有性(うしょう、魄、実体があること)の大原則ことごとく宇宙の営みの元を生み出した。それが合気の(理合や技法の)根元となる。つまり、(そのことが書かれている)古典の古事記の実行が合気である」(『合気神髄』p.19)

このスミキリは、次の段の「天からの階段にお立ちになつて(天の浮橋に立たして)」とも関連しています。
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2016年01月21日

開祖の合気(16)

10) 合気の鍛錬(武道の鍛錬)
「その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰(じつげつせいしん)はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や名誉や財宝は勿論、強くなろうという執着も一切なくなった。武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を、正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである、と私は悟った」(『武産合氣』p.18)
「この道は、相手と腕力・凶器で戦い、相手を腕力・凶器で破る術ではなく、世界を和合させ、人類を一元の下に一家たらしめる道である。神の『愛』の大精神、宇宙和合の御働きの分身・分業として、ご奉公(武産合氣p.136の「みそぎのご奉公」)するの道である。この道は宇宙の道で、合気の鍛錬は神業(かむわざ)の鍛錬である。これを実践して、はじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである」(『合気神髄』pp.41-42)

この道文の鍛錬は、稽古という言葉では置き換えられないようですので、「合気の稽古」と分けました。
「合気の鍛錬」は「神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬する」=「神業の鍛錬」ですが、「三つの鍛錬」でいうと「心の鍛錬」になるかと思います。

開祖がおっしゃられる(水行、滝行などの禊行とは別で、禊の技という言葉で使われている)「禊」がこの鍛錬法のことです。自分の気を整える(愛の気を充満させる)ことが神業の鍛錬(禊)で、これはまた自己と一体になっている宇宙の気を整えることにもなるので、合気の技は禊の技(禊のご奉公)、小戸の神業といいます。
「息を吸い込む折には、ただ引くのではなく全部己れの腹中に吸収する。そして一元の神(万有愛護の神)の気を吐くのである。それが社会の上なれば、自己の宇宙に吸収して、社会を神の(愛の)気で浄めるということになる」(『合気神髄』p.14)
「一人一人が心の洗濯をし、心の立て直しをする。世界から戦争、喧嘩(けんか)をなくす。それが小戸(おど)の神業(かむわざ)である。…(生み出された愛の気の)ひびきが全宇宙に拡がっていくように鍛錬しなければならぬ」(『合気神髄』p.20)
「これによって、誰に頼まれなくとも自己のつとめの上に、世界の何ものよりも先に立って、みそぎのご奉公(合気神髄p.42の「ご奉公」)をするのであります。…それは自己の六根を磨き上げて(鍛錬して)自己の魂を光らせること(合気神髄p.125の「愛より熱も出れば光も生じ」)です」(『武産合氣』p.136)
「この大いなる合気の禊(みそぎ)を感得し、実行して、大宇宙にとどこおりなく動き、喜んで魂の錬磨にかからねばならぬ。…人を直すことではない。自分の心を直すことである。…真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ」(『合気神髄』p.115、p.150)
「みそぎの技として、合気は最後の愛行のために生まれたものなのである。…万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません」(『武産合氣』p.140)

この「万有愛護の使命の達成」の部分が、柳生新陰流の活人剣も含め、「過去現在にない」「これまでの武道はまだ充分それに達してはいなかった」ところです。その使命達成のためには、仏道でいえば「無」ではなく「衆生済度」を求めることです。開祖の別の言葉でいえば「合気道は世のため人のために」を心掛けることです。

禊は気形の稽古(気体技法)を生きたものにするために欠かせない心の鍛錬です。
八千代合気会の皆さんは、次の道文と併せてここのところを何度も読んで理解を深めて下さい。
「本当に美しい地上天国実現のために、今度(万有愛護の)精神にそって立つ武には、殺生の技はない。つまり、自然の摂理によって、魂魄あわせた引力によって、いかなるものも自己の腹中に吸収され、自己の思うままになるために大きなみそぎの本義がいる。これが(武産)合気です」(『武産合氣』p.162)
「(武産)合気と申しますと小戸(おど)の神業(かむわざ)である。こう立ったなれば、空の気と真空の気を通じてくるところの、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に映しとる。そしてそれを実践する。相手が歩いてくる。相手を見るのじゃない。ひびきによって全部読みとってしまう( 山彦の道)」(『合気神髄』p.119)
「喧嘩争いのない戦いのない平和な美しい楽土の建設に、この大きなみそぎの大道をもって現わさなければならぬ。…顕、幽、神三界の万有万神の定理を明らかになして、この世界の動きと共に相和して、この世の汚れをはらってゆくことが、この武産合気の本義であります」(『武産合氣』pp.181-182)

開祖は、後進に対して次のように望んでおられます。
「『さむはら』とは宇宙の気を整えて世の歪みを正すことである。日月星辰、人体ことごとく気と気の交流(結び)によって生まれたものである。ゆえに世界、宇宙の調整をしなければ邪気を発して、いろいろと災いがおきるのである。この邪気は禊(みそぎ)によって正しくしなければいけない。我が国は古来、禊祓(みそぎはらい。禊:罪を清める、祓:穢れを落とす)をもって大儀式を行って祓う。…禊は、はじめに(禊祓の儀式で)述べたように立て直しの神技の始めに行ずるのであるが、(自分の心の)禊(みそぎ)をして精神の立て直しをすることは特に合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々必ず修業してほしいと思う」(『合気神髄』p.152)

この禊については、何かを削り落とすことと何かを身の内で養い育てることとの両方が求められているように思います。相手に勝とうとする心、倒そうとか投げようとかする心は削り落とし、相手を受け入れ、宇宙(神といっても良い)と一体となり、同化しようと思う心を育てることを稽古の中で行うことでしょうか。そのようにすることが技の上達にも役立ち、人格の向上に繋がることが(相手が自分と組むことを避けなくなることで)理解出来たら、取り組みに弾みがかかることでしょう。
posted by 八千代合気会 at 05:05| 日記

2016年01月11日

古事記 現代語譯 古事記(8)

「宇宙の営みが自己のうちにあるのを感得するのが真の武道なのであります」(『武産合氣』p.77)
この道文を読んでいて、「私の武産の合気は、宗教から出て来たのかというとそうではない」と言われているのと意味するところが同じであると感じました。開祖が体得された真の合気の道は、宗教の教え(記紀などに根拠を置いた古神道の教義)から導き出されたものではなく、真の武道を究めようとして稽古・工夫を重ねた末に感得されたものです。そして、その感得された武道の奥義が宇宙の営み(古事記などに書かれている宗教の真理)そのものであったということです。
私達も稽古、研鑽を積んで、そのような気付き(感得)がある稽古にしたいものだと思います。また、合気道の理合や技法から見て古事記を読み解きたいと思います。

ところで、その奥義である、開祖がおっしゃられる古事記の営み(宇宙の営み)が古事記伝を読めば分かる程度のものであれば良かったのですが、霊界物語を副読本にしても分からないようなことも述べられているので、開祖がおっしゃられることは「ひじょうに分かりにくい」となってしまうのも否めないところです。それは、とりもなおさず、開祖が真剣に取り組まれた証でもあると思います。
これから解説する「右旋・左旋(螺旋運動、円転)」と「すみきり」は、そのような色合いが濃いものです。

吉祥丸二代道主が「円転の理」と名付けられた合気道の動きの右旋、左旋運動は中国武術の動きにヒントがあったかもしれないと思っています。
開祖が中国の八卦掌を学ばれたという説が取り上げられています(Aikido Journal “The Elusive Chinese Influence on Aikido,” by Stanley Pranin http://blog.aikidojournal.com/2012/09/18/the-elusive-chinese-influence-on-aikido-by-stanley-pranin/ 参照)。八卦掌であったということまでは同意できなくても、開祖が満州や蒙古で目にされた中国武術の舞のような動きがヒントになっているということは考えられることです。開祖が中国で柔術を教授されたことが『入蒙記』に記録されているので、そのような時に彼の地の武術を目にすることがあったかもしれない、と私は思います。
「さうして守高(開祖)は王連長や王参謀に暇あるごとに柔術を教授してゐた。守高に柔術を学ぶものは支那将校の中四五名はあつた」(『霊界物語』NM-4-24)

この合気道の技を特徴づけている円転、螺旋運動は古事記のこの箇所には記述がなく、前に示したように霊界物語に「高鉾の神は左旋運動を開始し、神鉾の神は右旋運動を開始して円満清朗なる宇宙を構造し給へり」と書かれています。
道文では、次のように述べられています。
「タカアマハラというは全大宇宙のことであります。宇宙の動きは、高御産巣日神、神産巣日神の右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞の摩擦作用の行為により日月星辰(じつげつせいしん)の現れがここに存し、宇宙全部の生命は整って来る。そしてすべての緩急が現れているのです」(『武産合氣』pp.77-78)

高鉾の神・神鉾の神は、神漏岐(かむろぎ)命・神漏美(かむろみ)命のように男神・女神(陽と陰)を意味する総称的な神名のようで、高御産巣日神・神産巣日神の亦の名ではありません。それで、開祖が拠り所にされたのは霊界物語そのままよりも大石凝真素美の『眞訓古事記』や『弥勒出現成就経』の次の部分ではなかったかと思います。
「かく天地が成り定まる時は、其の地球の中心より上へ天球の底に向ひて、右旋して登り行く機が起る也。是を高御産巣日神と申す也。是と同時に、天球の底より下に左旋して、地球の中心に旋り入る機が起る。是を神産巣日神と申す也。高御産巣日と云ふは、下より上にむすぶ義(こころ、意味)也。神産巣日と云ふは、上より下にむすぶ義也」(『眞訓古事記』)
「然り而して 中心なる地球より 右に螺旋して 天底に昇騰する 氣機あり。其名を高皇産霊の神と謂ふ矣。亦天底より 左に螺旋して 地球に降り着(つ)く氣機あり。其名を神産霊(神皇産霊)の神と謂ふ矣。然り而して経緯 輪廓 條理 脉絡 明細に組織し、極然として濔縫(弥縫、びほう) 紋理する矣」(『弥勒出現成就経』)

勿論、霊界物語もこれらの大石凝真素美の本をベースにしている(これらの本の内容が出口王仁三郎聖師の頭の中に刻み込まれていた)と思います。

右旋・左旋について、なぜ右旋が昇りで左旋が降りになるのかということは後に詳述するつもりですが、古事記のこの箇所には螺旋運動のことは書かれていません。大石凝真素美は、明治まで生きていた人ですから、科学的知見である天体が渦を巻いていることからヒントを得たのかもしれませんが、ムスビ(産霊)によって宇宙が創られることを考えての説明になっています。ここは神名を『日本書紀』から取って高皇産霊、神皇産霊の神と書いた方がこれらの神々の働き(ムスビ)を表していて分かり易いと思います。造化の神ですので、このようなムスビの働きに関する考えが出てきても不思議ではありません。開祖は、その動きが武産合気(ムスビの武)の理や動きと同じであるということで説明されていることが分かります。

合気道の理合ということにスポットを当てて見ると、開祖が古事記の中に書かれていることの諸々を取り上げてその理合を説明されても、この「ムスビ」という一つのものにまとまって来るように思います。私達もそう思って読むと理解出来るようになると思います。
例えば、「これが武産(たけむす)合気の『うぶすな(産土。うぶすは誤り)』の社(やしろ)の構えであります。天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります」(『合気神髄』p.69)ですが、産土の社の構えが天地の和合(ムスビ)を素直に受けた構えで天の浮橋に立つことである、とおっしゃられています。この産土神のご神徳が万物を生み成せる産霊(ムスビ)の力であることを考え併せると、開祖が説明されていることの意味が良く分かって来るのではないでしょうか。

この螺旋運動は「すみきり」という合気道の理合とも関連しています。合気道の稽古や理合から解釈して、古事記の営みに対する理解の度合を深めましょう。
posted by 八千代合気会 at 17:38| お勧めの本

2016年01月01日

開祖の合気(15)

合気道の理念や理合を行動レベルまで落とし込んだものが合気の稽古になります。大変重要かと思いますので、稽古の実効を上げるために(実効性を高めるためではありません)もう少し踏み込んで稽古法について考えてみましょう。

「三元とは剛柔流でその働きは又三つの働きとなる。即ち生産霊(いくむすび) 足産霊(たるむすび) 玉留産霊(たまつめむすび)の働きである。気を起こして流体素、あらゆる動物の本性である。柔とは柔体素で、植物の本性又肉体のように柔らかいものである。剛とは剛体素、大地や岩石のような固い物、鉱物の本性である。これらの上にあって、気によって活動している。気にも悉く剛柔流の働きがある。そして動いている」(『武産合氣』p.161)

この道文を斉藤守弘先生の固体技法、柔体技法、流体技法、気体技法に結び付けると、順に剛、柔、流、そして気の技法、働きになると思います。
『合気道―剣・杖・体術の理合』第五巻のp.35辺りから引用します。
・剛 「固体(基本)技法の体捌きは、双方が静止した状態から技を始める方法である。この静止した状態は、相手に数歩ゆずって片手、両手、肩、胸など完全に取らせた最悪の状態である。この状態から無理なく自分から動いて相手を導き、制する訳である。…固体技法の体捌きは、自ら一歩側面に入って導くことが大事である」
・柔 「柔体技法の体捌きは、例えば片手取りであれば、相手が手首をしっかり握った時には既に体捌きが始まっているというように、“流れ”の技法と固体技法との中間的な捌き方である」
・流(気) 「流(気)体技法の体捌きは体を捌いて相手の気を流し、その流れに同化(同調)する捌き方である」

「気を起こして流体素」ですから、流体技法は、別名「気の流れの稽古法」と理解して良いでしょう。

そして、気体技法は「気形の稽古法」、「(相手を腹中に吸収して一体となる)気結びの稽古法」又は「引力の錬磨の稽古法」として、区別して理解したいと思います。武産合気の神示の「皆、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する。之、武産なり」や「武産の武は、形より心を以て、本とし、之の魂のひれぶり、武としての活躍なれば、之(スの)大神の愛の氣結びである」と照らし合わせると、「武産合気の稽古法」と呼んでも良いかと思います。

体捌きで説明されていますので、いわゆる「楷書、行書、草書」と考えることも出来るでしょうが、「気にも悉く剛柔流の働きがある」ですから、これらを気の側面から眺めてみましょう。しかし、一言で「気」というと意味が曖昧になるので、稽古に取り入れやすい意識という面で捉え、物理学、力学的な法則も当てはめてアプローチしたいと思います。

どんなに気といっても、固体技法や柔体技法では接触点があるので、接触点を動かせばF=ma(力Fは、質量mと加速度aに比例する)という運動の第2法則に従った力が接触点を通じて相手に加わります。流体技法や気体技法でも、投げる時や押さえる時に接触点が出来れば同じ法則の支配下に置かれます。
力(F)が加わった点(接触点)には、必ずこれと逆向きの力(−F)が発生します。これを作用反作用の法則(運動の第3法則)ということは中学校の理科で学んだことです。反作用の力は、必ず作用する力と同一線上(同一作用線上)にあって、大きさが等しく、向きが反対になっているというのがこの第3法則です。

相手と組む前に肩を上げてからストンと落として脱力してから手を取らせたりしても、いざ取らせた手を上げようとすると力が入ってしまい、相手(受け)が上級者であれば、「もっと肩の力を抜いて」と注意を受けたりします。それで、再び肩を上下させ、目をつむって、今度は無念無想になったと思って技を施そうとしますが、どうしたものか上級者のようにスムーズに動かせません。力がぶつかるのはこの作用反作用の法則によるので、これでは「いつまでたっても合気道は難しい」と感じたまま長年稽古を続けることになります。

この法則から抜け出すためには、接触点に力を入れないことです。言葉を換えれば、同一線上で相手の力が返って来る接触点を動かさないようにすることです。更にいえば、相手が、こちらの力が伝わって来ると予測している点(相手の気が込められている接触点)を動かそうという意識を持たないことです。
そのために、指先から気を出して臍や臍下丹田を意識して体を捌く、というようなことをしていると思います。その時に動かしている場所が接触点でないというところがポイントです。
固体技法や柔体技法で投げる時にも、例えば入身投げであれば、相手の首に接触している自分の腕で相手を押し倒そうとしないことも同じ理屈です。この段階では、指先を張ってとか、指先から気を出してと教えられていると思います。腕ではない指先に自分の意識を持って行くことで、力を加えようと意識している位置(自分の指先又は指先の方向)と自分の腕と接触している相手の首とが同一線上に来なくなる(同じ接触点で作用反作用の力が生じなくなる)ので、軽く技が施せるようになります。
入身投げ.jpg


柔体技法では、手首を取らせるのであれば、その隣の関節である肘を柔らかく動かすということで、体捌きは固体技法と同じです。接触点の力を0(ゼロ)にする、と理解している人もいると思いますが、そうすることにより作用反作用の法則が当てはまらない状況を作り出しています。固体技法よりも、自分の動き出すタイミングも早くなっています。
これを、相手を無力化するとか無抵抗にすると考えると、万有愛護の心から外れます。出来れば相手を制するとも思わないで、相手と一緒に技を作り上げるというような気持ちであれば、次の段階に上がりやすくなると思います。この段階では、受けの側の人も何が何でも動かされてはなるものかという頑張り稽古をしないように、小指の方で握って、まず、合気道が上達するのに必要な体や動きを作りましょう。

流体技法は、「気を起こして流体素」ですから、手を取らせる前から心の中で8の字(∞、無限大の記号、繭形)を描きながら動くというように技の動き始めのタイミングが早い稽古法です。剣で打ち込ませる時の開祖の動きを傍で見ていると、動くスピードはゆっくりしているように見えますが、それで余裕を持って剣を避けてしまうので、動きの起こりが早いのだと思います。そのためには膝を柔らかく使うなど、剣道でいう膕(ひかがみ)、膝の裏を軽く伸ばすということも大切です。

気体技法は、相手が自分の手を取ろう、真っ向両断に斬り付けようとした時には、手が伸び、剣が振り下ろされる前に必ず心の中で「位置について」「用意」「ドン」ということを無意識下で行っているので、その気を察知して腹中に迎え入れる無抵抗主義、万有愛護の稽古になります。最初は真似事から始めても、意識して稽古している内にそれに近づいて、やがてそれを意識しなくなった時に相手の気が分かるようになるのではないでしょうか(https://www.youtube.com/watch?v=_vag_o-9Mas参照)。

柳生新陰流の活人剣(かつにんけん)では、「相手に十分に働かせ、相手の人中路(正中線)と、自らの人中路を合わせて(補足 相手の人中路が自分の人中路に飛び込んで来る)、自らの人中路を截(き)り徹す」ということですから、古くからそのような吸収して一体となる技法があったと思います。この活人剣について、柳生延春宗家は、「正しく使えば、百発百中勝ちます」と言われています。
このような活人剣の働きを知れば、八千代合気会の皆さんも、開祖の「合気の稽古はその主となる(主要なる)ものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真に大なるものが真剣勝負である」という言葉を素直に受け入れられると思います。
posted by 八千代合気会 at 12:26| 日記