2016年04月10日

開祖の合気(20)

以上述べた開祖の合気が大東流の合気から見たらどうなのかということが大東流の佐川幸義宗範によって検証されていますので、それを加えて締め括りとしたいと思います。
このことは、『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』、『孤塁の名人 合気を極めた男・佐川幸義』、『大東流合気武術 佐川幸義 神業の合気 ―力を超える奇跡の技法“合気”への道標』などを読むと目に入ってきます。

私は大東流を習ったことはありませんし、佐川宗範も存じ上げません。佐川宗範の技の動画は撮影されていないようですが、本に写真が載っていて、そのわずかな知り得る範囲内でも大東流内では卓越された方だと思います。惣角師の没後、宗家を継がれ、武田時宗師にその宗家を譲られてから総師範という意味の宗範という称号を与えられていることからも、関係者が認める確かな方だと思います。武道家としても、修行に取り組む姿勢が真摯で、自分を厳しく律しておられ、武田惣角師の名誉を守ろうとされている姿も尊敬に値すると思います。
それだけに何故、合気揚げで開祖の両手首をつかみ、開祖が手を揚げられないと見て、面目を失わせないため「最後には悪いから手をあげさせてあげた」というようなことを他人に吹聴するのかということが長い間の疑問でした。
幕末の剣聖 男谷精一郎は、必ず試合で3本に1本は相手に勝ちを譲ったことで有名ですが、その場合、決して打たせてやったというようなことは言わず、「お見事でござる」とか「参った」と言って相手を立てたようです。その点で、佐川宗範に対して武道家らしからぬという印象を抱いてきました。

しかし、よくよく読んでみると、これは勝負をしたのではなく「(武田惣角)先師のような合気が植芝にあるかどうかを知りたくて」ということが目的であったと書かれていました。その結果、開祖には惣角師のような合気が全くないことを確認して手を上げさせた、と内部の人に語ったことが本に載ったようです。
大東流の合気に対する佐川宗範の目は確かなようですので、これで少なくとも開祖の合気は大東流の合気とは違うということが認められました。

しかし、開祖がご自分でおっしゃられている(これまでにまとめた)合気がないかというと、そうとは言えません。
開祖は、今武蔵と恐れられた國井善弥師に、合気道はインチキだ、許しておけないと思って勝負を挑まれた時、「國井先生、よくいらっしゃった、さあどうぞ道場の看板を持ってお帰り下さい」と切り出し、その言葉を聞いた國井師が、バツが悪くなって苦笑いしながら引き上げたというエピソードのある方です。
佐川宗範のときも、その意図を察していて対応されたと思います。惣角師が「植芝には合気は教えていない」と言っていたそうですので、開祖が惣角師の合気は示せなかったはずで、手首をつかまれた時に揚げられませんという反応をされたと思います。このことで、佐川宗範も満足したはずです。
この時は大東流の宗家も(大同団結を呼び掛けるため)同席しての上のことです。佐川宗範は、合気道は大東流の一派と考え、大東流内部のこととして惣角師の合気(補足 宗範は惣角師が作ったのであろうと言っている)を開祖が会得しているかどうか確認しようとしていますが、開祖は、それに応じて開祖の合気で手を揚げると、合気道と大東流の優劣を争うことになるとはっきりと認識されていたことでしょう。確かに大東流の合気はマスターしていなかったでしょうから、手を揚げるなら合気道の理合で揚げることになってしまいます。そして、そのことは佐川宗範には直ぐに分かってしまうことです。

皆さんならこういう時にどうされるかですが、開祖が執られたこの二つの対応に共通するところは敵を作らない、争わないということのようです。大東流とは事を荒立てないで(自分の方から口に出さないで)、静かに去らせて貰いたかったのではないでしょうか。
昭和6年(1931)4月に惣角師の教授を受けた後は、惣角師が来訪されても居留守を使ったりされたようですが、これもやんわりとした意思表示ではなかったかと思います。昭和7年(1932)7月26日に大本内に大日本武道宣揚会が創立(8月13日発会)され、開祖が会長となっているので、居留守はこれ以降のことではないかと思います。出口王仁三郎聖師が惣角師に対して「血の臭いがする」と言って、人間的には余り好まれなかったことと無関係ではなかったと思います。

「いくら精神力とか気の流れとかいったってそんなもので自分よりはるかに大きい者を倒す事はできるものではない」とか「合気は気の流れなどといった考えからは、いくら何をやっても出てこない」というのが佐川宗範の大東流の合気から見た開祖の技に対する評価です。
倒すことが出来るか出来ないかは別にしておいて、このことで宗範といわれる人から合気道は大東流の一派ではないとみなされる(惣角師の合気を受け継いでいないと判定される)ことになりました。
これは昭和31年(1956)のことでしたが、佐川宗範にとっては大東流の合気が開祖にないということを確認する機会となり、合気道側から見れば、晴れて大東流と合気道は違うということが宗家にも佐川宗範にも受け入れられることとなりました。
双方にとってWin-Winですので、これからも大東流は大東流、合気道は合気道として認め合って行けば、日本の武道界にとってプラスになると思います。

開祖の技については、私も昭和42年(1967)4月9日に間近で拝見しました。目にしたのは気形の稽古の動きそのものでした(同じ時期の動画https://www.youtube.com/watch?v=XoDK3XuvZWw参照)。弟子の剣を額に当てておいてから、弟子がその位置から降り下ろす剣をスッと避けて、手に持った扇子で面を突くと、2、30 cm扇子から顔が離れているのに、弟子がパッと仰け反って受身を取って倒れていました。立技呼吸法では、開祖の手を取ろうとする弟子の手が60 cm位離れていましたが、開祖が弟子の方を見ないでパッと手を振ると、これも弟子が開祖の手に触れないまま後ろに倒れていました。
私も、佐川宗範ではありませんが、触れてもいないのに倒れるのは弟子が勝手に受身を取っているからではないかと疑問に思い、後になってからですが、教えを受けていた直弟子であった師範にお尋ねしました(弟子が開祖の腰に手を当てて押すのもありましたが、この時は畳表に皺がよる程弟子の足に力が入っているのが分かりましたので、不思議でしたが疑問に思うことはありませんでした。)。
その時、師範は、次のようなエピソードを話して下さいました。
「開祖が顔の前で腕を振られると腕が太い丸太のように見え、パッと手を上げられると手がグローブのように大きく見えるのです。それで、離れていても直ぐ目の前に開祖の腕や手が来ているように感じて受身を取るのです。ある時、それを不思議に思った弟子が、目をつむっていたらどうなるだろうかと考え、開祖が向こうを向いたまま手を振られた時に目をつむりました。案の定、直接当たっていないので、上を向いて目をつむったまま、その弟子は飛ばされないで突っ立っていました。そしたら、バタンという音がしないので後ろを振り返った開祖が、『馬鹿者!(真剣勝負で目をつむって、じっと突っ立っている馬鹿がどこにいるか)』と怒鳴られ、仰向き加減になっている顔を上から手で叩かれたら、グシャッというような音がして、弟子が畳に叩き潰されていました。そして、その後2、3日フラフラしていました」

宇宙と一体となった自分の腹中に相手を吸収して同化する(宇宙に結ぶ)開祖の合気は、実際に開祖のお話のとおりであったのです。それは、佐川宗範の見ているとおり大東流の合気とは異質の理合に拠るものです。開祖が「私は今まで、各流儀を三十流ほどやりました。柳生流の体術をはじめ、真揚流(天神真揚流)、起倒流、大東流、神陰流(加藤田神陰流)などいろいろやりましたが、合気はそれらを総合したものではないのであります」(『合気神髄』pp.31-32)とおっしゃられているとおり今までにないものです。

八千代合気会の皆さん、確かに開祖は新しい道を開かれたということが理解出来ましたら、これまでの「開祖の合気」を最初からもう一度読まれ、概念を自分の言葉でまとめてみて下さい。そして「今迄の武道は、年期を入れないと自分( 真我、愛の存在)になれなかったのですが、私はすぐにも了解し得る道を開いたのであります。それだけ今迄の武道と合気道は違うのであります」(『合氣神髄』p.70)と言われているので、それを稽古に取り入れられるようにしましょう。
私も、最初から全体の構想がまとまっていて書き上げた訳ではないので、何度も読み返してみます。そして、このブログも間違いがあれば修正しながら稽古に生かして行きたいと思いますので、時々、このブログを開き直してみて下さい
また、お互いに高めあって行きたいと思いますので、何か気付かれたことがあればフィードバックをお願いします。
posted by 八千代合気会 at 07:39| 日記

2016年03月31日

古事記 現代語譯 古事記(12)

「天地の為に心を立つ、生民の為に命を立つ、往聖(去聖)の為に絶学を継ぐ、万世の為に太平を開く」という北宋の儒家 張横渠(ちょう おうきょ)の言葉がありますが、「去聖のために絶学を継ぐ」ということが出来るので、開祖は、疑いもなく直弟子ではない我々後世のために幾重にも重なる言葉で教えを遺されていると心得て、理解に努めたいと思います。
「なぜこのわしの教えることを筆記しようとしないのだ。油断するな。君ら内弟子たる者が身近におって、このわしの話や教えというものを書き残し、記録しなければ、将来と後世にこの植芝の教えや心というものを誰が伝えるのだ! これからは努めて記録するように。それが必ず君らの修業の糧となるであろう。そして、君たちにおいては武術の修業ばかりでなく、油断なく古今の聖賢の教えを尋ね、努めて心の修業と養成を自己の成長に課すことが大切である」(『伝承のともしび』pp.131-132)

そうするためには、開祖のように直接内流や間接内流を受け、稽古の中で想像力を働かせ、工夫して行くことだと思います。
直接内流とは、アウグスト・ケクレ(有機化学者)が1匹の蛇が自身の尻尾に噛み付きながら回っている夢を見てベンゼンの環状構造を思いついたとのと同じように、夢やひらめき(直感や霊感)を受けることです。
間接内流とは、アイザック・ニュートン(物理学者、数学者、自然哲学者)がリンゴの木から実が落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたように、何かを見たり読んだり、或いは人の話などからヒントを得ることです。
科学的なアプローチをするのであれば、「仮説を立てて検証する」を繰り返すことでしょうか。
「例えば、天地の真象をよく見て、自らこの真象によって悟る。悟ったらすぐに行う。行ったらすぐに反省し、という具合に順序をたてて、悟っては反省し、行っては反省するというようにして、だんだん向上していただきたい」(『合気神髄』pp.164-165)

開祖が古事記や宗教の教えからイメージを膨らませて天の浮橋に立つという概念を形作られているので、この部分は我々もイメージを膨らませて自分のものにすることが肝要です。
「故に正覚にて自己の思ふままに天地 春夏秋冬 万有を利用し、又 万有の真性 姿態 言行も見直し、聞直し、清く善美に武技に直して達行する事を得、又 天地人和合のつるぎ(祭政一致の両刃の天の叢雲の神剣)と現はれ、自己の想ふままに自己を清練なすにあり」(昭和13年刊『武道』序文)

「オノゴロ島」は古事記の表記が「淤能碁呂嶋」で、古事記伝で「おのごろしま」と振り仮名が付いているものです。「自(おの)ずから(自然と)凝り固まってできた島」の意味なので、「自凝島とも表記されています。日本書紀では「磤馭慮島(おのころじま)」なので、「おのころじま」「おのころしま」という読み方もあります。
霊界物語では「自転倒嶋」又は「自転倒島」という字が当てられていて「日本」のことだとしています。
「それゆゑ日本国は、地球の艮(うしとら)に位置して神聖犯すべからざる土地なのである。もと黄金(きん)の円柱が、宇宙の真中に立つてゐた位置も日本国であつたが、それ(竜体)が、東北から、西南に向けて倒れた。この(竜の形をした)島を自転倒嶋(おのころじま)といふのは、自(おのづか)ら転げてできた島といふ意味である」(『霊界物語』1-3-21)
「いよいよ本巻より、古称自転倒島(おのころじま)すなはち現代の日本国内における、太古の霊界物語となりました」(『霊界物語』16-0-1)

道文では「おのころしま」又は「おのころじま」と読まれ、「地球」と括弧書きがされています。川面凡児(神道家)が「自転(おのころ)島」と書き、球形にして自転をなす地球と捉えていたのと同じです。武道においては大地(地球)の上に真っ直ぐ立つということの重要性から、開祖は、おのころ島を日本ではなく地球とされたと思います。
「それで自分がみそぎのため、音声を言葉を、つまり自分の心のひびき、五音五感五行五元五臓五体の順序に、自己の魂の緒の動きは悉く宇宙にひびきつらぬき、又天地、オノコロ島(地球)にひびき、すべての国々、すべての万有万神にも自分の魂より発する処の言語も又、その魂の糸筋(魂の緒)のむすびによって、悉く人の思う通りに世界に通じることになる」(『武産合氣』pp.183-184)
「右足をもう一度、国之常立神(くにのとこたちのかみ)の観念にて踏む、右足は、淤能碁呂島(おのころしま)、自転公転の大中心はこの右足であります」(『合気神髄』pp.69-70)
「一切の力は気より、気は空に結んでありのままに見よ。箱に中に入れるな( 目に見える体の中にだけ留まると思うな)。気は(体外にも出ていて)いながらにして淤能碁呂島(おのころじま)を一のみに出来る。気の自由を第一に悟れ。気の流れを知りつくせ」(『合気神髄』p.131) 

高天原(タカアマハラ)と淤能碁呂(オノコロ)の母音に着目したのは日月神示の岡本天明が最初のようですが、これらを天明に倣ってアイウエオ(天火結水地)に当てはめると全体像が分かって来ます。
 ア(天)−高天原(宇宙) TA-KA-A-MA-HA-RA
 イ(火)−天に近いもの(陽、魂、霊)
 ウ(結)−産す MU-SU
 エ(水)−地に近いもの(陰、魄、体)
 オ(地)−淤能碁呂(地球) O-NO-KO-RO

そして天の浮橋 A-ME-NO-U-KI-HA-SHI を見ると天火結水地の母音(A I U E O)をすべて含み、開祖によるここまでの説明はありませんが、「天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄りがない分です」(『合気神髄』p.69)という道文の理解の助けになると思います。 
「天の浮橋とは、火と水の十字の姿である」(『武産合氣』p.48)
「天地の精魂凝りて 十字道 世界和楽の むすぶ浮橋」
「天の浮橋、舞い上がり舞い下がるところの気を動かすことが肝要であります。地球の動きでもそう。天運循環して、ここにはじめて教えの中心があるのであります」(『合気神髄』p.28) 
「いづとみづ 十(あいき)と生りし黄金橋 富士(火)と鳴門(水)の仕組なるかな」
「そして天の浮橋にたたされたならば、全大宇宙と自分というものは別のものではなく、一つになっている」(『武産合氣』p.102)

これで、この段の古事記の営み(古事記に書かれている宇宙の営み、運化、経綸)は「右旋・左旋運動(循環運行、天運循環、すみきり、自転・公転)」であることが分かったと思います。
開祖は、稽古の前に杖(じょう)を持って神楽舞を舞われました。それは天神楽(あめのかぐら)といわれているとおり、天の浮橋に立って「塩コヲロコヲロにかきなし」という所作を含むものです。この営み(動き)の共通性が開祖の天地と一体、神人合一を導き出すものになっています。それだけ、この部分の古事記の営みは合気道にとって重要なものです。
「私たちは顕(けん)、幽(ゆう)、神(しん)の三界にわたって、これを守り、行じてゆく責任があります。神楽舞の始め(start)は『天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たして(お立ちになって)』という。水火のむすびであります」(『武産合氣』p.187)
開祖は、天神楽を舞われることにより、水火のむすびの状態になられてから稽古に入られたと聞いています。
posted by 八千代合気会 at 23:52| お勧めの本

2016年03月21日

開祖の合気(19)

11) 武道の奥義、合気道の極意
道文に「合気の○○」と書かれていなかったので、開祖の合気のリスト(2015年7月8日のブログ 開祖の合気(8))には載せませんでしたが、「武道の奥義(奥儀)」「武の奥意」や「合気道の極意」「武の極意」、或いは単に「極意」という言葉で述べられている部分があります。
ちなみに「合気道練習上の心得」を除き「秘伝」という言葉は使われていません。

これまでに引用した部分とも重なりますが、<奥義>と<極意>に分けて抜き出します。このように分けてみると、開祖が言葉をかなり厳密に使われていることが分かります。注意してお読み下さい。同じことを述べられている部分もありますが、開祖がそれだけ概念をきちんとまとめられていたと思って読むと、涙が出てきます。

<奥義> 「結びの技、岐美の神業」
「(昭和20年(1945)の白い幽体との稽古の後)新たに、日をおいて立つと、木剣も自分も光の雲もなく、宇宙一杯に自分が残っているように感じた。その時は白光の気もなく、自分の呼吸によって、すべて宇宙の極が支配され、宇宙が腹中に入っていた。これが宗教の奥儀(奥義)であると知り、武道の奥儀も宗教と一つなのであると知って法悦の涙にむせんで泣いた」(『武産合氣』p.131)
「念を去って皆空の気にかえれば生滅(しょうめつ、勝ち負け)を超越した皆空の御中心に立ちます。これが『武道の奥義』であります」(『合気神髄』p.80)
「また、念を五体から宇宙に気結びすれば、五体は宇宙と一体となって、生滅を超越した宇宙の中心に立つことも出来る。これが武道の奥義である」(『合気神髄』p.105)
「武道の奥義は、念を五体から宇宙と気結びし、同化して生死を超越し、宇宙の中心に立つことである」(『合気神髄』p.175)
「今迄の私の武の奥意(奥義)は一剣に生殺与奪の力を集め、相手を自己の想うままにして、栄えの道と喜びの道の案内をすることであった」(『武産合氣』p.128)

<極意> 「禊の技、小戸の神業」
「合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。 合気道の極意は、己を宇宙の(万有愛護の)働きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。 合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我は即ち宇宙』なのである」(『武産合氣』p.13)
「とにかく宇宙の営みの霊波のひびきをよく感得することです。技はそのひびきの中に生れるのです。だからして道歌に、
日地月(にっちげつ) 合気になりし橋の上 大海原は山彦の道
天地は汝(な)れは合気とひびけども 何も知らずに神の手枕
武とはいえ 声もすがたも影もなし 神に聞かれて答うすべなし
と歌った。
極意とは自分を知り、理を究めて、合気をもってみそぎの技とするのです」(『武産合氣』p.135)
「合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、『我はすなわち宇宙』なのである。
そこには速いとか、遅いとかいう、時間の長さが存在しないのである。この時間を超越した速さを、正勝(まさかつ)、吾勝(あがつ)、勝速日(かつはやひ)という。正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。
では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。
それには、まず宇宙の心を、己の心とすることだ。宇宙の心とは何か? これは上下四方、古往今来(こおうこんらい)、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる『愛』である。
愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。
宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。
真の武道には敵はない、真の武道とは愛の働きである。それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の道こそ愛の現われなのである」(『合気神髄』pp.34-35)
「合気というものは、森羅万象どんなものでも、極意に取り入れなくてはならない。取り入れるのではなく、教えを受けなくてはならぬ。…森羅万象は武道における大いなる教えであります。これを見のがしてはいけない。神が表(おもて)に現れるということは、(万有愛護の)精神がことごとく天地に光っているということだが、皆、これを理解しない。…きれいな心になってしまえば何でもないが、しかしそれは容易なことではない」(『合気神髄』pp.57-58)
「今までは形と形の物のすれ合いが武道でありましたが、それを土台としてすべてを忘れ、その上に自分の魂をのせる。自分に愛の心が無かったら万有愛護の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいかぬ。無抵抗主義、これこそ霊界の処理法であり、念彼(ねんぴ)観音力と申します。武の極意に形はない。心自在に生ず。気は一切を支配する源・本であります」(『合気神髄』p.129)
「宇宙の気はすべて魂の円におさまります。おさまるがゆえに技も無限に包蔵され、生み出すこともできます。これが合気の魂の円であります。
この魂の円がなければ栄え、また精進、魂魄(こんぱく)和合のはこびはできません。これがなければすべて五体への還元はなくなるのであります。魂の円(原文は円の魂)の皆空は宇宙一体に帰します。
これは合気の武の根元でありますが、魂の円を体得した極意には、相対の因縁動作を円に抱擁し、掌(てのひら)に握るごとく、すべてを吸収します。己に魂があれば、人にも魂があり、これを気結び、生産びして円の本義の合気を生み出させれば、円はすべてを統合します。いかなるものも自由にとけるのが円であります。
円の極意は皆空の中心をつき、技を生み出すことにあります」(『合気神髄』p.121)
「目に見えざる世界(気形)を明らかにして、この世に和合をもたらす。それこそ真の武道の完成であります。今までは形と形のもののすれ合いが武道でありましたが、それを土台としまして、すべてを忘れ、そのうえに自分の魂をのせなければなりません。愛の心が無かったなら万有愛護の大精神の大業は成り難く、愛のかまえこそ正眼の構えであります。無形の真理、日本の武道は相手を拵(こしら)えてはいけません。武の極意は形ではありません。心は自在に生じ、気は一切を支配する本源であります。…橘の小戸(おど)の神業(かむわざ)、禊(みそぎ)の技、これが合気道です」(『合気神髄』pp.154-155)
「私は武道を通じて肉体の鍛錬を修行し、その極意をきわめたが、武道を通じて、はじめて宇宙の神髄を掴んだ時、人間は『心』と『肉体』と、それを結ぶ『気』の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。『気の妙用』によって、個人の心と肉体を調和し、また個人と全宇宙との関係を調和するのである」(『合気神髄』p.178)

数年前、地域社会指導者研修会で教えを受けた師範に「道主は、開祖から一子相伝で秘伝のようなものを受けられているのですか」とお尋ねしたことがあります。その師範のお答えは「そのようなことはないと思います。皆、自分で見出すものです」でした。

開祖が難しいお話をされた後で技を示演される時、そのお話と技とは必ず関連があったはずです。そして、多岐にわたる形而上学的なお話も形而下の技のポイントにすると、ほんの数点にまとまると思います。それでなくては、とっさのときに技が役に立たないと思う故です。
そのような観点から、この「奥義」と「極意」の二つを自分で概念化し、それが技にどう結び付いているかを研究してみて下さい。

開祖のお言葉から何かを見出すそうとするのは、まるでジグソーパズルを組み立てているような感じがします。しかし、開祖は言葉の使い方が厳密なので、何とかはめ込むことが出来ると思います。ジグソーパズルは外枠(フレーム)がないと格段に難しくなります。それで、皆さんが自分なりに理解しようとされる時、私のこのまとめをそのフレームとして使って頂けると、途中で放り出さなくて済むのではないかと期待しています。

開祖の教えを学ばれる時の八千代合気会の会員の皆さんの目の輝きに力づけられ、私もやっとここまで辿り着くことが出来ました。感謝しています。
posted by 八千代合気会 at 23:51| 日記

2016年03月11日

古事記 現代語譯 古事記(11)

水は横に流れ、火は縦に燃え上がる性質を持っているとするのが大多数の言霊学者の考えですが、大本教はこれと逆です。天の浮橋に立つという開祖の教えは、水(体、身)を縦にし火(霊、心)を横にするということで、大変重要なものですが、開祖も大本に行かれなければこの発想は出て来なかったのではないかと思います。
「スの言霊は鳴り鳴りて、遂に大宇宙間に火と水との物質を生み給ふ。そもそも一切の霊魂物質は何れもスの言霊の生むところなり。しかして火の性質は横に流れ、水の性質は縦に流るるものなり。故に火は水の(補足 縦に伸びる)力によりて縦にのぼり、また水は火の横の力( 横に伸びる力)によりて横に流る。昔の言霊学者(げんれいがくしゃ)は火は縦にして、水は横なりと言へれども、その根元に至りてはしからず、火も水なければ燃ゆる能はず光る能はず、水もまた火の力添はざれば流動する能はず、遂に凝り固まりて氷柱(ひょうちゅう)となるものなり。冬の日の氷は火の気の去りし水の本質なり、この理によりて水は縦に活用をなし、火は横に動くものなる事を知るべし」(『霊界物語』73-1-12)

この考えは、山口志道の水穂伝からのものです。
「息(いき)胞衣(えな)の内に初(はじめ)て吹(ふく)を号(なつけ)て、天浮橋(アメノウキハシ)といふ。言(いふ)心は、アは自(おのつから)と云ことなり。メは回(めぐる)ことなり。ウキはウキ・ウクと活用(はたらき)、ハシはハシ・ハスと活用(はたらく)詞(ことば)にて、ウは水にして竪(たて)をなし、則 sp-018-16.gif(ウキ)なり。ハは火にして横をなす、則、sp-019-16.gif(ハシ)なり」(『水穂伝』火之巻一)
これらの記号は「布斗麻邇御灵(ふとまにのみたま、御灵は御霊)」の図にあるもので、山口志道が荷田訓之から伝えられた「稲荷古伝」の形を用いてその意味を解いたものです(http://kotodamart.eco.coocan.jp/mizuhonote02.htm参照)。

なお、霊界物語の次の箇所(下線部)は間違っているようです。大本教の霊界物語に詳しい方に確認しましたが、どうして違っているかは分からないとのことです。
「イザナギの命の御名義は、大本言霊(おほもとことたま)即ち体( 本体、本質)より解釈する時は、イは気(いき)なり、ザは誘(さそ)ふなり、ナは双(ならぶ)ことなり、ギは火にして即ち日の神、陽神なり。イザナミのミは水にして陰神なり、いはゆる気誘双神(いざなみのかみ)と云ふ御名であつて、天地の陰陽双びて運(めぐ)り、人の息双びて出入の呼吸(いき)をなす、故に呼吸(いき)は両神在(いま)すの宮である。息(いき)胞衣(えな)の内に初めて吹くを号(なづ)けて天浮橋(あめのうきはし)と云ふ。その意義はアは自(おのづか)らと曰(い)ふこと、メは回(めぐ)ることである。ウキはウキ、ウクと活用(はたら)き、ハシはハシ、ハスと活用(はたら)く詞(ことば)である。ウは水にしてsp-018-16.gif(うき)也。ハは(ママ、火の間違い)にして横をなす、即ちsp-019-16.gif(はし)である」(『霊界物語』10-2-27)

古事記などにある那岐・那美二尊が天の浮橋の上に立って島生み、神生みの修理固成の業をなされたように、開祖は、合気道においても最初に天の浮橋に立たねばならないと教えられています。そこから生まれてくるものが武産合気( ムスビによる武技で、それにより技がどんどん産み出される武道)になるからです。
「この道は、天の浮橋に最初に立たなければならないのです。天の浮橋に立たねば合気は出て来ないのであります」(『合気神髄』p.26)
「この合気も、また天の浮橋に立ちまして、そこから、ものが生まれてくる。これを武産合気といいます。「オ」の言霊(『霊界物語』6-5-28 立花の小戸のあはぎが原に鳴る おこゑ を天の浮橋といふ)、「ウ」の言霊、これは天の浮橋・・・。言霊とはひびきですから、宇宙のひびきをことごとく身の内に受け止めるのです。それで霊界をこの人の鏡に映しとる」(『合気神髄』p.27)
「オ」の言霊( 下に大地に降ってオの言霊が生まれる)は地ですから大地に真っ直ぐ立つこと、「ウ」の言霊は結ぶ(宇宙のひびきをことごとく身の内に受け止める)ことと理解して良いと思います。

この天の浮橋に立つということは2012年10月2日〜2014年4月23日のブログにまとめてありますが、概念的には空間と時間(宇宙。宇:空間、宙:時間)の中心に立つことです。開祖が「私の真の姿を認めてくれたのは、五井先生と出口王仁三郎聖師だけだ」とおっしゃられた白光真宏会の五井昌久先生は、天の浮橋に立つということについて「タテ、ヨコ十字交差の真中に立つ、ということですよ」と言われ、「この言葉はピッタリあてはまらないのだけれど、無限次元の中心というところかな」と言われたそうですが、そのとおりだと思います(http://www1.vecceed.ne.jp/~kyusei/sub47.htm)。三次元の空間だけでなく、過去・現在・未来の中心にも立つのです。
想念(自己の思い)の世界でのことだと思いますので、これは何だろうというところから始めて、技の中で工夫して行けばと思います。
「我々は魂の気の養成と、また、立て直しをしなければなりません。合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の内に吸収し、結ぶ。そして世界中の心と結んでいくのであります。仲よく和と統一に結んでいくのです。…すべては結びでやる。それでないと本当の強さは出てきません。それでないと皆さんの稽古が無駄になってしまうのです。
それには合気道は天地の合気、神武以前の天と地を結んでしまうのであります。声なき声をもって、魂の気を組織しなければいけません。天の浮橋、舞い上がり舞い下がるところの気を動かすことが肝要であります。地球の動きでもそう。天運循環して、ここにはじめて教えの中心があるのであります。
その中心はどこにあるかといえば、自己にあるのです。智恵正覚を満天に豊満して、本当の力をもって一飲みにしてかからなければ本当の合気は難しいのです」(『合気神髄』pp.28-29)
「合気の仕儀は、宇宙の気、淤能碁呂島の気、森羅万象の気を貫いて、息吹して、そしてこの三界を守り、かつは大地の息に己の息を合わし、息において生み出す。言霊の妙用の息を私の行によって悟ってともに。気のみわざ 魂(たま)の鎮(しず)めや禊技(みそぎわざ) 導きたまえ 天地(あめつち)の神」 (『合気神髄』p.92) 
「天の浮橋に立った折には、自分の想念を天にも偏せず、地にも執(つ)かず、天と地との真中に立って大神様のみ心にむすぶ信念むすびによって進まなければなりません。そうしませんと天と地との緒結び、自分と宇宙との緒結びは出来ないのであります」(『武産合氣』p.72)

空間だけでなく時間ともなるとなかなか概念がまとまらないかもしれませんが、量子力学的な捉え方をして波動とか波動エネルギーで考えれば、空間・時間の中心と広がりを持った空間・時間との連続性が理解しやすくなるのではないかと思います。

「大地に真っ直ぐ立つ」ということについては、俳優の榎木孝明さんがオーラの泉で「正中の理」を説明されているので参考になると思います。[古武術]の所を見て下さい。
http://aura.happylife7.com/a/8b.html
また、次の「正中線とは何か?」ももう少し進んだ人のためになると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=7CyqGrvKo8I(正中線とは何か?正中線の正体とは)
posted by 八千代合気会 at 17:22| お勧めの本

2016年03月01日

開祖の合気(18)

補足ですが、英語で稽古というとpractice、training、exercise、lessonなどがあります。この内practiceとtrainingは次のように明解に使い分けられているそうです。
practice(一度身に付いたら無くならないことを身につける練習、自転車に乗れるようになるための練習など、運動神経などの神経系に対するアプローチ)
training(継続していないと無くなってしまうものの訓練、筋肉系に対するアプローチ)
このように分けて考えて稽古法を吟味すると、稽古の実効を上げることが出来ると思います。

鍛錬については宮本武蔵の有名な言葉があります。
「千日(せんじつ)の稽古を鍛(たん)とし、万日(まんじつ)の稽古を練(れん)とす。能々(よくよく)吟味有るべきもの也」(『五輪書』水之巻)
稽古に稽古を重ねることが鍛錬であるという意味だと思いますが、英語に訳すと、鍛をdiscipline(精神修養などの訓練、mental disciplineで精神の鍛錬)、錬はrefining(磨きをかけること)としているものがありました。
これまでのところでは、開祖が言われる鍛錬(神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬すること)と武蔵が定義したものとは少し目的とするところが異なるようです。
吟味有るべきとは、考え、調べ、良いものを選ぶべき、又は見出すべきという意味で、工夫すべきということです。

一般的に、鍛錬の方が稽古よりも広い意味で使われています。例えば、「合気道練習上の心得」(『合気道のこころ』p.145)には「合気道は心身を鍛錬し」と書かれており、「三つの鍛錬」(『合気神髄』p.164)にも「己れの心を宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」「己れの肉体そのものを宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」「心と肉体とを一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬」とあって、心と肉体及び気を鍛えることをすべて鍛錬と言っています。

「手がふれたら指一本で抑えることが出来た。この時、ウナギ掴み、すなわち気でもって相手を抑える即位づけ(昭和32年刊『合氣道』p.185の続飯づけ。「即ち位付け」は誤り)の妙法を覚ったのである。こうして合気の真の鍛錬法が出来てきたのである」(『合気神髄』p.164)は、「気でもって相手を抑える」ですから、気の鍛錬のことを指しているようです。鎮魂行法よりも、もっと技への応用が進んでいると思います。

『絶対不敗の武、「合気道」 植芝盛平という「大宇宙」』という題の文章が『秘伝』1997年9月号に掲載されました。特集で、「伝説の開祖を、深遠な術理をいま改めて検証する」という副題が付いています。ペンネームを桑沢慧という方が書かれています。剣道四段(当時)の方です。そこに興味ある実験が書かれていましたので、長くなりますが引用します。
「かつて、私は普段の剣道の稽古である実験を試みたことがある。実験といっても、それは技術的なものでもなければ、稽古内容に工夫を凝らしたのでもない。攻め合う際の、心のあり方を変えてみたのだ。それまでの私は高段者に対してはいうに及ばず、先輩や朋輩たちにもいいように打たれる一方で、逆襲しようとむきになればなるほど、その情況は悪化の一途をたどった。無心になれ、とアドバイスをもらい、それには禅が一番なのだろうと短絡的に考え、ただ座することに集中してもみたが、付け焼き刃の座禅などをいくらやったところで邪念が踊るばかりで、無心の心境などになれるはずもなかった」
「打たれまくる原因を自己分析するに、どうも私は戦闘に徹することが苦手なようだった。闘争本能が先天的に欠落しているのか、たとえ自分ではどんなに熱くなっているつもりでも、心のどこかが冷めていて、本心から相手を倒す行為に没入できない。それが身体の隙となって現れ、相手にとってはいともたやすく打つことができるらしい。これは格闘技をやる上では致命的な欠陥だ。心の冷めた部分を何かで埋めないと、現状は打開できない。そこで考えたのは、相手を敵とは思わず、むしろ逆に『あなたが好きだ』と思うことだった」
「『攻めが変わった』と言われるようになったのはこの実験を始めて間もなくだった。私自身、相手の目を見続けることができるようになったことと同時に、相手の動きが実によく見えるようになり、一方的に打たれまくるという醜態から次第に遠ざかっていった」
「その内、私の変化に気づいた師範代や朋輩たちが、何か特別な訓練でもしているのか、と尋ねてきた。私は正直に答えるのが面はゆく、言葉を濁していたが、ある日親しい朋輩に実験のことを打ち明けた。ところが、あなたが愛しい(あなたが好きだ)と思いながら稽古している、と言うと気味悪がられてしまい、冗談ということにされてしまった。我々日本人は愛という言葉を男女間の恋愛に限定して捉えがちなことが、争っているときに愛しく攻める、という矛盾した行為への理解を妨げているように思えた」
「盛平翁の言う愛気と『従来の武芸者が口にするのとは違う』合気との関係を、以下のように理解した」
「相手が放つ気がいかに大きくても、それが殺気であっても、従来の武道のように合気を外すことなく、愛気を以て相手と気を合わせる。殺気と殺気のぶつかり合いならここで勝敗のやりとりになるのだが、愛気は殺気をも呑み込んでしまうので、攻撃をしかけた方が負ける。なぜなら殺気とは勝ちたいという欲望から発する個人的な欲求であり、目的を果たせば消えてしまう一過性のものだ。これに比べ、愛気は自分を倒しに来る相手をも生かそうとする慈愛の心、言い換えれば過去から現在、そして未来へと繋がっている生命の連続性を慈しむ心から発しているため、各々が内包する時間に一瞬と永遠の違いがあり、一瞬に賭けて欲望を満たそうとした相手は、永遠の中に吸収されるようにこちらに気を飲まれてしまい、その結果が負けという形で現出する。盛平翁が『争おうという気持ちをおこした瞬間に敵はすでに破れている。そこには速いとか、おそいとかいう時の長さが全然存在していない』とするのも、こう考えれば理解できる」

この実験が、相手を動かそう、相手を投げよう、相手を倒そうという気持ちから離れて、開祖の言葉のとおりの稽古をすることを促すものになれば良いと思います。そして、相手から「何か特別な訓練でもしているのか」と尋ねられるようになると一層の励みになると思います。

合気道は試合を行わないので、勝ち負けという結果は分かりませんが、稽古の中で万有愛護の心で相手を包み込むことは出来るはずです。愛おしいという気持ちは、孫が懐に飛び込んで来るのを抱き留める時の気持ちと同じです。目に入れても痛くない孫なら、空っぽにした腹中に入れるのは訳がないことだと思います。八千代合気会の会員の皆さんは、どうぞ工夫をしてみて下さい。

工夫は鍛錬の重要な要素だと思います。その工夫の際の参考になればと思い次の図を示しておきます。
作用反作用S.jpg

以上から、開祖は、稽古法、鍛錬法についても(多分、ノートに)しっかりとまとめられて道文にされていることが分かります。「開祖の合気」ということで道文を手掛かりに調べてみましたが、これで確かに開祖の合気、開祖が開かれた独自の合気の道が確立されたことが分かって頂けたかと思います。
posted by 八千代合気会 at 06:59| 日記

2016年02月20日

古事記 現代語譯 古事記(10)

次に「島々の生成」に移ります。
「そこで天の神樣方の仰せで、イザナギの命・イザナミの命御二方に、「この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ」とて、りつぱな矛をお授けになつて仰せつけられました。それでこの御二方の神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛をさしおろして下の世界をかき𢌞され、海水を音を立ててかき𢌞して引きあげられた時に、矛の先から滴(したた)る海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です」

前段までは天地開闢(かいびゃく)とか天地剖判(ぼうはん)とかいわれる部分でした。
「島々の生成」は、聖書では「神言たまひけるは 天の下の水は一處(ひとところ)に集りて 乾ける土顯(あらわる)べしと 即ち斯(かく)なりぬ」(創世記1章9節)に相当するといって良い部分です。

「整えてしつかりと作り固めよ」は「修理固成」で、古事記伝では「つくりかためなせ」と読んでいます。道文では音読みで「しゅうりこせい」です。
「合気道は『小戸の神業』で、ちょうど、那岐(なぎ)、那美(なみ)二尊が地球修理固成、すなわち伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)と高御産巣日(たかみむすび)、(神産巣日 (かみむすび)、この部分脱落 p.64参照)の神さまが化身されて地球修理固成された道なのです。…これを禊を通して導いていくのです」(『合気神髄』p.50)
「合気道は、真の日本武道であります。それは地球修理固成に神習いて、布斗麻邇(ふとまに)の御霊(みたま)から割れ別れし水、火をいただいて、研修のすえ出生する魂の気を、人類のうちに現わしていくことであります。すなわち合気道は『小戸の神業』をいただくのがもとであります。合気道は宇宙の大虚空の修理固成です。世の始まりの霊を生み出して、さらに進んで天地の修理固成、高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)の神、地球修理固成で伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神に化身いたしました。そして有性、無性を問わず、宇宙の営みの大元素を、ことごとく御生みなされたのであります」(『合気神髄』p.64)

修理固成の「修理」は、「壊れたり傷んだりした部分に手を加えて、再び使用できるようにすること、repair」ではなく、「手を加えて整えること、creation」です。それで「つくり」と読んでいます。聖書の「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」(創世記1章1節)の「創造」に当たる言葉がこの「修理」です。
「固成」は「かためなせ」で、「完成させよ(成し遂げよ)」という意味です。

この修理固成の業は高御産巣日、神産巣日の神の業(産びの業)でもありました。
「(高御産巣日、神産巣日)二神は、至大天球一切をあまねく修理固成し、宇内(うだい)の系統を大成したまい、万有の根(こん、源<みなもと>)となるべきものを悉く産み出し給うなり」(『武産合氣』p.94)

「島々の生成」の部分では、高御産巣日、神産巣日の二神が伊邪那岐、伊邪那美の二尊に化身して(身を変えて)御業をなされているので、天地開闢と同様、右旋・左旋によってなされると受け止めると開祖の意味されるところが分かって来ます。「海水を音を立ててかき𢌞し」は古事記伝では「塩 コヲロ コヲロにかきなし」で、このコヲロコヲロ(コロコロ)という擬態語にその運動の様子が示されています。

道文の「小戸の神業」、「禊」については後に出てきますので、詳しくはそこで触れますが、宇宙と一体となって悉くを万有愛護の心(気)で満たすのが禊で、小戸の神業です。

「天からの階段」は古事記伝では「天浮橋(あまのうきはし)」で、開祖は、これを「アメノウキハシ」と読まれ、次のとおり言霊解を与えておられます。
「天(あめ)の浮橋(うきはし)についていえば『ア』は自ら、『メ』はめぐる。『アメ』は愛、アミ、アーメンにみな通じる。…『ウ』は浮にして縦をなし、『ハ』は橋にして横をなし、二つ結んで十字、ウキハシて縦横をなす。その浮橋に立たなして合気を産み出す。これを武産(たけむす)合気といいます」(『合気神髄』pp.128-129、p.151も同)
「最初は天の浮橋に立たされてというところから始めなければなりません。天の浮橋に立たされて、『ア』は自ら・・・、「メ」は巡ること。自ら巡るを天(あめ)という。水火を結んで火は水を動かし( 霊主体従:火<霊>によって水<身、体>を動かす)、水は火によって働く。それでこの理によって指導せねばなりません」(『合気神髄』pp.99-100)
「ア」は吾(あ)、即ち自(おのずか)らで、「メ」は巡るですから、天の浮橋に立つということは「すみきり」の状態で、正中線(中心軸)を縦にして、自分の心に相手を包むような平らかな(横)気持ちで立つのです。
「また合気道は天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たねばなりません。…すなわち和の魂( 相手を包むような愛の気持ち)の錬成をするのであります」(『武産合氣』p.65)

合気神髄p.99の「水火を結んで火は水を動かし、水は火によって働く」は出口王仁三郎聖師からのものです。
「火は水の力に動き 水は火の力によりて流動するなり  何事も水のみにしてはならざらむ 火の助けこそ水を生かすも 火のみにていかで燃ゆべき 光るべき  水の力をかりて動くも 火と水の言霊これを火水(かみ)といひ また火水(ほし)と言ふ 宇宙の大道  水と火の言霊合して水火(しほ)となり 宇宙万有の水火(いき)となるなり  火と水は即ち火水(かみ)なり 水と火は即ち水火(しほ)なり  陰陽の活動 水と火の活用によりてフの霊(みたま、『霊界物語』13-1-1 及び73-1-6「フの言霊」参照)即ち力(ちから)あらはるるなり…火と水を塩梅(あんばい)なして世に出づる 伊都能売神(いづのめのかみ)の活動(はたらき)尊し…火と水の二つの神業ありてこそ 天地活動次ぎ次ぎ起る」(『霊界物語』73-1-12)

「火は水を動かし」と「水は火によって働く」は、技では「魂(火、霊、心)によって魄(水、体、身)を動かす」(『合気神髄』p.131)ということです。
posted by 八千代合気会 at 23:15| お勧めの本

2016年02月11日

開祖の合気(17)

ところで、開祖が「気形の稽古と鍛錬法(稽古法 and 鍛錬法)」と言われているので、気形の鍛錬法と呼ばれるものが稽古法とは別にあるようです。私は、気形から連想して、これは「気の鍛錬」に分類されると思います。
気形の鍛錬法を道文の中から探すと、次の修法(鎮魂行法)がそれを指しているのではないかと思います。
「武道と神ながら( 武産の神示「愛の氣結び」)の道、これまでの武道はまだ充分それに達してはいなかった。なぜなら、今までが魄の時代であり、土台固めであったからです。すべて目に見える世界ばかり追うと今までのようなことになり、それではいつまでたっても争いが絶えない。目に見えざる世界(註 気形と同意、魂)を明らかにし、この世に平和をもたらす、それこそが真の武道の完成であります。修法は、指を(鎮魂印に)結び目をつぶって下さい。すべて心が定まってくると姿に変わって来る(イメージされるようになる)。深呼吸のつもりで魂で宇宙の妙精(清新の気というよりも愛の気)を集め、それを吸収する。…まず自分の腹中を眺め、宇宙の造り主(の愛の心、愛の気)に同化するようずーと頭に集め、造り主に聞く。すると気が昇って身中に火が燃え、霊気(神の愛の力)が満ちて来る」(『合気神髄』p.128)

気の鍛錬はメンタル面を強くするという意味(何ものにも何事にも動じない胆力を養うという意味)の精神力、気力の鍛錬ではなく、愛し慈しむ心、平安な心に関連した愛の気の鍛錬です。科学的にいえば脳波をミッドα波(α2、9〜11Hz)にする鍛錬のことを述べておられるようです。

この鎮魂行法は、白井亨の鍛錬法の内観法に当たるものだと思います。白井亨の場合、最初、水行(水垢離)によって心の鍛錬・気の鍛錬をしていましたが、体を壊してから内観法、軟酥の法に加え徳本行者に付いて南無阿弥陀仏の唱名(念仏行)も行っています。
開祖も水行や滝行もされましたが、鎮魂行法をされ、祝詞も上げられました。いずれも瞑想法に加えて声を出されたことが良かったのではなかったかと思います。

科学的に分かっていることは、「愛」「感謝の心」そして「笑い(笑顔)」などが脳波を安定させるそうです。また、このような丹田を意識した呼吸法(内観法)も、15〜30分位続けると脳波計でα2が観測されるようになることが知られています。
α2が出るとセロトニンの分泌が促進され、「相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのである。世界を一目に見るのである」(『合気神髄』p.15)という武道に欠かせない集中力が身に付く(ゾーンに入る)ようになるようです。「これを実践して、はじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである」という状態になるようです。

開祖は、「私は人間を相手にしていないのです。誰を相手にしているのか、強いて言えば神様を相手にしているのです。人間を相手にしてつまらぬことをしたり言ったりするから、この世は上手く行かないのです」(『合氣道技法』p.262)と語られていますが、これは、神様や仏様(サムシング・グレートでも結構です)の存在を信じられる人にはよく分かると思いますが、鍛錬する上で欠かせない心掛けだと思います。脳波を乱さないため増上慢に陥らないために忘れてはならないことです。
相手より強くなろうという執着を捨て、神様が与えられたままの自分と向かい合うのです。そうすると感謝の念が湧いてきて、造り主と同じ万有を愛する気持ちが強くなって来ます。

気の鍛錬は、心と体に活気を与える気(エネルギー)を練る鍛錬です。気が流れるようになると血液の流れが良くなり、体の機能が高まります。心にやる気が湧いてきます。
また、このエネルギーは心(意識)によって導かれ、左右されます。正に「志は気の帥(すい)なり」(孟子 公孫丑上)です。万有愛護の心によって気を導き、気形の稽古によってそれを確かなものにして行きましょう。

このブログでは難しいことを書き連ねていますが、稽古では笑顔で心から楽しいなという気持ちを溢れさせて稽古したいと思います(稽古は常に愉快に実施するを要す)。
私の家族が癌になってから行った病院で笑顔共和国http://www.egao-kyowakoku.co.jp/index.htmlというものがあることを知りました。笑顔共和国憲法やスマイルトレーニングなどのメニューを是非ご覧下さい。「宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり」ということと「笑顔が、家庭内から始まり、社会へと自然に広がる」ということは、脳波で考えると同じことを言っていると思います。また、潜在意識は水面下で皆が繋がっているともいわれています。

八千代合気会の稽古は、皆さんが地上天国にいる気分を味わうものでありたいと願っています。また、気形の稽古に移るためにも、上級者は「そら動かないだろう」とか「それでは駄目です」とかいう相手を否定する言葉を使わず、気持ち良く受身を取って、「おっ、今のはイイネ」と言って後進を導きたいと思います。
もし、動かせない、容易に技に掛かってくれないような人に出会った時には、相手が上級者であれば、どうしたら出来るか、自分の技のどこをどう直すべきかを教えてもらえる絶好の機会だと思って尋ねると良いと思います。そうするとたちまち道場が地上天国に変わります。相手が下級者であれば、これも工夫をする機会、自分が稽古をさせて頂く絶好の機会が与えられたと受け取ることです。すべてそのように受け止めれば、この鍛錬が実りを迎えるようになると信じています。
posted by 八千代合気会 at 23:36| 日記

2016年01月31日

古事記 現代語譯 古事記(9)

古事記伝の「此の三柱(みはしら)の神は みな獨神(ひとりがみ)成りまして み身を隠したまひき」は「この御三方は皆お獨(ひとり)で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました」ですが、霊界物語では「この三柱神者(みはしらのかみは)並独神成坐而(すになりまして)、隠身(すみきり)也」(『霊界物語』13-0-3)と読んでいます。
ここでも、元は大石凝真素美がそう読んだからのようです。
「此の天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神 此の三柱の神が獨神(す)に成りまして隠身(すみきり)玉ふと申す」(『眞訓古事記』)

どちらで読んでも同じような意味ですが、「この三柱の神は すになりまして すみきりなり」と読むと少し動きが出て来ます。
眞訓古事記には次のように書かれています。
「又 玉ふといふ四聲に澄極(すみきり)と描く時は 只 獨が澄む事となる。又 住極(すみきり)と書く時は 動物が巣に久しく住み極(き)り居る事のみに聞こゆる也。又 炭切(すみきり)と描く時は 仕事となる。此のすみきりといふ事は 蜻蛉が宙宇に中(すま)して 敢て進退上下左右せず 唯 中して居るを能く見る時は、其の四枚の羽を紙の薄さ程に扇ぎて 空氣を叩いて居る也。是を 嗚呼善くすみきりて居るトンボ哉と云ふ也。又 善き獨樂を廻して 其の獨樂が風を起こしつゝ盛に廻り居りて 敢て飛び走らず、唯 一所に止まりて隆々(るる)盛々(るる)と廻り居るを よくすみきり居る獨樂也と云ふ類の、其の動き目が敢て目立たざるを以て、すみきり居ると云ふ也。古事記の爰(ここ)にすみきり玉ふと云ふは、此の三柱神はスに鳴りまして 極乎恒々烈々として、現在 大造化を行ひつゝ 天上天下億兆萬機の往來を一身に保ちて、晝夜を止めず萬機を運轉し玉ひつゝ居玉へども、其の全部を見る事は敢て能はず。愚者は此の天球、地球の大造化の極乎恒々たるを見て 一種の器械の如くに思ひ居る也。
かゝる大々活機を日本語に 唯 四聲に収めすみきり玉ふといふ也。此の四聲に正當する字は決してない故に、衆人は 唯 鼻頭の一少部分許りを見て居る也。其の全身は隠れて居て決して見えないといふ事を示す為に 隠身の二字を用ひる者なり」

したがって、まったく隠れられて何もされていないのではなく、現在も右旋・左旋され造化の業を行われているという意味が強くなります。
開祖は、それを「大神は一つであり宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄(いやさか)の姿である(『合気神髄』p.110」と、現在も造化の業を行われていることを「弥栄」という言葉で表わされています。

「すみきり」を、合気道では「独楽(こま)が最高にフル回転しているさい直止しているごとく映るのと同様に、<気・心・体>が一如となって自在に発動されつつある時には無心無我、魂が静かに澄み切ってある状態に達することをいう」(『植芝盛平 生誕百年 合気道開祖』p.20)と捉えています。眞訓古事記にある独楽(獨樂)の説明と同じです。
これは吉祥丸二代道主による説明ですが、開祖もそうおっしゃられていたのだと思います。

「独楽が最高にフル回転している」から類推すると、この理合は次の道文に関係しています。
「自分の中心を知らなければなりません。自分の中心、大虚空(皆空)の中心、中心は虚空にあるのであり、自分で書いていき、丸を描く。…きりりっと回るからできるのです」(『合気神髄』p.154)
心の状態や意識に関わる理合ですが、体的な技法や鍛錬法としても成り立ちます。「すみきり」を、心を澄ました無念無想とだけ捉えずに、現在も造化の業(愛の働き)を行われていると意味を拡大して、万有愛護の精神が溢れるものと受け取るべきでしょうか。

今年の箱根駅伝を制した青山学院大学が、コアトレーニング(身体のコア<核>となる脊柱<体幹>に近い部分から意識的、優先的に鍛えるトレーニング方式)を取り入れていることはよく知られていることです。参考になるかと思います。開祖の「自分で書いていき」とコアトレーニングの「意識的」にという部分が共通しています。神経伝達から考えても、脊柱に近い部分の筋肉に命令が達するのに要する時間の方が手足の末梢部に達するまでの時間よりも短いので、コアを意識したりコアから動いた方が、動きが早くスムーズになると肯けるところです。

この「すみきり」は次の道文に出ています。
「そして常在(すみきり)、すみきらいつつすなわち一杯に呼吸しつつ生長してゆく」(『合気神髄』p.111)
霊界物語の相当する部分も、もう一度併せてお読み下さい。
「天もなく地もなく宇宙もなく、大虚空中に一点のヽ (ほち) 忽然と顕れ給ふ。このヽたるや、すみきり澄みきらひつつ、次第々々に拡大して、一種の円形をなし、円形よりは湯気よりも煙よりも霧よりも微細なる神明の気放射して、円形の圏を描きヽを包み、初めて⦿(ス)の言霊生れ出でたり。この⦿の言霊こそ宇宙万有の大根元にして、主 (ス) の大神の根元太極元となり、皇神国 (すめらみくに) の大本 (だいほん) となり給ふ」(『霊界物語』73-1-1)

「すみきり」を「常在」と書くときは、次第次第に拡大して、元の雲や霧などの水の粒子がより微細になって全体に散らばって(満ち満ちて)存在している状態を指しています。一方、「澄みきり」と書けば、霧や雲の蒸気が拡散して晴れ渡った青空が現れたイメージです。
開祖が「常在」を当てられているので、「(宇宙)一杯に」ということを表現されていることが分かります。

次に「すみきらい」とは何でしょうか? 
長い間、私には漢字でどう書くのか良く分かりませんでした。それで、思い付いて古語辞典を開いてみました。古語辞典には「霧(き)らふ《上代古語》」があって、霧や霞が一面に立ちこめるという意味でした。それで、「すみきらい」は「澄み霧らひ」という古語だと思います。
霊界物語には、他に「澄切り澄渡りつつ」とか「澄みきり澄み徹(とほ)らひつ」という表現も見られます。

「すみきり、すみきらいつつ」は即ち「一杯に呼吸しつつ生長してゆく」ことで、ムスビの働きを表しています。合気道のムスビは、「腹中に吸収して(すになりまして)、同化・一体化する(すみきりなり)」ということになります。このようなことを見いだされて(道文にはそこまでは書かれていませんが)、開祖は法悦の涙を流されたのではないかと思います。

「昔、この世界の一番始めの時に、天で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御三方は皆お獨(ひとり)で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました」と、たったこれだけの短い文章の中に合気道の大切な理合や動きが述べられています。
古神道の神道理論を打ち立てられた方々が古事記の中に宇宙や地球の成り立ち、即ち神の御業(宇宙の営み)が書かれていると考えたように、開祖が見出された真の合気の道の理合や技法が古事記に書かれているというのが開祖のお考えです。

もう一度、開祖の言葉を味わってみましょう。
「無性(むしょう、魂、実体のないこと)と有性(うしょう、魄、実体があること)の大原則ことごとく宇宙の営みの元を生み出した。それが合気の(理合や技法の)根元となる。つまり、(そのことが書かれている)古典の古事記の実行が合気である」(『合気神髄』p.19)

このスミキリは、次の段の「天からの階段にお立ちになつて(天の浮橋に立たして)」とも関連しています。
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2016年01月21日

開祖の合気(16)

10) 合気の鍛錬(武道の鍛錬)
「その時以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰(じつげつせいしん)はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や名誉や財宝は勿論、強くなろうという執着も一切なくなった。武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を、正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである、と私は悟った」(『武産合氣』p.18)
「この道は、相手と腕力・凶器で戦い、相手を腕力・凶器で破る術ではなく、世界を和合させ、人類を一元の下に一家たらしめる道である。神の『愛』の大精神、宇宙和合の御働きの分身・分業として、ご奉公(武産合氣p.136の「みそぎのご奉公」)するの道である。この道は宇宙の道で、合気の鍛錬は神業(かむわざ)の鍛錬である。これを実践して、はじめて、宇宙の力が加わり、宇宙そのものに一致するのである」(『合気神髄』pp.41-42)

この道文の鍛錬は、稽古という言葉では置き換えられないようですので、「合気の稽古」と分けました。
「合気の鍛錬」は「神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬する」=「神業の鍛錬」ですが、「三つの鍛錬」でいうと「心の鍛錬」になるかと思います。

開祖がおっしゃられる(水行、滝行などの禊行とは別で、禊の技という言葉で使われている)「禊」がこの鍛錬法のことです。自分の気を整える(愛の気を充満させる)ことが神業の鍛錬(禊)で、これはまた自己と一体になっている宇宙の気を整えることにもなるので、合気の技は禊の技(禊のご奉公)、小戸の神業といいます。
「息を吸い込む折には、ただ引くのではなく全部己れの腹中に吸収する。そして一元の神(万有愛護の神)の気を吐くのである。それが社会の上なれば、自己の宇宙に吸収して、社会を神の(愛の)気で浄めるということになる」(『合気神髄』p.14)
「一人一人が心の洗濯をし、心の立て直しをする。世界から戦争、喧嘩(けんか)をなくす。それが小戸(おど)の神業(かむわざ)である。…(生み出された愛の気の)ひびきが全宇宙に拡がっていくように鍛錬しなければならぬ」(『合気神髄』p.20)
「これによって、誰に頼まれなくとも自己のつとめの上に、世界の何ものよりも先に立って、みそぎのご奉公(合気神髄p.42の「ご奉公」)をするのであります。…それは自己の六根を磨き上げて(鍛錬して)自己の魂を光らせること(合気神髄p.125の「愛より熱も出れば光も生じ」)です」(『武産合氣』p.136)
「この大いなる合気の禊(みそぎ)を感得し、実行して、大宇宙にとどこおりなく動き、喜んで魂の錬磨にかからねばならぬ。…人を直すことではない。自分の心を直すことである。…真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ」(『合気神髄』p.115、p.150)
「みそぎの技として、合気は最後の愛行のために生まれたものなのである。…万有愛護の使命の達成をのぞいて、合気の使命は他にありません」(『武産合氣』p.140)

この「万有愛護の使命の達成」の部分が、柳生新陰流の活人剣も含め、「過去現在にない」「これまでの武道はまだ充分それに達してはいなかった」ところです。その使命達成のためには、仏道でいえば「無」ではなく「衆生済度」を求めることです。開祖の別の言葉でいえば「合気道は世のため人のために」を心掛けることです。

禊は気形の稽古(気体技法)を生きたものにするために欠かせない心の鍛錬です。
八千代合気会の皆さんは、次の道文と併せてここのところを何度も読んで理解を深めて下さい。
「本当に美しい地上天国実現のために、今度(万有愛護の)精神にそって立つ武には、殺生の技はない。つまり、自然の摂理によって、魂魄あわせた引力によって、いかなるものも自己の腹中に吸収され、自己の思うままになるために大きなみそぎの本義がいる。これが(武産)合気です」(『武産合氣』p.162)
「(武産)合気と申しますと小戸(おど)の神業(かむわざ)である。こう立ったなれば、空の気と真空の気を通じてくるところの、宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に映しとる。そしてそれを実践する。相手が歩いてくる。相手を見るのじゃない。ひびきによって全部読みとってしまう( 山彦の道)」(『合気神髄』p.119)
「喧嘩争いのない戦いのない平和な美しい楽土の建設に、この大きなみそぎの大道をもって現わさなければならぬ。…顕、幽、神三界の万有万神の定理を明らかになして、この世界の動きと共に相和して、この世の汚れをはらってゆくことが、この武産合気の本義であります」(『武産合氣』pp.181-182)

開祖は、後進に対して次のように望んでおられます。
「『さむはら』とは宇宙の気を整えて世の歪みを正すことである。日月星辰、人体ことごとく気と気の交流(結び)によって生まれたものである。ゆえに世界、宇宙の調整をしなければ邪気を発して、いろいろと災いがおきるのである。この邪気は禊(みそぎ)によって正しくしなければいけない。我が国は古来、禊祓(みそぎはらい。禊:罪を清める、祓:穢れを落とす)をもって大儀式を行って祓う。…禊は、はじめに(禊祓の儀式で)述べたように立て直しの神技の始めに行ずるのであるが、(自分の心の)禊(みそぎ)をして精神の立て直しをすることは特に合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々必ず修業してほしいと思う」(『合気神髄』p.152)

この禊については、何かを削り落とすことと何かを身の内で養い育てることとの両方が求められているように思います。相手に勝とうとする心、倒そうとか投げようとかする心は削り落とし、相手を受け入れ、宇宙(神といっても良い)と一体となり、同化しようと思う心を育てることを稽古の中で行うことでしょうか。そのようにすることが技の上達にも役立ち、人格の向上に繋がることが(相手が自分と組むことを避けなくなることで)理解出来たら、取り組みに弾みがかかることでしょう。
posted by 八千代合気会 at 05:05| 日記

2016年01月11日

古事記 現代語譯 古事記(8)

「宇宙の営みが自己のうちにあるのを感得するのが真の武道なのであります」(『武産合氣』p.77)
この道文を読んでいて、「私の武産の合気は、宗教から出て来たのかというとそうではない」と言われているのと意味するところが同じであると感じました。開祖が体得された真の合気の道は、宗教の教え(記紀などに根拠を置いた古神道の教義)から導き出されたものではなく、真の武道を究めようとして稽古・工夫を重ねた末に感得されたものです。そして、その感得された武道の奥義が宇宙の営み(古事記などに書かれている宗教の真理)そのものであったということです。
私達も稽古、研鑽を積んで、そのような気付き(感得)がある稽古にしたいものだと思います。また、合気道の理合や技法から見て古事記を読み解きたいと思います。

ところで、その奥義である、開祖がおっしゃられる古事記の営み(宇宙の営み)が古事記伝を読めば分かる程度のものであれば良かったのですが、霊界物語を副読本にしても分からないようなことも述べられているので、開祖がおっしゃられることは「ひじょうに分かりにくい」となってしまうのも否めないところです。それは、とりもなおさず、開祖が真剣に取り組まれた証でもあると思います。
これから解説する「右旋・左旋(螺旋運動、円転)」と「すみきり」は、そのような色合いが濃いものです。

吉祥丸二代道主が「円転の理」と名付けられた合気道の動きの右旋、左旋運動は中国武術の動きにヒントがあったかもしれないと思っています。
開祖が中国の八卦掌を学ばれたという説が取り上げられています(Aikido Journal “The Elusive Chinese Influence on Aikido,” by Stanley Pranin http://blog.aikidojournal.com/2012/09/18/the-elusive-chinese-influence-on-aikido-by-stanley-pranin/ 参照)。八卦掌であったということまでは同意できなくても、開祖が満州や蒙古で目にされた中国武術の舞のような動きがヒントになっているということは考えられることです。開祖が中国で柔術を教授されたことが『入蒙記』に記録されているので、そのような時に彼の地の武術を目にすることがあったかもしれない、と私は思います。
「さうして守高(開祖)は王連長や王参謀に暇あるごとに柔術を教授してゐた。守高に柔術を学ぶものは支那将校の中四五名はあつた」(『霊界物語』NM-4-24)

この合気道の技を特徴づけている円転、螺旋運動は古事記のこの箇所には記述がなく、前に示したように霊界物語に「高鉾の神は左旋運動を開始し、神鉾の神は右旋運動を開始して円満清朗なる宇宙を構造し給へり」と書かれています。
道文では、次のように述べられています。
「タカアマハラというは全大宇宙のことであります。宇宙の動きは、高御産巣日神、神産巣日神の右に舞い昇り左に舞い降りるみ振舞の摩擦作用の行為により日月星辰(じつげつせいしん)の現れがここに存し、宇宙全部の生命は整って来る。そしてすべての緩急が現れているのです」(『武産合氣』pp.77-78)

高鉾の神・神鉾の神は、神漏岐(かむろぎ)命・神漏美(かむろみ)命のように男神・女神(陽と陰)を意味する総称的な神名のようで、高御産巣日神・神産巣日神の亦の名ではありません。それで、開祖が拠り所にされたのは霊界物語そのままよりも大石凝真素美の『眞訓古事記』や『弥勒出現成就経』の次の部分ではなかったかと思います。
「かく天地が成り定まる時は、其の地球の中心より上へ天球の底に向ひて、右旋して登り行く機が起る也。是を高御産巣日神と申す也。是と同時に、天球の底より下に左旋して、地球の中心に旋り入る機が起る。是を神産巣日神と申す也。高御産巣日と云ふは、下より上にむすぶ義(こころ、意味)也。神産巣日と云ふは、上より下にむすぶ義也」(『眞訓古事記』)
「然り而して 中心なる地球より 右に螺旋して 天底に昇騰する 氣機あり。其名を高皇産霊の神と謂ふ矣。亦天底より 左に螺旋して 地球に降り着(つ)く氣機あり。其名を神産霊(神皇産霊)の神と謂ふ矣。然り而して経緯 輪廓 條理 脉絡 明細に組織し、極然として濔縫(弥縫、びほう) 紋理する矣」(『弥勒出現成就経』)

勿論、霊界物語もこれらの大石凝真素美の本をベースにしている(これらの本の内容が出口王仁三郎聖師の頭の中に刻み込まれていた)と思います。

右旋・左旋について、なぜ右旋が昇りで左旋が降りになるのかということは後に詳述するつもりですが、古事記のこの箇所には螺旋運動のことは書かれていません。大石凝真素美は、明治まで生きていた人ですから、科学的知見である天体が渦を巻いていることからヒントを得たのかもしれませんが、ムスビ(産霊)によって宇宙が創られることを考えての説明になっています。ここは神名を『日本書紀』から取って高皇産霊、神皇産霊の神と書いた方がこれらの神々の働き(ムスビ)を表していて分かり易いと思います。造化の神ですので、このようなムスビの働きに関する考えが出てきても不思議ではありません。開祖は、その動きが武産合気(ムスビの武)の理や動きと同じであるということで説明されていることが分かります。

合気道の理合ということにスポットを当てて見ると、開祖が古事記の中に書かれていることの諸々を取り上げてその理合を説明されても、この「ムスビ」という一つのものにまとまって来るように思います。私達もそう思って読むと理解出来るようになると思います。
例えば、「これが武産(たけむす)合気の『うぶすな(産土。うぶすは誤り)』の社(やしろ)の構えであります。天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります」(『合気神髄』p.69)ですが、産土の社の構えが天地の和合(ムスビ)を素直に受けた構えで天の浮橋に立つことである、とおっしゃられています。この産土神のご神徳が万物を生み成せる産霊(ムスビ)の力であることを考え併せると、開祖が説明されていることの意味が良く分かって来るのではないでしょうか。

この螺旋運動は「すみきり」という合気道の理合とも関連しています。合気道の稽古や理合から解釈して、古事記の営みに対する理解の度合を深めましょう。
posted by 八千代合気会 at 17:38| お勧めの本