2017年06月29日

合気道の創始−命名(2)

「盛平はそれまでに、起倒流柔術、柳生流柔術、大東流柔術の免許を受けているが、綾部に来てからは、彼の武道に対する観念もその技術も、一日一日と変化し、進歩したのである」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 79)と書かれていますが、開祖が最初に与えた伝書は「大東流合気柔術」のものでした。それから「相生流柔術」「大日本総合武道旭流柔術」「天真流合気武道」「武産合気道」「合気道」などの伝書や昇段証を出しているので、どうしてそのように流名が変わったのか知りたいところです。

平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』のp.96に「武田惣角師から受けた『秘伝奥儀』一巻」の写真が載っていますが、これは大正5年(1916)に授けられた伝書です。この時は大東流柔術でした。
p.131に「綾部植芝塾道場における開祖(大正10年ごろ)」という写真があります。開祖の右に看板がありますが、「大東流合氣柔術 総務長 武田惣角 門人 植芝盛平」と書かれているようです。したがって、これは大正11年(1922)頃の写真でしょう。開祖は大正11年9月15日に「大東流合氣柔術 教授代理」の免許を受けていますが、大東流柔術が大東流合気柔術になったのはこの時以降です( これに先立ち8月に「合気柔術秘伝奥儀之事」を授与されている)。

教授代理.jpg


それまでに、大東流では相手を無力化する技術を「合気」と呼んでいて、相手を浮かせるか泳がせるかして崩すことを「合気をかける」というように表現していたようです。そのことは開祖もよくご存じであったはずです。
「武田は1922年、同流を大東流合気柔術に改称した。盛平の子息植芝吉祥丸によれば、盛平が合気という言葉を使い始めたのは1922年からだという。当時盛平は京都府綾部の大本教布教所である「植芝塾」で恩師武田惣角から学んだ大東流柔術を指導していたが、1922年、武田が一家を引き連れ来訪して3、4 ヶ月( 正しくは6ヶ月)滞在した。その時に盛平が大東流柔術に合気という言葉を入れることを進言した結果、1922年の暮れに大東流合気柔術に改称された。進言の理由は、盛平が信服していた神道系の新興宗教である大本教(開祖・出口なお)の最高指導者・出口王仁三郎(1871 - 1948)から、「合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろう」といわれたことにある、という(合気ニュース編,2006,pp. 11-12)」(工藤龍太、志々田文明「合気道における合気の意味:植芝盛平とその弟子たちの言説を中心に」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/55/2/55_09024/_pdf
流名に「合気」が加わったのには出口王仁三郎聖師が関わっているということですから、聖師が技術の素晴らしさに感銘を受けたというよりも「アイキ」に言霊的な意味を見出されてのことだと思います。その意味は、神人合一(神と人との合気)や、後年、開祖が「合」は「愛」に通じる、と言われたことと同じであったと思います。「惣角先生にも話をもっていったらよかろう」と言われた時に聖師から開祖にそのような説明があったのではないでしょうか。

流名としては、大東流合気柔術と合気道は別のものです。竹内流(竹内流捕手腰廻小具足)と柔道、新陰流と剣道が別のものであるのと同じです。新陰流と陰流も別です。

大東流合気柔術と合気道に共通する名称「合気」ですが、大東流では技術に重きを置き、合気道では言霊的な意味に価値を置いていると思います。それで、合気道ではどこも「合気をかける」という教え方はしていないはずです。
「抜き合気」という言葉が大東流で使われます(http://www.asahi-net.or.jp/~DE6S-UMI/jtkm0778.htm参照)。開祖の流れを汲む方が『合気道「抜き」と「呼吸力」の極意 相手を無力化する神秘の科学』という本を出されていますが、私は、「抜き」とか「無力化する」という言葉で合気道を伝えようとされることに違和感を覚えています。「呼吸力」は合気道で使っている言葉ですが、これと「大東流の合気」とは異なるものです。剣で、一刀流の「切り落とし」と新影流の「合撃(がっし)打ち」の術理が違うのと同様です。
八千代合気会の指導員や会員の皆さんが、開祖が紡ぎ出された正しい言葉を使って合気道を伝えられるようにと願って踏み込みましたが、この本の著者は私も面識があり、尊敬する方のお一人です。他意はありませんので、失礼があったらお許し下さい。

話を戻しますが、武田惣角師が綾部に来訪されたことについて、開祖にはその意味がよく理解できなかったようです。
「(第一次大本事件の)弾圧の嵐は大正10年の2月12日から10月20日の破壊工作が始まり、それが終わるまでつづいたのであるが、盛平はその間、武術の稽古、天王平農場の仕事をしながら、取壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。
多忙な取り込み中ではあったが、しばらくの間でも柔術を教えてもらった先生であるから、盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 77)

武田惣角師は、亡くなられるまで白滝に家を持ち続けられています(http://masakatsu03akatsu2.wixsite.com/shirataki/single-post/2016/03/13/%E7%99%BD%E6%BB%9D%E4%BD%8F%E6%B0%91%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%83%A3%E8%A7%92%EF%BC%88071117%EF%BC%89参照)。このことから、別に食い詰めたという訳ではなく、武術の相伝者(創始者が正しいようです)としての目的があってのことだと思います。この時、ご家族も同伴で、スエ夫人は代稽古をされています。4月28日〜9月15日の半年間教えられ、教授代理の免許を出されたことから、目的は正にこのことであったと考えられます。開祖が、大正9年(1920)に植芝塾という道場を持たれ、主に大本関係者に武術指導をされているということを聞きつけられ、教授代理(弟子を教えるために必要)の資格を与えるまで夫人の代稽古も含めて半年間はかかるとのことで、お子様も連れて来られたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

『合気道開祖 植芝盛平伝』の年譜には、「大正11年、正式に「合気武術」と呼称。門弟その他一般には「植芝流合気武術」の名で通った」と書かれていますが、前述の「大東流合氣柔術 総務長 武田惣角 門人 植芝盛平」の看板が掲げられた写真や、教授代理の免許を授かったことから、「合気武術」は「合気柔術」の間違いではないかと思います。聖師が「合気」じゃ、と言われ、大東流「合気」柔術とされた流名を、武田惣角師が帰られた後、更に「合気武術」にせよ、というようなことは仰らなかったはずです。植芝塾は大本の教団内の道場なので、聖師の意向が大きかったはずですし、変えるなら「合気武道」にせよと、「武道」にされたと思います。

武術における古来のしきたりにより、開祖が弟子を教える資格を得た最初の武術は「大東流合気柔術」で、時として植芝流合気柔術として教授されたが、入門者からの入門料(束脩)の内3円は惣角師にお渡ししたというのがこの当時の実態だったと思います。
posted by 八千代合気会 at 15:27| 日記