2016年09月10日

合気道の創始−命名(1)

開祖 植芝盛平大先生は合気道開祖で、合気道の創始者とも呼ばれています。
これまで「開祖の合気」について調べてきましたので、次にその創始された武道の名称についても経緯や背景を調べてみようと思います。

Wikipedia「合気道」には合気道の名称について、『盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした』と書かれています。
また、平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』の年譜に次のように記されています。
『大正11年(1922)、正式に「合気武術」と呼称。門弟その他一般には「植芝流合気武術」の名で通った』(p.304)、
『昭和11年(1936)〜14年(1939) 武道界における開祖の実力および名声はきわめて高く、とくにその諸古武術を踏まえた上での気・心・体独創の“神技”は、武道史上画期的なのと自他ともに認められるにいたった。ここにおいて開祖は従来の「植芝流・合気武術」(「皇武」と称される場合もあった)を新たに正式に「合気武道」と呼称するむねを表明、大東流ほか同系ないし類似の諸柔術・体術から本質的に飛躍した全く独自の新武道であることを明らかにした』(p.309)、
『昭和17年(1942) 当時、戦時下各種団体統制の一環として合気武道も武徳会と関係を持つことになり、平井稔道場総務が開祖に委任されて財団法人・皇武会より派遣され、武徳会合気道部としての運営にあたった。以後終戦時まで武徳会規約に基づき、一時期合気道範士、教士、練士の称号を交付するなどの変化があった。この武徳会との関係もあり「合気武道」の呼称を改め、初めて正式に「合気道」を名のることになった』(p.310)、
『昭和23年(1948) 戦後の混乱が鎮静しはじめたので、吉祥丸(二代道主)は藤田欽哉、西勝造、富田健治氏らと相談して東京に本拠を再興すべく決意。その第一歩として財団法人皇武会を改組し再編成することを決定。開祖はその件に関する一切を吉祥丸に委任、吉祥丸は藤田欽哉、瀬古静市氏らと相談しつつ関係各方面と粘り強い折衝を重ねた。2月9日、文部省から「財団法人合気会」として認可がおり、寄附行為改正が認められた』(p.311)。

「開祖の合気」が「大東流の合気」から出たものではないということ、別の言葉で言えば「開祖の合気」で述べたように「大東流の合気」とは異なるものであるということですが、「合気柔術」と「合気道」という、どちらも「合気」を含んだ呼称から混乱や誤解もあるようです。

ネット検索をしていると、『武田惣角先生からすれば、金銭的なことで不満があったり、何よりも「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されました』という記述がありました。
惣角師は、昭和18年(1943)4月25日に青森県で客死されています。昭和16年(1941)には福島県の柳津温泉で中気(脳卒中)の発作に襲われ倒れられていますが、昭和17年(1942)には回復し、最期を迎えられるまで大東流合気柔術を伝えられています。この頃、大日本武徳会で合気道という呼称が使われたことを耳にされたとは思われませんし、知っておられたとしたら武道が戦時統制下に置かれたこともご存知であったはずです。開祖は、岩間(現 笠間市)に移られていて、大日本武徳会では活動をされていませんでした。したがって、「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されたということは誰が言ったことでしょうか? 惣角師だと言うのであれば「合気武道」に変えたことを指して言っているのでしょうか?

これに限らず大東流と合気道の間で行き違いや誤解があるように思いますが、惣角師は、晩年まで「大東流合気柔術」で通されています。「大東流合気柔術」を次に伝承する宗家というお立場から考えて、開祖が別の名称を使って新しい武道を興すこと(大東流から離れること)を許さないということはないはずです。
少なくとも、開祖には「大東流合気柔術」を「合気道」に改めようなどという考えはありませんでした。

「合気道」という名称が、「柔道(1882年制定)」、「剣道(1911年制定)」、「弓道(1919年制定)」に次いで「合気柔術」を一般名(一般的な武道名)に変えたものと考える人もいるようですが、果たしてそうでしょうか?
普通、自流に誇りを持っている人であれば、大東流合気柔術という名称にこだわりがあるはずですので、開祖が大東流の合気も会得出来ていないのに勝手に合気を名乗るということでけしからんと思う人がいるのでしょうか? 確かに次のような人はいました。
『それは、(三浦真)将軍がそれまで大東流の武田惣角師の門にあったという修行歴に由来する。すなわち将軍は開祖を、惣角一門でありながら勝手に分派独立した者ときわめて単純に誤解し、憤慨していたらしい。…合理よりは直情を好む人物であったらしく思われる将軍は、開祖の昨今の大いなる盛名を耳にして「たかが同門同輩ではないか、なにほどのことやある、いっちょう懲らしめて、道場の看板でも担いで帰ってやろう」ぐらいの豪傑気分であらわれたようだ。ところがいざ手合わせしてみると聞きしにまさる達人であり、しかも話し合ってみれば人格まことに高潔かつ謙虚である。…そこで己れの早合点の誤解を悟った将軍は、そこは武人らしくさっぱりと事情を告白し、改めてその場で開祖に入門を乞うたのだという』(平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』p.198)

人にはいろいろな立場や見方があって、事実の見え方が異なるかもしれませんが、八千代合気会で合気道を学ぶ人にとって、どのような経緯で合気道が産み出されたか、合気道という名称がつけられたかということを知ることは有益であると思います。
posted by 八千代合気会 at 23:57| 日記