2015年08月03日

古事記 現代語譯 古事記(2)

合気道から『古事記』を眺めると、次の「奥深いもの」と言われているところがきっと分かるようになってくると思います。
「講演をなさる時、普通の学者が理論的、科学的に話をするのとちがって、大先生は断片的に話されるので、聞く人によってはひじょうに分かりにくいわけなのです。大先生の中には、常識では測りがたい奥深いものがあり、それをちょいちょい引っぱり出してお話になるので、最初のうち凡人にはさっぱり分かりません。しかし何度もお目にかかり、お話を素直にお聞きしているうちに、奥深いところから割り出されているのだという前提でお聞きすると、断片的なものが、自然につながっていくから不思議でした」(『合気道開祖 植芝盛平伝』pp.27-28)
開祖が、「合気道を学ぶものは古事記を学びなさい、なぜならば合気道は古事記の営み(実行)であるのだから」(『へちまの葉』p.128、132)と勧められていますが、それは開祖の断片的な合気道の理合や奥義に関するお話が一つの体系として繋がって来るからだと思います。

開祖が『古事記』からお話をされる時には、国学 → 古神道(復古神道)・言霊学 → 教派神道(の一派、大本)という流れの中での解釈に従っておられます。この古神道は賀茂眞淵(1697 – 1769)の復古国学まで遡るとか平田篤胤(1776-1843)になって神道思想が強まったとか言われています。『古事記』が編纂された和銅5年(712)当時は陰陽説が融合した老荘思想の影響があったと思われますが、古神道や大本の教えが形作られる段階で、仏教、キリスト教(漢訳聖書)及び明治期以降には西洋の科学の影響も受けています( 古神道は儒教、仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想というのが定説ですが)。即ち、古神道はムスビによる神人合一の道(神ながらの道)ですが、これにキリスト教から「愛(万有愛護)」の概念が導入されたもの(大本の教義)をベースにして開祖がお話されていると理解して宜しいかと思います。

宗教だからということで毛嫌いさえしなければ、100年余りの間に確立された、意味がはっきりした言葉(定義が確定している『古事記』の中の言葉)によって合気道の理合や奥義を知ることが出来ると思いますので、『古事記』を神話として見る立場を離れて取り組みましょう。
「合気道を学ぶものは古事記を学びなさい、なぜならば合気道は古事記の(中に述べられている古神道の解釈に従った/古神道の定義による言葉によって説明される)営み(実行)であるのだから」
私は、合気道の理合や奥義はシンプルなものだと思いますが、開祖がそれを『古事記』の言葉で幾重にも、また、いろんな側面から説明されていると思っています。

序文
過去の時代(序文の第一段)
「宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性(氣象)はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神(造化三神)が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました」
これは、天地開闢(『霊界物語』では天地剖判)のくだりです。

『日本書紀』では、「古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄の子の如くして、溟A(ほのか)に牙(きざし)を含めり。其れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙なるが合えるは摶(むらが)り易く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。然して後に、~聖(かみ)其の中に生る。故、曰く、開闢の初めに洲壤(くにつち)浮き漂うこと譬えば游ぶ魚の水の上に浮べるが猶(ごと)し。時に、天地の中に一つ物生(な)れり。状(かたち)葦牙(あしかび)の如し。便(すなわ)ち~と化爲(な)る。國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號(もう)す。【至りて貴きを尊と曰い、それより餘(あまり)を命と曰う。並びに( どちらも)美舉等(みこと)と訓(よ)む。下(しも)皆(みな)此(これ)に效(なら)え】 次に國狹槌尊(くにのさづちのみこと)。次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡(およ)そ三はしらの~。乾道(あめのみち)獨り化(な)す。所以(ゆえ)に此れ純(まじりなき)男(お)と成す(卷第一 第一段 一書第四にやっと古事記と同じ造化三神が「又曰く、高天原(たかあまはら)に生(な)れる~は、名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)と曰う。次に高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)。次に~皇産靈尊(かむみむすひのみこと)。皇産靈、此を美武須毗(みむすひ)と云う」と異説として付記されている)」(http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/01/fr.htm)と書かれている部分です。

これに次の部分を合わせて読むと良いと思います。
一、イザナギの命とイザナミの命
天地のはじめ
「昔、この世界の一番始めの時に、天(高天原)で御出現になつた神樣は、お名をアメノミナカヌシの神といいました。次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御三方は皆お獨(ひとり)で御出現になつて、やがて形をお隱しなさいました」

簡単で短い部分ですが、合気道にとっては重要な部分です。
posted by 八千代合気会 at 20:31| お勧めの本

2015年07月27日

開祖の合気(9)

開祖が、「それが7年前、真の合気の道を体得し、『よし、この合気をもって地上天国を作ろう』と思い立ったのです」(『合氣道』p.200)と話されている体得時期は、私の推定ですが、昭和25年(1950)のことです。大阪朝日新聞社での教授を切り上げられてから14年経っています。
この間、昭和13年(1938)に『武道』を陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下のご要望によって作成され、「昭和15年(1940)の12月14日、朝方2時頃に、急に妙な状態になりまして、禊(みそぎ)からあがって、その折に今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。改めて先祖からの技をやらんならん(やらねばならぬ)ことになりました」(『合気神髄』pp.23-24)という体験をされ、続いて昭和17年(1942)に「武産合気の神示」が降ろされています(『合氣道で悟る』p.42)。

「今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました」と言われている言葉は、「今まで習っていたところの技の理合は、全部忘れてしまいました」という意味合いが強いと思います。それで「改めて先祖からの技をやらねばならぬことになり」ましたと言われる「先祖」、即ち日本の国の祖神、伊邪那岐・伊邪那美二神の島生み、神生みの技(業)、「ムスビ(産霊、結び)」が根本の理合となった「武産の技」へと変わります。このように理解すると、「合気道とは、宇宙の万世一系の理であります」(『武産合氣』p.28)と開祖が説明されるところが分かり易くなると思います。

ただ、八千代合気会の皆さんが、開祖が「合気」という言葉で表現されていることを理解するには、いきなり理合からよりも合気道の技の方から眺めた方が分かり易いと思いますので、先に開祖の技の特徴から述べたいと思います。
開祖の技は昭和15年(1940)に神示を受けられてから変わっていますので、道文として遺されている昭和25年(1950)頃から後の技と道文を比較すると良いと思います。

この昭和25年(1950)に入門された多田宏先生が開祖の技を受けた時の印象を次のように語られています。
「ある時期、私は不思議なことに気がついた。先生に近寄ったとたん、自分の心と体が何か透明な感じになる。そして先生に触れると、それはよりはっきりして、まるで自分と先生の心と体の境の区別が、無くなったような感じとなるのである。それは先生の修行で得られた、対峙を超えた心から生じる大きな気の力が、我々を包み込んだのであろう」(http://www.asahi-net.or.jp/~yp7h-td/kaiso.html

開祖の最後の内弟子である菅沼守人先生も同じことを別の言葉で表現されています。
「大先生の技には無理が全く無いのですね。投げ飛ばされても気持ちよく受身が取れるのです。まるで吸い込まれる様な感じで。熟達していない人の技だと、変な風に痛かったり怪我をさせられることもありますが、そういうことが全く無く、本当に動きに無理がないのです」(『開祖の横顔』p.30)

山口清吾先生に師事された武田義信先生も同じ感じを受けられています。
「大先生は道場に現れただけで吸い込まれる感じでしたね。山口清吾先生も吸い込まれるんだけど、大先生は『同化する』という感じが強くて、“取る・取られる”の相対的な関係では無く、『一つに成ってしまう』感覚。言葉もね、根源の所、魂で話している感じでしたね」(『秘伝』2010年1月号p.59)

以上のような開祖の技の印象は、次の開祖の道文と良く一致しています。開祖は、そのような感覚(想念)で技を施されていたという考えでこの箇所を読むと良いと思います。
「人の目を見たり、相手の技を見たり、姿を眺めているんじゃ無いですよ。全部自分の腹中へ、身の内へ入れてしまうんですよ。自分の腹の中に在るんだから別に争う必要が無い。大宇宙が自分に在るという事や。全宇宙が自分の腹中に在る事や」(昭和40年頃のラジオ会見記『合気ニュース』142号 p.15)

「合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのである。世界を一目に見るのである」(『合気神髄』p.15)

「合気道においては常に相手がなく、相手があっても、それは自分と一体になっていて、自在に動かせる相手なのです」(『合氣道』p.201)

開祖が、「よし、この合気をもって地上天国を作ろう」(『合氣道』p.200)と思い立たれた「合気」の技は以上のようなもので、「吸収」「一体」「同化」などがキーワードになろうかと思います。

他の武道でも同じ概念が述べられています。
「私のやり方を良く見ていましたか、仏陀が瞑想にふけっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど眼を閉じる。すると的は私のほうに近づいてくるように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体( 神人合一)になれば、矢は有と非有の不動の中心に、従ってまた的の中心に在ることになる、矢が中心に在る、これを我々の目覚めた意識を持って解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである、それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい、するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中(あ)てます」(弓道 阿波研造)

「厳に大義を重んじ包容同化の精神を培養し、たとえ敵対者に対しても日ごろ練磨した術技によって己を全うし、相手方の非を是正するところに真の武術の意義が生ずる。術技を通じ包容同化の精神如実に具現しえたとき、自他共に生存の実が生ずるので、真武の下に平和があり、平和の母体として武道が存すべき…」(鹿島神流 國井善弥)

いずれも弓禅一如、剣禅一如という言葉があって、「無念無想」や「無我無念」が説かれる武道です。

しかし、ここで忘れてならないのは、開祖の場合、普通の人が考えている無念無想で一体化(同化)されたのではないということです。
八千代合気会の皆さんは、ここの所を深く考えてみて下さい。次回まで少し時間がありますので、「何故、無念無想ではないのか」とか「無念無想以外に一体化出来る方法があるのだろうか」ということを思い巡らせて下さい。
このようにお願いするのは、どんなに素晴らしい真理であっても、自分から見出さない限り身に付かず、進歩が望めないと思う故です。
「人は各々自分の流儀に従って考えねばならない。なぜなら、人は自分のやり方によって常に真理、あるいは一生を通じて役に立つ一種の真理を見出すのであるから」(ゲーテ)
posted by 八千代合気会 at 16:22| 日記

2015年07月17日

古事記 現代語譯 古事記(1)

國學院大學教授を務められた国文学者の武田祐吉(1886 – 1958)が訳者で、昭和31年(1956)5月に角川書店から角川文庫として出版されました。本のタイトルは『古事記』で、副題が『現代語譯 古事記』になっています。訳者は國學院大學130年史(http://kokugakuin-univ.jp/history/)に掲載されているような方で、本居宣長の『古事記傅(古事記伝)』の写本「眞福寺本」から忠実に現代語に訳されています。130年史には「(『万葉集』や『古事記』の研究、上代歌文の注釈的研究に優れ)昭和25年に『万葉集校訂の研究』で日本学士院賞を受賞。その文献学的方法に基づく堅実な研究は、万葉集および上代文学研究の発展に多大な寄与をなした」と紹介されています。

この本は、既に著作権が切れていて、「青空文庫」(http://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html)で公開されています。また、Amazonのkindleでも無料公開されています。kindleはPC、スマートフォン及びタブレット端末でダウンロードできますので、ダウンロードして『古事記』を開いてみて下さい。

開祖が、「合気道は古事記一巻を体をもって現すものじゃよ」(『氣マガジン』1994年11月号)とおっしゃられていたとのことですので、この第一巻(原本は上巻、上つ巻と読む、この訳本では上の巻。神代の巻ともいう)と『武産合氣』 『合気神髄』及び合気道の技の理合や理念と関連付けて読み進めたいと思います。
ちなみに第二巻は中巻、第三巻は下巻で、『古事記』はこの三巻からなっています。

『古事記傅』(眞福寺本、愛知県真福寺宝生院〔通称:大須観音〕蔵)は、写真がhttp://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/53930501.htmlに掲載されています。国立国会図書館の近代デジタルライブラリ−(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805)で、『校訂 古事記傅 乾(の巻)』(本居宣長の義理の曽孫 本居豊頴 校訂、本居家5代 本居清造 再訂)が読めますので、解釈を知りたいときや原文に遡るときに参考にしたいと思います。読み下し文は『日本神典 かな古事記』(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906437/32)が参考になると思います。
また、ネット上に紀伝体の古事記全文(原文)が掲載されていて(http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html)、検索も出来るるようになっています。

この上巻にはたくさんの神々が出てきます。これらの神名については「古事記の系譜/神代」(http://j-myth.info/memo/kojiki_ge_kami.html)に良くまとめられています。『武産合氣』と『合気神髄』には、これらの一部の神名しか出ていませんが、そのほとんどが「このことはすべて猿田毘古の大神のお導きにして、昭和17年12月16日、午前2時より3時の間、日本中の神々が現れて合気の出現を寿ぎたまう。大和魂の錬成、松竹梅の剣法、天地合体して両刃の剣、精神の発動によって世の濁りを洗う。それには第一にこの大東亜戦争を止めさせねばなりません。あまりにいうことが大きいのではじめお受けしかねましたが、各地からいうてくるので御神意により、岩間に36畳敷きの合気神社を建てました」(『合気神髄』pp.129-130)と話されている合気道の創出に関連する神々(:合気神社に祀られている43柱の神々と推測)であると思いますので、その都度触れて行きたいと思います。

この本の「上の巻」の目次は次のとおりです。
序文
・過去の時代(序文の第一段)
・古事記の企畫(序文の第二段)
・古事記の成立(序文の第三段)
一、 イザナギの命とイザナミの命
・天地のはじめ
・島々の生成
・神々の生成
・黄泉の國
・身禊
二、 天照らす大神とスサノヲの命
・誓約
・天の岩戸
三、 スサノヲの命
・穀物の種
・八俣の大蛇
・系譜(スサノヲの命の系譜)
四、 大國主の命
・兎と鰐
・赤貝姫と蛤貝姫
・根の堅州國
・ヤチホコの神の歌物語
・系譜(出雲系の系譜)
・スクナビコナの神
・御諸山の神
・大年の神の系譜
五、 天照らす大神と大國主の命
・天若日子
・國讓り
六、 ニニギの命
・天降
・猿女の君
・木の花の咲くや姫
七、 ヒコホホデミの命
・海幸と山幸
・トヨタマ姫

『古事記』については偽書説もありますが、開祖が「これが宗教の奥義であると知り、武道の奥義も宗教(:宇宙の真理)と一つなのであると知って法悦の涙にむせんで泣いた」(『武産合氣』p.131)とおっしゃられている「宗教の奥義・武道の奥義」が述べられているという観点から読みたいと思います。
開祖は、合気道そのもの(武道の奥義)に立脚して宗教の教え(古事記の言霊解:布斗麻邇言霊『古事記』)で説明されています。「私の武産の合気は、宗教から出て来たのかというとそうではない。(宇宙の真理に基づいた)真の武産から宗教を照らすのです。未完の宗教を完成へと導く案内であります」(『武産合氣』p.192)とおっしゃられている言葉からその立脚点が分かります。そのため、合気道の稽古を続けている人は、『古事記』を読んで、「ああ、このことか」と肯くところがあるはずです。

このホームページの「合気道開祖の教え」に「合気道の霊的・精神的系譜」を載せていますが、中村孝道(こうどう、たかみち) → 望月幸智 → 大石凝真素美 → 出口王仁三郎へと伝えられた言霊75声による解が開祖の言霊解であろうと思います。これは、「五十音に濁音を加へたる七十五音の表を『ますかがみ(一名ますみかがみ)』といひ、各音の『みたま』をしるしたるを『ことたま』と云ふ、…按ずるに『ことたま』といふことを称ふる一派の音義説は、これにもとづきたると、五十音図とありて同じからず。この『ことたまますかがみ』の説は、其起源詳ならず、或は日向の老人某より、参河国崇福寺僧大周に伝へたりといひ、或は京都の医師、野山千秋、其祖父元成より受けたるものといふ。之を世に広めたるは、中村孝道といひし京都の人にて、晩年江戸に来りて之を称へ、一時世に行はる。其著、言霊或問あり」(『国書解題』の「ことたまますかがみ」の項)とあるとおり、言霊学の主流である50音によるものとは異なっていますので、『霊界物語』や大石凝真素美の書物、中村孝道の書物に遡らなければなりません。
開祖は、『古事記』を「神典」 「極典」と表現されていますが、大石凝真素美などの書物にある言葉です。

序文から読む前に、八千代合気会の会員は、「青空文庫」などを開いてこの本が読めるような準備をお願いします。
posted by 八千代合気会 at 17:52| お勧めの本

2015年07月08日

開祖の合気(8)

大東流の「相手を無力化する技術」「敵の力を無にする技術」(佐川幸義宗範による定義)という合気は素晴らしいもので、確実に伝承されているようですが、古武道というベールに包まれていて熟達するための方法など核心の部分が部外者に公開されないため、諸説ある考えを特集した武道雑誌が売れているのではないかと思う程です。
その大東流の合気ほどには開祖の合気が何であるかが理解されていないために、Wikipedia「合気道」にある次のような「大東流の合気」も包含したような定義のまま混乱した状態に留まっているように思えます。

***
「合気」の歴史的考察
日本における武術用語としての「合気」は、江戸〜明治・大正期の剣術書などに認められる。それらは彼我の技量や気迫などが拮抗し膠着状況に陥る、または先手を取られ相手の術中に嵌るといった、武術的には忌避すべき状態を差す言葉であった。しかし明治以降、「合気之術」など積極的な意味の使用例が現れる。この頃の「合気」には「読心術や気合の掛け声をもって相手の先を取る」といった意味付けがなされていた。大正期には各種武術書に同様の意味合いで「合気」の使用が見られ、「合気」が武術愛好家の間で静かなブームになっていたという。

大東流合気柔術では、相手の力に力で対抗せず、相手の“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。なお大東流は初め「大東流柔術」と称していた。この名称に「合気」の文字が加わったことが確認できるのは、1922年(大正11年)、武田惣角が盛平に授与した目録が初めてである。
惣角は同年綾部の大本教団にいた盛平のもとを訪れている。この時に出口王仁三郎が「合気」を名乗るよう盛平に勧め、盛平は「合気」を大東流の名に加えることを惣角に進言、以後惣角もこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言がある。

合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて「他者と争わず、自然や宇宙の法則(=“気”)に和合することによって理想の境地を実現する」といった精神理念を含むものになった。(盛平は「合氣とは愛なり」と語っている。)
大東流における「合気の技法」的なものから、合気道の体捌きである入身・転換、技に入るタイミング、相手に掴まれた部分を脱力して相手と一体化する感覚など、相手や自然の物理法則との調和・また宗教的な意味合いでの「宇宙の法則」と和合を図ろうとすることなど、技法から理念まで全てを広く「合気」と表現する傾向がある。
***

このWikipediaに書かれているような意味であると理解して、稽古の中で工夫しようとすれば、「合気とは敵と闘い敵を破る術ではない。世界を和合させ人類を一家たらしめる道である。すなわち、合気道の極意は、おのれを宇宙の動きと調和させ、おのれを宇宙そのものと一致させることにある。修行者は、このことを日常の鍛練を通して悟るべきである」という開祖の言葉と合わせて考えてみて、さて、鍛練と言われてもどうしたら良いものかと考え込んでしまうのではないでしょうか。

相手を無力化しておいて敵と闘い敵を破る術ではないと嘯(うそぶ)き、無力化することが理想の境地を実現しているのだなどと言えるのでしょうか。開祖の言葉は理念で、実際は違うというのならそれまでの話ですが…。

稽古の時に開祖が長々と話されたことで、当時の弟子は閉口したようですが、その話の中に開祖の合気が述べられています。
開祖が実際に話される時にはテープに録音されているように紀州弁ですが、道話や言志録としてまとめられているものは標準語になっているので、編集者がいて分かり易い標準語に直していると思います。その段階で間違いが生じたり本にする際に誤植があったりしたのでしょうか、一部分かり辛い所があると思います。また、お話をされている段階では分かっていても補足しなければ伝わらない部分もあるので、その点に注意しながら解きほぐしてみます。

開祖の合気は弓道の阿波研造範士などの説かれる極意の話とよく似ていますが、阿波範士ほど言葉の意味するところが難解ではありません。武道の真理(宇宙の真理)を宗教の真理を表す言葉を使って説明されているので、宗教の言葉が分かってくると理解し易くなると思います。
ただし、言霊と同じで、一音多義的な表現があって、Wikipediaに書かれているように技法から理念までを広く表現されていますが、そのことを弁えれば、鍛練法まで明らかにされています。
『合気神髄』と『武産合氣』の中には次のような言葉が出てきます。数字はページを表しています。

合気道の合気.jpg


少し、「相手を無力化する技術」「敵の力を無にする技術」から離れて、フレッシュな目で道文を眺めてみて下さい。
posted by 八千代合気会 at 17:54| 日記

2015年07月02日

柔道事故

名古屋大学大学院准教授の内田良先生が著者で、平成25年(2013)6月に河出書房新社から出版されました。帯には「29年間で118名の中高生が学校柔道で死亡 なぜこの暴力的文化が放置されてきたのか。事故データの検証、全柔連・被害者家族らへの取材を通じ、『リスク回避』への道を探る」と書かれています。
柔道と同じコンタクトスポーツ(力を抑制せず相手に直接接触する形式)に分類され、相手を畳に投げるということで頭部損傷事故の危険性を有する合気道において、防げたはずの痛ましい事故を防ぐことができたらと願って、夏合宿前のこの時期に取り上げます。八千代合気会の会員のみならず、このブログを読んで下さっている心ある人に届いて、重大事故の再発防止に役立てて頂ければ幸いです。そのような事故の多くは、4月〜7月、合宿では合宿が始まったばかりの初期に起こり、決まって下級生が被害者になっています。

著者は、専門が教育社会学で、社会学の研究でスポーツ事故のデータをカードに写し、それらを分析していて、柔道事故(発生率)の多さに驚かされます。そのデータが巻末に「学校管理下の柔道死亡事故 全事例」として一覧表にまとめられていますが、1983年度〜2011年度(29年間)で118件でした。スポーツ全般の事故事例は7,000件でしたので、わずか1.7%だと感じられるかもしれませんが、中学校の発生率では2.385(10万人あたり)で2位のバスケットボールの0.382と比べて6.2倍の高さであることが分かります。高校ではラグビーの3.840に次ぐ3.450で、3位の野球の0.973を大きく引き離しています。
「柔道事故の最大の特徴は、柔道固有の動作に起因する死亡が大多数を占めていることである。これを『柔道固有』の死亡と呼ぼう。一方、運動時には突然死や熱中症といった、運動に共通して起こりうる死亡がある。これを『運動共通』の死亡としよう。『柔道固有』は、中学校で全体の80.0%(32件)、高校では全体の62.8%(49件)と、いずれも高い割合を示している。そして『柔道固有』の内訳を見てみると、中学校の32件のうち、投げ技・受け身の衝撃によって頭部外傷(急性硬膜下血腫など)が生じて死に至ったケースが30件、その他(寝技で窒息死、投げ技・受け身で臓器損傷等)が2件、高校では49件のうち前者が46件、後者が3件となっている。『柔道固有』とは、そのほとんどが、頭部外傷によるものであることがわかる」
「ここから見えてくるものは、柔道部の活動において、中高それぞれの学校段階での初心者(1年生)が、柔道固有の動作の過程で頭部を損傷し、死に至るケースが多いという実態である」
「このとき熱中症については、『運動共通』の死因であるとの理由から、特段に分析の対象とすることはなかった。しかし、スポーツ全般に生じる熱中症についても、実は柔道部の死亡率が高いということがわかったのである」

この本の目次は次のとおりです。
はじめに
1 事例の足し算から見えてきたこと
2 柔道事故を覆う二重の闇
3 安全な柔道を求めて
第1章 柔道事故の実態と特徴
第2章 事故はなぜ起きるのか
第3章 声をあげた被害者たち
第4章 柔道界・政界からの提言
あとがき

著者の研究は、平成22年(2010)3月の「全国柔道事故被害者の会」の設立と結び付き、柔道事故の社会問題化に発展してきました。この全国柔道事故被害者の会の設立趣旨は、「私たちは、同じ柔道事故の被害者家族として、柔道事故に遭われた方への支援と、柔道事故の被害者を二度と出さないために、この会を設立いたします。私たちの活動が、一人でも多くの柔道事故の被害者の方の支えになり、そしてその活動により、柔道の安全が確立され、悲しい事故・事件がなくなる事を願ってやみません」というもので、内田先生や脳神経外科の先生方の協力を得ながらシンポジウムを開いて、事故の再発防止に取り組まれています。
柔道日本代表女子選手への暴力・パワーハラスメント問題で全日本柔道連盟(全柔連)の役員が代わって、全柔連とも再発防止に関する協議会が持たれるようになりました。

柔道事故の裁判においては、軽い脳震盪でもセカンド・インパクトによって死に繋がることを知らなかったとか、頭を打たせなくても加速損傷により脳の架橋静脈が切れて急性硬膜下血腫を誘発することを知らなかったとかいう理由は認められなくなりました。従来は、畳の上で稽古中の事故には過失がないという判決でしたが、脳神経外科的な知見が明らかになり、責任を問われるように変わりました。

そのようなきっかけを作られた著者の研究は貴重だと思います。
著者は、ウェブ上でも研究成果を発表され、警鐘を鳴らしておられますので、ご覧下さい。
学校リスク研究所 http://www.dadala.net/
部活動リスク研究所 http://www.rirex.org/

平成24年度に中学校の正課に武道の授業が取り入れられましたが、その際、柔道の授業で大外刈りを禁止するなどの措置が取られたのも著者の研究に負うところ大であると思います。その著者が危惧されていることは、武道必修化になったことにより、かえって事故事例(エビデンス)に基づいた的確な実態把握がおざなりになるのではないかということです。
私は、前述のシンポジウムに出席して、武道界に根強く残る「試合至上主義」や「武道修得のためには命の一つや二つという価値観」があることに気付かされました。これも、事故を起こす要因になっています。

合気道における重大事故防止を考えるときにも、どのような状況で事故が起こっているかという過去の事例を知ることは大切なことです。
『合気ニュース』No. 80に「合気道における事故の研究」(志々田文明)が載せられ、その抜粋があります。
http://ameblo.jp/lomeon/entry-11525511018.html
同じ論文が公表されています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/21/1/21_60/_pdf
ここで、「合気道などのスポーツによる事故の場合、大抵は事故者は個人であり、それをとりまく関係者は複数の人間及び団体である。後者が腰を据えて事故の因果関係を分析し、それを報告書としてまとめ、内外に明らかにしようとしない限り、事故の再発を防ぐことは難しいといわざるをえないであろう。筆者が強く提言したい点はこの点である。航空機事故のような詳細な事故報告書が作成されていても事故はくり返されるのである。それさえもなく、あるいはあるとしても少なくとも上記関係者の間で、特に指導者や研究者の間で気軽に参考書として活用できない現状は早急に改善されなくてはならないだろう」と述べられていて、私も同感です。

合気会が公益財団法人になり、公認道場には重大事故などの不祥事の報告が求められていると思いますので、公認道場については情報が集まると思いますが、死亡事故のようなものは、論文にあるように大学と高校で起こっているようです。

恥を忍んで、私の出身合気道部の事故事例が公表されているのでお知らせします。
「大学における課外クラブ活動中の事故と安全配慮義務」 
http://repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/bitstream/11334/249/1/kiyo_hw011-012_03.pdf
裁判は、被告が国(大学)、顧問、主将、加害者で、「重大な過失」を問う裁判でした。主将については、将来があるので、ご遺族にお願いして一審判決後に被告から外して頂きました。そして、加害者との和解後に国(大学)と顧問に対して二審が行われ、「本判決は、大学の安全配慮義務は課外クラブ活動に及ぶかの問題に関する論旨の展開には問題があるが、それ以外の、課外クラブの主将の安全配慮義務、課外クラブの顧問の安全配慮義務、国立大学の安全配慮義務の法的根拠、大学の安全配慮義務の及ぶ範囲,安全配慮義務の内容、程度については、従来の判例と同様に、おおむね妥当な判断をしている」となっています。裁判で争われた範囲内での判決の妥当性はそのとおりだと思います。
事故の再発防止の観点からは、「裁判所の認定した事実」が事故事例になりますのでご覧下さい。「原告の主張」で「事故の約1年前にHの事故を経験するなどして」とあるのは、1年前の春合宿で同じ急性硬膜下血腫を起こす事故があり、入院し、癲癇の後遺症を残す重大事故を起こしていることを指します。それで、私は、これをしっかりした再発防止策が実施されていなかったことによる事故と受け止めています。
事故が起こったのが平成4年(1992)で、当時は脳震盪の危険性がまったく認識されていなくて、加害者も頭を打っていることは分かっていたようですが、加害者だけでなくおそらく被害者もそれが危険だと思ってもいなかったようです。稽古中に少なくとも2回以上頭を打っていたようなので、明らかにセカンド・インパクトによる事故だと思います。

このような事故を起こす人には特徴があるように思います。それは意外と力任せの技を掛けている人より、技が切れると思われている人が、受けが崩れてから最後まで(あるいはスピードを落とさずに)投げつけることによって起こしているようです。大学などに事故が偏っているのは、合気道に強さ(破壊力)を求めるからではないかと思います。空手等に比べ、打突による破壊力がないところに物足りなさを感じているのかもしれませんが、受けと取りの役割が決まっている合気道では、取りとなる上級生(先輩)の責任は重大です。
この事故があってから、八千代合気会では受けが崩れてからどうこうするという技の稽古を封印して、攻撃の起りを捉えて相手が崩れるまでの稽古に切り替えました。また、激突事故を防ぐため、投げる方向を統一して道場の外側に投げるようにしましたので、ご協力下さい。

中には、他の道場や大学時代の稽古の経験がある人で、このような稽古を物足りなく思う人も居て、そのような人に限って相手に怪我をさせています。それを注意すると、「ここ(八千代合気会)の会員は受けが下手です」という答えが返ってきますが、大学の事故の後、被害者の死に顔を見ている責任者の注意を素直に受け止めて欲しいと思っています。
もう一つの問題点は、怪我をさせる人が熱心に教える人であることです。それで、怪我をした人が、させた人を庇って、「私が受け身を失敗しました」という報告を上げることです。例え、それが尊敬する人であっても、事故の再発防止という点で誰がどうしたという事実を話さなければ改善されません。

「大先生の技には無理が全く無いのですね。投げ飛ばされても気持ちよく受身が取れるのです。まるで吸い込まれる様な感じで。熟達していない人の技だと、変な風に痛かったり怪我をさせられることもありますが、そういうことが全く無く、本当に動きに無理がないのです」(『開祖の横顔』p.30 菅沼守人先生談)
開祖のような技でなくても安全配慮だけは心がけたいものです。

事故の再発防止に関しては、合気道界では国際武道大学の立木(たつぎ)幸敏先生が第一人者で、『合気道探求』第44号に「頭を打ってしまった時に」を、第48号に「熱中症の予防」をまとめられています。また、次の『国際武道大学 武道・スポーツ科学研究所年報 第17号』のp. 24にも「合気道の安全指導」としてまとめられています。
https://budo-u.repo.nii.ac.jp/?

内田先生の本の「あとがき」に、全国柔道事故被害者の会の村川義弘会長の言葉を借りて、「全日本柔道連盟と文部科学省は、柔道の危険を放置してきたことと、長きにわたって暴力的文化に手をつけずに容認してきたことの責任がある。そして、私たち日本人も同様に責任がある。私たちは、暴力を受け入れ、暴力が続くことを容認してきたのだから」と書かれています。ここで「暴力」を「体罰」と置き換えると、私たちも「体罰」なら致し方ないと思ってきたことでしょう。村川会長は、「悪いこともしていないのに体罰と言うのですか?」「教師や指導者、監督という絶対的支配力を持つ者が事故の管理下にある相手に対して行う『暴力』は、すなわち『虐待』です」とした上で、「すべての指導者、すべての教育者は、大人の理性を持って『虐待』の連鎖を断ち切ってください」と訴えられています。

合気道においても、「受身三年」だとかいう思いで相手(受け)を強くしてやろうという気持ちで強く投げることは、現在では「虐待」になると反省を促したいと思います。
『合気道探求』に、ある講習会で「私を始め参加者全員が(筆者註:あらあら)…の四方投げの受け身で後頭部を打ってしまい」という体験談が載せられていますが、その投げた方がどんな素晴らしい先生であっても、この行為は見習ってはなりません。こういう悪しき指導方法の連鎖は、断ち切らなければなりません。

内田先生の言説を引いて、千葉大学副学部長の藤川大祐教授がおっしゃられている言葉の一部を変えて結びとします。
「本来道場は合気道を学ぶ人たちのためにあり、学ぶ人の安全を守ることは大前提であるはずである。学ぶ人のための道場で学ぶ人の安全が守れないのでは、逆説的すぎる。安全対策の優先順位が低すぎるのなら、高めなければならない」
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/special/CO015131/20150604-OYT8T50445.html 参照

posted by 八千代合気会 at 14:49| お勧めの本

2015年01月28日

開祖の合気(7)

記録上、開祖が師に礼を尽くし教授を受けるのは昭和6年(1931)4月7日で最後になっていますが、昭和11年(1936)になって大阪朝日新聞社で惣角師に挨拶もなく立ち去った後、師弟の関係は完全に途絶えます。このことで、大東流側からは惣角師に対する開祖の態度を詰る言葉もありますが、この時には第二次大本事件で王仁三郎聖師や大本の幹部が獄中にあり、その手前とても顔を合わせられるような状況ではなかったかと思います。

『月刊 武道』2014年4月号に、その時の状況が次のように掲載されています。
「昭和7年、久(琢磨)は東京から大阪朝日新聞社に庶務部長として転勤した。赴任直後、久は石井(光次郎)から、天才的な柔術家として植芝盛平を紹介され、警備責任者として、守衛を中心とした社員数名とともに、毎朝早朝、植芝の教授する柔術の修行につとめた。
4年ほど経過した昭和11年6月3日(21日という記載もあり)、大阪朝日の受付に、右手に鉄杖を突き、腰に鎧通しをさした、小柄ではあるが眼光炯炯たる老人が現れ、植芝の師、武田惣角と名乗った上で『ここで植芝が大東流合気柔術を教えているが、彼はまだまだ未熟だ。真の大東流を学ばんと志すならば、自分の門人となって習え』という趣旨のことを述べた。
驚いた久がこのことを植芝に知らせにゆくと、『そうか』と言っただけで、出迎えにいこうともしなかった。
当時、植芝は、技法に関する考えの違いから武田を避けていたらしいが、そのことを植芝・武田両師とも説明しようとしなかったので、要領を得ないまま、久らは翌日から、早朝には従来のごとく梅田の村山邸内に設けられた道場で植芝の指導を受け、午後は武田を社内の宿直室に迎えて稽古をするという状態が何日間か続いた。だが、しばらくして植芝は内弟子を連れて大阪を離れた」

久氏が伝えている以上のことから推測すると、これより以前に師弟の関係は壊れていたようです。それで、惣角師が弟子(開祖)の教え先に突如現れ、前述のような口上になったと思います。それでも開祖は、諍いをせず、大阪朝日新聞社に開祖を紹介した人物である石井光次郎氏には連絡を取り、了解の上で、静かに大阪を離れたと思います。
この時、石井氏に了解を得るか事情を説明していなければ、後に石井氏が財団法人 合気会の理事になったり、開祖の葬儀(当時、衆議院議長)で友人代表を務めたりするようなことはなかったと思う故です。
石井氏は、この後、後輩に当たる久氏との交流も続けていますが、すっかり惣角師の言うことを信用し、惣角師に心酔している久氏にはその事情が伝えられなかったものと思われます。

歴史は、当事者それぞれの事実があると思いますが、この『月刊 武道』の文章から分かることは、開祖が惣角師と技法に関する考え方が違ってきていたことです。このことは、昭和8年(1933)に発刊された『武道練習』に「百事神と人との合気より言霊表現の誠を以て」と書かれていて、「合気」の意味が大東流と違ってきていることから分かります。

この時点での惣角師の合気と開祖が表せる技術レベルとではまだ格段の差があったと思います。『月刊 武道』には続けて、「武田が最晩年に朝日新聞社で久らに教授した技法は、それ(伝書の内容)をさらに武田自身がより高度に発展させたもので、レベルの上では伝書の域をはるかに超えたものであったと思われる」と書かれています。一方、開祖の技が力を使わないものになったのは戦後のことです。
「私が稽古を付けていただいたが、あまりにも柔らかいので、私も稽古すれば戦前の翁先生のような力が出てくるのですかと尋ねました。翁先生は『戦前は解らず力で稽古していた。今は力は不要。此れが武産合気じゃ』と申された」(高岡貞雄談 http://sighar.com/aiki/syumi04.htmlより)

開祖が惣角師を離れるようになった経緯については、吉祥丸二代道主はもっと詳しく聞かれていたと思います。また、武田時宗氏は、大正11年(1922)に惣角師一家が綾部に滞在した時に6歳で、昭和11年(1936)には20歳ですので、もっと良くご存知であったと思います。
時宗氏は、「植芝さんは惣角の高弟でもあるし長く稽古もしていたので、私は上京の際は一番先に植芝さんのところに挨拶に行きました。植芝さんが亡くなってからは行きませんが、惣角も門人として植芝さんが一番可愛かったんじゃないですか。植芝さんが大阪で警察に捕まった時(一日だけだったが、早朝から深夜まで12、3時間の事情聴取を受けた時)も惣角は心配してました。佐川さん(佐川幸義)と私は、『様子を見てきてくれ』と惣角に言われて行ったのです。その時植芝さんは和歌山の田辺で謹慎していました。元気でいるということで、帰って惣角に報告したところ、『それはよかった』と言っていました。惣角は植芝先生をしょっちゅう心配していました。彼を信頼していて何かあると植芝、植芝と言っていました。とにかく植芝さんはよく稽古していましたよ」(『武田惣角と大東流合気柔術』)と話されています。大人の対応をされての話だとは思いますが、これも事実だと思います。
私は、お二人の武道や合気についての考え方が違ってきた経緯については、開祖が王仁三郎聖師に出会い、求めるところが違ってきたため、やむを得ないことであったと思います。

この時点で、まだ、真の武(真の合気の道)を見出しておらず、獄死の仲間(幹部30名が検挙、16名が獄死又は発狂)の報もあり、開祖も必死であったと思います。

ここまでで、開祖が求めた「合気」が、惣角師の合気とはほとんど正反対になった(根本的に異なる)ようだということにだけ気付いていただければ幸いです。
posted by 八千代合気会 at 15:05| 日記

2014年12月27日

日本人の知らない武士道

ニュージーランド生まれで、剣道錬士七段、居合道五段、なぎなた五段の武道家、また、鹿島神伝直心影流も修めている関西大学准教授のアレキサンダー・ベネット先生が著者で、平成25年(2013)7月に文藝春秋社から文春新書として出版されました。

武士道と武道が同じであるとか、武道と武術は違うとか言われますが、どう違うのか、どこが同じなのかを明確に知りたいと思い、この本を手にしました。
著者は、「武士道と武道とは違います」という見解を持っている方ですが、この本では武道から見た武士道というものを説いていて、「武士道を『実戦』から読み解くとはじめて見えてくるものがある」として「武士道」に言及しています。

著者は、1970年生まれで、17歳の時に交換留学で来日し、千葉市立稲毛高校で剣道を始め、遂には武道や武士道を学問としても修められた方で、論理的である上に武道習得者として体で覚えたものからの説明があって納得が出来る内容で、お奨めできる本だと思います。
1987年といえば、八千代市合気道連盟の前身である八千代市合気道同好会が発足してから4年目で、結構近い場所で同じ時代の空気を吸っていたという親しみと、外国人でありながら日本文化や日本語を深く究められたことに対する畏敬の念を覚えながら読みました。

「はじめに」には次のように書かれています。
「武士道という言葉は誰でも知っているだろう。しかし、それが実のところ何を意味するのか正確に理解している日本人がどれほどいるだろうか」
「私は武道を追及する過程で『武士道とは何か』を問わざるを得なかった。そこから私の武士道研究が始まり、やがて生業(なりわい)にもなった」
「近年、武士道は再評価の気運にある。ブームの感さえあり、関連書籍は口々に『武士道精神の復活』を説いている。その論調の多くは、現代日本のモラルの低下、政治・経済の混迷、男性の軟弱化などを挙げて、『今の日本に欠けているのは武士道精神だ』と訴えている」
「しかし、そうした主張のほとんどは、現代における武士道の意義を指摘しながら、では実際にどうやって武士道精神を復活するのかという具体的な道筋については、ほとんど言及していない」
「結論から言うと、私は自分の体験からその問いに対する答えのヒントが武道にあるのではないかと思っている。理念や精神ではなく、実際に体を使って稽古を重ねる武道を体験して初めて分かる武士道の教えがある。だから、私はこれまで一貫して『武士道の復活』よりも『武道の復活』を訴えてきたし、本書でもその主張を繰り返したいと思う」
更に、「ちょうど2012年度から中学校1・2年の保健体育に武道が必修科目として導入された。武道の実践を訴えてきた私としては歓迎すべきことだが、一方で武道は体罰問題にも見られるように、その“出自”からして暴力や加害と裏表の危険性を宿していることを肝に銘じなければならない」と踏み込み、「そのことを含めて武道の可能性を論じるには絶好の機会だ。それは武士道の再考にもつながるはずである。本書がその一助となれば幸いである」という取り組みが示されています。

武士道については、新渡戸稲造の『武士道』、勝部真長の『山岡鉄舟の武士道』、更に遡って山本常朝の『葉隠』の中の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」などで知られていると思います。私は、これらの本の間に一貫性が感じられないことから釈然としないものを感じていましたが、この本の序章「変転する武士道」などを読んで、時代の流れ、武士の中の階級の違いなどで変遷や差異があることを理解しました。

その武士道の神髄が「残心」であるとする考えが第一章に述べられています。
剣道の試合で勝った者が「ガッツポーズをした瞬間、あるいはVサインをした瞬間、もしくは飛び跳ねた瞬間、間違いなく一本を取り消され、負けを言い渡される」のは「残心がないふるまいであり、武道精神に反すると判断される」からであるということで、これについての詳しい説明があります。
「勝負の結果がどうであっても、心身ともに油断しない。興奮しない。落ち込まない。平常心を保つ。ゆとりを持つ。節度ある態度を見せる。周りを意識して行動する。負けた相手を謙虚に思いやる。(負かされた相手に、参りました、ありがとうございましたと)感謝さえする。これすべて残心である」
このように説明されると良く理解でき、武道の種目を問わずこの神髄が中学校の授業にも取り入れられると良いと思います。

一刀流の伝書に残心について簡潔に述べられていますが、著者の現代語訳を紹介します。
「残心は文字通り『心を残す』と書き、完全に勝ったと思っても油断してはいけない、という教えである。たとえ手ごたえがあるほど敵を突いたり斬ったりしても、どれぐらいの効果があるかは分からない。ちょっとした隙間から意外なことが起こりうるのは昔も今もよくあることだ。敵を殺して首を取っても安心してはならないというところから、この精神状態を残心と名付けたのだ」
武道(あるいは武術)が、兵法と呼ばれていた時代がありましたが、更に平法と名付けられたのは「この精神状態(平常心)」を養う道(方法)と認識されていたからだと思います。

なお、用語として剣道や合気道では「残心」で良いと思いますが、弓道では「残身」が使われているようです。
「残心はほとんどの武道に共通する心身の構えである。たとえば弓道における残身(ざんしん)は、矢を射った後も心身ともに構えと集中力を崩さずに、目は矢が当たった場所を見据えることになる」
弓道の場合は「残身」がその状態を良く言い表していると思います。

第二章「理想のリーダー像」、第三章「死の覚悟」、第四章「人を活かす」と続きますが、第四章の中の「フローの状態で自己統御」に次のように書かれています。
「そうした日本の武術と精神作用について世界中の学者が研究の対象としてきた。たとえば戦闘について研究している人類学者リチャード・ヘイズは戦闘状態における心理的な反応と武術訓練による精神コントロールの関係を検証した。そして、『平常心』『不動心』といった精神状態が、戦闘効率を上げるために重要なはたらきをすることを科学的に明らかにした。脳からアルファ波が出ている時は、精神的に冷静かつ最も集中力が発揮できる状態にあることは知られている。日本の伝統的な武術訓練は、この“アルファ波状態”に誘う効果を持つことが分かっている」
「アメリカの軍隊はアルファ波を利用した訓練を導入している」
「スポーツの世界におけるイメージトレーニング、メンタルトレーニングも、脳のアルファ波状態を目指して行われる。これは心理学で言う『フロー』の状態である。心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱したフローは活動への没入状態を指し、『ゾーン』『ピーク体験』とも呼ばれる。高度の集中と感覚の拡大、まったき自己統御、時間感覚の喪失といった意識変容を伴い、スポーツ選手や武道者らに広く共有される感覚である」

終章「武士道の光と影」の中の「なぜ礼をするのか」の次の言葉と併せて読んで、我々日本人も武道についてもっと科学的に、もっと論理的にアプローチしなければ、次の代に武道の大切な部分が継承できなくなるのではないかと心配になりました。
「海外で人間形成や精神修養といった本質が継承されながら、日本ではそれが衰退しているのはなぜだろうか」
「立礼ひとつとってみても、日本人には当たり前の日常習慣であり、意識することなく頭を下げている。しかし、そうした習慣を持たない人間にとっては、立礼の意味を問う必要が生じる」
「日本人が無意識にやっている簡単な動作のひとつひとつについて、彼らはその意味を問い、学び、理解し、実行する。そうしたプロセスを取ることで、より深い礼儀作法の体得が可能になるという逆説的な事態が生じる。これは外国人である私自身が経験したことである」
「柔道に伴う言葉と行為の意味を伝える必要から、たとえばフランスやドイツでは柔道の指導法が非常に発達している。対象が子どもなら、子どもに合わせた指導法の開発を怠らない。日本では『伝統だから』『昔からそうなっているから』で済ませてしまっていることを、海外の実習者は意識化できる。さらに日常生活で柔道の教えを生かすという精神修養の習慣が教育システムのなかに取り入れられている。これは武道の体系を言語化し、知的に理解することを指す。理解することによって、稽古や試合、日常生活における言動規範の必然性を知ることができる。理解することが武道に内発的に取り組む姿勢を導き出すのである」
「フランスでは柔道を『教育的価値』の高いスポーツとして積極的に宣伝している。例えば漫画のキャラクターを用いて、柔道を通じて体得することを目指す8つの事項をわかり易いかたちで示している。その8つとは、礼儀正しく、勇気、誠実、名誉、謙虚、尊敬、自己管理、友情である。つまり、遊ばせながら、柔道を楽しませながら、適度に規制を加えていくことで、柔道を通じて自己を表現していくことの喜びを体感させ、学ばせている」

日本武道協議会制定の「武道の理念」には、「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道を修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である」と規定されいます。
八千代合気会の会員は、市立図書館に置いてあるので、この本を読んでから、この理念の規定(武道の定義)を自分なりに書きなおして分かり易くしてみましょう。その上で、それを稽古や平素の生活にどのように取り入れるか、どのように生かしていくかを考えてみると、「日本人が理解し、行っている武士道」に変わると思います。
posted by 八千代合気会 at 10:01| お勧めの本

2014年11月27日

開祖の合気(6)

帰途、綾部に寄り、王仁三郎聖師に会いますが、そこで祈祷料を納めて祈願が終わったら早々に田辺に向うところだと思いますが、案に相違して翌年1月2日まで逗留しています。これも想像ですが、白滝に決別し、36歳になった開祖が、これからどうして生きて行こうかという悩みをこの時に打ち明けたのではないかと思います。王仁三郎聖師は霊能者です。只の祈祷だけではなく、この時にカウンセリングのようなものをして悩みを聞いたと思います。
その時にテープで話しているようなことも打ち明けたとすれば、「自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ」という聖師の言葉と辻褄が合ってきます。「黙って親の言うことを聞け」と言って育てられた子ではなく、「この子は熊野神社の申し子だ」と言って、一度も父親から声を荒げて叱られるようなことがなかった開祖は、自主独立の人に育っています。したがって、王仁三郎聖師の言はぴったり当てはまりました。
「芸術は宗教の母なり」という芸術観を持つ聖師ですから、綾部に来て武芸を生かす道についても説いたと考えれば、その年の春も過ぎようとする頃、母親も同道して一家で綾部に移住したことに納得がいきます。

大正9年(1920)春、事前に開祖が綾部移住を決意した旨の挨拶に行くと、王仁三郎聖師は、「あんたが来ることは前からようわかっとった」とひどく喜ばれ、「わしの近侍になりなさい。(中略)あんたはな、好きなように柔術でも剣術でも鍛錬することが一番の幽斎になるはずじゃ。武の道を天職とさだめ、その道をきわめることによって大宇宙の神・幽・顕三界に自在に生きることじゃ。大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ。真の武とは戈を止ましむる愛善の道のためにある。植芝流でいきなされ。大本の神さんが手伝うのやさかい。かならず一道を成すはずじゃ」、ざっとそのような意味の言葉で諭されたと、後に開祖は嬉しげに語っていたそうです。

綾部に移ってからは、「神人合一の武道を作りなさい」という王仁三郎聖師の言葉に従うことになり、その後も10年余り惣角師には師弟の礼は尽くしますが、聖師との邂逅により求めるところがはっきりと違ってきたと思います。この時から求め始めたものが「開祖の合気(神人合一から生れる神の愛気という意味の合気)」として結実します。

惣角師について、「観相に長じた出口王仁三郎師は、いちおう一道に達した人物とは見ながらも『数奇な運命の持ち主』では有るまいかと開祖にいい、なにやら『血の匂いがする』とて、人間的には余り好まなかったと聞いている。(略)出口師は、武田惣角師に対する開祖の態度が謙虚に過ぎるのを不思議がり、時には歯がゆがりもしたらしい」(『合気道開祖 植芝盛平伝』)ということから、王仁三郎聖師の手前、開祖が惣角師を避けるようになったのではないかと言われていますが、既にこの頃から武道において求めるものが違ってきていたので、当然の帰結かと思います。

大正11年(1922)の惣角一家の来訪について書かれている文章を読んでも、師弟の礼は尽くしていますが、喜んでお迎えして、少しでも「合気」を習得しようというニュアンスが伝わって来ません。
「(惣角師には住所も教えず綾部に移住し、第1次大本事件で取り壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。)そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。多忙な取り込み中ではあったが、しばらくの間でも柔術を教えてもらった先生であるから、盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい」(砂泊兼基著『合気道開祖植芝盛平』)

井上方軒(鑑昭)先生も開祖が師弟の礼を尽くしたことを述べていますが、何故その必要があるのかと疑問を投げかけています。
「武田惣角先生には、貿易商の私の父と植芝の祖父が道場も作り、一生生活に困らんだけの現金を毎月送って居た。盛平叔父と武田先生がどういう約束をしたのか知りませんが、家土地迄差し上げて、何で叔父が武田先生に遠慮するのか、私は分からなかった」(『植芝盛平と合気道1』)

礼ということに厳格であったか、女兄弟の中で育った所為で、開祖は、優柔不断と思われる程やさしい面を持っていたのではないでしょうか。
posted by 八千代合気会 at 14:53| 日記

2014年10月22日

最強の武道とは何か

デンマーク出身の空手家、キックボクサーのニコラス・ペタスが著者で、平成25年(2013)8月に講談社から講談社+α新書として出版されました。

この本は2008年からNHK WORLDで放送され、2012年1月にNHK BS1で再放送があった「SUMURAI SPIRIT」の取材を元に書かれています。
著者は、13歳で空手を習い始め、極真会館で内弟子修行をし、K-1に参戦し、K-1で戦うためにボクシング、キックボクシング、ムエタイも学んでいます。そのため「SUMURAI SPIRIT」の取材以外に、第一章で極真、第二章でK-1について触れ、空手、柔道、相撲、合気道、剣道、弓道の取材記事が続いています。終章は「真に強い人の条件」について書かれています。

私は、劇場映画で1975年11月1日に開催された「第一回・全世界空手道選手権大会」の模様を収めている「地上最強のカラテ」を見て、極真空手が地上最強というイメージを持っていましたが、著者のK-1初戦は第2ラウンドTKO負け。
「敗因ははっきりしていた。僕が甘かったのだ。当時の極真には、自分たちの強さに対する過信があったと思う。『極真空手は実戦空手。だから、どんなルールでも負けることはない。自分たちが磨いてきた技が当たれば、相手は絶対に倒れる』 僕も含めて、そんな思い込みがあったのだ。でも実際には、極真空手とK-1はまったく違うもの。もし極真の空手家とK-1ファイターが路上でケンカになったら、どっちが勝つかは分からない。ケンカは『よーいドン』の世界ではなく、先に仕掛けたほうが勝つ。『ケンカ? 俺は相手が気づかないうちに後ろからビール瓶で殴るね』という格闘家もいるほどだ」

合気道は絶対不敗だから自分は誰よりも強いのだ、と思っている合気道修行者がいたら、そのような考えが果たして実際に通用するのかどうか著者の体験を読むと良いと思います。ここに書かれている他の武道の考え方や技術などを知っておくと、他者の良い所を認められ、絶対争わない故の絶対不敗の道を歩めるのではないでしょうか。

合気道については、「合気道の先生たちはみんな落ち着いた人だった。まさに達人という感じだ。そういう人と一緒にいると、自然に『この人に教わりたい、この人から学びたい』という気持ちになってくる」と評価をされていますが、「合気道には、技術的な疑問もある。たとえば寝技がないのはどうしてなのか。ローキックを蹴られた場合の対処法はあるのか」という指摘もされています。

空手では、「試合はある意味で非日常です。でも、一番いいのは日常のなかで空手が活かされること」、「どれだけ威力があるか分かれば、相手を攻撃することもなくなる」、「本来、空手で向き合うのは相手ではなく自分です。身に付けた強さは、一生発揮しないかもしれない。どこまで我慢できるかが大事なんです」などという考えに著者は、「この意見には、非常に納得できるものがあった。感銘を受けた。僕も極真時代から、同じことを考えていたのだ」と述べていて、この著者自身が「SUMURAI SPIRIT」を持った人だと気づかされます。

柔道では、全日本柔道連盟強化委員長が「日本柔道が目指しているのは、昔から一本を取る柔道。一本を取る意味は、相手の息の根を止めるということです。相手を殺すくらいの勢いで投げる。それが本当の一本。綺麗に入って綺麗に投げるのが日本柔道。そのこだわりは必要です」と説明されていますが、この部分をテレビで見た時、「一本を取る意味は、相手の息の根を止めるということです。相手を殺すくらいの勢いで投げる。それが本当の一本」という考え方には違和感を覚えました。この考えは創始者の嘉納治五郎先生の考えと相容れるものでしょうか。
武器を持つ剣道や空手などの全身を武器として鍛える武道は危険性を弁えざるを得ないと思いますが、柔道や合気道のような体術では、投げても頭を打たさなければ良いとか、関節が曲がる方向に曲げているので骨折はしないと思って、技の切れや有効性を追求していると大きな事故に繋がります。思いやりや手加減が、著者が言っている優しさに通じると思います。

相撲では、「横綱にとって大事なのは、どれだけ自分に厳しくできるか。『心技体』という言葉で、まず最初に来るのは心。ただ強いだけではだめで、礼儀作法も含めて武士道のようなものを知っている人間でなければいけない。相撲を取っているなかで、相手に感動を与えることができる。それが横綱なんです」ということですが、20歳代で「横綱」と呼ばれる人の心作りも素晴らしいものだと思います。親方の教育と本人の心掛けが作り上げたものでしょうか。

剣道では、「剣道の勝負は手段であって、決して勝つことだけが目的ではありません。そういう意味では、剣道の技は、対戦相手と自分が協力して作り上げていくものだと思います」ということで、「剣道は打たずに打たれなさい 受けずに打たれなさい 避けずに打たれなさい 力を抜いて柔らかく 相手と仲よく穏やかに 姿勢は美しく 匂うがごとき残心を」と教えられているそうです。
剣道の「気剣体」の一致は、「気…十分な気勢をもって 剣…竹刀を正しい向きで目的の部位に命中させ 体…正しい姿勢を最後まで保つ」ということが三つ揃ってはじめて一本と判断されるそうです。合気道の「心気体」の参考になります。

弓道では、「弓道を始めたばかりのときには、みんな当てることが面白いんです。だから弓道を始める。特に学生は的中を争います。ただ、その上の段階に行くと、精神的なところに(意識が)向かう。当てる弓を引くのではなく、当たる弓を引く。それは心の問題になってきます」という説明があり、「的に向けて射るのではなく『的を引き寄せる』のだ」ということです。
これは、合気道の引力の練磨に通じると思います。

「おわりに」に、「優れた武道家は、みな優しい。痛みを知り、自分自身を深く理解しているからだ。空手道、柔道、剣道といったジャンルの違いは手段の違いというだけで、目指す場所は同じ。人に優しくなること、尊敬される人間になることだ」と感想が述べられ、「武道を学ぶ人が多くなればなるほど、世界は平和に近づく。僕はそう信じている。武道は世界平和への道。そのための気づきを与えてくれた武道家のみなさんに、あらためて感謝したい」と結ばれています。
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2014年07月31日

開祖の合気(5)

前回(2014年07月15日)、開祖が惣角師に初めて会ったのは大正4年(1915)2月と述べましたが、公益財団法人 合気会のホームページに「合気道の沿革」があり、そこには、「明治45年(1912年) 遠軽の久田旅館で大東流柔術の武田惣角に会い、教えを請う。」と書かれています。合気会に問い合わせたところ、開祖から植芝家に伝わるのは明治45年に初会とのことで、大正5年(1916)に免状(秘伝目録)を受けているので、大正4年が初会だと目録を受けるまでの期間が短すぎて無理があると考えられているそうです。「合気道のしおり」は昭和50年(1975年)以降、『合気道開祖 植芝盛平伝』は平成11年(1999年)版から訂正されているとのことです。今後、本ブログでもこれに従いたいと思います。

さて、話を戻します。大東流合気柔術第36世を継がれた佐川幸義宗範の側から見ると、「合気」が出来ていないのに「合気道」という名称を使って、すっかり本家を乗っ取ったような形になっているのが許せないところではないかと思います。これは、惣角師も同じ気持ちであったようです。
余談になりますが、「植芝に合気は教えていない」とか「こんな手をしてやっていたら百年たっても合気はわからん」という惣角師の言葉からは次に伝えなければならないという嫡伝者としの気持ちが感じられず、大東流は三十何代も続いた武術ではなく惣角師一代で創り上げられた武術だという池月映氏の説が正しい気がします。何代も続いている流儀であれば、数ある弟子の中からこれという者を見出して、一子相伝すれば、自分の代の責任は果たせるので、離れて行った者に拘ることはないと思うからです。

間違いなく、開祖は、まったく新しい合気を見出しています。

もう一度、開祖の言葉を見てみましょう。
「『合気』という名は、昔から有るが、『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』と呼ぶ事にした。従って、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異なるのである」。(植芝盛平監修・植芝吉祥丸『合氣道』p.50)

これまで見てきたように「合気」という言葉の意味はいくつかあるので、新しい意味を加えても差し支えないと思います。また、流名に「合気」を加えたのが出口王仁三郎聖師の発案であったことを考えると、開祖が「合気」という言葉を自分が創始した流名に入れても不思議ではありませんし、王仁三郎聖師の意向も含まれていたのではないかと考えられます。なお、流名は「新陰流」と「神影流」、「(香取)神道流」と「(鹿島)新当流」の違い以上のものがあり、「大東流合気柔術」と「合気道」とが同じであるという間違いは起こり得ません。

流名でいえば、昭和17年(1932)に大日本武徳会が合気道部を作り、呼称を「合気道」とするようになりましたが、当時の「合気武道」では特定の流派の名称になり、さりとて柔術だけではない総合武術を柔道として組み込むことは出来ないので、一般的な名称をということで「合気道」と命名されたのが最初です。
「講道館から武徳会役員となった久富達夫が主唱したことだと平井稔(皇武館道場総務)が証言している。この時久富は、『総合武術部門は剣杖などの要素も包括的に含めたい。そのため従来から在る各武術流派との軋轢を生じさせぬよう、特定流派を連想させず、また勇ましさを前面に出したものでなく、当たり障りのない柔らかい印象の名前が良い』として『合気道』を提唱した」ということで、異論なく認められています。
この時、開祖は、合気武道が戦闘の手段として使用されることを嫌われて、岩間に隠棲されてしまいます。

終戦後、昭和23年(1948)に財団法人の申請に当たり、文部省から「合気道」にするよう勧めがあり、それを受け入れて、以後、「合気道」という名称が定着しました。当時は、昭和17年(1942)の神示に従って、もっぱら「武産合気」が使われていたようです。
ラジオのインタビューでの質問に開祖は次のように答えています。
(聞き手)「合気道というお言葉は、どういうところからお付けになったのでございますか」
(盛平翁)「付けたんじゃない。国のこれは至宝やからな、個人が勝手に付けるものじゃない。そこでほっといたらやな、文部省の中村光太郎さんの方から、合気道としたらどうだな、という相談があった。で、向こうから合気道とせよということだった。結構な話やから合気道にしようと、こういうことや。 その後ですね、付けたものの合気道について、少し自分も調べてみなあいけない」

開祖が、「神人合一の武道」とこの「合気」を結びつけるようになったのには、前述の出口王仁三郎聖師との邂逅がありますが、次のような背景も後押ししたようです。

大正8年(1919)12月21日に白滝の家屋敷と50町歩余りの土地をそっくり惣角師に無償で譲渡し、一家を挙げて危篤の父の元に向う開祖ですが、「白滝王」と慕われた開拓民を残して白滝を引き上げる段階で、何か問題が生じていたと思います。国事に奔走することを喜びとしていて、開拓団を率いることに責任と生甲斐を感じていた開祖がその責任を放棄した裏には、惣角師との軋轢があったと思います。

大正7年(1918)6月2日に上勇別村会議員に当選し、務めを果たしていた開祖ですが、翌年4月に1年足らずで辞めています。
「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。(武田先生は)邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分の家のようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部取られれてしもうた」という開祖の語ったテープがあるそうです。
思うに、惣角師が、見込みがあると思って開祖を巡回指導に連れ回すために、公務を優先しようとする開祖の邪魔をしたのではないでしょうか。惣角師に付いていると身の回りの一切の世話をしなければならず、それで、これ以上開拓団の責任者は務められないと悟って、白滝を離れようとしたのだと思います。開拓事業を進めるか、武術の道を歩むか二者択一を迫られて決断したのだと思います(参考:http://www2.ocn.ne.jp/~aiki0325/kousatu5.html)。
その時、開拓民には、田辺に帰って武術を教えると伝えたそうですから、長男(一人息子)として両親(又は母親)の面倒を見なければならないという気持ちもあっての選択ではなかったかと思います。
posted by 八千代合気会 at 13:22| 日記