2019年01月21日

合気道の創始−命名(5)

ここで、大東流でいう合気と合気道で使っている合気との違いをはっきりさせておいた方が良いかと思います。
ご自身富木謙治先生の系統の合気道をされていて、合気道の研究者でもある志々田文明先生が、2003年の博士論文で「合気の概念」についてまとめておられます。
『満洲国・建国大学に於ける武道教育 -- その実態と教育力』という論文のp.189に次のように書かれています。
「建国大学 武道教育」でネット検索すれば、「[PDF]満洲国・建国大学に於ける武道教育 - 早稲田大学リポジトリ」が見つかりますので、338頁ありますが、八千代合気会の会員も是非読んでみて下さい。

『2) 合気の概念
合気武道という名辞が他の武道と識別されるのは、「合気」という概念にある。ここではこの言葉について歴史的に考察する。合気という言葉は、日本の江戸時代の武術伝書、例えば1764年の起倒流柔術書「燈火(原文は灯火)問答」に見ることができる。 そこでは「あいき(相気)」を、技の攻防の際に相手と気節(原文は気筋)があって、戦うのに困難な状態になる意味で用いている。
「合気」という用語の使用は、1800年代の多くの武術伝書にも見いだすことができるが、これらの意味も「燈火(原文は灯火)問答」と同義である。こうした意味内容を転換させたのは1892年の「武道秘訣合気之術」であり、ここで合気の意味は武道の奥義であり「敵より一歩先んずる」こととしている。「先んずる」前提として「敵人読心の術」と「掛声の気合」が説明されているが、具体的内容については記していない。
大東流柔術において合気の意味をどのように定義付けていたかは現在ではあまり明確ではない。それは同流中興の祖武田惣角が、日本武術の秘密主義の伝統に従ってその内容を書物として残さなかったことによる。しかしながら、高弟の一人佐川子之吉は「合気をかける」としばしば1913年のノ−トに記しており、大東流柔術において合気という言葉や技法が大東流合気柔術改称以前から指導されていたことが知られる。合気という言葉のこうした不明確性が、大東流合気柔術教授代理・植芝の合気の解釈に曖昧さを生んだ。
しかし植芝流が大きくなるにつれて、植芝の門下生や後継者たちはその曖昧さを補うように合気道における合気という言葉に次のような解釈を行なった。つまり「合気」が気を合わせる文字の構成のために生まれた天地の気に合わせる道という解釈や、体験的悟境から生まれた自然の動きや動きのリズムに合わせるという「神人(原文は天人)合一」の解釈などである。』(pp.189-190)

この論文にあるように、武田惣角師以前の「合気」「相気」と大東流の「合気」は意味が違っています。私も大東流の合気については、後年、佐川幸義宗範によって定義付けがされるまで、定義が明確でなかったところが様々な解釈を生んでいるように思います。それで、一応、大東流の合気を「内部の働きで相手の力を抜いてしまい、相手を無力化する技術」(木村達雄著『透明な力』p.54、63)としておきたいと思います。

この「相手を無力化する技術」が、武田惣角師も修行した一刀流でいう「合気」と定義が違っていることから、一刀流と同じ時代に存在した武術ではなく、大東流は武田惣角師が明治になってから創った武術であると思います。一刀流の合気は次のように述べられています。

「第五項 合気
(一) 合打 敵と打合つてどうしても合打となって中々勝負がつきにくいことがある。われが面を打つと敵も面を打ち、敵が小手を打つにわれも小手を打ち、われ突に出ると敵も突いてくる。われが一尺進むと敵も一尺進み、われが五寸退くと敵も五寸退く、いつまでたつても合気となつて勝負がつかない。遂には無勝負か共倒れになることがある。これは曲合(拍子?)が五分と五分だからである。こんな時は合気をはずさなければならない。合気をはずすのには先ず攻防の調子を変えなければならない。(中略)
(二)  敵の太刀に逆らい出合に合気となるようなことがない留めの法がある。敵の打込む太刀の心を知つて、これに反撥せず快よく引受け、敵の力を誘いながら受留めると自然に敵の働らきの尽きる所がある。ここは合気をはずす塩合の所である。この塩合を味わうのには留を小さく留るのである。留を大きく留めると、合気をはずしてから次の転化に出るのに暇がかかって役に立たなくなり、そこにわが隙を生じ不利になる。(中略)
(三) 交わす 留めが利かない場合もあるから、その時には交わすことを法とする。敵が打出す強い太刀に逆らわず、われは斜に左右前後に体を交わし、少しも敵の太刀に拮抗せずそらしてやると、敵の力が強ければ強い程のめつて出るから、その隙をわれから楽に打取ることができる。このかわりぎわに敵の力を利用し、その行く方向にむけて敵の首にわが心の綱をかけて引摺り出し、その後ろから押しやると、なお更烈しくそれてゆくものである。(中略)
(四) 和而不同 敵の強い刀に逆らつてわれからも強く出で、敵の打を中途で強く受止めると兎角合気となって味がない。逆らい争うて勝つのは上乗の勝ではない。敵が望んで打つて来たらそれに和し育て敵の刀の行く方向にわれからも助勢し、その心意と太刀技とを力いつぱいに尽させて流してやると、われは聊(いささ)かの働らきにて大きく勝ち得るものである。これもまた敵の曲合の利をやわらかにわが懐にとりこむ所であり和して同ぜず平らかに勝つ所である。平らかに和して自ら勝つから兵法を平法といい、剣術を和術という。和する所が勝つ所であり、勝つてまた後によく和するのである。(後略)」(笹森順造著『一刀流極意』pp.587-589)

『燈火問答』は、『起倒流燈火問答』と題した本で、直接確認することは出来ませんでしたが、英語ではhttp://kishinjukujujutsufrance.blogspot.com/2017/12/normal-0-0-2-false-false-false-fr-ja-x.htmlに概略が載っています。

「There, "aiki" (相気) is used to refer to the difficult state of engaging in attack and defense when in the same kisetsu* as the opponent.
The use of "aiki" (合気) can be found in many martial arts writings of the 1800s, with the same meaning as in the Touka Mondou.**

* kisetsu 気節is a compound of "ki (気)", in this case meaning "feeling, intention", and "setsu (節)", which carries a sense of both "time/rhythm" and "joint/break". In this context, it refers to the ebb and flow of intention and timing between attack and defense. 気節が合う, then, is talking about both opponents engaging in attack, or both opponents engaging in defense, or matched in permutations thereof, creating a stalemate.

** This meaning of "aiki" matches with the one reference to 合気 found in Yagyu Shinkage-ryu, indeed, in a document dating to the early 1800, there it refers to a state of stalemate created by both opponents embodying 攻防一致, a unity of attack and defense.」

江戸時代には、「合気」と「相気」は同じ意味で使われていたことが分かります。「合気」が柳生新陰流で使われていたと注に書かれていますが、一刀流の間違いではないかと思います。
posted by 八千代合気会 at 10:04| 日記

2017年08月30日

合気道の創始−命名(4)

公益財団法人合気会のホームページを開くと、「歴代道主略歴」の開祖の年譜に『大正末年 武道の新境地を開く。本格的に「合気の道」と呼称する』と書かれています。これは流名が「合気の道」となったのではなく、この武道の新境地のことを「合気」と称したことを示していると考えられます。

開祖が「合気」と称するものは、次の文章から、当初、「神人合一」を意味していたことが分かります。この意味付けは出口王仁三郎聖師によるものであったと思われます。

『道主(開祖)が北海道から綾部に移って来、武田惣角が綾部に来るに至って、門人たちは大東流と呼んでいたが、大正13年(1924)頃から昭和6年(1931)頃までは植芝流といい、また植芝流合気柔術(原文は植芝流合気術)といっていた。それがここ(大日本武道宣揚会が出来た昭和7年)で「合気武道(原文は合気道)」と名称されたのである。
「合気」という言葉は古事にも見られるが、その意味は違うようだ。また道主(開祖)のいう「合気」そのものは、無限に深く、広く、道の発現の真意を至極簡単明瞭に表し、神人合一の意を簡略にした意味をももつのである』(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 164)

また、これに関連して「合気道の精神( 神示によって与えられたもの)」に示されているように、「合気とは愛なり。天地の心を以って我が心とし(神人合一して・万有愛護の心で)、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂すること(である)」という意味、すなわち「神の愛」という意味も含まれています。

次の黄金体体験がこのことをそのまま伝えています。

『植芝翁が、神との一体(神人合一、我は即ち宇宙なり)観を体験された事を ― たしか大正14年(1925)の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。・・・その瞬間私は、「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。・・・真の武道とは、宇宙の気を整え、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛錬することである、と私は悟った。― と申されている』(『武産合氣』pp.17-18)

開祖が言われる「合気」という言葉には「神人合一」の意味がありましたが、ご自身の体験により「神の愛(の気)」という意味も付加され、「真の武」を表す言葉として意味づけられています。
道歌にも「まねきよせかぜをおこしてなぎはらい ねり直しゆく神の愛気に」と詠まれています。

この大正14年(1925)の末に竹下勇海軍大将が開祖に会い、上京を促します。

「大正14年には、往時の海軍大将竹下勇が、友人の浅野正恭(浅野和三郎の兄、海軍中将)から、彼の達人振りを聞かされて感心し『そんな武道の大先生を、丹波の山奥で埋れ木にさしてたまるものか』と、矢継ぎ早に出京勧誘の手紙を出し、又使いを立てて上京を促す事、実に5度に及んだ。こうなっては流石の盛平も、人生意気に感ぜざるを得ない。それから間もなく植芝が時々上京することになった」(品川義介『合気道の開山、植芝盛平翁』)

竹下勇大将は日記を付けていて、大正14年(1925)12月1日に次のように記されています。『竹下勇日記』の研究は早稲田大学の志々田文明先生がされているので、その論文から引用させて頂きます。

「午前十一時頃、浅野氏、植芝盛平、井上與一郎(要一郎が正しい)氏ヲ伴ヒ来訪。大東流柔道ノ形ヲ示ス。能ク研究ヲ極メタルモノニシテ、稽古スルノ価値十分ニアリ。明日ヨリ習フコトニ約束ス」

日記には「大東流柔道」と書かれていますが、「大東流柔術」をそのように聞いたのだと思います。

何度かの上京を繰り返す間、大本教の信者であるということが問題になったこともあります。
「植芝は竹下の希望で上京し、島津公爵(旧藩主)、山本権兵衛、西園寺八郎(公望の婿養子)といった名士の前で武術の実演をしています。
山本権兵衛なんかはかなり感心して、薩摩人は支持を惜しまないとまで言い出した。
そこから青山御所で侍従武官や側近に武道を教えるところにまで話が発展しています。(実際教えていた)
ただこの時点でこの方々、植芝が(第一次大本事件を起こした)大本教ということは知らなかったようで、結構な騒動になった(警察、検察、内務省、宮内省といった周囲が)。
植芝としては不愉快なことが多く、上京して綾部に帰りというのを2、3度繰り返した所、山本権兵衛と竹下の口添えで警察からの監視はスルー。
山本清(権兵衛長男)が借家を準備してくれたり、山本権兵衛が援助してくれたりと、上京した際は山本家の人々がかなり植芝を助けていたようです」(http://murakumo1868.web.fc2.com/01-modern/0082-2.html

このことから、開祖の軸足は大本教(出口王仁三郎聖師と言った方が良い)にあったことが分かります。

昭和2年(1927)になって、出口王仁三郎聖師の勧めもあり、一家をあげて上京します。そして、竹下勇大将の全面的な支援を得ますが、『竹下勇日記』から流名の変遷が分かります。

昭和3年(1928)2月17日
「午前柔術稽古。本日ヨリ相生会ニテハ相生流合気柔術ト称スルコトニセリ。午后再ビ柔術稽古」

相生会という同好会(会長 竹下勇)の柔術ということで「相生流合気柔術」と称したようです。
「彼(竹下勇)は後述のように、植芝の稽古場所づくりから、住居、稽古人の募集にいたるまで植芝を全面的に世話した植芝後援者の中心人物である。彼のこうした人柄を考えると、相生会による新呼称宣言の裏には、恩師武田に恐れ(畏れ)の気持ちを抱いていたといわれる植芝に代わって、植芝を独立させ、守り育てていこうとする竹下の配慮があったかもしれない」(志々田文明:「海軍大将竹下勇・武術日記」と大正15年前後の植芝盛平)

この時をもって「大東流合気柔術」から「相生流合気柔術」という流名変更がなされました。
この「相生流」という流名について吉祥丸二代道主が次のように説明されています。
『相生(あいおい)流は、父にいわせますと、植芝家に昔から伝わってきたということでした。だから紀州にあった武道ですね。「これが相生流だ」と2、3回示されたことがありましたけど、私にはわかりません』(『植芝盛平と合気道1』p.11)

私には、ただそれだけのことで「大東流合気柔術」を「相生流合気柔術」にしたとは思えません。家伝の流名を冠したというだけでは、武田惣角師に対して大東流でなくても相生流にも合気柔術があると盾つくことになると思います。
私は、この「相生」が「相生(あいいき)」とも読めるので、出口王仁三郎聖師にも相談されたのではないかと思います。武田惣角師に畏れの気持ちを抱いていたといわれる開祖のことですから、惣角師にも王仁三郎聖師にも、そして竹下海軍大将にも気を配って選ばれた流名だと思います。

昭和3年(1928)3月に竹下勇大将の次女 節(みさお)氏に「相生合氣柔術秘伝目録」が授けられています(富木謙治口述『合気道と柔道』に写真掲載)。
また、門弟に授けられた相生流の奥儀書を、大本の出口栄二先生が示しています。(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=59
これらの伝書の後ろには「武田惣角門人 植芝守高(盛平)」の名が記されていて、「合氣柔術」の割印が押されています。「大東流合気柔術」の伝書の場合、「大東流合氣柔術」の割印になりますので、「相生流合氣柔術」の割印になっていない点にも注目です。

『竹下勇日記』には、「相生流合気柔術」と称する以前の「大東流合気柔術」を指して「大東流」「大東流柔術」「大東流柔道」「合気柔術」と書かれています。
posted by 八千代合気会 at 13:45| 日記

2017年07月12日

合気道の創始−命名(3)

大東流合気柔術が「門弟その他一般には植芝流合気柔術(原文は植芝流合気武術)の名で通った」ということは、大正9年(1920)に開祖が綾部移住を決意した時、出口王仁三郎聖師から「大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ」(『合気道開祖 植芝盛平伝』p.116)と諭されたことと関係があります。大東流柔術は大東流合気柔術と改称されましたが、真の武を求めるために、それを植芝流の神人一如(合気)の武(柔術)−植芝流合気柔術−として区別して呼んだのだと思います。
これは大東流合気柔術からの独立ではなく、合気柔術の中で目指すところ(目標)が違ったことを表していると思います(到達した位置ではなく、到達すべき方向を示す名称)。

武術や武術名が意味する範囲を考えたとき、武術>柔術>合気柔術であり、柔術から合気柔術へと特定されたものを(合気)武術にまで拡大するには、柔術に加えて剣術や槍術のような+αがなければ考え難いことです。大正11年(1922)のこの時点で、開祖が「武道の目を開かれた」と言われた大東流柔術の他にこれを凌ぐ剣術や槍術などの習得や工夫はなかったと思います。

既に植芝塾が開設された時点から、出口王仁三郎聖師と開祖(+大本の神さんの手伝い)の「真の武」を求める旅は始まっています。大東流合気柔術とは違う植芝流合気柔術と殊更に呼称した背景には、聖師から学んだ言霊の妙用を加えたこともあるのではないかと考えられます。それを物語る出来事が武田惣角師来訪の前にありました。
『また大本では、神苑に配置して庭造りをするために近くの山から出た石や、近郷あるいは遠国からの石を送って来ることもあって、中には何千貫(千貫は約3.7トン)という大石もあった。
盛平がある時、ミロク殿の西門口まで来ると、作業中の一人が、「植芝さん、ちょうどよいところへ来てくれました。あなたのところへ今使いを出そうと思ってたところです。この石を持ちあげてくれませんか」というのであった。見ると千貫もありそうな大石である。それが底地にめりこんでいる。「これはダメですよ、いくら力があってもムリですよ」と盛平が答えているところへ王仁三郎が来て、「植芝さん、これは言魂(正しくは言霊)で力を出してうごかさねばあきまへん」といった。「コトタマって何ですか」と聞くと、「この石を動かすには、ウ( 浮く、動くの意を持つ言霊)の言魂やな、真気を集めて、ウの言魂を発して浮かせるんや」といって、言魂の説明をした。
盛平は、「やってみましょう」ともろ肌をぬいで巨石に両手をあて、渾身(こんしん)の力をふりしぼり、「ウ・・・・・・」の言魂を発すると、不思議や、巨石はむくむくと動いて、ほんの少し移動した。どんな強力でも、とても動かせまいと思われた巨石は言魂で動いたのである。自分の力量を知っている彼は、全く驚くべき奇跡を体験したのである』(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』pp. 71-72)

確かに、開祖は綾部に来てから格段に強くなったという話が伝えられています。
『和歌山の田辺に、講道館が柔道を普及するためにつくった道場があった。そこを任されていた人物に鈴木新吾さんという方がいた。
実は植芝先生は、兵役を終えて大陸から帰ったあと、ここで鈴木さんに入門して柔道を習ったのだという。
私(藤平)が植芝先生のお供をしてこの田辺を訪れたときのことだ。鈴木さんが植芝先生と昔話を始められた。
「植芝先生は、私に入門したころは弱かったよね。いつかあなたくらいに強くなれるんだろうか、なんて私に聞いていたものね。熱心なのはいいけれど、藪に肥桶を隠して稽古にくるから臭くてね」
先生は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
あろうことか鈴木さんは、私の目の前で、植芝先生が「弱かった」と言われたのだ。今まで聞いていた話と全く違う事実に、私は困ってしまった。
話はさらに、植芝先生の北海道の開拓時代に及び、武田惣角先生に大東流柔術を習ったいきさつにもふれられた。
(中略)
それでも先生は、なにしろあの武田惣角先生に習ったのだからずいぶんと強くなったはずだ。今度は負けないだろうと、田辺に帰ってきたときに再び鈴木さんに試合を申し込んだのだという。
鈴木さんはそのとき、柔道をやめて相撲をやっていた。
私は田舎相撲の大関ですよ、と言って、試合をしたらしい。
「あのときもダメだったよね。大東流を習ってきたから負けない、なんて言いながら、やっぱり弱かったよね。あのときは、先生、一カ月寝込んだね」
鈴木さんは笑いながら言う。植芝先生が鈴木さんを投げようと思った瞬間に、爪先でぽーんと飛ばされてしまったというのだ。しかも先生は、このとき腰を痛めて1ヵ月くらい寝込んだとまでいうのだ。
(中略)
「でも、先生、大本に行って修行して帰ってきたときには強くなっていたね。あのときに強くなったんだね」
鈴木さんによると、どうやら先生は綾部(京都府、大本教の本部)へ行ってから強くなったらしい。それも以前とは見違えるほど劇的に、だ』(藤平光一著『中村天風と植芝盛平 氣の確立』)。

大正13年(1924)に開祖は、出口王仁三郎聖師の片腕(ボディガード)として満州、蒙古へと乗り込みます。この時、中国武術と接点があったそうです。ブルース・フランチス(Bruce Frantzis)氏が「私は日本での学生時代に合気道開祖の植芝盛平翁先生に学びました。(中略)道場で私はしばしば、彼(開祖)は中国で何年も過ごして合気道の基礎である超自然的な「気」を持ち帰ったと聞きました」と伝えています(http://www.energyarts.com/ja/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3%EF%BC%88morihei-ueshiba%EF%BC%89-%E5%90%88%E6%B0%97%E9%81%93%E3%81%AE%E9%96%8B%E7%A5%96)。
「気」だけでなく、体捌きの「転換」はこの時に中国武術の影響を受けたものではないかと思います。

大正14年(1925)には、黄金体体験によって「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟ります(『武産合氣』pp.17-18)。『「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので・・・』(昭和32年刊『合氣道』p.50)というのは、この時の体験に根差しているのではないかと思います。
posted by 八千代合気会 at 13:46| 日記

2017年06月29日

合気道の創始−命名(2)

「盛平はそれまでに、起倒流柔術、柳生流柔術、大東流柔術の免許を受けているが、綾部に来てからは、彼の武道に対する観念もその技術も、一日一日と変化し、進歩したのである」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 79)と書かれていますが、開祖が最初に与えた伝書は「大東流合気柔術」のものでした。それから「相生流柔術」「大日本総合武道旭流柔術」「天真流合気武道」「武産合気道」「合気道」などの伝書や昇段証を出しているので、どうしてそのように流名が変わったのか知りたいところです。

平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』のp.96に「武田惣角師から受けた『秘伝奥儀』一巻」の写真が載っていますが、これは大正5年(1916)に授けられた伝書です。この時は大東流柔術でした。
p.131に「綾部植芝塾道場における開祖(大正10年ごろ)」という写真があります。開祖の右に看板がありますが、「大東流合氣柔術 総務長 武田惣角 門人 植芝盛平」と書かれているようです。したがって、これは大正11年(1922)頃の写真でしょう。開祖は大正11年9月15日に「大東流合氣柔術 教授代理」の免許を受けていますが、大東流柔術が大東流合気柔術になったのはこの時以降です( これに先立ち8月に「合気柔術秘伝奥儀之事」を授与されている)。

教授代理.jpg


それまでに、大東流では相手を無力化する技術を「合気」と呼んでいて、相手を浮かせるか泳がせるかして崩すことを「合気をかける」というように表現していたようです。そのことは開祖もよくご存じであったはずです。
「武田は1922年、同流を大東流合気柔術に改称した。盛平の子息植芝吉祥丸によれば、盛平が合気という言葉を使い始めたのは1922年からだという。当時盛平は京都府綾部の大本教布教所である「植芝塾」で恩師武田惣角から学んだ大東流柔術を指導していたが、1922年、武田が一家を引き連れ来訪して3、4 ヶ月( 正しくは6ヶ月)滞在した。その時に盛平が大東流柔術に合気という言葉を入れることを進言した結果、1922年の暮れに大東流合気柔術に改称された。進言の理由は、盛平が信服していた神道系の新興宗教である大本教(開祖・出口なお)の最高指導者・出口王仁三郎(1871 - 1948)から、「合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろう」といわれたことにある、という(合気ニュース編,2006,pp. 11-12)」(工藤龍太、志々田文明「合気道における合気の意味:植芝盛平とその弟子たちの言説を中心に」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/55/2/55_09024/_pdf
流名に「合気」が加わったのには出口王仁三郎聖師が関わっているということですから、聖師が技術の素晴らしさに感銘を受けたというよりも「アイキ」に言霊的な意味を見出されてのことだと思います。その意味は、神人合一(神と人との合気)や、後年、開祖が「合」は「愛」に通じる、と言われたことと同じであったと思います。「惣角先生にも話をもっていったらよかろう」と言われた時に聖師から開祖にそのような説明があったのではないでしょうか。

流名としては、大東流合気柔術と合気道は別のものです。竹内流(竹内流捕手腰廻小具足)と柔道、新陰流と剣道が別のものであるのと同じです。新陰流と陰流も別です。

大東流合気柔術と合気道に共通する名称「合気」ですが、大東流では技術に重きを置き、合気道では言霊的な意味に価値を置いていると思います。それで、合気道ではどこも「合気をかける」という教え方はしていないはずです。
「抜き合気」という言葉が大東流で使われます(http://www.asahi-net.or.jp/~DE6S-UMI/jtkm0778.htm参照)。開祖の流れを汲む方が『合気道「抜き」と「呼吸力」の極意 相手を無力化する神秘の科学』という本を出されていますが、私は、「抜き」とか「無力化する」という言葉で合気道を伝えようとされることに違和感を覚えています。「呼吸力」は合気道で使っている言葉ですが、これと「大東流の合気」とは異なるものです。剣で、一刀流の「切り落とし」と新影流の「合撃(がっし)打ち」の術理が違うのと同様です。
八千代合気会の指導員や会員の皆さんが、開祖が紡ぎ出された正しい言葉を使って合気道を伝えられるようにと願って踏み込みましたが、この本の著者は私も面識があり、尊敬する方のお一人です。他意はありませんので、失礼があったらお許し下さい。

話を戻しますが、武田惣角師が綾部に来訪されたことについて、開祖にはその意味がよく理解できなかったようです。
「(第一次大本事件の)弾圧の嵐は大正10年の2月12日から10月20日の破壊工作が始まり、それが終わるまでつづいたのであるが、盛平はその間、武術の稽古、天王平農場の仕事をしながら、取壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。
多忙な取り込み中ではあったが、しばらくの間でも柔術を教えてもらった先生であるから、盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい」(砂泊兼基著『合氣道開祖植芝盛平』p. 77)

武田惣角師は、亡くなられるまで白滝に家を持ち続けられています(http://masakatsu03akatsu2.wixsite.com/shirataki/single-post/2016/03/13/%E7%99%BD%E6%BB%9D%E4%BD%8F%E6%B0%91%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%83%A3%E8%A7%92%EF%BC%88071117%EF%BC%89参照)。このことから、別に食い詰めたという訳ではなく、武術の相伝者(創始者が正しいようです)としての目的があってのことだと思います。この時、ご家族も同伴で、スエ夫人は代稽古をされています。4月28日〜9月15日の半年間教えられ、教授代理の免許を出されたことから、目的は正にこのことであったと考えられます。開祖が、大正9年(1920)に植芝塾という道場を持たれ、主に大本関係者に武術指導をされているということを聞きつけられ、教授代理(弟子を教えるために必要)の資格を与えるまで夫人の代稽古も含めて半年間はかかるとのことで、お子様も連れて来られたと考えるのが妥当ではないでしょうか。

『合気道開祖 植芝盛平伝』の年譜には、「大正11年、正式に「合気武術」と呼称。門弟その他一般には「植芝流合気武術」の名で通った」と書かれていますが、前述の「大東流合氣柔術 総務長 武田惣角 門人 植芝盛平」の看板が掲げられた写真や、教授代理の免許を授かったことから、「合気武術」は「合気柔術」の間違いではないかと思います。聖師が「合気」じゃ、と言われ、大東流「合気」柔術とされた流名を、武田惣角師が帰られた後、更に「合気武術」にせよ、というようなことは仰らなかったはずです。植芝塾は大本の教団内の道場なので、聖師の意向が大きかったはずですし、変えるなら「合気武道」にせよと、「武道」にされたと思います。

武術における古来のしきたりにより、開祖が弟子を教える資格を得た最初の武術は「大東流合気柔術」で、時として植芝流合気柔術として教授されたが、入門者からの入門料(束脩)の内3円は惣角師にお渡ししたというのがこの当時の実態だったと思います。
posted by 八千代合気会 at 15:27| 日記

2016年09月10日

合気道の創始−命名(1)

開祖 植芝盛平大先生は合気道開祖で、合気道の創始者とも呼ばれています。
これまで「開祖の合気」について調べてきましたので、次にその創始された武道の名称についても経緯や背景を調べてみようと思います。

Wikipedia「合気道」には合気道の名称について、『盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした』と書かれています。
また、平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』の年譜に次のように記されています。
『大正11年(1922)、正式に「合気武術」と呼称。門弟その他一般には「植芝流合気武術」の名で通った』(p.304)、
『昭和11年(1936)〜14年(1939) 武道界における開祖の実力および名声はきわめて高く、とくにその諸古武術を踏まえた上での気・心・体独創の“神技”は、武道史上画期的なのと自他ともに認められるにいたった。ここにおいて開祖は従来の「植芝流・合気武術」(「皇武」と称される場合もあった)を新たに正式に「合気武道」と呼称するむねを表明、大東流ほか同系ないし類似の諸柔術・体術から本質的に飛躍した全く独自の新武道であることを明らかにした』(p.309)、
『昭和17年(1942) 当時、戦時下各種団体統制の一環として合気武道も武徳会と関係を持つことになり、平井稔道場総務が開祖に委任されて財団法人・皇武会より派遣され、武徳会合気道部としての運営にあたった。以後終戦時まで武徳会規約に基づき、一時期合気道範士、教士、練士の称号を交付するなどの変化があった。この武徳会との関係もあり「合気武道」の呼称を改め、初めて正式に「合気道」を名のることになった』(p.310)、
『昭和23年(1948) 戦後の混乱が鎮静しはじめたので、吉祥丸(二代道主)は藤田欽哉、西勝造、富田健治氏らと相談して東京に本拠を再興すべく決意。その第一歩として財団法人皇武会を改組し再編成することを決定。開祖はその件に関する一切を吉祥丸に委任、吉祥丸は藤田欽哉、瀬古静市氏らと相談しつつ関係各方面と粘り強い折衝を重ねた。2月9日、文部省から「財団法人合気会」として認可がおり、寄附行為改正が認められた』(p.311)。

「開祖の合気」が「大東流の合気」から出たものではないということ、別の言葉で言えば「開祖の合気」で述べたように「大東流の合気」とは異なるものであるということですが、「合気柔術」と「合気道」という、どちらも「合気」を含んだ呼称から混乱や誤解もあるようです。

ネット検索をしていると、『武田惣角先生からすれば、金銭的なことで不満があったり、何よりも「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されました』という記述がありました。
惣角師は、昭和18年(1943)4月25日に青森県で客死されています。昭和16年(1941)には福島県の柳津温泉で中気(脳卒中)の発作に襲われ倒れられていますが、昭和17年(1942)には回復し、最期を迎えられるまで大東流合気柔術を伝えられています。この頃、大日本武徳会で合気道という呼称が使われたことを耳にされたとは思われませんし、知っておられたとしたら武道が戦時統制下に置かれたこともご存知であったはずです。開祖は、岩間(現 笠間市)に移られていて、大日本武徳会では活動をされていませんでした。したがって、「合気柔術」の名称を「合気道」と改めたことに激怒されたということは誰が言ったことでしょうか? 惣角師だと言うのであれば「合気武道」に変えたことを指して言っているのでしょうか?

これに限らず大東流と合気道の間で行き違いや誤解があるように思いますが、惣角師は、晩年まで「大東流合気柔術」で通されています。「大東流合気柔術」を次に伝承する宗家というお立場から考えて、開祖が別の名称を使って新しい武道を興すこと(大東流から離れること)を許さないということはないはずです。
少なくとも、開祖には「大東流合気柔術」を「合気道」に改めようなどという考えはありませんでした。

「合気道」という名称が、「柔道(1882年制定)」、「剣道(1911年制定)」、「弓道(1919年制定)」に次いで「合気柔術」を一般名(一般的な武道名)に変えたものと考える人もいるようですが、果たしてそうでしょうか?
普通、自流に誇りを持っている人であれば、大東流合気柔術という名称にこだわりがあるはずですので、開祖が大東流の合気も会得出来ていないのに勝手に合気を名乗るということでけしからんと思う人がいるのでしょうか? 確かに次のような人はいました。
『それは、(三浦真)将軍がそれまで大東流の武田惣角師の門にあったという修行歴に由来する。すなわち将軍は開祖を、惣角一門でありながら勝手に分派独立した者ときわめて単純に誤解し、憤慨していたらしい。…合理よりは直情を好む人物であったらしく思われる将軍は、開祖の昨今の大いなる盛名を耳にして「たかが同門同輩ではないか、なにほどのことやある、いっちょう懲らしめて、道場の看板でも担いで帰ってやろう」ぐらいの豪傑気分であらわれたようだ。ところがいざ手合わせしてみると聞きしにまさる達人であり、しかも話し合ってみれば人格まことに高潔かつ謙虚である。…そこで己れの早合点の誤解を悟った将軍は、そこは武人らしくさっぱりと事情を告白し、改めてその場で開祖に入門を乞うたのだという』(平成11年刊『合気道開祖 植芝盛平伝』p.198)

人にはいろいろな立場や見方があって、事実の見え方が異なるかもしれませんが、八千代合気会で合気道を学ぶ人にとって、どのような経緯で合気道が産み出されたか、合気道という名称がつけられたかということを知ることは有益であると思います。
posted by 八千代合気会 at 23:57| 日記

2016年04月10日

開祖の合気(20)

以上述べた開祖の合気が大東流の合気から見たらどうなのかということが大東流の佐川幸義宗範によって検証されていますので、それを加えて締め括りとしたいと思います。
このことは、『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』、『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』、『大東流合気武術 佐川幸義 神業の合気 ―力を超える奇跡の技法“合気”への道標』などを読むと目に入ってきます。

私は大東流を習ったことはありませんし、佐川宗範も存じ上げません。佐川宗範の技の動画は撮影されていないようですが、本に写真が載っていて、そのわずかな知り得る範囲内でも大東流内では卓越された方だと思います。惣角師の没後、宗家を継がれ、武田時宗師にその宗家を譲られてから総師範という意味の宗範という称号を与えられていることからも、関係者が認める確かな方だと思います。武道家としても、修行に取り組む姿勢が真摯で、自分を厳しく律しておられ、武田惣角師の名誉を守ろうとされている姿も尊敬に値すると思います。
それだけに何故、合気揚げで開祖の両手首をつかみ、開祖が手を揚げられないと見て、面目を失わせないため「最後には悪いから手をあげさせてあげた」というようなことを他人に吹聴するのかということが長い間の疑問でした。
幕末の剣聖 男谷精一郎は、必ず試合で3本に1本は相手に勝ちを譲ったことで有名ですが、その場合、決して打たせてやったというようなことは言わず、「お見事でござる」とか「参った」と言って相手を立てたようです。その点で、佐川宗範に対して武道家らしからぬという印象を抱いてきました。

しかし、よくよく読んでみると、これは勝負をしたのではなく「(武田惣角)先師のような合気が植芝にあるかどうかを知りたくて」ということが目的であったと書かれていました。その結果、開祖には惣角師のような合気が全くないことを確認して手を上げさせた、と内部の人に語ったことが本に載ったようです。
大東流の合気に対する佐川宗範の目は確かなようですので、これで少なくとも開祖の合気は大東流の合気とは違うということが認められました。

しかし、開祖がご自分でおっしゃられている(これまでにまとめた)合気がないかというと、そうとは言えません。
開祖は、今武蔵と恐れられた國井善弥師に、合気道はインチキだ、許しておけないと思って勝負を挑まれた時、「國井先生、よくいらっしゃった、さあどうぞ道場の看板を持ってお帰り下さい」と切り出し、その言葉を聞いた國井師が、バツが悪くなって苦笑いしながら引き上げたというエピソードのある方です。
佐川宗範のときも、その意図を察していて対応されたと思います。惣角師が「植芝には合気は教えていない」と言っていたそうですので、開祖が惣角師の合気は示せなかったはずで、手首をつかまれた時に揚げられませんという反応をされたと思います。このことで、佐川宗範も満足したはずです。
この時は大東流の宗家も(大同団結を呼び掛けるため)同席しての上のことです。佐川宗範は、合気道は大東流の一派と考え、大東流内部のこととして惣角師の合気(補足 宗範は惣角師が作ったのであろうと言っている)を開祖が会得しているかどうか確認しようとしていますが、開祖は、それに応じて開祖の合気で手を揚げると、合気道と大東流の優劣を争うことになるとはっきりと認識されていたことでしょう。確かに大東流の合気はマスターしていなかったでしょうから、手を揚げるなら合気道の理合で揚げることになってしまいます。そして、そのことは佐川宗範には直ぐに分かってしまうことです。

皆さんならこういう時にどうされるかですが、開祖が執られたこの二つの対応に共通するところは敵を作らない、争わないということのようです。大東流とは事を荒立てないで(自分の方から口に出さないで)、静かに去らせて貰いたかったのではないでしょうか。
昭和6年(1931)4月に惣角師の教授を受けた後は、惣角師が来訪されても居留守を使ったりされたようですが、これもやんわりとした意思表示ではなかったかと思います。昭和7年(1932)7月26日に大本内に大日本武道宣揚会が創立(8月13日発会)され、開祖が会長となっているので、居留守はこれ以降のことではないかと思います。出口王仁三郎聖師が惣角師に対して「血の臭いがする」と言って、人間的には余り好まれなかったことと無関係ではなかったと思います。

「いくら精神力とか気の流れとかいったってそんなもので自分よりはるかに大きい者を倒す事はできるものではない」とか「合気は気の流れなどといった考えからは、いくら何をやっても出てこない」というのが佐川宗範の大東流の合気から見た開祖の技に対する評価です。
倒すことが出来るか出来ないかは別にしておいて、このことで宗範といわれる人から合気道は大東流の一派ではないとみなされる(惣角師の合気を受け継いでいないと判定される)ことになりました。
これは昭和31年(1956)のことでしたが、佐川宗範にとっては大東流の合気が開祖にないということを確認する機会となり、合気道側から見れば、晴れて大東流と合気道は違うということが宗家にも佐川宗範にも受け入れられることとなりました。
双方にとってWin-Winですので、これからも大東流は大東流、合気道は合気道として認め合って行けば、日本の武道界にとってプラスになると思います。

開祖の技については、私も昭和42年(1967)4月9日に間近で拝見しました。目にしたのは気形の稽古の動きそのものでした(同じ時期の動画https://www.youtube.com/watch?v=XoDK3XuvZWw参照)。弟子の剣を額に当てておいてから、弟子がその位置から降り下ろす剣をスッと避けて、手に持った扇子で面を突くと、2、30 cm扇子から顔が離れているのに、弟子がパッと仰け反って受身を取って倒れていました。立技呼吸法では、開祖の手を取ろうとする弟子の手が60 cm位離れていましたが、開祖が弟子の方を見ないでパッと手を振ると、これも弟子が開祖の手に触れないまま後ろに倒れていました。
私も、佐川宗範ではありませんが、触れてもいないのに倒れるのは弟子が勝手に受身を取っているからではないかと疑問に思い、後になってからですが、教えを受けていた直弟子であった師範にお尋ねしました(弟子が開祖の腰に手を当てて押すのもありましたが、この時は畳表に皺がよる程弟子の足に力が入っているのが分かりましたので、不思議でしたが疑問に思うことはありませんでした。)。
その時、師範は、次のようなエピソードを話して下さいました。
「開祖が顔の前で腕を振られると腕が太い丸太のように見え、パッと手を上げられると手がグローブのように大きく見えるのです。それで、離れていても直ぐ目の前に開祖の腕や手が来ているように感じて受身を取るのです。ある時、それを不思議に思った弟子が、目をつむっていたらどうなるだろうかと考え、開祖が向こうを向いたまま手を振られた時に目をつむりました。案の定、直接当たっていないので、上を向いて目をつむったまま、その弟子は飛ばされないで突っ立っていました。そしたら、バタンという音がしないので後ろを振り返った開祖が、『馬鹿者!(真剣勝負で目をつむって、じっと突っ立っている馬鹿がどこにいるか)』と怒鳴られ、仰向き加減になっている顔を上から手で叩かれたら、グシャッというような音がして、弟子が畳に叩き潰されていました。そして、その後2、3日フラフラしていました」

宇宙と一体となった自分の腹中に相手を吸収して同化する(宇宙に結ぶ)開祖の合気は、実際に開祖のお話のとおりであったのです。それは、佐川宗範の見ているとおり大東流の合気とは異質の理合に拠るものです。開祖が「私は今まで、各流儀を三十流ほどやりました。柳生流の体術をはじめ、真揚流(天神真揚流)、起倒流、大東流、神陰流(加藤田神陰流)などいろいろやりましたが、合気はそれらを総合したものではないのであります」(『合気神髄』pp.31-32)とおっしゃられているとおり今までにないものです。

八千代合気会の皆さん、確かに開祖は新しい道を開かれたということが理解出来ましたら、これまでの「開祖の合気」を最初からもう一度読まれ、概念を自分の言葉でまとめてみて下さい。そして「今迄の武道は、年期を入れないと自分( 真我、愛の存在)になれなかったのですが、私はすぐにも了解し得る道を開いたのであります。それだけ今迄の武道と合気道は違うのであります」(『合氣神髄』p.70)と言われているので、それを稽古に取り入れられるようにしましょう。
私も、最初から全体の構想がまとまっていて書き上げた訳ではないので、何度も読み返してみます。そして、このブログも間違いがあれば修正しながら稽古に生かして行きたいと思いますので、時々、このブログを開き直してみて下さい
また、お互いに高めあって行きたいと思いますので、何か気付かれたことがあればフィードバックをお願いします。
posted by 八千代合気会 at 07:39| 日記

2016年03月21日

開祖の合気(19)

11) 武道の奥義、合気道の極意
道文に「合気の○○」と書かれていなかったので、開祖の合気のリスト(2015年7月8日のブログ 開祖の合気(8))には載せませんでしたが、「武道の奥義(奥儀)」「武の奥意」や「合気道の極意」「武の極意」、或いは単に「極意」という言葉で述べられている部分があります。
ちなみに「合気道練習上の心得」を除き「秘伝」という言葉は使われていません。

これまでに引用した部分とも重なりますが、<奥義>と<極意>に分けて抜き出します。このように分けてみると、開祖が言葉をかなり厳密に使われていることが分かります。注意してお読み下さい。同じことを述べられている部分もありますが、開祖がそれだけ概念をきちんとまとめられていたと思って読むと、涙が出てきます。

<奥義> 「結びの技、岐美の神業」
「(昭和20年(1945)の白い幽体との稽古の後)新たに、日をおいて立つと、木剣も自分も光の雲もなく、宇宙一杯に自分が残っているように感じた。その時は白光の気もなく、自分の呼吸によって、すべて宇宙の極が支配され、宇宙が腹中に入っていた。これが宗教の奥儀(奥義)であると知り、武道の奥儀も宗教と一つなのであると知って法悦の涙にむせんで泣いた」(『武産合氣』p.131)
「念を去って皆空の気にかえれば生滅(しょうめつ、勝ち負け)を超越した皆空の御中心に立ちます。これが『武道の奥義』であります」(『合気神髄』p.80)
「また、念を五体から宇宙に気結びすれば、五体は宇宙と一体となって、生滅を超越した宇宙の中心に立つことも出来る。これが武道の奥義である」(『合気神髄』p.105)
「武道の奥義は、念を五体から宇宙と気結びし、同化して生死を超越し、宇宙の中心に立つことである」(『合気神髄』p.175)
「今迄の私の武の奥意(奥義)は一剣に生殺与奪の力を集め、相手を自己の想うままにして、栄えの道と喜びの道の案内をすることであった」(『武産合氣』p.128)

<極意> 「禊の技、小戸の神業」
「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。 合気道の極意は、己を宇宙の(万有愛護の)働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。 合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである」(『武産合氣』p.13)
「とにかく宇宙の営みの霊波のひびきをよく感得することです。技はそのひびきの中に生れるのです。だからして道歌に、
日地月(にっちげつ) 合気になりし橋の上 大海原は山彦の道
天地は汝(な)れは合気とひびけども 何も知らずに神の手枕
武とはいえ 声もすがたも影もなし 神に聞かれて答うすべなし
と歌った。
極意とは自分を知り、理を究めて、合気をもってみそぎの技とするのです」(『武産合氣』p.135)
「合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我はすなわち宇宙』なのである。
そこには速いとか、遅いとかいう、時間の長さが存在しないのである。この時間を超越した速さを、正勝(まさかつ)、吾勝(あがつ)、勝速日(かつはやひ)という。正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。
では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。
それには、まず宇宙の心を、己の心とすることだ。宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来(こおうこんらい)、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。
愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。
宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。
真の武道には敵はない、真の武道とは愛の働きである。それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の道こそ愛の現われなのである」(『合気神髄』pp.34-35)
「合気というものは、森羅万象どんなものでも、極意に取り入れなくてはならない。取り入れるのではなく、教えを受けなくてはならぬ。…森羅万象は武道における大いなる教えであります。これを見のがしてはいけない。神が表(おもて)に現れるということは、(万有愛護の)精神がことごとく天地に光っているということだが、皆、これを理解しない。…きれいな心になってしまえば何でもないが、しかしそれは容易なことではない」(『合気神髄』pp.57-58)
「今までは形と形の物のすれ合いが武道でありましたが、それを土台としてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる。自分に愛の心が無かったら万有愛護の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいかぬ。無抵抗主義、これこそ霊界の処理法であり、念彼(ねんぴ)観音力と申します。武の極意に形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります」(『合気神髄』p.129)
「宇宙の気はすべて魂の円におさまります。おさまるがゆえに技も無限に包蔵され、生み出すこともできます。これが合気の魂の円であります。
この魂の円がなければ栄え、また精進、魂魄(こんぱく)和合のはこびはできません。これがなければすべて五体への還元はなくなるのであります。魂の円(原文は円の魂)の皆空は宇宙一体に帰します。
これは合気の武の根元でありますが、魂の円を体得した極意には、相対の因縁動作を円に抱擁し、掌(てのひら)に握るごとく、すべてを吸収します。己に魂があれば、人にも魂があり、これを気結び、生産びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します。いかなるものも自由にとけるのが円であります。
円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」(『合気神髄』p.121)
「目に見えざる世界(気形)を明らかにして、この世に和合をもたらす。それこそ真の武道の完成であります。今までは形と形のもののすれ合いが武道でありましたが、それを土台としまして、すべてを忘れ、そのうえに自分の魂をのせなければなりません。愛の心が無かったなら万有愛護の大精神の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいけません。武の極意は形ではありません。心は自在に生じ、気は一切を支配する本源であります。…橘の小戸(おど)の神業(かむわざ)、禊(みそぎ)の技、これが合気道です」(『合気神髄』pp.154-155)
「私は武道を通じて肉体の鍛錬を修行し、その極意をきわめたが、武道を通じて、はじめて宇宙の神髄を掴んだ時、人間は『心』と『肉体』と、それを結ぶ『気』の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。『気の妙用』によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和するのである」(『合気神髄』p.178)

数年前、地域社会指導者研修会で教えを受けた師範に「道主は、開祖から一子相伝で秘伝のようなものを受けられているのですか」とお尋ねしたことがあります。その師範のお答えは「そのようなことはないと思います。皆、自分で見出すものです」でした。

開祖が難しいお話をされた後で技を示演される時、そのお話と技とは必ず関連があったはずです。そして、多岐にわたる形而上学的なお話も形而下の技のポイントにすると、ほんの数点にまとまると思います。それでなくては、とっさのときに技が役に立たないと思う故です。
そのような観点から、この「奥義」と「極意」の二つを自分で概念化し、それが技にどう結び付いているかを研究してみて下さい。

開祖のお言葉から何かを見出すそうとするのは、まるでジグソーパズルを組み立てているような感じがします。しかし、開祖は言葉の使い方が厳密なので、何とかはめ込むことが出来ると思います。ジグソーパズルは外枠(フレーム)がないと格段に難しくなります。それで、皆さんが自分なりに理解しようとされる時、私のこのまとめをそのフレームとして使って頂けると、途中で放り出さなくて済むのではないかと期待しています。

開祖の教えを学ばれる時の八千代合気会の会員の皆さんの目の輝きに力づけられ、私もやっとここまで辿り着くことが出来ました。感謝しています。
posted by 八千代合気会 at 23:51| 日記

2016年03月01日

開祖の合気(18)

補足ですが、英語で稽古というとpractice、training、exercise、lessonなどがあります。この内practiceとtrainingは次のように明解に使い分けられているそうです。
practice(一度身に付いたら無くならないことを身につける練習、自転車に乗れるようになるための練習など、運動神経などの神経系に対するアプローチ)
training(継続していないと無くなってしまうものの訓練、筋肉系に対するアプローチ)
このように分けて考えて稽古法を吟味すると、稽古の実効を上げることが出来ると思います。

鍛錬については宮本武蔵の有名な言葉があります。
「千日(せんじつ)の稽古を鍛(たん)とし、万日(まんじつ)の稽古を練(れん)とす。能々(よくよく)吟味有るべきもの也」(『五輪書』水之巻)
稽古に稽古を重ねることが鍛錬であるという意味だと思いますが、英語に訳すと、鍛をdiscipline(精神修養などの訓練、mental disciplineで精神の鍛錬)、錬はrefining(磨きをかけること)としているものがありました。
これまでのところでは、開祖が言われる鍛錬(神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬すること)と武蔵が定義したものとは少し目的とするところが異なるようです。
吟味有るべきとは、考え、調べ、良いものを選ぶべき、又は見出すべきという意味で、工夫すべきということです。

一般的に、鍛錬の方が稽古よりも広い意味で使われています。例えば、「合気道練習上の心得」(『合気道のこころ』p.145)には「合気道は心身を鍛錬し」と書かれており、「三つの鍛錬」(『合気神髄』p.164)にも「己れの心を宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」「己れの肉体そのものを宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」「心と肉体とを一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」とあって、心と肉体及び気を鍛えることをすべて鍛錬と言っています。

「手がふれたら指一本で抑えることが出来た。この時、ウナギ掴み、すなわち気でもって相手を抑える即位づけ(昭和32年刊『合氣道』p.185の続飯づけ。「即ち位付け」は誤り)の妙法を覚ったのである。こうして合気の真の鍛錬法が出来てきたのである」(『合気神髄』p.164)は、「気でもって相手を抑える」ですから、気の鍛錬のことを指しているようです。鎮魂行法よりも、もっと技への応用が進んでいると思います。

『絶対不敗の武、「合気道」 植芝盛平という「大宇宙」』という題の文章が『秘伝』1997年9月号に掲載されました。特集で、「伝説の開祖を、深遠な術理をいま改めて検証する」という副題が付いています。ペンネームを桑沢慧という方が書かれています。剣道四段(当時)の方です。そこに興味ある実験が書かれていましたので、長くなりますが引用します。
「かつて、私は普段の剣道の稽古である実験を試みたことがある。実験といっても、それは技術的なものでもなければ、稽古内容に工夫を凝らしたのでもない。攻め合う際の、心のあり方を変えてみたのだ。それまでの私は高段者に対してはいうに及ばず、先輩や朋輩たちにもいいように打たれる一方で、逆襲しようとむきになればなるほど、その情況は悪化の一途をたどった。無心になれ、とアドバイスをもらい、それには禅が一番なのだろうと短絡的に考え、ただ座することに集中してもみたが、付け焼き刃の座禅などをいくらやったところで邪念が踊るばかりで、無心の心境などになれるはずもなかった」
「打たれまくる原因を自己分析するに、どうも私は戦闘に徹することが苦手なようだった。闘争本能が先天的に欠落しているのか、たとえ自分ではどんなに熱くなっているつもりでも、心のどこかが冷めていて、本心から相手を倒す行為に没入できない。それが身体の隙となって現れ、相手にとってはいともたやすく打つことができるらしい。これは格闘技をやる上では致命的な欠陥だ。心の冷めた部分を何かで埋めないと、現状は打開できない。そこで考えたのは、相手を敵とは思わず、むしろ逆に『あなたが好きだ』と思うことだった」
「『攻めが変わった』と言われるようになったのはこの実験を始めて間もなくだった。私自身、相手の目を見続けることができるようになったことと同時に、相手の動きが実によく見えるようになり、一方的に打たれまくるという醜態から次第に遠ざかっていった」
「その内、私の変化に気づいた師範代や朋輩たちが、何か特別な訓練でもしているのか、と尋ねてきた。私は正直に答えるのが面はゆく、言葉を濁していたが、ある日親しい朋輩に実験のことを打ち明けた。ところが、あなたが愛しい(あなたが好きだ)と思いながら稽古している、と言うと気味悪がられてしまい、冗談ということにされてしまった。我々日本人は愛という言葉を男女間の恋愛に限定して捉えがちなことが、争っているときに愛しく攻める、という矛盾した行為への理解を妨げているように思えた」
「盛平翁の言う愛気と『従来の武芸者が口にするのとは違う』合気との関係を、以下のように理解した」
「相手が放つ気がいかに大きくても、それが殺気であっても、従来の武道のように合気を外すことなく、愛気を以て相手と気を合わせる。殺気と殺気のぶつかり合いならここで勝敗のやりとりになるのだが、愛気は殺気をも呑み込んでしまうので、攻撃をしかけた方が負ける。なぜなら殺気とは勝ちたいという欲望から発する個人的な欲求であり、目的を果たせば消えてしまう一過性のものだ。これに比べ、愛気は自分を倒しに来る相手をも生かそうとする慈愛の心、言い換えれば過去から現在、そして未来へと繋がっている生命の連続性を慈しむ心から発しているため、各々が内包する時間に一瞬と永遠の違いがあり、一瞬に賭けて欲望を満たそうとした相手は、永遠の中に吸収されるようにこちらに気を飲まれてしまい、その結果が負けという形で現出する。盛平翁が『争おうという気持ちをおこした瞬間に敵はすでに破れている。そこには速いとか、おそいとかいう時の長さが全然存在していない』とするのも、こう考えれば理解できる」

この実験が、相手を動かそう、相手を投げよう、相手を倒そうという気持ちから離れて、開祖の言葉のとおりの稽古をすることを促すものになれば良いと思います。そして、相手から「何か特別な訓練でもしているのか」と尋ねられるようになると一層の励みになると思います。

合気道は試合を行わないので、勝ち負けという結果は分かりませんが、稽古の中で万有愛護の心で相手を包み込むことは出来るはずです。愛おしいという気持ちは、孫が懐に飛び込んで来るのを抱き留める時の気持ちと同じです。目に入れても痛くない孫なら、空っぽにした腹中に入れるのは訳がないことだと思います。八千代合気会の会員の皆さんは、どうぞ工夫をしてみて下さい。

工夫は鍛錬の重要な要素だと思います。その工夫の際の参考になればと思い次の図を示しておきます。
作用反作用S.jpg

以上から、開祖は、稽古法、鍛錬法についても(多分、ノートに)しっかりとまとめられて道文にされていることが分かります。「開祖の合気」ということで道文を手掛かりに調べてみましたが、これで確かに開祖の合気、開祖が開かれた独自の合気の道が確立されたことが分かって頂けたかと思います。
posted by 八千代合気会 at 06:59| 日記

2016年02月11日

開祖の合気(17)

ところで、開祖が「気形の稽古と鍛錬法(稽古法 and 鍛錬法)」と言われているので、気形の鍛錬法と呼ばれるものが稽古法とは別にあるようです。私は、気形から連想して、これは「気の鍛錬」に分類されると思います。
気形の鍛錬法を道文の中から探すと、次の修法(鎮魂行法)がそれを指しているのではないかと思います。
「武道と神ながら( 武産の神示「愛の氣結び」)の道、これまでの武道はまだ充分それに達してはいなかった。なぜなら、今までが魄の時代であり、土台固めであったからです。すべて目に見える世界ばかり追うと今までのようなことになり、それではいつまでたっても争いが絶えない。目に見えざる世界(註 気形と同意、魂)を明らかにし、この世に平和をもたらす、それこそが真の武道の完成であります。修法は、指を(鎮魂印に)結び目をつぶって下さい。すべて心が定まってくると姿に変わって来る(イメージされるようになる)。深呼吸のつもりで魂で宇宙の妙精(清新の気というよりも愛の気)を集め、それを吸収する。…まず自分の腹中を眺め、宇宙の造り主(の愛の心、愛の気)に同化するようずーと頭に集め、造り主に聞く。すると気が昇って身中に火が燃え、霊気(神の愛の力)が満ちて来る」(『合気神髄』p.128)

気の鍛錬はメンタル面を強くするという意味(何ものにも何事にも動じない胆力を養うという意味)の精神力、気力の鍛錬ではなく、愛し慈しむ心、平安な心に関連した愛の気の鍛錬です。科学的にいえば脳波をミッドα波(α2、9〜11Hz)にする鍛錬のことを述べておられるようです。

この鎮魂行法は、白井亨の鍛錬法の内観法に当たるものだと思います。白井亨の場合、最初、水行(水垢離)によって心の鍛錬・気の鍛錬をしていましたが、体を壊してから内観法、軟酥の法に加え徳本行者に付いて南無阿弥陀仏の唱名(念仏行)も行っています。
開祖も水行や滝行もされましたが、鎮魂行法をされ、祝詞も上げられました。いずれも瞑想法に加えて声を出されたことが良かったのではなかったかと思います。

科学的に分かっていることは、「愛」「感謝の心」そして「笑い(笑顔)」などが脳波を安定させるそうです。また、このような丹田を意識した呼吸法(内観法)も、15〜30分位続けると脳波計でα2が観測されるようになることが知られています。
α2が出るとセロトニンの分泌が促進され、「相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのである。世界を一目に見るのである」(『合気神髄』p.15)という武道に欠かせない集中力が身に付く(ゾーンに入る)ようになるようです。「これを実践して、はじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである」という状態になるようです。

開祖は、「私は人間を相手にしていないのです。誰を相手にしているのか、強いて言えば神様を相手にしているのです。人間を相手にしてつまらぬことをしたり言ったりするから、この世は上手く行かないのです」(『合氣道技法』p.262)と語られていますが、これは、神様や仏様(サムシング・グレートでも結構です)の存在を信じられる人にはよく分かると思いますが、鍛錬する上で欠かせない心掛けだと思います。脳波を乱さないため増上慢に陥らないために忘れてはならないことです。
相手より強くなろうという執着を捨て、神様が与えられたままの自分と向かい合うのです。そうすると感謝の念が湧いてきて、造り主と同じ万有を愛する気持ちが強くなって来ます。

気の鍛錬は、心と体に活気を与える気(エネルギー)を練る鍛錬です。気が流れるようになると血液の流れが良くなり、体の機能が高まります。心にやる気が湧いてきます。
また、このエネルギーは心(意識)によって導かれ、左右されます。正に「志は気の帥(すい)なり」(孟子 公孫丑上)です。万有愛護の心によって気を導き、気形の稽古によってそれを確かなものにして行きましょう。

このブログでは難しいことを書き連ねていますが、稽古では笑顔で心から楽しいなという気持ちを溢れさせて稽古したいと思います(稽古は常に愉快に実施するを要す)。
私の家族が癌になってから行った病院で笑顔共和国http://www.egao-kyowakoku.co.jp/index.htmlというものがあることを知りました。笑顔共和国憲法やスマイルトレーニングなどのメニューを是非ご覧下さい。「宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり」ということと「笑顔が、家庭内から始まり、社会へと自然に広がる」ということは、脳波で考えると同じことを言っていると思います。また、潜在意識は水面下で皆が繋がっているともいわれています。

八千代合気会の稽古は、皆さんが地上天国にいる気分を味わうものでありたいと願っています。また、気形の稽古に移るためにも、上級者は「そら動かないだろう」とか「それでは駄目です」とかいう相手を否定する言葉を使わず、気持ち良く受身を取って、「おっ、今のはイイネ」と言って後進を導きたいと思います。
もし、動かせない、容易に技に掛かってくれないような人に出会った時には、相手が上級者であれば、どうしたら出来るか、自分の技のどこをどう直すべきかを教えてもらえる絶好の機会だと思って尋ねると良いと思います。そうするとたちまち道場が地上天国に変わります。相手が下級者であれば、これも工夫をする機会、自分が稽古をさせて頂く絶好の機会が与えられたと受け取ることです。すべてそのように受け止めれば、この鍛錬が実りを迎えるようになると信じています。
posted by 八千代合気会 at 23:36| 日記

2016年01月21日

開祖の合気(16)

10) 合気の鍛錬(武道の鍛錬)
「その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰(じつげつせいしん)はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や名誉や財宝は勿論、強くなろうという執着も一切なくなった。武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を、正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである、と私は悟った」(『武産合氣』p.18)
「この道は、相手と腕力・凶器で戦い、相手を腕力・凶器で破る術ではなく、世界を和合させ、人類を一元の下に一家たらしめる道である。神の『愛』の大精神、宇宙和合の御働きの分身・分業として、ご奉公(武産合氣p.136の「みそぎのご奉公」)するの道である。この道は宇宙の道で、合気の鍛錬は神業(かむわざ)の鍛錬である。これを実践して、はじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである」(『合気神髄』pp.41-42)

この道文の鍛錬は、稽古という言葉では置き換えられないようですので、「合気の稽古」と分けました。
「合気の鍛錬」は「神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬する」=「神業の鍛錬」ですが、「三つの鍛錬」でいうと「心の鍛錬」になるかと思います。

開祖がおっしゃられる(水行、滝行などの禊行とは別で、禊の技という言葉で使われている)「禊」がこの鍛錬法のことです。自分の気を整える(愛の気を充満させる)ことが神業の鍛錬(禊)で、これはまた自己と一体になっている宇宙の気を整えることにもなるので、合気の技は禊の技(禊のご奉公)、小戸の神業といいます。
「息を吸い込む折には、ただ引くのではなく全部己れの腹中に吸収する。そして一元の神(万有愛護の神)の気を吐くのである。それが社会の上なれば、自己の宇宙に吸収して、社会を神の(愛の)気で浄めるということになる」(『合気神髄』p.14)
「一人一人が心の洗濯をし、心の立て直しをする。世界から戦争、喧嘩(けんか)をなくす。それが小戸(おど)の神業(かむわざ)である。…(生み出された愛の気の)ひびきが全宇宙に拡がっていくように鍛錬しなければならぬ」(『合気神髄』p.20)
「これによって、誰に頼まれなくとも自己のつとめの上に、世界の何ものよりも先に立って、みそぎのご奉公(合気神髄p.42の「ご奉公」)をするのであります。…それは自己の六根を磨き上げて(鍛錬して)自己の魂を光らせること(合気神髄p.125の「愛より熱も出れば光も生じ」)です」(『武産合氣』p.136)
「この大いなる合気の禊(みそぎ)を感得し、実行して、大宇宙にとどこおりなく動き、喜んで魂の錬磨にかからねばならぬ。…人を直すことではない。自分の心を直すことである。…真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ」(『合気神髄』p.115、p.150)
「みそぎの技として、合気は最後の愛行のために生まれたものなのである。…万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません」(『武産合氣』p.140)

この「万有愛護の使命の達成」の部分が、柳生新陰流の活人剣も含め、「過去現在にない」「これまでの武道はまだ充分それに達してはいなかった」ところです。その使命達成のためには、仏道でいえば「無」ではなく「衆生済度」を求めることです。開祖の別の言葉でいえば「合気道は世のため人のために」を心掛けることです。

禊は気形の稽古(気体技法)を生きたものにするために欠かせない心の鍛錬です。
八千代合気会の皆さんは、次の道文と併せてここのところを何度も読んで理解を深めて下さい。
「本当に美しい地上天国実現のために、今度(万有愛護の)精神にそって立つ武には、殺生の技はない。つまり、自然の摂理によって、魂魄あわせた引力によって、いかなるものも自己の腹中に吸収され、自己の思うままになるために大きなみそぎの本義がいる。これが(武産)合気です」(『武産合氣』p.162)
「(武産)合気と申しますと小戸(おど)の神業(かむわざ)である。こう立ったなれば、空の気と真空の気を通じてくるところの、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に映しとる。そしてそれを実践する。相手が歩いてくる。相手を見るのじゃない。ひびきによって全部読みとってしまう( 山彦の道)」(『合気神髄』p.119)
「喧嘩争いのない戦いのない平和な美しい楽土の建設に、この大きなみそぎの大道をもって現わさなければならぬ。…顕、幽、神三界の万有万神の定理を明らかになして、この世界の動きと共に相和して、この世の汚れをはらってゆくことが、この武産合気の本義であります」(『武産合氣』pp.181-182)

開祖は、後進に対して次のように望んでおられます。
「『さむはら』とは宇宙の気を整えて世の歪みを正すことである。日月星辰、人体ことごとく気と気の交流(結び)によって生まれたものである。ゆえに世界、宇宙の調整をしなければ邪気を発して、いろいろと災いがおきるのである。この邪気は禊(みそぎ)によって正しくしなければいけない。我が国は古来、禊祓(みそぎはらい。禊:罪を清める、祓:穢れを落とす)をもって大儀式を行って祓う。…禊は、はじめに(禊祓の儀式で)述べたように立て直しの神技の始めに行ずるのであるが、(自分の心の)禊(みそぎ)をして精神の立て直しをすることは特に合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々必ず修業してほしいと思う」(『合気神髄』p.152)

この禊については、何かを削り落とすことと何かを身の内で養い育てることとの両方が求められているように思います。相手に勝とうとする心、倒そうとか投げようとかする心は削り落とし、相手を受け入れ、宇宙(神といっても良い)と一体となり、同化しようと思う心を育てることを稽古の中で行うことでしょうか。そのようにすることが技の上達にも役立ち、人格の向上に繋がることが(相手が自分と組むことを避けなくなることで)理解出来たら、取り組みに弾みがかかることでしょう。
posted by 八千代合気会 at 05:05| 日記

2016年01月01日

開祖の合気(15)

合気道の理念や理合を行動レベルまで落とし込んだものが合気の稽古になります。大変重要かと思いますので、稽古の実効を上げるために(実効性を高めるためではありません)もう少し踏み込んで稽古法について考えてみましょう。

「三元とは剛柔流でその働きは又三つの働きとなる。即ち生産霊(いくむすび) 足産霊(たるむすび) 玉留産霊(たまつめむすび)の働きである。気を起こして流体素、あらゆる動物の本性である。柔とは柔体素で、植物の本性又肉体のように柔らかいものである。剛とは剛体素、大地や岩石のような固い物、鉱物の本性である。これらの上にあって、気によって活動している。気にも悉く剛柔流の働きがある。そして動いている」(『武産合氣』p.161)

この道文を斉藤守弘先生の固体技法、柔体技法、流体技法、気体技法に結び付けると、順に剛、柔、流、そして気の技法、働きになると思います。
『合気道―剣・杖・体術の理合』第五巻のp.35辺りから引用します。
・剛 「固体(基本)技法の体捌きは、双方が静止した状態から技を始める方法である。この静止した状態は、相手に数歩ゆずって片手、両手、肩、胸など完全に取らせた最悪の状態である。この状態から無理なく自分から動いて相手を導き、制する訳である。…固体技法の体捌きは、自ら一歩側面に入って導くことが大事である」
・柔 「柔体技法の体捌きは、例えば片手取りであれば、相手が手首をしっかり握った時には既に体捌きが始まっているというように、“流れ”の技法と固体技法との中間的な捌き方である」
・流(気) 「流(気)体技法の体捌きは体を捌いて相手の気を流し、その流れに同化(同調)する捌き方である」

「気を起こして流体素」ですから、流体技法は、別名「気の流れの稽古法」と理解して良いでしょう。

そして、気体技法は「気形の稽古法」、「(相手を腹中に吸収して一体となる)気結びの稽古法」又は「引力の錬磨の稽古法」として、区別して理解したいと思います。武産合気の神示の「皆、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する。之、武産なり」や「武産の武は、形より心を以て、本とし、之の魂のひれぶり、武としての活躍なれば、之(スの)大神の愛の氣結びである」と照らし合わせると、「武産合気の稽古法」と呼んでも良いかと思います。

体捌きで説明されていますので、いわゆる「楷書、行書、草書」と考えることも出来るでしょうが、「気にも悉く剛柔流の働きがある」ですから、これらを気の側面から眺めてみましょう。しかし、一言で「気」というと意味が曖昧になるので、稽古に取り入れやすい意識という面で捉え、物理学、力学的な法則も当てはめてアプローチしたいと思います。

どんなに気といっても、固体技法や柔体技法では接触点があるので、接触点を動かせばF=ma(力Fは、質量mと加速度aに比例する)という運動の第2法則に従った力が接触点を通じて相手に加わります。流体技法や気体技法でも、投げる時や押さえる時に接触点が出来れば同じ法則の支配下に置かれます。
力(F)が加わった点(接触点)には、必ずこれと逆向きの力(−F)が発生します。これを作用反作用の法則(運動の第3法則)ということは中学校の理科で学んだことです。反作用の力は、必ず作用する力と同一線上(同一作用線上)にあって、大きさが等しく、向きが反対になっているというのがこの第3法則です。

相手と組む前に肩を上げてからストンと落として脱力してから手を取らせたりしても、いざ取らせた手を上げようとすると力が入ってしまい、相手(受け)が上級者であれば、「もっと肩の力を抜いて」と注意を受けたりします。それで、再び肩を上下させ、目をつむって、今度は無念無想になったと思って技を施そうとしますが、どうしたものか上級者のようにスムーズに動かせません。力がぶつかるのはこの作用反作用の法則によるので、これでは「いつまでたっても合気道は難しい」と感じたまま長年稽古を続けることになります。

この法則から抜け出すためには、接触点に力を入れないことです。言葉を換えれば、同一線上で相手の力が返って来る接触点を動かさないようにすることです。更にいえば、相手が、こちらの力が伝わって来ると予測している点(相手の気が込められている接触点)を動かそうという意識を持たないことです。
そのために、指先から気を出して臍や臍下丹田を意識して体を捌く、というようなことをしていると思います。その時に動かしている場所が接触点でないというところがポイントです。
固体技法や柔体技法で投げる時にも、例えば入身投げであれば、相手の首に接触している自分の腕で相手を押し倒そうとしないことも同じ理屈です。この段階では、指先を張ってとか、指先から気を出してと教えられていると思います。腕ではない指先に自分の意識を持って行くことで、力を加えようと意識している位置(自分の指先又は指先の方向)と自分の腕と接触している相手の首とが同一線上に来なくなる(同じ接触点で作用反作用の力が生じなくなる)ので、軽く技が施せるようになります。
入身投げ.jpg


柔体技法では、手首を取らせるのであれば、その隣の関節である肘を柔らかく動かすということで、体捌きは固体技法と同じです。接触点の力を0(ゼロ)にする、と理解している人もいると思いますが、そうすることにより作用反作用の法則が当てはまらない状況を作り出しています。固体技法よりも、自分の動き出すタイミングも早くなっています。
これを、相手を無力化するとか無抵抗にすると考えると、万有愛護の心から外れます。出来れば相手を制するとも思わないで、相手と一緒に技を作り上げるというような気持ちであれば、次の段階に上がりやすくなると思います。この段階では、受けの側の人も何が何でも動かされてはなるものかという頑張り稽古をしないように、小指の方で握って、まず、合気道が上達するのに必要な体や動きを作りましょう。

流体技法は、「気を起こして流体素」ですから、手を取らせる前から心の中で8の字(∞、無限大の記号、繭形)を描きながら動くというように技の動き始めのタイミングが早い稽古法です。剣で打ち込ませる時の開祖の動きを傍で見ていると、動くスピードはゆっくりしているように見えますが、それで余裕を持って剣を避けてしまうので、動きの起こりが早いのだと思います。そのためには膝を柔らかく使うなど、剣道でいう膕(ひかがみ)、膝の裏を軽く伸ばすということも大切です。

気体技法は、相手が自分の手を取ろう、真っ向両断に斬り付けようとした時には、手が伸び、剣が振り下ろされる前に必ず心の中で「位置について」「用意」「ドン」ということを無意識下で行っているので、その気を察知して腹中に迎え入れる無抵抗主義、万有愛護の稽古になります。最初は真似事から始めても、意識して稽古している内にそれに近づいて、やがてそれを意識しなくなった時に相手の気が分かるようになるのではないでしょうか(https://www.youtube.com/watch?v=_vag_o-9Mas参照)。

柳生新陰流の活人剣(かつにんけん)では、「相手に十分に働かせ、相手の人中路(正中線)と、自らの人中路を合わせて(補足 相手の人中路が自分の人中路に飛び込んで来る)、自らの人中路を截(き)り徹す」ということですから、古くからそのような吸収して一体となる技法があったと思います。この活人剣について、柳生延春宗家は、「正しく使えば、百発百中勝ちます」と言われています。
このような活人剣の働きを知れば、八千代合気会の皆さんも、開祖の「合気の稽古はその主となる(主要なる)ものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真に大なるものが真剣勝負である」という言葉を素直に受け入れられると思います。
posted by 八千代合気会 at 12:26| 日記

2015年12月24日

開祖の合気(14)

9) 合気の稽古
「合気の稽古はその主となるものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真に大なるものが真剣勝負である。武道においては本来、いわゆるスポーツ的試合はない。試合うとすれば生死をかけた試合となる」(『合気神髄』p.161)

「気形」は「きがた」と読みます。「気形の稽古」は「気の型稽古」ではありません。「気形」は英語ではそのまま“energy shape”や“energetic form”と訳され、“fluent attacks, tori(取り)will not allow to be grappled”(http://sanshinkai.eu/glossary/)という定義がなされています。『合気道―剣・杖・体術の理合』(斉藤守弘著)に述べられているところの気体技法の稽古になるかと思います。「相手の手、足に触れない…。気を導き、同化和合することを省略するものではなく、流体技法(気の流れの稽古)の極みが真の気体技法である。この技法は嘗て開祖が見せて呉れた技法である」(同書 第五巻p.36)という説明がなされています。
前掲の道文は『合気道講習会用テキスト』(https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00224/contents/023.htm)にも載っており、また、「それから星哲臣に稽古をつけた時のことである。彼は柔道より出た者であるが、気形として前進法を教えている時、急に背負い投げを掛けて来たのである」(『合気神髄』p.162)と続いている文章からも、開祖の稽古でよく見せられた技法(稽古法)であったと思います。

YouTubeで「気形」「kigata」で検索すると次のようなものがありました。
https://www.youtube.com/watch?v=S6_pEJGfJqY&spfreload=10
都城合気道錬成会H23冬季おさらい演武会 気形・気結びの舞の解説
https://www.youtube.com/watch?v=asVmUhh6Xxw
Katate Ryotetori - kotegaeshi (Kigata)
https://www.youtube.com/watch?v=0hPZ8iJwh5g
Kotegaeshi. Katate Ryotetori. Kigata
https://www.youtube.com/watch?v=huis5oZ2Lc8
Kiriotoshi. Katate Ryotetori. Kigata

開祖の演武や稽古では、次の動画の6:17 以降にあるのと同じような技法(気形の稽古、気体技法)が多見されると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=PaKHSjPlpys

「気形の真に大なるものが真剣勝負である」と述べられていますが、この真剣勝負はガチンコとかフルコンタクトとかいう意味での実戦勝負を指しているわけではありません。文字どおり生死を分ける真剣勝負では、常に勝つ(死なない)という絶対不敗が求められる故、自己を宇宙の中心に帰一して無敵(敵、即ち相手がない無抵抗主義)になるための気形の稽古が欠かせないのだと思います(真剣勝負の話の後に「先生はいつも勝ってばかりいられたのですか」という質問があるので、開祖のお話を聞いていた人は絶対不敗のお話をされていると理解していた。『合気神髄』p.162参照)。
そのような稽古をしようとする時のヒント(道文)があります。
「合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする、自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのです」(『合氣道技法』pp.262-263)
「私は宇宙と一つ、私は何物もない。立てば相手は吸収されてしまう。植芝の合気道には時間も空間もない。宇宙(往古来今謂之宙、四方上下謂之宇。宙:時間、宇:空間)そのままがあるだけなのだ。これを勝速日といいます」(同書pp.260-261)
「植芝の合気道には敵がないのだ。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いです。真の武道には相手もない。敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇宙の中心に帰一することです。合気道では強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要になるのです」(同書p.261)

気形ですが、『霊界物語』に「気形透明」「気形透明体」という言葉があり、そこでは「きけい」と読んでいます。「透明な気体の状態」というような意味でしょうか。気形(きがた)の稽古の気形は、この気形(きけい)という意味と連なります。
「出雲国は何処諸(いづくも)の国と云ふ意義で、地球上一切の国土である。肥河上(ひのかわかみ)は、万世一系の皇統を保ちて、幽顕一致、神徳無窮にして皇朝の光り晴れ渡り、弘(ひろま)り、極まり、気形透明にして天体地体を霊的に保有し、支障なく神人充満し、以て協心戮力(きょうしんりくりょく)し、完全無欠の神政を樹立する至聖至厳至美至清の日本国といふ事なり」(『霊界物語』15-2-11)
「至大浩々漂々恒々として撒霧(さんむ)たる⦿(ス)の時において、その機約の両極端に対照力を起して、恒々湛々たるが故に、その至大の両極端に対照力を保ちて、至大悉く両々相対照してその機威の中間を極微点(こごこ)の連珠絲(さぬき)がかけ繋ぎ、比々(ならびならび)隣々(となりて)ヒシト充実極まり居る也。しかれども気形透明体なるが故に人の眼には見えざるなり。見えねどもこの連珠絲が霊気を保ちて初めて至大天球(たかあまはら)を造る時に、対照力を以て至大の外面を全く張り詰りて球となりし也」(同書81-0-1)

この気形の稽古については、「みだりに(補足 目に見える外の形だけを)真似ることは差し控えるべきであり、又、真似しても何の得にもならない筈である。ここまで練り上げるのが真の稽古であると思う。開祖は『わしは60年間固い稽古を続けてきたから、今日のわしが在るのじゃ』と、気体技法を行った後に我々に語っておられた事をお伝えしておく」(『合気道―剣・杖・体術の理合』第五巻p.36)と戒められています。
しかし、固体(基本)技法と気体技法がまったく違ったものであると思わないで、ある程度の型を覚えたら、気形の稽古とは何かという工夫を重ねるのが良いと私は思います。無抵抗主義ですから、無理矢理に自分の腹中(中心)まで相手を引き込まなくても相手が入って来てくれるのを迎え入れるという心(自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心・意識)の鍛錬は早くから取入れて、自分のものになるよう練り上げるのが良いと思います。

「過ぎし年、入門した或る武道家が道主(開祖)に向い、『私は過去六ヵ月先生について教えを頂いたが、残念なことにまだ極意の技を教えて頂かない。先生、極意技とは如何なるものか形だけでも見せて頂けないでしょうか』と言ったことがある。道主は呵々と笑いながら、『君は何を言っているのか。日々極意の技をやっているではないか。今日教えた入身の投げ技などは、極意中の極意だ。奇想天外な極意などというものは、武道に於てはあり得ないよ』と言ったことがある」(昭和32年刊『合氣道』pp.129-130)
開祖は、この極意の部分を技で示されるのと同時に、長々とした難しいお話の中で説かれていると思います。八千代合気会の会員の皆さんは、ここまでの「開祖の合気」にまとめたことを参考にし、日々の稽古の中で極意(理合)の技を意識し工夫して行きましょう。稽古相手から「吸い込まれるように感じる」という言葉が聞けるようになると、進展していることが分かると思います。

「天地の呼吸に合し、声と心と拍子が一致して言霊(ことだま、ス声と理解すべきか)となり、一つの技となって飛び出すことが肝要で、これをさらに肉体と統一する。声と肉体と心の統一が出来てはじめて技が成り立つのである。霊体の統一ができて偉大な力を、なおさらに練り固め磨きあげていくのが合気の稽古である。かくしてゆくと、世の中の武道の大気魂が、その稽古の場所、および心身に及んで、練れば練るほど、武の気魂が集まって、大きな武道の太柱ができる。柳生十兵衛も塚原卜伝も、あらゆる古今の達人、名人の魂が全部集まり、また武道の気も神のめぐりによって全部集まりくるの理を知り、稽古に精魂をつくすべし」(『合気神髄』p.62、『武道練習』p.15が原典)
posted by 八千代合気会 at 14:28| 日記

2015年10月07日

開祖の合気(13)

8) 合気の魂の円(えん)
「円の働きのめぐり合わせが、合気の技であります。技の動きが五体に感応して、おさまるのが魂の円(原文は円の魂)であります。
円は皆空(みなくう)で、皆空の中から生み出すのが心であります。皆空とは自由自在のことであります。皆空に中心が生ずるとき気を生み出します。皆空の中心より無量無限の宇宙に気結び、生結びするのが魂であります。魂は一切を生み出すものであり、不滅の生み親であります。
(魂の)円を五体の魄(原文は魂)におさめると、技を生み出す仕組みの要素を生じます。産むは無限であります。すべてを豊かに満ちたる仕組みになすのが円の現われであります。
円は宇宙にある一切の万物生物を、気結び、生産(いくむす)びの形にて、生成化育し、守護の仕組みを生じさせます。世の中の因縁も円(まる)い動きのめぐり合わせであります。合気の武も円いのであります。
また、合気をもって物(魄)と心(魂)を合わせ、生き栄えていく仕組みをもつのが魂の円であります。宇宙の気はすべて魂の円におさまります。おさまるがゆえに技も無限に包蔵され、生み出すこともできます。これが合気の魂の円であります。
この魂の円がなければ栄え、また精進、魂魄和合のはこびはできません。これがなければすべて五体への還元はなくなるのであります。魂の円(原文は円の魂)の皆空は宇宙一体に帰します。
これは合気の武の根元( 合気の根源の項 参照)でありますが、魂の円を体得した極意には、相対の因縁動作を円に抱擁し、掌に握るごとく、すべてを吸収します。己に魂があれば、人にも魂があり、これを気結び、生産びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します。いかなるものも自由にとけるのが円であります。
円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」(『合気神髄』pp.120-121)

この「魂の円」は解説が必要かと思います。
これは合気道新聞第4号(昭和34年7月10日)の道文「圓(円)の本義」に載っているもので、第3号の空の気と真空の気の結びの説明に続くものです。「合気の原理」「合気の神髄」とも関連していて、開祖が体得された真の合気の道の根幹をなす部分だと思います。
道文には「魂の円」と「円の魂」という言葉が混在していますが、「魂の円」が正しいと思います。『霊界物語』にはなく、開祖の造語の故に用語の混乱が生じたのではないでしょうか。肉体(魄、五体)に重なった気の身体を「魂」として、この気の身体を天から(上から)見ると、中心を臍下丹田、又は正中線とした円形になっていると意識されるのと、この気の身体が螺旋に廻るので「魂の円」と表現されたのだと思います。
魂の円_s.jpg

まず、合気道新聞第3号(昭和34年6月10日「創造の武」、『合気神髄』pp.66-68「空の気を解脱して真空の気に結ぶ」)から関連のある言葉を抜粋します。
五体:「武は人のなす技に、喰い込み、喰い合せ、喰い止まって、その動きと働きに仕組んであります。これは五体(魄)の働きであります」
中心:「また、武は技(魄)と光(魂)を結ぶ事に力を入れなければなりません。その結びは中心がなければなりません。中心があるから動きが行われるであります。この中心は腹であります」

ここで、「皆空(みなくう)」ですが、般若心経にある「五蘊皆空」の「皆空(かいくう)」と同じ意味で、「知覚できる実体のない空(まったく何も無いのではなくて、何かを入れるスペースがあること)である」と理解して宜しいかと思います(http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/post-202.html参照)。
万有愛護の気持ちで立って、気の身体(魂の円)を皆空と感ずることによって、相手が自分を打とうとする気がスーッと中心にまで入って来てくれると思います。「宇宙の気はすべて魂の円におさまります」や「円はすべてを統合します。いかなるものも自由にとけるのが円であります」という説明もそうですが、次の説明も同じことを言い表されています。
「合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのである。世界を一目に見るのである」(『合気神髄』p.15)

「皆空とは正しき身魂の和合統一のことなり」(『合気神髄』p.53)ですから、「合気道においては常に相手がなく、相手があっても、それは自分と一体になっていて、自在に動かせる相手なのです」(昭和32年刊『合氣道』p.201)となり、「皆空とは自由自在のことであります」という謂いになります。

「魂の円( 原文は円の魂)の皆空は宇宙一体に帰します(宇宙と一体になります)」とあることから、皆空の中心は宇宙の中心と一つになる、即ち「我は即ち宇宙」の状態になった時の我の臍下丹田(腹)であると分かりますが、皆空ということですから、空(から)にした己の腹中(中心)まで相手が入って来るのを妨げないことかと思います。
大本教の教えの無抵抗主義を表す次の図が良く出来ていて、相手を中心まで迎え入れているのが分かります(http://onido.onisavulo.jp/img/rm_blog/muteikousyugi.jpg)。
無抵抗主義.jpg

武産合気の神示に「皆、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する。之、武産也」(『合氣道で悟る』p.43)とあるとおり、無抵抗主義になると「(相手と自分という)相対の因縁動作を円に抱擁し、掌に握るごとく、すべてを吸収します」で、相手の体の大小に関わらず自分の腹の中心に入って来てしまうのが不思議です。

「円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」は、「合気道においては常に相手がなく、相手があっても、それは自分と一体になっていて、自在に動かせる相手なのです」(昭和32年刊『合氣道』p.201)と同じことを表現されていることが理解できるでしょうか。

吉祥丸二代道主が、「円転の理」として取り上げられた理は、この「魂の円」も意識されてのことかと思います。
「この動きは、合気道のいわゆる“押さば廻れ、引かば廻りつつ入れ”ということであって、常に自己が中心となった円転の理の活用である」(昭和32年刊『合氣道』p.36)
開祖よりも二代道主の動作を主体にした解説が分かり易いかもしれませんが、触れて制する合気道から吸収する合気道に持って行くには開祖の説明のとおりに心の働きを理解するのが王道かと思います。

この魂の円を詠んだと思われる道歌があります。
「あかき血に仕組む言靈此妙技 もちろと○を出だしてぞ生む」
「六合(りくごう、宇宙)の 内限りなくぞかきめぐり きよめの道は○ともちろに」

「もちろ」は「△○□」という合気道の体の動きを表す言葉で、開祖は「物の霊(魄、体)」と仰られています。現道主が、「入身と転換の捌き」とご指導されている体捌きであると理解するのが良いと思います。
そうすると「○」は△○□(もちろ)の一つではなく、魄と一体になった魂を表すもののはずで、「魂の円」のことだと推察できます。「まる」と読むより「えん」と読めば良いのでしょうか。
これらの道歌は戦後になって作られたもので、開祖が見出された真の武を詠われたものです。

「念を去って皆空の気にかえれば生滅を超越した皆空の御中心に立ちます( 天の浮橋に立つこと)。これが『武道の奥義』であります」(『合気神髄』p.80)
「魂の円」は、開祖の合気の奥義を表す言葉です。分かるようになるまで、何度も読んで考えましょう。
posted by 八千代合気会 at 23:50| 日記

2015年09月24日

開祖の合気(12)

6) 合気妙応(合気妙用。合気の妙用)
「合気道とは、天授の真理にして、武産(たけむす)の合気の妙用であります」(『武産合氣』p.28)
「技は、すべて宇宙の法則(天授の真理)に合していなければならないが、宇宙の法則に合していない技は、すべて身を滅ぼすのである。このような技は宇宙に結ぶことはできない。…宇宙に結ばれる技は、人を横に結ぶ愛の恵みの武ともなる。宇宙と結ばれる武を武産の武というのである。武産の武の結びの第一歩はひびきである。五体のひびき( 波動、呼吸)の槍を阿吽(あうん)の力によって、宇宙に拡げるのである。五体のひびきの形に表れるのが『産(むす)び』である。…呼吸の凝結が、心身に漲(みなぎ)ると、己が意識的にせずとも、自然に呼吸が宇宙に同化し、丸く宇宙に拡がっていくのが感じられる。その次には一度拡がった呼吸が、再び自己に集まってくるのを感ずる。このような呼吸ができるようになると、精神の実在が己の周囲に集結して、列座するように覚える。これ即ち合気妙応の初歩の導きである。合気を無意識に導き出すには、この妙応が必要である」(『合気神髄』pp.86-87)
「次に自分の発声するのは発声と同時に宇内(うだい)の魂線にふれて、自己、発声せずとも、大いなる宇内は三音( ア・ウ・オの言霊、『合気神髄』p.111参照)を化して、丸く外部に拡がっていくのを覚えます。その次には一度言霊(ことだま)の発声するに従い、宇内(うだい)は自分に集まって来るのを覚えます。以上のごとき精神実在が明るく自分の周囲に、すべての霊が集結して列座するように覚えます。これすなわち、合気妙応の初歩の導きと存じます」(『合気神髄』pp.74-75)
「即ち人としてつとめをするにも、息を出す折には丸く息をはき、ひく折には四角になる。そして宇宙の妙精を身中にめぐらし六根を浄め働かすのです。丸くはくことは丁度水の形をし、四角は火の形を示すのであります。丸は天の呼吸を示し、四角は地の呼吸を示すのである。つまり天の気(愛)によって天の呼吸と地の呼吸を合わせて技を生み出す」(『武産合氣』p.45)

精神の実在(霊)が己の周囲に集結して列座するように覚えることが合気妙応の初歩の導きであると言われています。丸く息を吐き、四角く息を吸うこと( 逆腹式呼吸による観想法)により、宇宙と一体になる(結ばれる)ことを表しているようです。
開祖の「天の呼吸、地の呼吸」は、山口志道著『水穂伝(みずほのつたえ)』の附言にある「天地は水火(いき<息>、しほ、<塩>)の凝(こり、凝結)なり。故に日月の運行(めぐる)は天の呼吸なり。汐の満干は地の呼吸なり」と同じ概念です。
「それで天の呼吸(日月の息)、地の呼吸(潮の満干)を腹中に胎蔵する」(『武産合氣』p.134)という道文も、宇宙と一体になることの説明です。

この合気の妙応(妙用)が次の「合気の神髄」に繋がります。

7) 合気の神髄
「こうして合気妙用の導きに達すると、御造化の御徳を得、呼吸が右に螺旋(らせん)して舞い昇り、左に螺旋して舞い降り、水火( 魂魄)の結びを生ずる。摩擦連行作用を生ずる。水火の結びは、宇宙万有一切の様相根元をなすものであって、無量無辺である。この摩擦連行作用を生じさすことが、できてこそ、合気の神髄を把握することができるのである」(『合気神髄』p.87)
「合気道は宇宙万世一系の理道であって、一元の元津御親神即ち宇宙の“す”のみ声生れる前、大虚空を作り、その営みより我国の古き神代よりの歴史を生命として、又この歴史を修行の根元として、まつりぎ( 真釣木、真鈎木。まつるぎは誤り。魂魄一体、水火の結びで、バランスが取れていること)の意義をあらわし、かつその実行実在の上に、天の運化により修行する方法が私の合気道であります。これを真の武術と心得まして、この一元より出てくる宇宙の営みのみ姿、水火のむすびつまり天の呼吸(日月の運行)と地の呼吸(潮の満干)とを合し、一つの息として生み出してゆくのを武産合気というのであります。それはどういうことかをいうかというと『す』と『う』の働きによって、自分というものは、この与えられた魂と肉体(魄)との不離一体の交流によって、腹の底から『あ、お、う、え、い』を身体の口より鳴り出さしめるところの形式と、水(魄)と火(魂)との動き、つまり高御産巣日(霊系)、神産巣日(体系)の二神の、右に螺旋(らせん)して舞い昇りたまい、左に螺旋して舞い降りたまう御行為によって、水精火台の生じる摩擦作用の模様と全く同一形式なのであります」(『武産合氣』pp.43-44)

摩擦連行作用(摩擦作用)は、連行という言葉から分かるように、受けが吸い込まれるような感じを受ける作用のことです。
私は、これが無念無想、精神統一というような意味での心身統一の力ではないと考えていますが、八千代合気会の会員の皆さんの理解は如何でしょうか。「御造化の御徳」は「愛の情動、人を横に結ぶ愛の恵み」ですから、愛の情動が十分に働いているものです。開祖が霊体統一と表現されるときには、霊(愛の情動)主体従ですので、そのような観点から後述の「合気の魂の円」や「合気の稽古」「合気の鍛錬」を理解すると良いと思います。

「水火のむすびつまり天の呼吸と地の呼吸とを合し、一つの息として生み出してゆく」という言葉は、「呼吸力」という言葉の元になっているものだと思います。山口志道は、「水火」と書いて「イキ」と読ませていますので、「呼吸力」は「イキ(水火)の力」であって、「気(火)の力」だけではなく、「水(魄)と火(魂)の結びの力」を表した言葉であると思います。
山口志道は、日月の運行(天の呼吸)が海水に働いて潮の満干(地の呼吸)を引き起こす現象からヒントを得て、天の呼吸、地の呼吸の概念を導き出した思われます。開祖が、この概念を引き継いでおられれば、潮汐力のように作用する力が呼吸力で、受けが吸い込まれるような感じを受ける作用を及ぼす力ということになります。

この結びの力が、開祖の合気の神髄です。

「いづとみづ十(あいき)と生りし黄金橋 富士と鳴門の仕組なるかな」(昭和35年(1960)日本テレビ制作の映画『合気道の王座』)
黄金橋が天の浮橋(水精火台)、富士(火)が中心(天之御中主神)、鳴門(水)が右旋左旋(高御産巣日神、神産巣日神)で、水(瑞、魄)火(厳、魂)の結び(十、合気)の力を詠んだ道歌です。
posted by 八千代合気会 at 22:34| 日記

2015年09月09日

開祖の合気(11)

開祖は、「斯く打込んで来る敵に向かって、いつも自分の心に敵を包むやうな雄大な気持ちで対すれば、敵の動作を見抜く事が出来る。其の処で、それに合して右、或いは左に体をかはす事も出来る。又敵を自分の心に抱き込んだら、自分が天地より受けた処の道に敵を導く事が出来る」(『武道練習』)と教えられています。この文章は昭和8年(1933)のものですが、大正14年(1925)の黄金体と化す体験を踏まえて一段と工夫が進まれたことと思います。そして、神示を受けられた時にはどの方向を目指せば良いかがはっきりとされたのではないでしょうか。

「眞の武は武産の意義を明(あきらか)にするにあり」(武産合気の神示、『合氣道で悟る』p.44)
「稽古をば疑ふほどに工夫せよ 解(わか)りたるあとが悟りなりけり」(二刀流兵法問答)

それでは、『合気神髄』と『武産合氣』の中の合気に関連する言葉を順に拾い上げて、開祖の合気に対する理解を深めて行きましょう。
開祖の言葉は用語の定義が確かなので、自分の言葉でそれぞれの項目ごとに「合気の○○とは、つまり…である」というように概念化すると理解し易くなると思います。

1) 合気の起源
神示に「武産の武を、法座を以って使命付けられてゐるものは、汝一人以外に過去現在にない。この有難い使命を、精神を以って達成する様、努力を以って貫け」(『合氣道で悟る』p.34、43)とあります。この神示にある「精神」は「心を込めて」という意味ではなく「万有愛護の大精神」ということです。
「この至仁至愛の一大気の運化をもって合気の起源となす。ゆえに至仁至愛、万有愛護の大精神をもって合気とは名づくるものなり」(『合気神髄』pp.51-52)
「至仁至愛の一大気の運化は、また合気の起源であります」(『合気神髄』p.123)

多田宏先生の言葉の「対峙を超えた心から生じる大きな気の力」を「至仁至愛の一大気の力」「至仁至愛、万有愛護の大精神の力」に換えれば分かると思いますが、これが「過去現在(の武道界)にない」ところです。そして、これが開祖の合気の起源です。

「自己の愛の念力(念彼観音力)をもって相手を全部からみむすぶ」(『武産合氣』p.128)愛の働き(運化)が開祖の合気の起源(本)です。
「合気とは愛の力の本にして 愛はますます栄えゆくべし」という有名な道歌は、「合気とは愛が力の本にして 愛はますます栄えゆくべし」と読み替えると、「合気の起源」を詠ったものであることが分かります。

2) 合気の使命
「武とはすべての生成化育を守る愛である。でなければ合気道は真の武にはならぬ。…合気道の修行に志す人々は、心の眼を開いて合気によって神の至誠を実際に行うことである。…人を直すことではない。自己の心を直すことである。これが合気なのである。それはまた合気の使命であり、自己自身の使命でなければならぬ」(『合気神髄』pp.150-151)
「万有愛護の使命の達成を除いて、合気の使命は他にはありません」(『武産合氣』p.140)
「(スの)大神の御心(みこころ:愛)にかなう御経綸の武を生むのが合気の使命であります」(『合気神髄』p.73)

「正勝吾勝 御親心(みおやごころ)に合気して すくい活かすはおのが身魂ぞ」
吉祥丸二代道主が、「自己の人格形成を目指す求道でなければならぬ」とされた合気道で求める(数ある要素からなる)人格の第一は「万有愛護の心」を指しているようです。人が兼ね備えるべき智仁勇の三徳は「仁」を中心にということになります。

「愛」という言葉は日本語になりきっていないようです。“God is love”の“love”という英語も限定的な意味で使っているのではないでしょうか(Godを「神」ではなく、「救い主」「贖い主」と訳すと分かり易くなるでしょうか)。
マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と言っているので、関心を持つことが愛の行いになりますが、「すべての生成化育を守る愛」ということは関心を持って「育む」「慈しみ育てる(導く)」というような意味になるでしょうか。合気道の技であれば、相手を型に嵌めて制しようとせず、行きたい所に行かせるという無抵抗の技になると思います。
そのような技であれば、相手は心地よいと感じることでしょう。

3) 合気の根本の目的
「ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力で争い、弱いもの小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔を切り払い、地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります」(『武産合氣』p.111)

相手も自分も心地よい稽古をすれば、その場がそのまま地上天国となり、道場を離れても隠すことのできない人格となって表われ、好感を持たれるようになることでしょう。

4) 合気の根源(合気の根元)
「伊邪那岐、伊邪那美の造化の結びの神の化身の現れである。無性(むしょう、魂、祭)と有性(うしょう、魄、政)の大原則ことごとく宇宙の営みの元を生み出した。それが合気の根元となる。つまり、古典の古事記の実行が合気である」(『合気神髄』p.19)
「この(草薙の神)剣こそ祭政一致の根源であって、武の現れである。合気の根源である」(『武産合氣』p.152)

この合気の根源は、「神人合一の結び」「祭(魂)政(魄)一致」「魂魄和合(後述の「合気の魂の円」の項参照)」ということのようです。「大東流の合気、合気道の合気」と言っている人の「合気道の合気」の元(根元)になっている概念、理合です。

5) 合気の原理(合気の理)
「植芝先生は、じゅんじゅんと私達に合気の原理を説明して下さる。『…真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一する( 自己の中心に吸収してしまう)ことなのです。…』」(『武産合氣』p.192)
「全人類を大きく和合包摂し、総合渾一化して神人一体(合気の理)を傷つけないようにするところに、宇宙や万物の無限の発展完成が約束されている」(『合気神髄』p.36)
「合気道を修行する者は、また万有万神の条理を武道に還元さすことが大切なこととなってくるのである。それは万有万神の条理から来る真象を眺めることである。真象を通して合気道の技は、合気の原理( 真象、結びによる神人一体、宇宙組織の魂のひびきを神習うての無限の力)を通して創造することが可能であるから、どんな微妙なる宇宙の変化にも、よく注意していなければならない」(『合気神髄』p.38)

「神人一体」「神人合一の結び」「宇宙そのものと一つになる」が合気の原理(理合)であるとのことです。
posted by 八千代合気会 at 14:50| 日記

2015年08月11日

開祖の合気(10)

開祖が体得された真の武は、しばしば武産合気という言葉で表現されています。
「同時に、『真の武の道は武農一如、武産(たけむす)合気の生命力生産の実践こそ原点である』とのかねてよりの信念にしたがって、2年ほど前から決意して用意しつつあった茨城県岩間の里に、昭和17年(1942)、…さっさと… “神隠れ”してしまったのである」(『合気道開祖 植芝盛平伝』pp.35-36)
この「武産」について、『武産合氣』のp.14に「神道の真理の言葉」という註が付されいます。神道の真理とは、「ムスビによる神人合一の道が神道(神ながらの道)である」ということです。そうすると、武産とは、「ムスビ(産霊、結び)による神人合一の武道(神ながらの武道)」を表す言葉であるということが分かって来ます。
産霊は産(ムス)霊(ヒ)で、ムスビと訓(よ)み、生み出す力や生命力に満ち溢れたさま等を表す言葉で、結びの語源だそうです。

武産合気の神示にも「結び」という言葉が出ています。
「武産の武に精進するは魄(体)の為にあらず、この魂(心)の縁の結びなれば、よく肝に銘じて心得よ」(『合氣道で悟る』p.45)
ムスビは古代からあった言葉で、産す(生す)子、産す女(め)、即ち息子、娘という言葉にも含まれています。ムスブには、「結ぶ」以外にも「掬ぶ(むすぶ、掬する)」という言葉があり、気持ちを汲み取るという意味で使っていますが、「人間の体の中へ霊魂を入れ、結合させることである」(折口信夫による)という意味もあります。
「全部自分の腹中へ、身の内へ入れてしまうんですよ」と開祖が話されていることは、折口信夫(おりぐち しのぶ)の説明のようなムスビの状態を言い表されているのではないかと思われます。

さて、「一体」が後に付く四字熟語を探してみました。
「神人一体」「君臣一体」「三位一体」「夫婦一体」「親子一体」「人馬一体」「彼我一体」等々、別々のものが一つに結び合わされている状態を示す言葉が見つかりました。
「魂の縁の結び」や「皆、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する。之、武産也」(『合氣道で悟る』p.43)という武産合気の神示の言葉に照らし合わせて考えると、この中では「夫婦」や「親子」を結び合わせているものが武産合気の結びの力になると思います。夫婦や親子が、お互いを思いやり気持ちを汲み取り合っていれば、愛が溢れる、結び付きの強い家族になってくると思いますが、その時に「無念無想」でそうなっている訳ではないことは明白だと思います。

如何でしょうか、「無念無想」以外に一体化する方法があるということについて、納得のいく説明になったでしょうか。
愛だけで、あるいは魂の結びだけで相手を投げられるとは思わないと考える人でも、自分を認めて受け入れてくれる親や職場の上司の前で素直になれる自分に気が付いていることと思います。愛の情動(万有愛護の大精神)には、相手を和と統一に結ぶ力があるようです。
「先生に近寄ったとたん、自分の心と体が何か透明な感じになる。そして先生に触れると、それはよりはっきりして、まるで自分と先生の心と体の境の区別が、無くなったような感じとなるのである」という多田宏先生が受けられた印象のとおりだと思います。

取り敢えず、そんなことがあるようだという程度の理解でも宜しいかと思います。
村上和雄先生(DNA解明の世界的権威、筑波大学名誉教授)の言葉に、「脳は私たちが『できる』と思っていることしかできない。逆にいえば、『できない』と考えていることはできないのだ」というのがあります。人間の脳は、「そんなことはない」とか「そんなことはできるはずがない」と思っては、それ以上のことを考えなくなるのです。
「人間の能力、可能性は決して無限ではありません。遺伝子に書かれている以外のことは出来ないのです。ただ、人間の遺伝子で現在働いているといわれるのは5%から、せいぜい10%で、後はまったく眠ったままの状態に置かれています。つまり細胞の中の遺伝子は、A、T、C、Gからなる30億の膨大な遺伝子情報を持ちながら、そのほとんどはOFFの状態にあるということです。したがってまずどのようなことでも可能性はある。無限と思ってもなんの差し支えもありません。人間の可能性が無限であるという考え方は、私たちの脳が『可能と思ったこと』は可能だということです。世の中では奇跡が時々起きます。奇跡とは大半の人が『不可能』と思う事が『可能』になることです。しかし遺伝子的には奇跡もプログラムのうち。私たちは皆『奇跡の人』の可能性を持って生まれてきているのです」(村上和雄)

武産合気の結びは、体的な「触れる」とか「力を抜く」とかいう感覚的なものではないと思います。
「種を有しても(種を蒔いても)大地が愛をすってうけてくれねば結び生ぜぬ。故に、初(はじめ)の兆しの愛の氣(ス声)に結びて武産の愛の氣を以て業を生め。一時のからくりでなく(小手先の感覚的な技術でなく)、神業の神力が生じてくる」(武産合気の神示、『合氣道で悟る』p.43)
「無念無想」は年期がいりますが、「愛の情動」であれば、柳生新陰流の柳生延春宗家がおっしゃる、相手と対峙した時に「さあ、いらっしゃい(ス声と同じ愛の言霊)」という気持ちになるところから入っても良いかと思います。
「今迄の武道は、長い年期を入れないと自分になれなかったのですが、私はすぐにも了解し得る道を開いたのであります。…生通しの生命を腹中に胎蔵し、宇宙も悉く腹中に胎蔵して、自分が宇宙となるのであります」(『武産合氣』p.70)

八千代合気会の指導員には、「知っていることはすべて教えましょう」とお願いしています。誰も出来ること、知っていることしか教えられませんが、技は盗むものであると考えて教えなかったり、自分が体得したものが最高であると思って、それを他人に教えるのはまずいと考えていたら向上は望めません。すべてを教えながら自分も稽古させて頂いていると考えると、教える者も教えられる者も互いに啓発されて、更にその奥が分かって来ると思う故です。
また、教えられる側の会員には、「私には出来ない」とか「師範が教えているのは上級者向けで、私のレベルでは一、二、三、四と順に足運びはこうで、手捌きはああでというように覚えなければならない」という狭い観念を持たないようにお奨めしています。
指導員は、持っている最高のレベルをお伝えしようとしていますが、たとえ「一、二、三、四」という稽古であっても、合気道では、最初から極意(武産合気の神示:武の極意は形はない、心自在に生ず)の稽古をしていると思って取り組んで下さい。

合気道の技の方から眺めるということなので、そのような稽古をして、皆が開祖の伝えようとされたところが悟れるようになりたいと願っています。
posted by 八千代合気会 at 17:22| 日記

2015年07月27日

開祖の合気(9)

開祖が、「それが7年前、真の合気の道を体得し、『よし、この合気をもって地上天国を作ろう』と思い立ったのです」(『合氣道』p.200)と話されている体得時期は、私の推定ですが、昭和25年(1950)のことです。大阪朝日新聞社での教授を切り上げられてから14年経っています。
この間、昭和13年(1938)に『武道』を陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下のご要望によって作成され、「昭和15年(1940)の12月14日、朝方2時頃に、急に妙な状態になりまして、禊(みそぎ)からあがって、その折に今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。改めて先祖からの技をやらんならん(やらねばならぬ)ことになりました」(『合気神髄』pp.23-24)という体験をされ、続いて昭和17年(1942)に「武産合気の神示」が降ろされています(『合氣道で悟る』p.42)。

「今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました」と言われている言葉は、「今まで習っていたところの技の理合は、全部忘れてしまいました」という意味合いが強いと思います。それで「改めて先祖からの技をやらねばならぬことになり」ましたと言われる「先祖」、即ち日本の国の祖神、伊邪那岐・伊邪那美二神の島生み、神生みの技(業)、「ムスビ(産霊、結び)」が根本の理合となった「武産の技」へと変わります。このように理解すると、「合気道とは、宇宙の万世一系の理であります」(『武産合氣』p.28)と開祖が説明されるところが分かり易くなると思います。

ただ、八千代合気会の皆さんが、開祖が「合気」という言葉で表現されていることを理解するには、いきなり理合からよりも合気道の技の方から眺めた方が分かり易いと思いますので、先に開祖の技の特徴から述べたいと思います。
開祖の技は昭和15年(1940)に神示を受けられてから変わっていますので、道文として遺されている昭和25年(1950)頃から後の技と道文を比較すると良いと思います。

この昭和25年(1950)に入門された多田宏先生が開祖の技を受けた時の印象を次のように語られています。
「ある時期、私は不思議なことに気がついた。先生に近寄ったとたん、自分の心と体が何か透明な感じになる。そして先生に触れると、それはよりはっきりして、まるで自分と先生の心と体の境の区別が、無くなったような感じとなるのである。それは先生の修行で得られた、対峙を超えた心から生じる大きな気の力が、我々を包み込んだのであろう」(http://www.asahi-net.or.jp/~yp7h-td/kaiso.html

開祖の最後の内弟子である菅沼守人先生も同じことを別の言葉で表現されています。
「大先生の技には無理が全く無いのですね。投げ飛ばされても気持ちよく受身が取れるのです。まるで吸い込まれる様な感じで。熟達していない人の技だと、変な風に痛かったり怪我をさせられることもありますが、そういうことが全く無く、本当に動きに無理がないのです」(『開祖の横顔』p.30)

山口清吾先生に師事された武田義信先生も同じ感じを受けられています。
「大先生は道場に現れただけで吸い込まれる感じでしたね。山口清吾先生も吸い込まれるんだけど、大先生は『同化する』という感じが強くて、“取る・取られる”の相対的な関係では無く、『一つに成ってしまう』感覚。言葉もね、根源の所、魂で話している感じでしたね」(『秘伝』2010年1月号p.59)

以上のような開祖の技の印象は、次の開祖の道文と良く一致しています。開祖は、そのような感覚(想念)で技を施されていたという考えでこの箇所を読むと良いと思います。
「人の目を見たり、相手の技を見たり、姿を眺めているんじゃ無いですよ。全部自分の腹中へ、身の内へ入れてしまうんですよ。自分の腹の中に在るんだから別に争う必要が無い。大宇宙が自分に在るという事や。全宇宙が自分の腹中に在る事や」(昭和40年頃のラジオ会見記『合気ニュース』142号 p.15)

「合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのである。世界を一目に見るのである」(『合気神髄』p.15)

「合気道においては常に相手がなく、相手があっても、それは自分と一体になっていて、自在に動かせる相手なのです」(『合氣道』p.201)

開祖が、「よし、この合気をもって地上天国を作ろう」(『合氣道』p.200)と思い立たれた「合気」の技は以上のようなもので、「吸収」「一体」「同化」などがキーワードになろうかと思います。

他の武道でも同じ概念が述べられています。
「私のやり方を良く見ていましたか、仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど眼を閉じる。すると的は私のほうに近づいてくるように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体( 神人合一)になれば、矢は有と非有の不動の中心に、従ってまた的の中心に在ることになる、矢が中心に在る、これを我々の目覚めた意識を持って解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである、それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい、するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中(あ)てます」(弓道 阿波研造)

「厳に大義を重んじ包容同化の精神を培養し、たとえ敵対者に対しても日ごろ練磨した術技によって己を全うし、相手方の非を是正するところに真の武術の意義が生ずる。術技を通じ包容同化の精神如実に具現しえたとき、自他共に生存の実が生ずるので、真武の下に平和があり、平和の母体として武道が存すべき…」(鹿島神流 國井善弥)

いずれも弓禅一如、剣禅一如という言葉があって、「無念無想」や「無我無念」が説かれる武道です。

しかし、ここで忘れてならないのは、開祖の場合、普通の人が考えている無念無想で一体化(同化)されたのではないということです。
八千代合気会の皆さんは、ここの所を深く考えてみて下さい。次回まで少し時間がありますので、「何故、無念無想ではないのか」とか「無念無想以外に一体化出来る方法があるのだろうか」ということを思い巡らせて下さい。
このようにお願いするのは、どんなに素晴らしい真理であっても、自分から見出さない限り身に付かず、進歩が望めないと思う故です。
「人は各々自分の流儀に従って考えねばならない。なぜなら、人は自分のやり方によって常に真理、あるいは一生を通じて役に立つ一種の真理を見出すのであるから」(ゲーテ)
posted by 八千代合気会 at 16:22| 日記

2015年07月08日

開祖の合気(8)

大東流の「相手を無力化する技術」「敵の力を無にする技術」(佐川幸義宗範による定義)という合気は素晴らしいもので、確実に伝承されているようですが、古武道というベールに包まれていて熟達するための方法など核心の部分が部外者に公開されないため、諸説ある考えを特集した武道雑誌が売れているのではないかと思う程です。
その大東流の合気ほどには開祖の合気が何であるかが理解されていないために、Wikipedia「合気道」にある次のような「大東流の合気」も包含したような定義のまま混乱した状態に留まっているように思えます。

***
「合気」の歴史的考察
日本における武術用語としての「合気」は、江戸〜明治・大正期の剣術書などに認められる。それらは彼我の技量や気迫などが拮抗し膠着状況に陥る、または先手を取られ相手の術中に嵌るといった、武術的には忌避すべき状態を差す言葉であった。しかし明治以降、「合気之術」など積極的な意味の使用例が現れる。この頃の「合気」には「読心術や気合の掛け声をもって相手の先を取る」といった意味付けがなされていた。大正期には各種武術書に同様の意味合いで「合気」の使用が見られ、「合気」が武術愛好家の間で静かなブームになっていたという。

大東流合気柔術では、相手の力に力で対抗せず、相手の“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。なお大東流は初め「大東流柔術」と称していた。この名称に「合気」の文字が加わったことが確認できるのは、1922年(大正11年)、武田惣角が盛平に授与した目録が初めてである。
惣角は同年綾部の大本教団にいた盛平のもとを訪れている。この時に出口王仁三郎が「合気」を名乗るよう盛平に勧め、盛平は「合気」を大東流の名に加えることを惣角に進言、以後惣角もこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言がある。

合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を含むものになった。(盛平は「合氣とは愛なり」と語っている。)
大東流における「合気の技法」的なものから、合気道の体捌きである入身・転換、技に入るタイミング、相手に掴まれた部分を脱力して相手と一体化する感覚など、相手や自然の物理法則との調和・また宗教的な意味合いでの「宇宙の法則」と和合を図ろうとすることなど、技法から理念まで全てを広く「合気」と表現する傾向がある。
***

このWikipediaに書かれているような意味であると理解して、稽古の中で工夫しようとすれば、「合気とは敵と闘い敵を破る術ではない。世界を和合させ人類を一家たらしめる道である。すなわち、合気道の極意は、おのれを宇宙の動きと調和させ、おのれを宇宙そのものと一致させることにある。修行者は、このことを日常の鍛練を通して悟るべきである」という開祖の言葉と合わせて考えてみて、さて、鍛練と言われてもどうしたら良いものかと考え込んでしまうのではないでしょうか。

相手を無力化しておいて敵と闘い敵を破る術ではないと嘯(うそぶ)き、無力化することが理想の境地を実現しているのだなどと言えるのでしょうか。開祖の言葉は理念で、実際は違うというのならそれまでの話ですが…。

稽古の時に開祖が長々と話されたことで、当時の弟子は閉口したようですが、その話の中に開祖の合気が述べられています。
開祖が実際に話される時にはテープに録音されているように紀州弁ですが、道話や言志録としてまとめられているものは標準語になっているので、編集者がいて分かり易い標準語に直していると思います。その段階で間違いが生じたり本にする際に誤植があったりしたのでしょうか、一部分かり辛い所があると思います。また、お話をされている段階では分かっていても補足しなければ伝わらない部分もあるので、その点に注意しながら解きほぐしてみます。

開祖の合気は弓道の阿波研造範士などの説かれる極意の話とよく似ていますが、阿波範士ほど言葉の意味するところが難解ではありません。武道の真理(宇宙の真理)を宗教の真理を表す言葉を使って説明されているので、宗教の言葉が分かってくると理解し易くなると思います。
ただし、言霊と同じで、一音多義的な表現があって、Wikipediaに書かれているように技法から理念までを広く表現されていますが、そのことを弁えれば、鍛練法まで明らかにされています。
『合気神髄』と『武産合氣』の中には次のような言葉が出てきます。数字はページを表しています。

合気道の合気.jpg


少し、「相手を無力化する技術」「敵の力を無にする技術」から離れて、フレッシュな目で道文を眺めてみて下さい。
posted by 八千代合気会 at 17:54| 日記

2015年01月28日

開祖の合気(7)

記録上、開祖が師に礼を尽くし教授を受けるのは昭和6年(1931)4月7日で最後になっていますが、昭和11年(1936)になって大阪朝日新聞社で惣角師に挨拶もなく立ち去った後、師弟の関係は完全に途絶えます。このことで、大東流側からは惣角師に対する開祖の態度を詰る言葉もありますが、この時には第二次大本事件で王仁三郎聖師や大本の幹部が獄中にあり、その手前とても顔を合わせられるような状況ではなかったかと思います。

『月刊 武道』2014年4月号に、その時の状況が次のように掲載されています。
「昭和7年、久(琢磨)は東京から大阪朝日新聞社に庶務部長として転勤した。赴任直後、久は石井(光次郎)から、天才的な柔術家として植芝盛平を紹介され、警備責任者として、守衛を中心とした社員数名とともに、毎朝早朝、植芝の教授する柔術の修行につとめた。
4年ほど経過した昭和11年6月3日(21日という記載もあり)、大阪朝日の受付に、右手に鉄杖を突き、腰に鎧通しをさした、小柄ではあるが眼光炯炯たる老人が現れ、植芝の師、武田惣角と名乗った上で『ここで植芝が大東流合気柔術を教えているが、彼はまだまだ未熟だ。真の大東流を学ばんと志すならば、自分の門人となって習え』という趣旨のことを述べた。
驚いた久がこのことを植芝に知らせにゆくと、『そうか』と言っただけで、出迎えにいこうともしなかった。
当時、植芝は、技法に関する考えの違いから武田を避けていたらしいが、そのことを植芝・武田両師とも説明しようとしなかったので、要領を得ないまま、久らは翌日から、早朝には従来のごとく梅田の村山邸内に設けられた道場で植芝の指導を受け、午後は武田を社内の宿直室に迎えて稽古をするという状態が何日間か続いた。だが、しばらくして植芝は内弟子を連れて大阪を離れた」

久氏が伝えている以上のことから推測すると、これより以前に師弟の関係は壊れていたようです。それで、惣角師が弟子(開祖)の教え先に突如現れ、前述のような口上になったと思います。それでも開祖は、諍いをせず、大阪朝日新聞社に開祖を紹介した人物である石井光次郎氏には連絡を取り、了解の上で、静かに大阪を離れたと思います。
この時、石井氏に了解を得るか事情を説明していなければ、後に石井氏が財団法人 合気会の理事になったり、開祖の葬儀(当時、衆議院議長)で友人代表を務めたりするようなことはなかったと思う故です。
石井氏は、この後、後輩に当たる久氏との交流も続けていますが、すっかり惣角師の言うことを信用し、惣角師に心酔している久氏にはその事情が伝えられなかったものと思われます。

歴史は、当事者それぞれの事実があると思いますが、この『月刊 武道』の文章から分かることは、開祖が惣角師と技法に関する考え方が違ってきていたことです。このことは、昭和8年(1933)に発刊された『武道練習』に「百事神と人との合気より言霊表現の誠を以て」と書かれていて、「合気」の意味が大東流と違ってきていることから分かります。

この時点での惣角師の合気と開祖が表せる技術レベルとではまだ格段の差があったと思います。『月刊 武道』には続けて、「武田が最晩年に朝日新聞社で久らに教授した技法は、それ(伝書の内容)をさらに武田自身がより高度に発展させたもので、レベルの上では伝書の域をはるかに超えたものであったと思われる」と書かれています。一方、開祖の技が力を使わないものになったのは戦後のことです。
「私が稽古を付けていただいたが、あまりにも柔らかいので、私も稽古すれば戦前の翁先生のような力が出てくるのですかと尋ねました。翁先生は『戦前は解らず力で稽古していた。今は力は不要。此れが武産合気じゃ』と申された」(高岡貞雄談 http://sighar.com/aiki/syumi04.htmlより)

開祖が惣角師を離れるようになった経緯については、吉祥丸二代道主はもっと詳しく聞かれていたと思います。また、武田時宗氏は、大正11年(1922)に惣角師一家が綾部に滞在した時に6歳で、昭和11年(1936)には20歳ですので、もっと良くご存知であったと思います。
時宗氏は、「植芝さんは惣角の高弟でもあるし長く稽古もしていたので、私は上京の際は一番先に植芝さんのところに挨拶に行きました。植芝さんが亡くなってからは行きませんが、惣角も門人として植芝さんが一番可愛かったんじゃないですか。植芝さんが大阪で警察に捕まった時(一日だけだったが、早朝から深夜まで12、3時間の事情聴取を受けた時)も惣角は心配してました。佐川さん(佐川幸義)と私は、『様子を見てきてくれ』と惣角に言われて行ったのです。その時植芝さんは和歌山の田辺で謹慎していました。元気でいるということで、帰って惣角に報告したところ、『それはよかった』と言っていました。惣角は植芝先生をしょっちゅう心配していました。彼を信頼していて何かあると植芝、植芝と言っていました。とにかく植芝さんはよく稽古していましたよ」(『武田惣角と大東流合気柔術』)と話されています。大人の対応をされての話だとは思いますが、これも事実だと思います。
私は、お二人の武道や合気についての考え方が違ってきた経緯については、開祖が王仁三郎聖師に出会い、求めるところが違ってきたため、やむを得ないことであったと思います。

この時点で、まだ、真の武(真の合気の道)を見出しておらず、獄死の仲間(幹部30名が検挙、16名が獄死又は発狂)の報もあり、開祖も必死であったと思います。

ここまでで、開祖が求めた「合気」が、惣角師の合気とはほとんど正反対になった(根本的に異なる)ようだということにだけ気付いていただければ幸いです。
posted by 八千代合気会 at 15:05| 日記

2014年11月27日

開祖の合気(6)

帰途、綾部に寄り、王仁三郎聖師に会いますが、そこで祈祷料を納めて祈願が終わったら早々に田辺に向うところだと思いますが、案に相違して翌年1月2日まで逗留しています。これも想像ですが、白滝に決別し、36歳になった開祖が、これからどうして生きて行こうかという悩みをこの時に打ち明けたのではないかと思います。王仁三郎聖師は霊能者です。只の祈祷だけではなく、この時にカウンセリングのようなものをして悩みを聞いたと思います。
その時にテープで話しているようなことも打ち明けたとすれば、「自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ」という聖師の言葉と辻褄が合ってきます。「黙って親の言うことを聞け」と言って育てられた子ではなく、「この子は熊野神社の申し子だ」と言って、一度も父親から声を荒げて叱られるようなことがなかった開祖は、自主独立の人に育っています。したがって、王仁三郎聖師の言はぴったり当てはまりました。
「芸術は宗教の母なり」という芸術観を持つ聖師ですから、綾部に来て武芸を生かす道についても説いたと考えれば、その年の春も過ぎようとする頃、母親も同道して一家で綾部に移住したことに納得がいきます。

大正9年(1920)春、事前に開祖が綾部移住を決意した旨の挨拶に行くと、王仁三郎聖師は、「あんたが来ることは前からようわかっとった」とひどく喜ばれ、「わしの近侍になりなさい。(中略)あんたはな、好きなように柔術でも剣術でも鍛錬することが一番の幽斎になるはずじゃ。武の道を天職とさだめ、その道をきわめることによって大宇宙の神・幽・顕三界に自在に生きることじゃ。大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ。真の武とは戈を止ましむる愛善の道のためにある。植芝流でいきなされ。大本の神さんが手伝うのやさかい。かならず一道を成すはずじゃ」、ざっとそのような意味の言葉で諭されたと、後に開祖は嬉しげに語っていたそうです。

綾部に移ってからは、「神人合一の武道を作りなさい」という王仁三郎聖師の言葉に従うことになり、その後も10年余り惣角師には師弟の礼は尽くしますが、聖師との邂逅により求めるところがはっきりと違ってきたと思います。この時から求め始めたものが「開祖の合気(神人合一から生れる神の愛気という意味の合気)」として結実します。

惣角師について、「観相に長じた出口王仁三郎師は、いちおう一道に達した人物とは見ながらも『数奇な運命の持ち主』では有るまいかと開祖にいい、なにやら『血の匂いがする』とて、人間的には余り好まなかったと聞いている。(略)出口師は、武田惣角師に対する開祖の態度が謙虚に過ぎるのを不思議がり、時には歯がゆがりもしたらしい」(『合気道開祖 植芝盛平伝』)ということから、王仁三郎聖師の手前、開祖が惣角師を避けるようになったのではないかと言われていますが、既にこの頃から武道において求めるものが違ってきていたので、当然の帰結かと思います。

大正11年(1922)の惣角一家の来訪について書かれている文章を読んでも、師弟の礼は尽くしていますが、喜んでお迎えして、少しでも「合気」を習得しようというニュアンスが伝わって来ません。
「(惣角師には住所も教えず綾部に移住し、第1次大本事件で取り壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。)そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。多忙な取り込み中ではあったが、しばらくの間でも柔術を教えてもらった先生であるから、盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい」(砂泊兼基著『合気道開祖植芝盛平』)

井上方軒(鑑昭)先生も開祖が師弟の礼を尽くしたことを述べていますが、何故その必要があるのかと疑問を投げかけています。
「武田惣角先生には、貿易商の私の父と植芝の祖父が道場も作り、一生生活に困らんだけの現金を毎月送って居た。盛平叔父と武田先生がどういう約束をしたのか知りませんが、家土地迄差し上げて、何で叔父が武田先生に遠慮するのか、私は分からなかった」(『植芝盛平と合気道1』)

礼ということに厳格であったか、女兄弟の中で育った所為で、開祖は、優柔不断と思われる程やさしい面を持っていたのではないでしょうか。
posted by 八千代合気会 at 14:53| 日記