2017年09月19日

古事記 現代語譯 古事記(16)

「天之武産合氣業」図は、常盛謹書となっていることから、常盛という号を使われていた昭和28年(1953)〜昭和36年(1961)に描かれたものであることが分かります。武産合気の神示は昭和17年(1942)に降されていますが、その前後の関連した道文を列挙します。
「ずーっと以前は、いろいろの人々の熱誠をこめたところの武道をば、私も教えを受けたのでありますが、昭和15年(1940)の12月14日、朝方2時頃に、急に妙な状態になりまして、禊(みそぎ)からあがって、その折に今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。あらためて先祖からの技をやらんならんことになりました。・・・それで、それによりまして体育を、この地球の修理固成『美(うる)わしき、この天地(あめつち)の御姿は、主(ぬし、スの神)の造りし一家なりけり』と、世界は一軒の家、けっして他人というものは一人もいない。一日もはやく最も幸福なるところの楽しさ(地上天国)の建設であります。これに行かねばならぬと思っております」(『合気神髄』pp.23-24)
「合気道は・・・。何故なら、神生み島生みから始まっているからであります。だから今迄の武道とは全然違うのです」(『武産合氣』pp.112-113)
「那岐(なぎ)、那美(なみ)二尊の島生み神生みに準じて、このありとあらゆるすべての霊の元、体の元を生みなして、完成されたるところのみ心、み振舞に基いて、武産合気は生れたのです。日本武道のはじめはここに基いています」(『武産合氣』pp.110-111)
「合気道は小戸(おど)の神業(かむわざ)であります。本当に日本の最初の仕組みのもとに禊をはじめ、すべて伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神様に神習うて鳥生み、神生み、すべて新しき天の運行を生み出していかなければなりません」(『合気神髄』p.23)

「先祖からの技」は「伊邪那岐、伊邪那美の神様の業(わざ)」であり、武産、結びの技ということが分かります。「小戸の神業」は後で『古事記』の「身禊の段」で触れますが、禊の技です。これに対して「岐美の神業」は結びの技です。
「我々が今やっていることは己れの肉身をもって、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神に神習うて、地球、宇宙組織を営むところを神習うて、全部の立て直しのことに奉仕しなければならない、国家修斎の道である」(『合気神髄』p.139)

結びの技は、呼吸力(イキ・水火の力、気の力)による技とも言い換えることが出来ます。
「左は伊邪那岐(いざなぎ)(補足 にして霊)、右は伊邪那美(いざなみ)にして体、その本能によって( あるがままの真理によって)経綸が行われる。また伊邪那岐は火、伊邪那美は水、宇宙の気( 水火、イキ)をいざないならう」(『合気神髄』p.127)

「誘いならう」から「連行」という言葉が思い浮びます。呼吸力は「摩擦連行作用」を生じさせるものです。
「また、地球修理固成は気の仕組みである。(即ち)息陰陽水火の結びである。そして御名は伊邪那岐、伊邪那美の大神と顕現されて(右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞をされた)、その(それを)実行に移したのが合気、どんなことでも出来るようになってくる」(『合気神髄』pp.88-89)
「こうして合気妙用の導きに達すると、(古事記にあるように)御造化の御徳を得、呼吸が右に螺旋して舞い昇り、左に螺旋して舞い降り、水火(魂魄、霊と体)の結びを生ずる、摩擦連行作用を生ずる。・・・この摩擦連行作用を生じさすことができてこそ、合気の神髄を把握することができるのである」(『合気神髄』p.87)

天の村雲九鬼さむはら龍王の御道ですが、「この武道は、神サンから授かったお道やで、三ヵ月修行したら天下無敵になるんだ」(砂泊諴秀著『合氣道で悟る』p.46)と開祖が言われているように神示で降ろされたものです。その経緯は中西清雲氏が語っています。
合気の植芝を導き 言霊研究にも着手
中西夫妻が修法研鑽に明け暮れていたときに出会ったのが、合気道の開祖・植芝盛平だった。
その出会いは、茨城県岩間町に住んでいた大本教信者・赤沢善三郎という人物の仲介による。中西夫妻に心酔していた赤沢が、彼らの活動を植芝盛平に話したところ、植芝が非常に興味を持ち、昭和12年(1937)のある日、突然、東京・板橋の大山に住んでいた中西夫妻のもとに訪ねてきたのである。
ちなみに、植芝は大正9年(1920)に大本教に帰依し、大正13年(1924)には出口王仁三郎(おにさぶろう)の用心棒として王仁三郎と蒙古へ同行、パインタラ(中国名は内モンゴル自治区の通遼)で遭難し、あやうく救出される一幕もあった。帰国後、植芝は大本教団とは一線を画し、合気道の研鑽に努めていたのである。
植芝は中西夫妻に対して『合気( 原文は合気道。文の繋がりから流名ではなく神人合一・神の愛気という意の合気が正しいと思われる)という気の原理を開眼するために指導を受けたい』と申し入れてきたという。
そのころ、中西夫妻は『日高の法伝(ほうでん)』のために奈良の葛城山で参籠修行しなければならなかったが、それを一時延期して、植芝のために合気道に関係する神々を降ろして秘伝を教授した(武産合気の神示は天の村雲九鬼さむはら龍王のみ言として降ろされた)。また、古来の武具のいわれや合気と気合の相違など、いろいろ伝授したという。
その後、太平洋戦争となり、昭和16年(1941年12月)に赤沢が中西夫妻を岩間町に招聘、夫妻はその地で翌年から本格的に『古事記』(ここにいう『古事記』とは、神より特別に清雲に下賜されたもので、正式名称は『布斗麻邇古事記伝』といわれるものである)をベースにした言霊の解明に挺身することになる。この研究は単に書斎的なものではなく、法座(人間の理性では解決できないような問題があれば、それを担当する神々に降臨を願い、その方法や教示を得るために行う修法)を立てて霊的に順次調べて解明していくという、神秘主義的なアプローチの異色のものだった。
具体的には、清雲が神憑りになって『古事記』の一字一句を口述、光雲がそれを書記するのである。一回で2時間から3時間かかるが、それを毎日、3、4回も繰り返すのである。
『古事記』の解明のために清雲に神懸った担当の神は、常陸言代主命(ひたちことしろぬしのみこと)。その前身は、岩間の愛宕山の十三天狗のひとりであった。
『古事記』の言霊研究は、戦後の昭和23年(1948年、中西清雲のプロフィールでは昭和22年)まで続けられた。さらに各種の祝詞や大祓の言霊の解明なども行った」(月刊『ムー』「古神道を現代に甦らせる中西清雲」1997年4月号p.179)

八千代合気会の皆さんは、「合気の気の原理」について考えてみて下さい。

posted by 八千代合気会 at 03:21| お勧めの本