2016年04月10日

開祖の合気(20)

以上述べた開祖の合気が大東流の合気から見たらどうなのかということが大東流の佐川幸義宗範によって検証されていますので、それを加えて締め括りとしたいと思います。
このことは、『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』、『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』、『大東流合気武術 佐川幸義 神業の合気 ―力を超える奇跡の技法“合気”への道標』などを読むと目に入ってきます。

私は大東流を習ったことはありませんし、佐川宗範も存じ上げません。佐川宗範の技の動画は撮影されていないようですが、本に写真が載っていて、そのわずかな知り得る範囲内でも大東流内では卓越された方だと思います。惣角師の没後、宗家を継がれ、武田時宗師にその宗家を譲られてから総師範という意味の宗範という称号を与えられていることからも、関係者が認める確かな方だと思います。武道家としても、修行に取り組む姿勢が真摯で、自分を厳しく律しておられ、武田惣角師の名誉を守ろうとされている姿も尊敬に値すると思います。
それだけに何故、合気揚げで開祖の両手首をつかみ、開祖が手を揚げられないと見て、面目を失わせないため「最後には悪いから手をあげさせてあげた」というようなことを他人に吹聴するのかということが長い間の疑問でした。
幕末の剣聖 男谷精一郎は、必ず試合で3本に1本は相手に勝ちを譲ったことで有名ですが、その場合、決して打たせてやったというようなことは言わず、「お見事でござる」とか「参った」と言って相手を立てたようです。その点で、佐川宗範に対して武道家らしからぬという印象を抱いてきました。

しかし、よくよく読んでみると、これは勝負をしたのではなく「(武田惣角)先師のような合気が植芝にあるかどうかを知りたくて」ということが目的であったと書かれていました。その結果、開祖には惣角師のような合気が全くないことを確認して手を上げさせた、と内部の人に語ったことが本に載ったようです。
大東流の合気に対する佐川宗範の目は確かなようですので、これで少なくとも開祖の合気は大東流の合気とは違うということが認められました。

しかし、開祖がご自分でおっしゃられている(これまでにまとめた)合気がないかというと、そうとは言えません。
開祖は、今武蔵と恐れられた國井善弥師に、合気道はインチキだ、許しておけないと思って勝負を挑まれた時、「國井先生、よくいらっしゃった、さあどうぞ道場の看板を持ってお帰り下さい」と切り出し、その言葉を聞いた國井師が、バツが悪くなって苦笑いしながら引き上げたというエピソードのある方です。
佐川宗範のときも、その意図を察していて対応されたと思います。惣角師が「植芝には合気は教えていない」と言っていたそうですので、開祖が惣角師の合気は示せなかったはずで、手首をつかまれた時に揚げられませんという反応をされたと思います。このことで、佐川宗範も満足したはずです。
この時は大東流の宗家も(大同団結を呼び掛けるため)同席しての上のことです。佐川宗範は、合気道は大東流の一派と考え、大東流内部のこととして惣角師の合気(補足 宗範は惣角師が作ったのであろうと言っている)を開祖が会得しているかどうか確認しようとしていますが、開祖は、それに応じて開祖の合気で手を揚げると、合気道と大東流の優劣を争うことになるとはっきりと認識されていたことでしょう。確かに大東流の合気はマスターしていなかったでしょうから、手を揚げるなら合気道の理合で揚げることになってしまいます。そして、そのことは佐川宗範には直ぐに分かってしまうことです。

皆さんならこういう時にどうされるかですが、開祖が執られたこの二つの対応に共通するところは敵を作らない、争わないということのようです。大東流とは事を荒立てないで(自分の方から口に出さないで)、静かに去らせて貰いたかったのではないでしょうか。
昭和6年(1931)4月に惣角師の教授を受けた後は、惣角師が来訪されても居留守を使ったりされたようですが、これもやんわりとした意思表示ではなかったかと思います。昭和7年(1932)7月26日に大本内に大日本武道宣揚会が創立(8月13日発会)され、開祖が会長となっているので、居留守はこれ以降のことではないかと思います。出口王仁三郎聖師が惣角師に対して「血の臭いがする」と言って、人間的には余り好まれなかったことと無関係ではなかったと思います。

「いくら精神力とか気の流れとかいったってそんなもので自分よりはるかに大きい者を倒す事はできるものではない」とか「合気は気の流れなどといった考えからは、いくら何をやっても出てこない」というのが佐川宗範の大東流の合気から見た開祖の技に対する評価です。
倒すことが出来るか出来ないかは別にしておいて、このことで宗範といわれる人から合気道は大東流の一派ではないとみなされる(惣角師の合気を受け継いでいないと判定される)ことになりました。
これは昭和31年(1956)のことでしたが、佐川宗範にとっては大東流の合気が開祖にないということを確認する機会となり、合気道側から見れば、晴れて大東流と合気道は違うということが宗家にも佐川宗範にも受け入れられることとなりました。
双方にとってWin-Winですので、これからも大東流は大東流、合気道は合気道として認め合って行けば、日本の武道界にとってプラスになると思います。

開祖の技については、私も昭和42年(1967)4月9日に間近で拝見しました。目にしたのは気形の稽古の動きそのものでした(同じ時期の動画https://www.youtube.com/watch?v=XoDK3XuvZWw参照)。弟子の剣を額に当てておいてから、弟子がその位置から降り下ろす剣をスッと避けて、手に持った扇子で面を突くと、2、30 cm扇子から顔が離れているのに、弟子がパッと仰け反って受身を取って倒れていました。立技呼吸法では、開祖の手を取ろうとする弟子の手が60 cm位離れていましたが、開祖が弟子の方を見ないでパッと手を振ると、これも弟子が開祖の手に触れないまま後ろに倒れていました。
私も、佐川宗範ではありませんが、触れてもいないのに倒れるのは弟子が勝手に受身を取っているからではないかと疑問に思い、後になってからですが、教えを受けていた直弟子であった師範にお尋ねしました(弟子が開祖の腰に手を当てて押すのもありましたが、この時は畳表に皺がよる程弟子の足に力が入っているのが分かりましたので、不思議でしたが疑問に思うことはありませんでした。)。
その時、師範は、次のようなエピソードを話して下さいました。
「開祖が顔の前で腕を振られると腕が太い丸太のように見え、パッと手を上げられると手がグローブのように大きく見えるのです。それで、離れていても直ぐ目の前に開祖の腕や手が来ているように感じて受身を取るのです。ある時、それを不思議に思った弟子が、目をつむっていたらどうなるだろうかと考え、開祖が向こうを向いたまま手を振られた時に目をつむりました。案の定、直接当たっていないので、上を向いて目をつむったまま、その弟子は飛ばされないで突っ立っていました。そしたら、バタンという音がしないので後ろを振り返った開祖が、『馬鹿者!(真剣勝負で目をつむって、じっと突っ立っている馬鹿がどこにいるか)』と怒鳴られ、仰向き加減になっている顔を上から手で叩かれたら、グシャッというような音がして、弟子が畳に叩き潰されていました。そして、その後2、3日フラフラしていました」

宇宙と一体となった自分の腹中に相手を吸収して同化する(宇宙に結ぶ)開祖の合気は、実際に開祖のお話のとおりであったのです。それは、佐川宗範の見ているとおり大東流の合気とは異質の理合に拠るものです。開祖が「私は今まで、各流儀を三十流ほどやりました。柳生流の体術をはじめ、真揚流(天神真揚流)、起倒流、大東流、神陰流(加藤田神陰流)などいろいろやりましたが、合気はそれらを総合したものではないのであります」(『合気神髄』pp.31-32)とおっしゃられているとおり今までにないものです。

八千代合気会の皆さん、確かに開祖は新しい道を開かれたということが理解出来ましたら、これまでの「開祖の合気」を最初からもう一度読まれ、概念を自分の言葉でまとめてみて下さい。そして「今迄の武道は、年期を入れないと自分( 真我、愛の存在)になれなかったのですが、私はすぐにも了解し得る道を開いたのであります。それだけ今迄の武道と合気道は違うのであります」(『合氣神髄』p.70)と言われているので、それを稽古に取り入れられるようにしましょう。
私も、最初から全体の構想がまとまっていて書き上げた訳ではないので、何度も読み返してみます。そして、このブログも間違いがあれば修正しながら稽古に生かして行きたいと思いますので、時々、このブログを開き直してみて下さい
また、お互いに高めあって行きたいと思いますので、何か気付かれたことがあればフィードバックをお願いします。
posted by 八千代合気会 at 07:39| 日記