2017年07月12日

合気道の創始−命名(3)

大東流合気柔術が「門弟その他一般には植芝流合気柔術(原文は植芝流合気武術)の名で通った」ということは、大正9年(1920)に開祖が綾部移住を決意した時、出口王仁三郎聖師から「大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p.116)と諭されたことと関係があります。大東流柔術は大東流合気柔術と改称されましたが、真の武を求めるために、それを植芝流の神人一如(合気)の武(柔術)−植芝流合気柔術−として区別して呼んだのだと思います。
これは大東流合気柔術からの独立ではなく、合気柔術の中で目指すところ(目標)が違ったことを表していると思います(到達した位置ではなく、到達すべき方向を示す名称)。

武術や武術名が意味する範囲を考えたとき、武術>柔術>合気柔術であり、柔術から合気柔術へと特定されたものを(合気)武術にまで拡大するには、柔術に加えて剣術や槍術のような+αがなければ考え難いことです。大正11年(1922)のこの時点で、開祖が「武道の目を開かれた」と言われた大東流柔術の他にこれを凌ぐ剣術や槍術などの習得や工夫はなかったと思います。

既に植芝塾が開設された時点から、出口王仁三郎聖師と開祖(+大本の神さんの手伝い)の「真の武」を求める旅は始まっています。大東流合気柔術とは違う植芝流合気柔術と殊更に呼称した背景には、聖師から学んだ言霊の妙用を加えたこともあるのではないかと考えられます。それを物語る出来事が武田惣角師来訪の前にありました。
『また大本では、神苑に配置して庭造りをするために近くの山から出た石や、近郷あるいは遠国からの石を送って来ることもあって、中には何千貫(千貫は約3.7トン)という大石もあった。
盛平がある時、ミロク殿の西門口まで来ると、作業中の一人が、「植芝さん、ちょうどよいところへ来てくれました。あなたのところへ今使いを出そうと思ってたところです。この石を持ちあげてくれませんか」というのであった。見ると千貫もありそうな大石である。それが底地にめりこんでいる。「これはダメですよ、いくら力があってもムリですよ」と盛平が答えているところへ王仁三郎が来て、「植芝さん、これは言魂(正しくは言霊)で力を出してうごかさねばあきまへん」といった。「コトタマって何ですか」と聞くと、「この石を動かすには、ウ( 浮く、動くの意を持つ言霊)の言魂やな、真気を集めて、ウの言魂を発して浮かせるんや」といって、言魂の説明をした。
盛平は、「やってみましょう」ともろ肌をぬいで巨石に両手をあて、渾身(こんしん)の力をふりしぼり、「ウ・・・・・・」の言魂を発すると、不思議や、巨石はむくむくと動いて、ほんの少し移動した。どんな強力でも、とても動かせまいと思われた巨石は言魂で動いたのである。自分の力量を知っている彼は、全く驚くべき奇跡を体験したのである』(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』pp. 71-72)

確かに、開祖は綾部に来てから格段に強くなったという話が伝えられています。
『和歌山の田辺に、講道館が柔道を普及するためにつくった道場があった。そこを任されていた人物に鈴木新吾さんという方がいた。
実は植芝先生は、兵役を終えて大陸から帰ったあと、ここで鈴木さんに入門して柔道を習ったのだという。
私(藤平)が植芝先生のお供をしてこの田辺を訪れたときのことだ。鈴木さんが植芝先生と昔話を始められた。
「植芝先生は、私に入門したころは弱かったよね。いつかあなたくらいに強くなれるんだろうか、なんて私に聞いていたものね。熱心なのはいいけれど、藪に肥桶を隠して稽古にくるから臭くてね」
先生は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
あろうことか鈴木さんは、私の目の前で、植芝先生が「弱かった」と言われたのだ。今まで聞いていた話と全く違う事実に、私は困ってしまった。
話はさらに、植芝先生の北海道の開拓時代に及び、武田惣角先生に大東流柔術を習ったいきさつにもふれられた。
(中略)
それでも先生は、なにしろあの武田惣角先生に習ったのだからずいぶんと強くなったはずだ。今度は負けないだろうと、田辺に帰ってきたときに再び鈴木さんに試合を申し込んだのだという。
鈴木さんはそのとき、柔道をやめて相撲をやっていた。
私は田舎相撲の大関ですよ、と言って、試合をしたらしい。
「あのときもダメだったよね。大東流を習ってきたから負けない、なんて言いながら、やっぱり弱かったよね。あのときは、先生、一カ月寝込んだね」
鈴木さんは笑いながら言う。植芝先生が鈴木さんを投げようと思った瞬間に、爪先でぽーんと飛ばされてしまったというのだ。しかも先生は、このとき腰を痛めて1ヵ月くらい寝込んだとまでいうのだ。
(中略)
「でも、先生、大本に行って修行して帰ってきたときには強くなっていたね。あのときに強くなったんだね」
鈴木さんによると、どうやら先生は綾部(京都府、大本教の本部)へ行ってから強くなったらしい。それも以前とは見違えるほど劇的に、だ』(藤平光一著『中村天風と植芝盛平 氣の確立』)。

大正13年(1924)に開祖は、出口王仁三郎聖師の片腕(ボディガード)として満州、蒙古へと乗り込みます。この時、中国武術と接点があったそうです。ブルース・フランチス(Bruce Frantzis)氏が「私は日本での学生時代に合気道開祖の植芝盛平翁先生に学びました。(中略)道場で私はしばしば、彼(開祖)は中国で何年も過ごして合気道の基礎である超自然的な「気」を持ち帰ったと聞きました」と伝えています(http://www.energyarts.com/ja/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3%EF%BC%88morihei-ueshiba%EF%BC%89-%E5%90%88%E6%B0%97%E9%81%93%E3%81%AE%E9%96%8B%E7%A5%96)。
「気」だけでなく、体捌きの「転換」はこの時に中国武術の影響を受けたものではないかと思います。

大正14年(1925)には、黄金体体験によって「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟ります(『武産合氣』pp.17-18)。『「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので・・・』(昭和32年刊『合氣道』p.50)というのは、この時の体験に根差しているのではないかと思います。
posted by 八千代合気会 at 13:46| 日記