2016年03月31日

古事記 現代語譯 古事記(12)

「天地の為に心を立つ、生民の為に命を立つ、往聖(去聖)の為に絶学を継ぐ、万世の為に太平を開く」という北宋の儒家 張横渠(ちょう おうきょ)の言葉がありますが、「去聖のために絶学を継ぐ」ということが出来るので、開祖は、疑いもなく直弟子ではない我々後世のために幾重にも重なる言葉で教えを遺されていると心得て、理解に努めたいと思います。
「なぜこのわしの教えることを筆記しようとしないのだ。油断するな。君ら内弟子たる者が身近におって、このわしの話や教えというものを書き残し、記録しなければ、将来と後世にこの植芝の教えや心というものを誰が伝えるのだ! これからは努めて記録するように。それが必ず君らの修業の糧となるであろう。そして、君たちにおいては武術の修業ばかりでなく、油断なく古今の聖賢の教えを尋ね、努めて心の修業と養成を自己の成長に課すことが大切である」(『伝承のともしび』pp.131-132)

そうするためには、開祖のように直接内流や間接内流を受け、稽古の中で想像力を働かせ、工夫して行くことだと思います。
直接内流とは、アウグスト・ケクレ(有機化学者)が1匹の蛇が自身の尻尾に噛み付きながら回っている夢を見てベンゼンの環状構造を思いついたとのと同じように、夢やひらめき(直感や霊感)を受けることです。
間接内流とは、アイザック・ニュートン(物理学者、数学者、自然哲学者)がリンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたように、何かを見たり読んだり、或いは人の話などからヒントを得ることです。
科学的なアプローチをするのであれば、「仮説を立てて検証する」を繰り返すことでしょうか。
「例えば、天地の真象をよく見て、自らこの真象によって悟る。悟ったらすぐに行う。行ったらすぐに反省し、という具合に順序をたてて、悟っては反省し、行っては反省するというようにして、だんだん向上していただきたい」(『合気神髄』pp.164-165)

開祖が古事記や宗教の教えからイメージを膨らませて天の浮橋に立つという概念を形作られているので、この部分は我々もイメージを膨らませて自分のものにすることが肝要です。
「故に正覚にて自己の思ふままに天地 春夏秋冬 万有を利用し、又 万有の真性 姿態 言行も見直し、聞直し、清く善美に武技に直して達行する事を得、又 天地人和合のつるぎ(祭政一致の両刃の天の叢雲の神剣)と現はれ、自己の想ふままに自己を清練なすにあり」(昭和13年刊『武道』序文)

「オノゴロ島」は古事記の表記が「淤能碁呂嶋」で、古事記伝で「おのごろしま」と振り仮名が付いているものです。「自(おの)ずから(自然と)凝り固まってできた島」の意味なので、「自凝島とも表記されています。日本書紀では「磤馭慮島(おのころじま)」なので、「おのころじま」「おのころしま」という読み方もあります。
霊界物語では「自転倒嶋」又は「自転倒島」という字が当てられていて「日本」のことだとしています。
「それゆゑ日本国は、地球の艮(うしとら)に位置して神聖犯すべからざる土地なのである。もと黄金(きん)の円柱が、宇宙の真中に立つてゐた位置も日本国であつたが、それ(竜体)が、東北から、西南に向けて倒れた。この(竜の形をした)島を自転倒嶋(おのころじま)といふのは、自(おのづか)ら転げてできた島といふ意味である」(『霊界物語』1-3-21)
「いよいよ本巻より、古称自転倒島(おのころじま)すなはち現代の日本国内における、太古の霊界物語となりました」(『霊界物語』16-0-1)

道文では「おのころしま」又は「おのころじま」と読まれ、「地球」と括弧書きがされています。川面凡児(神道家)が「自転(おのころ)島」と書き、球形にして自転をなす地球と捉えていたのと同じです。武道においては大地(地球)の上に真っ直ぐ立つということの重要性から、開祖は、おのころ島を日本ではなく地球とされたと思います。
「それで自分がみそぎのため、音声を言葉を、つまり自分の心のひびき、五音五感五行五元五臓五体の順序に、自己の魂の緒の動きは悉く宇宙にひびきつらぬき、又天地、オノコロ島(地球)にひびき、すべての国々、すべての万有万神にも自分の魂より発する処の言語も又、その魂の糸筋(魂の緒)のむすびによって、悉く人の思う通りに世界に通じることになる」(『武産合氣』pp.183-184)
「右足をもう一度、国之常立神(くにのとこたちのかみ)の観念にて踏む、右足は、淤能碁呂島(おのころしま)、自転公転の大中心はこの右足であります」(『合気神髄』pp.69-70)
「一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱に中に入れるな( 目に見える体の中にだけ留まると思うな)。気は(体外にも出ていて)いながらにして淤能碁呂島(おのころじま)を一のみに出来る。気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ」(『合気神髄』p.131) 

高天原(タカアマハラ)と淤能碁呂(オノコロ)の母音に着目したのは日月神示の岡本天明が最初のようですが、これらを天明に倣ってアイウエオ(天火結水地)に当てはめると全体像が分かって来ます。
 ア(天)−高天原(宇宙) TA-KA-A-MA-HA-RA
 イ(火)−天に近いもの(陽、魂、霊)
 ウ(結)−産す MU-SU
 エ(水)−地に近いもの(陰、魄、体)
 オ(地)−淤能碁呂(地球) O-NO-KO-RO

そして天の浮橋 A-ME-NO-U-KI-HA-SHI を見ると天火結水地の母音(A I U E O)をすべて含み、開祖によるここまでの説明はありませんが、「天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です」(『合気神髄』p.69)という道文の理解の助けになると思います。 
「天の浮橋とは、火と水の十字の姿である」(『武産合氣』p.48)
「天地の精魂凝りて 十字道 世界和楽の むすぶ浮橋」
「天の浮橋、舞い上がり舞い下がるところの気を動かすことが肝要であります。地球の動きでもそう。天運循環して、ここにはじめて教えの中心があるのであります」(『合気神髄』p.28) 
「いづとみづ 十(あいき)と生りし黄金橋 富士(火)と鳴門(水)の仕組なるかな」
「そして天の浮橋にたたされたならば、全大宇宙と自分というものは別のものではなく、一つになっている」(『武産合氣』p.102)

これで、この段の古事記の営み(古事記に書かれている宇宙の営み、運化、経綸)は「右旋・左旋運動(循環運行、天運循環、すみきり、自転・公転)」であることが分かったと思います。
開祖は、稽古の前に杖(じょう)を持って神楽舞を舞われました。それは天神楽(あめのかぐら)といわれているとおり、天の浮橋に立って「塩コヲロコヲロにかきなし」という所作を含むものです。この営み(動き)の共通性が開祖の天地と一体、神人合一を導き出すものになっています。それだけ、この部分の古事記の営みは合気道にとって重要なものです。
「私たちは顕(けん)、幽(ゆう)、神(しん)の三界にわたって、これを守り、行じてゆく責任があります。神楽舞の始め(start)は『天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たして(お立ちになって)』という。水火のむすびであります」(『武産合氣』p.187)
開祖は、天神楽を舞われることにより、水火のむすびの状態になられてから稽古に入られたと聞いています。
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2016年03月21日

開祖の合気(19)

11) 武道の奥義、合気道の極意
道文に「合気の○○」と書かれていなかったので、開祖の合気のリスト(2015年7月8日のブログ 開祖の合気(8))には載せませんでしたが、「武道の奥義(奥儀)」「武の奥意」や「合気道の極意」「武の極意」、或いは単に「極意」という言葉で述べられている部分があります。
ちなみに「合気道練習上の心得」を除き「秘伝」という言葉は使われていません。

これまでに引用した部分とも重なりますが、<奥義>と<極意>に分けて抜き出します。このように分けてみると、開祖が言葉をかなり厳密に使われていることが分かります。注意してお読み下さい。同じことを述べられている部分もありますが、開祖がそれだけ概念をきちんとまとめられていたと思って読むと、涙が出てきます。

<奥義> 「結びの技、岐美の神業」
「(昭和20年(1945)の白い幽体との稽古の後)新たに、日をおいて立つと、木剣も自分も光の雲もなく、宇宙一杯に自分が残っているように感じた。その時は白光の気もなく、自分の呼吸によって、すべて宇宙の極が支配され、宇宙が腹中に入っていた。これが宗教の奥儀(奥義)であると知り、武道の奥儀も宗教と一つなのであると知って法悦の涙にむせんで泣いた」(『武産合氣』p.131)
「念を去って皆空の気にかえれば生滅(しょうめつ、勝ち負け)を超越した皆空の御中心に立ちます。これが『武道の奥義』であります」(『合気神髄』p.80)
「また、念を五体から宇宙に気結びすれば、五体は宇宙と一体となって、生滅を超越した宇宙の中心に立つことも出来る。これが武道の奥義である」(『合気神髄』p.105)
「武道の奥義は、念を五体から宇宙と気結びし、同化して生死を超越し、宇宙の中心に立つことである」(『合気神髄』p.175)
「今迄の私の武の奥意(奥義)は一剣に生殺与奪の力を集め、相手を自己の想うままにして、栄えの道と喜びの道の案内をすることであった」(『武産合氣』p.128)

<極意> 「禊の技、小戸の神業」
「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。 合気道の極意は、己を宇宙の(万有愛護の)働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。 合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである」(『武産合氣』p.13)
「とにかく宇宙の営みの霊波のひびきをよく感得することです。技はそのひびきの中に生れるのです。だからして道歌に、
日地月(にっちげつ) 合気になりし橋の上 大海原は山彦の道
天地は汝(な)れは合気とひびけども 何も知らずに神の手枕
武とはいえ 声もすがたも影もなし 神に聞かれて答うすべなし
と歌った。
極意とは自分を知り、理を究めて、合気をもってみそぎの技とするのです」(『武産合氣』p.135)
「合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我はすなわち宇宙』なのである。
そこには速いとか、遅いとかいう、時間の長さが存在しないのである。この時間を超越した速さを、正勝(まさかつ)、吾勝(あがつ)、勝速日(かつはやひ)という。正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。
では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。
それには、まず宇宙の心を、己の心とすることだ。宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来(こおうこんらい)、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。
愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。
宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。
真の武道には敵はない、真の武道とは愛の働きである。それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の道こそ愛の現われなのである」(『合気神髄』pp.34-35)
「合気というものは、森羅万象どんなものでも、極意に取り入れなくてはならない。取り入れるのではなく、教えを受けなくてはならぬ。…森羅万象は武道における大いなる教えであります。これを見のがしてはいけない。神が表(おもて)に現れるということは、(万有愛護の)精神がことごとく天地に光っているということだが、皆、これを理解しない。…きれいな心になってしまえば何でもないが、しかしそれは容易なことではない」(『合気神髄』pp.57-58)
「今までは形と形の物のすれ合いが武道でありましたが、それを土台としてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる。自分に愛の心が無かったら万有愛護の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいかぬ。無抵抗主義、これこそ霊界の処理法であり、念彼(ねんぴ)観音力と申します。武の極意に形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります」(『合気神髄』p.129)
「宇宙の気はすべて魂の円におさまります。おさまるがゆえに技も無限に包蔵され、生み出すこともできます。これが合気の魂の円であります。
この魂の円がなければ栄え、また精進、魂魄(こんぱく)和合のはこびはできません。これがなければすべて五体への還元はなくなるのであります。魂の円(原文は円の魂)の皆空は宇宙一体に帰します。
これは合気の武の根元でありますが、魂の円を体得した極意には、相対の因縁動作を円に抱擁し、掌(てのひら)に握るごとく、すべてを吸収します。己に魂があれば、人にも魂があり、これを気結び、生産びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します。いかなるものも自由にとけるのが円であります。
円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」(『合気神髄』p.121)
「目に見えざる世界(気形)を明らかにして、この世に和合をもたらす。それこそ真の武道の完成であります。今までは形と形のもののすれ合いが武道でありましたが、それを土台としまして、すべてを忘れ、そのうえに自分の魂をのせなければなりません。愛の心が無かったなら万有愛護の大精神の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいけません。武の極意は形ではありません。心は自在に生じ、気は一切を支配する本源であります。…橘の小戸(おど)の神業(かむわざ)、禊(みそぎ)の技、これが合気道です」(『合気神髄』pp.154-155)
「私は武道を通じて肉体の鍛錬を修行し、その極意をきわめたが、武道を通じて、はじめて宇宙の神髄を掴んだ時、人間は『心』と『肉体』と、それを結ぶ『気』の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。『気の妙用』によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和するのである」(『合気神髄』p.178)

数年前、地域社会指導者研修会で教えを受けた師範に「道主は、開祖から一子相伝で秘伝のようなものを受けられているのですか」とお尋ねしたことがあります。その師範のお答えは「そのようなことはないと思います。皆、自分で見出すものです」でした。

開祖が難しいお話をされた後で技を示演される時、そのお話と技とは必ず関連があったはずです。そして、多岐にわたる形而上学的なお話も形而下の技のポイントにすると、ほんの数点にまとまると思います。それでなくては、とっさのときに技が役に立たないと思う故です。
そのような観点から、この「奥義」と「極意」の二つを自分で概念化し、それが技にどう結び付いているかを研究してみて下さい。

開祖のお言葉から何かを見出すそうとするのは、まるでジグソーパズルを組み立てているような感じがします。しかし、開祖は言葉の使い方が厳密なので、何とかはめ込むことが出来ると思います。ジグソーパズルは外枠(フレーム)がないと格段に難しくなります。それで、皆さんが自分なりに理解しようとされる時、私のこのまとめをそのフレームとして使って頂けると、途中で放り出さなくて済むのではないかと期待しています。

開祖の教えを学ばれる時の八千代合気会の会員の皆さんの目の輝きに力づけられ、私もやっとここまで辿り着くことが出来ました。感謝しています。
posted by 八千代合気会 at 23:51| 日記

2016年03月11日

古事記 現代語譯 古事記(11)

水は横に流れ、火は縦に燃え上がる性質を持っているとするのが大多数の言霊学者の考えですが、大本教はこれと逆です。天の浮橋に立つという開祖の教えは、水(体、身)を縦にし火(霊、心)を横にするということで、大変重要なものですが、開祖も大本に行かれなければこの発想は出て来なかったのではないかと思います。
「スの言霊は鳴り鳴りて、遂に大宇宙間に火と水との物質を生み給ふ。そもそも一切の霊魂物質は何れもスの言霊の生むところなり。しかして火の性質は横に流れ、水の性質は縦に流るるものなり。故に火は水の(補足 縦に伸びる)力によりて縦にのぼり、また水は火の横の力( 横に伸びる力)によりて横に流る。昔の言霊学者(げんれいがくしゃ)は火は縦にして、水は横なりと言へれども、その根元に至りてはしからず、火も水なければ燃ゆる能はず光る能はず、水もまた火の力添はざれば流動する能はず、遂に凝り固まりて氷柱(ひょうちゅう)となるものなり。冬の日の氷は火の気の去りし水の本質なり、この理によりて水は縦に活用をなし、火は横に動くものなる事を知るべし」(『霊界物語』73-1-12)

この考えは、山口志道の水穂伝からのものです。
「息(いき)胞衣(えな)の内に初(はじめ)て吹(ふく)を号(なつけ)て、天浮橋(アメノウキハシ)といふ。言(いふ)心は、アは自(おのつから)と云ことなり。メは回(めぐる)ことなり。ウキはウキ・ウクと活用(はたらき)、ハシはハシ・ハスと活用(はたらく)詞(ことば)にて、ウは水にして竪(たて)をなし、則 sp-018-16.gif(ウキ)なり。ハは火にして横をなす、則、sp-019-16.gif(ハシ)なり」(『水穂伝』火之巻一)
これらの記号は「布斗麻邇御灵(ふとまにのみたま、御灵は御霊)」の図にあるもので、山口志道が荷田訓之から伝えられた「稲荷古伝」の形を用いてその意味を解いたものです(http://kotodamart.eco.coocan.jp/mizuhonote02.htm参照)。

なお、霊界物語の次の箇所(下線部)は間違っているようです。大本教の霊界物語に詳しい方に確認しましたが、どうして違っているかは分からないとのことです。
「イザナギの命の御名義は、大本言霊(おほもとことたま)即ち体( 本体、本質)より解釈する時は、イは気(いき)なり、ザは誘(さそ)ふなり、ナは双(ならぶ)ことなり、ギは火にして即ち日の神、陽神なり。イザナミのミは水にして陰神なり、いはゆる気誘双神(いざなみのかみ)と云ふ御名であつて、天地の陰陽双びて運(めぐ)り、人の息双びて出入の呼吸(いき)をなす、故に呼吸(いき)は両神在(いま)すの宮である。息(いき)胞衣(えな)の内に初めて吹くを号(なづ)けて天浮橋(あめのうきはし)と云ふ。その意義はアは自(おのづか)らと曰(い)ふこと、メは回(めぐ)ることである。ウキはウキ、ウクと活用(はたら)き、ハシはハシ、ハスと活用(はたら)く詞(ことば)である。ウは水にしてsp-018-16.gif(うき)也。ハは(ママ、火の間違い)にして横をなす、即ちsp-019-16.gif(はし)である」(『霊界物語』10-2-27)

古事記などにある那岐・那美二尊が天の浮橋の上に立って島生み、神生みの修理固成の業をなされたように、開祖は、合気道においても最初に天の浮橋に立たねばならないと教えられています。そこから生まれてくるものが武産合気( ムスビによる武技で、それにより技がどんどん産み出される武道)になるからです。
「この道は、天の浮橋に最初に立たなければならないのです。天の浮橋に立たねば合気は出て来ないのであります」(『合気神髄』p.26)
「この合気も、また天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。これを武産合気といいます。「オ」の言霊(『霊界物語』6-5-28 立花の小戸のあはぎが原に鳴る おこゑ を天の浮橋といふ)、「ウ」の言霊、これは天の浮橋・・・。言霊とはひびきですから、宇宙のひびきをことごとく身の内に受け止めるのです。それで霊界をこの人の鏡に映しとる」(『合気神髄』p.27)
「オ」の言霊( 下に大地に降ってオの言霊が生まれる)は地ですから大地に真っ直ぐ立つこと、「ウ」の言霊は結ぶ(宇宙のひびきをことごとく身の内に受け止める)ことと理解して良いと思います。

この天の浮橋に立つということは2012年10月2日〜2014年4月23日のブログにまとめてありますが、概念的には空間と時間(宇宙。宇:空間、宙:時間)の中心に立つことです。開祖が「私の真の姿を認めてくれたのは、五井先生と出口王仁三郎聖師だけだ」とおっしゃられた白光真宏会の五井昌久先生は、天の浮橋に立つということについて「タテ、ヨコ十字交差の真中に立つ、ということですよ」と言われ、「この言葉はピッタリあてはまらないのだけれど、無限次元の中心というところかな」と言われたそうですが、そのとおりだと思います(http://www1.vecceed.ne.jp/~kyusei/sub47.htm)。三次元の空間だけでなく、過去・現在・未来の中心にも立つのです。
想念(自己の思い)の世界でのことだと思いますので、これは何だろうというところから始めて、技の中で工夫して行けばと思います。
「我々は魂の気の養成と、また、立て直しをしなければなりません。合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の内に吸収し、結ぶ。そして世界中の心と結んでいくのであります。仲よく和と統一に結んでいくのです。…すべては結びでやる。それでないと本当の強さは出てきません。それでないと皆さんの稽古が無駄になってしまうのです。
それには合気道は天地の合気、神武以前の天と地を結んでしまうのであります。声なき声をもって、魂の気を組織しなければいけません。天の浮橋、舞い上がり舞い下がるところの気を動かすことが肝要であります。地球の動きでもそう。天運循環して、ここにはじめて教えの中心があるのであります。
その中心はどこにあるかといえば、自己にあるのです。智恵正覚を満天に豊満して、本当の力をもって一飲みにしてかからなければ本当の合気は難しいのです」(『合気神髄』pp.28-29)
「合気の仕儀は、宇宙の気、淤能碁呂島の気、森羅万象の気を貫いて、息吹して、そしてこの三界を守り、かつは大地の息に己の息を合わし、息において生み出す。言霊の妙用の息を私の行によって悟ってともに。気のみわざ 魂(たま)の鎮(しず)めや禊技(みそぎわざ) 導きたまえ 天地(あめつち)の神」 (『合気神髄』p.92) 
「天の浮橋に立った折には、自分の想念を天にも偏せず、地にも執(つ)かず、天と地との真中に立って大神様のみ心にむすぶ信念むすびによって進まなければなりません。そうしませんと天と地との緒結び、自分と宇宙との緒結びは出来ないのであります」(『武産合氣』p.72)

空間だけでなく時間ともなるとなかなか概念がまとまらないかもしれませんが、量子力学的な捉え方をして波動とか波動エネルギーで考えれば、空間・時間の中心と広がりを持った空間・時間との連続性が理解しやすくなるのではないかと思います。

「大地に真っ直ぐ立つ」ということについては、俳優の榎木孝明さんがオーラの泉で「正中の理」を説明されているので参考になると思います。[古武術]の所を見て下さい。
http://aura.happylife7.com/a/8b.html
また、次の「正中線とは何か?」ももう少し進んだ人のためになると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=7CyqGrvKo8I(正中線とは何か?正中線の正体とは)
posted by 八千代合気会 at 17:22| お勧めの本

2016年03月01日

開祖の合気(18)

補足ですが、英語で稽古というとpractice、training、exercise、lessonなどがあります。この内practiceとtrainingは次のように明解に使い分けられているそうです。
practice(一度身に付いたら無くならないことを身につける練習、自転車に乗れるようになるための練習など、運動神経などの神経系に対するアプローチ)
training(継続していないと無くなってしまうものの訓練、筋肉系に対するアプローチ)
このように分けて考えて稽古法を吟味すると、稽古の実効を上げることが出来ると思います。

鍛錬については宮本武蔵の有名な言葉があります。
「千日(せんじつ)の稽古を鍛(たん)とし、万日(まんじつ)の稽古を練(れん)とす。能々(よくよく)吟味有るべきもの也」(『五輪書』水之巻)
稽古に稽古を重ねることが鍛錬であるという意味だと思いますが、英語に訳すと、鍛をdiscipline(精神修養などの訓練、mental disciplineで精神の鍛錬)、錬はrefining(磨きをかけること)としているものがありました。
これまでのところでは、開祖が言われる鍛錬(神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬すること)と武蔵が定義したものとは少し目的とするところが異なるようです。
吟味有るべきとは、考え、調べ、良いものを選ぶべき、又は見出すべきという意味で、工夫すべきということです。

一般的に、鍛錬の方が稽古よりも広い意味で使われています。例えば、「合気道練習上の心得」(『合気道のこころ』p.145)には「合気道は心身を鍛錬し」と書かれており、「三つの鍛錬」(『合気神髄』p.164)にも「己れの心を宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」「己れの肉体そのものを宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」「心と肉体とを一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」とあって、心と肉体及び気を鍛えることをすべて鍛錬と言っています。

「手がふれたら指一本で抑えることが出来た。この時、ウナギ掴み、すなわち気でもって相手を抑える即位づけ(昭和32年刊『合氣道』p.185の続飯づけ。「即ち位付け」は誤り)の妙法を覚ったのである。こうして合気の真の鍛錬法が出来てきたのである」(『合気神髄』p.164)は、「気でもって相手を抑える」ですから、気の鍛錬のことを指しているようです。鎮魂行法よりも、もっと技への応用が進んでいると思います。

『絶対不敗の武、「合気道」 植芝盛平という「大宇宙」』という題の文章が『秘伝』1997年9月号に掲載されました。特集で、「伝説の開祖を、深遠な術理をいま改めて検証する」という副題が付いています。ペンネームを桑沢慧という方が書かれています。剣道四段(当時)の方です。そこに興味ある実験が書かれていましたので、長くなりますが引用します。
「かつて、私は普段の剣道の稽古である実験を試みたことがある。実験といっても、それは技術的なものでもなければ、稽古内容に工夫を凝らしたのでもない。攻め合う際の、心のあり方を変えてみたのだ。それまでの私は高段者に対してはいうに及ばず、先輩や朋輩たちにもいいように打たれる一方で、逆襲しようとむきになればなるほど、その情況は悪化の一途をたどった。無心になれ、とアドバイスをもらい、それには禅が一番なのだろうと短絡的に考え、ただ座することに集中してもみたが、付け焼き刃の座禅などをいくらやったところで邪念が踊るばかりで、無心の心境などになれるはずもなかった」
「打たれまくる原因を自己分析するに、どうも私は戦闘に徹することが苦手なようだった。闘争本能が先天的に欠落しているのか、たとえ自分ではどんなに熱くなっているつもりでも、心のどこかが冷めていて、本心から相手を倒す行為に没入できない。それが身体の隙となって現れ、相手にとってはいともたやすく打つことができるらしい。これは格闘技をやる上では致命的な欠陥だ。心の冷めた部分を何かで埋めないと、現状は打開できない。そこで考えたのは、相手を敵とは思わず、むしろ逆に『あなたが好きだ』と思うことだった」
「『攻めが変わった』と言われるようになったのはこの実験を始めて間もなくだった。私自身、相手の目を見続けることができるようになったことと同時に、相手の動きが実によく見えるようになり、一方的に打たれまくるという醜態から次第に遠ざかっていった」
「その内、私の変化に気づいた師範代や朋輩たちが、何か特別な訓練でもしているのか、と尋ねてきた。私は正直に答えるのが面はゆく、言葉を濁していたが、ある日親しい朋輩に実験のことを打ち明けた。ところが、あなたが愛しい(あなたが好きだ)と思いながら稽古している、と言うと気味悪がられてしまい、冗談ということにされてしまった。我々日本人は愛という言葉を男女間の恋愛に限定して捉えがちなことが、争っているときに愛しく攻める、という矛盾した行為への理解を妨げているように思えた」
「盛平翁の言う愛気と『従来の武芸者が口にするのとは違う』合気との関係を、以下のように理解した」
「相手が放つ気がいかに大きくても、それが殺気であっても、従来の武道のように合気を外すことなく、愛気を以て相手と気を合わせる。殺気と殺気のぶつかり合いならここで勝敗のやりとりになるのだが、愛気は殺気をも呑み込んでしまうので、攻撃をしかけた方が負ける。なぜなら殺気とは勝ちたいという欲望から発する個人的な欲求であり、目的を果たせば消えてしまう一過性のものだ。これに比べ、愛気は自分を倒しに来る相手をも生かそうとする慈愛の心、言い換えれば過去から現在、そして未来へと繋がっている生命の連続性を慈しむ心から発しているため、各々が内包する時間に一瞬と永遠の違いがあり、一瞬に賭けて欲望を満たそうとした相手は、永遠の中に吸収されるようにこちらに気を飲まれてしまい、その結果が負けという形で現出する。盛平翁が『争おうという気持ちをおこした瞬間に敵はすでに破れている。そこには速いとか、おそいとかいう時の長さが全然存在していない』とするのも、こう考えれば理解できる」

この実験が、相手を動かそう、相手を投げよう、相手を倒そうという気持ちから離れて、開祖の言葉のとおりの稽古をすることを促すものになれば良いと思います。そして、相手から「何か特別な訓練でもしているのか」と尋ねられるようになると一層の励みになると思います。

合気道は試合を行わないので、勝ち負けという結果は分かりませんが、稽古の中で万有愛護の心で相手を包み込むことは出来るはずです。愛おしいという気持ちは、孫が懐に飛び込んで来るのを抱き留める時の気持ちと同じです。目に入れても痛くない孫なら、空っぽにした腹中に入れるのは訳がないことだと思います。八千代合気会の会員の皆さんは、どうぞ工夫をしてみて下さい。

工夫は鍛錬の重要な要素だと思います。その工夫の際の参考になればと思い次の図を示しておきます。
作用反作用S.jpg

以上から、開祖は、稽古法、鍛錬法についても(多分、ノートに)しっかりとまとめられて道文にされていることが分かります。「開祖の合気」ということで道文を手掛かりに調べてみましたが、これで確かに開祖の合気、開祖が開かれた独自の合気の道が確立されたことが分かって頂けたかと思います。
posted by 八千代合気会 at 06:59| 日記