2014年07月31日

開祖の合気(5)

前回(2014年07月15日)、開祖が惣角師に初めて会ったのは大正4年(1915)2月と述べましたが、公益財団法人 合気会のホームページに「合気道の沿革」があり、そこには、「明治45年(1912年) 遠軽の久田旅館で大東流柔術の武田惣角に会い、教えを請う。」と書かれています。合気会に問い合わせたところ、開祖から植芝家に伝わるのは明治45年に初会とのことで、大正5年(1916)に免状(秘伝目録)を受けているので、大正4年が初会だと目録を受けるまでの期間が短すぎて無理があると考えられているそうです。「合気道のしおり」は昭和50年(1975年)以降、『合気道開祖 植芝盛平伝』は平成11年(1999年)版から訂正されているとのことです。今後、本ブログでもこれに従いたいと思います。

さて、話を戻します。大東流合気柔術第36世を継がれた佐川幸義宗範の側から見ると、「合気」が出来ていないのに「合気道」という名称を使って、すっかり本家を乗っ取ったような形になっているのが許せないところではないかと思います。これは、惣角師も同じ気持ちであったようです。
余談になりますが、「植芝に合気は教えていない」とか「こんな手をしてやっていたら百年たっても合気はわからん」という惣角師の言葉からは次に伝えなければならないという嫡伝者としの気持ちが感じられず、大東流は三十何代も続いた武術ではなく惣角師一代で創り上げられた武術だという池月映氏の説が正しい気がします。何代も続いている流儀であれば、数ある弟子の中からこれという者を見出して、一子相伝すれば、自分の代の責任は果たせるので、離れて行った者に拘ることはないと思うからです。

間違いなく、開祖は、まったく新しい合気を見出しています。

もう一度、開祖の言葉を見てみましょう。
「『合気』という名は、昔から有るが、『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』と呼ぶ事にした。従って、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異なるのである」。(植芝盛平監修・植芝吉祥丸『合氣道』p.50)

これまで見てきたように「合気」という言葉の意味はいくつかあるので、新しい意味を加えても差し支えないと思います。また、流名に「合気」を加えたのが出口王仁三郎聖師の発案であったことを考えると、開祖が「合気」という言葉を自分が創始した流名に入れても不思議ではありませんし、王仁三郎聖師の意向も含まれていたのではないかと考えられます。なお、流名は「新陰流」と「神影流」、「(香取)神道流」と「(鹿島)新当流」の違い以上のものがあり、「大東流合気柔術」と「合気道」とが同じであるという間違いは起こり得ません。

流名でいえば、昭和17年(1932)に大日本武徳会が合気道部を作り、呼称を「合気道」とするようになりましたが、当時の「合気武道」では特定の流派の名称になり、さりとて柔術だけではない総合武術を柔道として組み込むことは出来ないので、一般的な名称をということで「合気道」と命名されたのが最初です。
「講道館から武徳会役員となった久富達夫が主唱したことだと平井稔(皇武館道場総務)が証言している。この時久富は、『総合武術部門は剣杖などの要素も包括的に含めたい。そのため従来から在る各武術流派との軋轢を生じさせぬよう、特定流派を連想させず、また勇ましさを前面に出したものでなく、当たり障りのない柔らかい印象の名前が良い』として『合気道』を提唱した」ということで、異論なく認められています。
この時、開祖は、合気武道が戦闘の手段として使用されることを嫌われて、岩間に隠棲されてしまいます。

終戦後、昭和23年(1948)に財団法人の申請に当たり、文部省から「合気道」にするよう勧めがあり、それを受け入れて、以後、「合気道」という名称が定着しました。当時は、昭和17年(1942)の神示に従って、もっぱら「武産合気」が使われていたようです。
ラジオのインタビューでの質問に開祖は次のように答えています。
(聞き手)「合気道というお言葉は、どういうところからお付けになったのでございますか」
(盛平翁)「付けたんじゃない。国のこれは至宝やからな、個人が勝手に付けるものじゃない。そこでほっといたらやな、文部省の中村光太郎さんの方から、合気道としたらどうだな、という相談があった。で、向こうから合気道とせよということだった。結構な話やから合気道にしようと、こういうことや。 その後ですね、付けたものの合気道について、少し自分も調べてみなあいけない」

開祖が、「神人合一の武道」とこの「合気」を結びつけるようになったのには、前述の出口王仁三郎聖師との邂逅がありますが、次のような背景も後押ししたようです。

大正8年(1919)12月21日に白滝の家屋敷と50町歩余りの土地をそっくり惣角師に無償で譲渡し、一家を挙げて危篤の父の元に向う開祖ですが、「白滝王」と慕われた開拓民を残して白滝を引き上げる段階で、何か問題が生じていたと思います。国事に奔走することを喜びとしていて、開拓団を率いることに責任と生甲斐を感じていた開祖がその責任を放棄した裏には、惣角師との軋轢があったと思います。

大正7年(1918)6月2日に上勇別村会議員に当選し、務めを果たしていた開祖ですが、翌年4月に1年足らずで辞めています。
「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。(武田先生は)邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分の家のようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部取られれてしもうた」という開祖の語ったテープがあるそうです。
思うに、惣角師が、見込みがあると思って開祖を巡回指導に連れ回すために、公務を優先しようとする開祖の邪魔をしたのではないでしょうか。惣角師に付いていると身の回りの一切の世話をしなければならず、それで、これ以上開拓団の責任者は務められないと悟って、白滝を離れようとしたのだと思います。開拓事業を進めるか、武術の道を歩むか二者択一を迫られて決断したのだと思います(参考:http://www2.ocn.ne.jp/~aiki0325/kousatu5.html)。
その時、開拓民には、田辺に帰って武術を教えると伝えたそうですから、長男(一人息子)として両親(又は母親)の面倒を見なければならないという気持ちもあっての選択ではなかったかと思います。
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2014年07月24日

古武術と身体

日本における玄学(『老子』『荘子』『周易』の三玄をもとにした学問)の第一人者といわれる大宮司朗氏が著者で、平成15年(2003)5月に原書房から出版されました。副題は『日本人の身体感覚を呼び起こす』です。

「はじめに」に、「自らが宇宙そのものとなったとき、勝ち負けの世界は消え、そこにはもはや敵はないのである。この境地まで至ることは、私たち凡人にはなかなか難しいが、東洋的身体観である『人間小宇宙論』を学び知り、また肚(丹田)の動作における大切さを知ることで、多少はそうした境地に近づけるのではなかろうかと思う」
「もはや、刀や槍などを持って戦う時代は過ぎ去った現代において、武術を学ぶことになにか意味があるのであろうか。『無功徳』とでも答えるのが禅的でよいのかもしれないが、とりあえず、私としては『武術は人間に心身の自在を得させる』ところに意味があると答えたい」
「禅は姿勢を正し、丹田に気を落ち着け、気息を調えることで、自らの仏性を悟る。同じ武術も姿勢を正し、丹田に気を落ち着け、丹田を主体として、気息を乱さず各種の形の動作をすることで、自らの絶対性(神性)を悟ることを要諦とする。実はそのことを知るか知らないかが、武術においての上達にも実は大きな影響がある。つまり、身法としては各種の動作は肚(丹田)でなし、心法としては自らが絶対なる者、全宇宙、あるいは神、仏であることを確信する。このことが王道といえないことはないのである」
「天地と我は同根、万物一体という語があるが、我は宇宙そのものと一つなのである。もっともその我とは単なる我ではない。仏教的にいうならば、仏性の顕現としての我である。天地万物一切は仏性の顕現であり、自己の本性と異ならないということなのだ」
「言い換えれば、我と一切の物は宇宙全体に充満するところの真実の存在、仏の身体であるということである。その写しとしての肉体があって我々はこの世界に生きているのだ。武術などの修行も究極的には、この本来の尽十方界、真実人体の修行として、その写しとしての身体を正し、一切のものと一体になって、全大宇宙の真実の中に生きていることに目覚める修行なのである」などあり、学校教育の短い期間では求められないでしょうが、生涯にわたる人間追及の道として武道の存在意義があるのではないかと考えさせられました。

「真澄の鏡」という七十五声を記した言霊図表は、「言霊学によれば、この言霊図表は宇宙の仕組みを表徴した図表であり、天地開闢から、天文地文、修身斉家、君臣父子の序など、あらゆることの原理がここに照らして明らかになるとされる」
「最下段にあるあ行は最も重い音であり、最上段にあるか行は最も軽い音である。この十五段の音の階梯は同時に存在のヒエラルキー(位相秩序)であって、根の棚の右端の『あ』から始まり、天津棚の左端の『き』に終わる。『あ』は『あらわれ』、『き』は『きわまり』である。その中心にあるものは『す』声であり、一切の音は澄みきって『す』に収斂する」と解説されていて、よりはっきりと意味が理解できます。

江戸時代の言霊学者中村孝道(出口王仁三郎聖師の祖母 上田宇能は孝道の姪)によれば、「是す声は真寿御(真澄)かがみの真心真中央(まんなか)に位して、七十四の音韻を御心のままに総(すべ)給ふ。くしびに霊妙、活用不可思議の妙音なり。七十四の音韻も此の一音により活用自在を為し給ひ…中略…天の活用、神明の妙用、万物の為行、此の一音の内に備らずと云事なく、かけたらずという事なし」(『言霊中伝』)とのことで、著者は、「身体に当てはめれば『す』こそは丹田である」としているので、「二、宇宙を取り込む技〜大東流を中心に」を読む時に、そのような観点で読むと分かり易いと思います。
この「我は宇宙の中心−入身投げ」に、開祖の入身投げが紹介されています。
「当然入身投げを実践する場合には、自らが天上天下唯我独尊との気持ちをもって行い、自らが至上の存在であるとの悟りに到達しなければならない。『我は宇宙の中心である。我はここを動かずして相手が我がまわりをまわるのである』として、植芝盛平翁は、自分はその位置を動かずに、弟子をして自分のまわりを自由自在にぐるぐるとまわらせ投げ飛ばしたことが伝えられている」

大東流の合気と合気陰陽法についても触れています。
「武術における動作は呼吸と深いかかわりがある。また大東流において、基本中の基本としてほとんどの流派で行われる合気上げは、実は呼吸法とも大いに関連がある。このことについては、『大東流合気武道』紙の第7号(昭和50年8月号)の『合気武道の解説』というところに大東流を世に広めた武田惣角翁の嗣子・武田時宗師範が記している。その内容をみてみよう。

大東流に合気の秘法がある。人の生は気に依るもの、気を養う事である。呼吸法に依り臍下丹田に気を充実させ、気力集中をはかり、精神統一。不迷不怖の不動心を養い、無念無想の神気境地に到達せしめ、天地万物の気に合(あわ)せ、吉凶禍福を悟り、是れに対処する身の軽重、人心透視、未来予知の秘法に至る。

ここで語られている合気とは単に両手を握られて自在にその手を上げる合気上げにのみ用いられるような狭義なものではない。…まさに人の命というものは気に依存しており、気を養うことが大切で、それには呼吸法が大切だと続いている。呼吸法は大東流においては『合気陰陽法』と呼ばれている。その呼吸法の練磨によって、不動心を養い、無念無想の境地に至れば。己の気を天地万物の気に合わせ、吉凶禍福を知り、それに対処する方法も分かり、人の心を透視し、未来を予知することもできる合気の秘法が完成するというのである」

その合気陰陽法についても、もう少し詳しく紹介されています。
「呼吸法。五指を握り、静かに入息するを陰。五指を強く開き出息するを陽。是れ合気陰陽法である。頭脳明晰眼力鋭く、心気力一致し、大勇猛心を養い、特に両手十指そおれぞれの活用により、人を自在に操り、更に神通力(超能力)迄も高める。

つまりは合気陰陽法とは、呼吸法のことである。ただ、吸うときには五指を握り、吐くときには五指を開いて行う呼吸法である。ただし、これはあくまで一人で行う場合である。二人で行う合気陰陽法が、(大東流の)合気上げとか、(合気道の)呼吸力の養成法と呼ばれているもので、それを時宗師範は合気鍛練法と名づけられている。その説明は

二人相互にて合気陰陽法を行う。相手、我が両手首を握る時、我、丹田、脇下、指先に気を充実させ、両手を開き、相手の脇下に向い、押上げる様になして、相手の体を崩し、四方八方に投げる。呼吸法の鍛練故無理な力を用いず、相互に練習すること。片手も同断。心気力増進、腕力増大する事妙なり。

と右(上)のとおりである。ここには呼吸の仕方について書かれてはいないが、文脈上、当然、息を吐きながら行うと考えられる」

「終わりに」に、「しかし、日本古来の武術の意図するところはそれ(不意の変に応ずること)だけではない。どの武術にしろ、その各種の形のなかに、あるいは最終の奥儀において、絶対者あるいは宇宙と自分とは一体であるとか、この身体は小宇宙であるという観念あるいは信念に至ることが要求された」と述べられ、次のような例が挙げられています。
新陰流 「その神髄は『転(まろばし)』という円転自在な動きであるが、それはまたこの大宇宙の実相でもあった。…大宇宙が円であれば、己も円である。それを勢法(かた)の中に表し、日々の修練で円転・自由・自在な働きをする正しい身体の使い方を学び、さらにその転の玄義を体得することこそ、新陰流という武術が目指すところであった」
真新陰流 「人は天地人の三才なり。天地に目鼻を付けたるものは人なり」(小笠原玄信)
一刀流 「武術というのは、人が霊止(ひと)という存在でありうる絶対唯一無二、神人合一の道をその法形(かた)によって、会得せしむる実践的な修行なのであるとし、自らの霊性を悟り、神人合一の道に至る修行が武術であり、それが法形に込められているとしている」
浅山一伝流 「人間を小天地と云ふ」(伝書)
起倒流 「人間が万物の霊長であり、天地の理(ことわり)を一切備えたものであること、つまり人間小宇宙論をその伝書などに記し、そのような思想を根底とし、天地の理を示すものとして各種の柔術の技を教伝していた」
大東流 「神、仏となること」(口伝)
合気道 「植芝盛平翁は自分が宇宙そのものであるという大自覚を表明していた」
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2014年07月15日

開祖の合気(4)

開祖が、武田惣角師の話を聞き、吉田幸太郎氏の紹介で初めて惣角師に会ったのは大正4年(1915)2月のことで、遠軽の駅逓 久田旅館でした。大東流の合気を知ったのもこの時が最初でした。後年、大東流から離れたことで、開祖のことを良くは思っていない佐川宗範の言葉では、「大正4年2月に吉田幸太郎が遠軽の久田旅館に植芝盛平を連れてきたとき、丁度、父親(子之吉)が教授代理として教えていた。既に柔術をやっていて自信を持っていた植芝は『何、この田舎武芸者が』という感じで偉そうにやって来たので、武田惣角にさんざん技をかけられたうえに極められ、隅で涙を流していたとのことである。武田惣角も『植芝は雁の涙(かりのなみだ、「露」を表す季語)を流した』とよく言っていたそうだ。しかしこれにより武田惣角の実力を知った植芝はこの武術の修行に夢中になっていった」とのことですが、その場で入門を許され、その後、惣角師の巡回指導にも随行しているので、その時はこの文章のような毒はなかったと思います。
開祖は、この時に惣角師の合気を身をもって体験し、「武田先生には武道の目を開いていただいた」と言う程の出来事となりました。「目を開かれる」ということは「触発される」とか「啓発される」という意味なので、「大東流の合気」は、これ以後、開祖の真の武道開眼に大きな影響を及ぼしたはずです。

大正11年(1922)に授けられた目録が「合気柔術秘伝奥義之事」で、9月15日に教授代理を許された時に、それまでの「大東流柔術」は「大東流合気柔術」と流名を変更しています。これが「合気」という術理が流名や伝書に取り入れられた最初です。これには出口王仁三郎聖師が「合気」を名乗るよう開祖に勧め、開祖が「合気」を大東流の名に加えることを惣角師に進言し、惣角師がこれを容れて「大東流合気柔術」を名乗った、とする証言があるそうですが、私も事実であったと思います。
当時の師弟関係では、開祖の発案で惣角師に流名変更など申し出ることは憚れることであったと思いますが、惣角師にお渡しした餞別金4,000円を立て替えた(開祖に「貸すから」と言って与えた)王仁三郎聖師なら出来たであろうと思います。
その時、王仁三郎聖師のことですから「合気」に「神人合一(神と人との合気)」か「愛気」又は「相生(あいいき、あいき)」という言霊による意味を込めたのではないかと思います。大正9年(1920)に開祖が一家を挙げて綾部に移住した時、王仁三郎聖師は、「神人合一の武道を作りなさい」と開祖を励まし、植芝塾を開設しているので、十分に考えられることだと思います。
また、王仁三郎聖師のことですから、既に『武道秘訣 合氣之術』などは読んでいたことだと思いますので、その辺りからの発想もあったかもしれません。

吉祥丸二代道主の証言では、「私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正11年の前半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正11年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです」(『植芝盛平と合気道1』)と言われています。この流名変更は術理としての「合気」が素晴らしいものであったという証でもあろうかと思います。

惣角師による半年間の講習が終わった後のことだと思いますが、大正11年に「合気武術」と呼称するようになったと伝えられていることにも、王仁三郎聖師の介在があったと思います。
竹下勇日記には、昭和3年(1928)2月28日に大東流合気柔術から「相生流合気柔術」に変えたと記されていますが、この「相生(あいおい)」は「あいいき、あいき」から来ていると思います。
もっと後年の昭和8年(1933)のことのようですが、甥の井上方軒(鑑昭)先生によると「合気武道という名前は出口王仁三郎先生が付けてくれたのです。大東流(合気)柔術ではおかしいんじゃないかと言ってね。植芝叔父(盛平)を呼んで、『大東流(合気)柔術というのはやめとけ、合気(武道)という名前にしたらいい』といったわけです。(中略)それまでは皇武武道といってました」(『植芝盛平と合気道1』)ということなので、大東流から離れる段階で流名が次々と変わったのには、王仁三郎聖師の考えがあったと思います。皇武武道と称したのは、昭和7年(1932)8月13日の大日本武道宣揚会発足後のことのようです。

さて、惣角師が合気の秘法を開祖に伝授されていたかというと、「否」と言うことになると思います。惣角師が唯一伝授したのは行き倒れになっていた惣角師の面倒を見た山本角義氏であったようで、これは佐川幸義宗範にも伝授されていません。それで、昭和11年(1936)に大阪朝日新聞社に惣角師が突然現れた時に「植芝にはまだ十分教えておらん。習うなら我より習え」と言われていることは、そのとおりです。

68歳の時に師の惣角にも出来なかった触れただけで多数の人を飛ばすことのできる新しい合気の原理を発見した佐川宗範が、「合気の原理は実に細かいものだ、若し聞いたらみんなびっくりしてしまうよ。植芝盛平はわからなかったのであんな風にして教えたのだね」と言っていますが、確かに「大東流の合気」と「開祖の合気」は違っています。
その優劣について佐川宗範の側から論じられていますが、合気揚げだけで判断出来るものではない程、開祖の合気は違っています。
posted by 八千代合気会 at 18:24| 日記

2014年07月02日

武士道とキリスト教

小野派一刀流第17代宗家の笹森建美(たけみ)師が著者で、平成25年(2013)1月に新潮社から新潮新書として出版されました。

著者は、『一刀流極意』を著された笹森順造のご子息で、年期の入ったクリスチャンです。帯には「牧師にして小野派一刀流第17代宗家が説く混迷を生きる心得」「武士道とは愛することと見つけたり」と書かれていて、牧師兼剣術家宗家というのは、日本で唯一人とのことです。
この本では武士道と武道を明確に分けてはいませんが、武士道、武道、そして宗教(信仰)というものを考えるために読んでみました。

「はじめに」に、「この本では、まず日本における明治以降のキリスト教の歴史を振り返り、次にキリスト教のどこが武士道に一致するのかを見ていきます。おそらく読者のみなさんが考えもしなかった共通性や融通性が明らかになるでしょう。日本の文化や歴史について別の観点から眺められるようになることと思います。一方で、武士道が語っていない『魂』の問題、つまり私という人格をどう受け止めるべきかについては、キリスト教の教えを分かりやすくお話ししたいと思います。この新たな視点は、混迷の度を深める社会にあって、ひとつの光明を与えてくれるのではないかと考えています」と書かれています。

武士道とは、「一言で言えば…相手に対する『思いやり』だと考えます」と述べており、「『武』の字はかつて戦う意味を持っていたにせよ、紀元前数世紀にはもう『平和を保つためのもの』という意味に変わってきているわけです。その漢字が伝わった日本では、最初から『武』とは争いを収める意味だと理解されてきました。『はじめに』で触れた平安時代の武術書『闘戦経』にも『兵は本、禍患を杜(ふさ)ぐに在り』とあります。武の本質は世の中の禍患を絶つ事にある。わかりやすく言えば、武の目的は地上から禍(わざわい)を取り除き平穏さを保つ事とはっきり教えています」と武について説明されていて、刮目させられました。

徳川幕府による禁教令が解かれたのは明治6年(1873)でした。それ以前の幕末から明治初期に布教に来ていたアメリカ人宣教師ジェームス・H・バラの下に集まった塾生の中に各藩および仏教界からのスパイが混ざっていたそうです。祈祷会で、おそらく日本を呪っているのだろう、と側耳を立てて聞いていたところ、聞こえてきたのは「この国民は非常にいい人たちです。私たちは犠牲になってもいいから、是非日本をお救いください」という言葉で、スパイたちもこれに心を打たれたという話が載っていて、「この人たちの信仰とは一体何なのか」と深く考えさせられるようになったそうです。

一刀流の極意「切落(きりおとし)」についても述べられていて、刀をまっすぐに振り下ろすためには「まず自分の弱さや迷い、傲慢さを断ち切り、勝ち負けへの執着も捨てる必要があります」ということで、このような心境になれることが、武道が人格形成に資するところかなと思います。

「何事でも名人に近づくと何も考えない境地、つまり無念無想に至ると言いますが、それすらも邪魔です。一刀齊はこの心構えについて、『蚊が飛んでくると自然に手が動く。そのくらい無意識のなかで動けるようになりなさい』と教えています」、
「この一刀流に、剣道のような試合の場はありません。普段の稽古のなかに負ける稽古、勝つ稽古があり、常に勝ち方を教えているからです。また竹刀でなく、木刀で打ち合えば相手を死に至らせるという事情もあるでしょう」などの言葉は、合気道の稽古でも参考になると思います。

「聖書が伝える四種類の愛」には、「ヘセド(アガペー)」という「裏切られても、裏切られても、なお相手を許して受け入れる愛」、「エロス」という「肉欲的で、奪う愛」、「フィリア」という「「親兄弟、友人のために忠誠を尽くす愛」、それに「ストルゲー」という「親が子のためには自己犠牲を厭わないように、自己犠牲を伴う愛」があるそうです。キリスト教の教会において福祉活動が盛んなのは、こういう概念があるからだそうです。
私は、「万有愛護」を「ストルゲー」になぞらえて教えていますが、「ヘセド(アガペー)」というのが神の愛に近いのかもしれません。

これからの日本、或いは日本人が、如何にして世界と関わっていくかを考えたとき、「見ざる、言わざる、聞かざる」や「日本は神国」という価値観ではやって行けないと思います。世界の人々の3人に1人が信じているキリスト教について知り、また、5人に1人が信じているイスラム教について理解を深めることで、日本人である私たちが信じている「和の精神」を発揮できると思います。
この本によって、武道という側面からそのキリスト教についての理解が進むと思います。

「武士道では語られず、解決できない問題とは、自分の『魂』にどうやって向き合えばよいのか、そして死んだ後どうなるかということです」ということですが、今年、稽古仲間や先達に旅立たれた身としては、次は自分と思って死計と取り組む時を告げられたと感じながら読みました。
「キリスト教の魂は人を生かす力であり、同時に私という人格の根元をなすものです。『私という魂』は神から祝福されていると考えられており、個という存在が非常に大切とされています。余談ですが、アメリカでは自己主張しないと生き残れないことが知られています。日本語で『変わった人』はたいへんなマイナス評価ですが、アメリカでは褒め言葉、むしろ周囲と同じ人というほうが気持ち悪いというほどです。そのような国では、小さな頃から自分の個性を伸ばそうと努力しなければならないので大変ですが、実は根っこのところにキリスト教の『あなたという人格は唯一無二』という考え方があります。ですから日本人と比べてみると、『自分には価値があるのか』『何か他人より得意なものがあるだろうか』という問いを飛ばして、個性を磨くことにスムーズに力を注いでいけるという違いがあると考えています」ということですが、これを読んで、さて、人格の形成という面でどれだけ魂を磨けたか、残された時間の中でどのように持っていくか、もっと計画的な人生を送ろうと思わされました。

『大空のサムライ』の中で、第二次世界大戦中、零戦パイロットで撃墜王と呼ばれた坂井三郎が、空中戦の前に落ち着く方法として、「深呼吸を3回して『平常心!』と叫びながら腹に力を入れると落ち着くし、深呼吸をする暇がない時は深呼吸をする事を考えよ」と書いています。戦後、坂井が米軍のパイロットと話をする機会があって尋ねたところ、アメリカ人(クリスチャン)はその時腕時計の針を見たそうです。日本人は「今」に集中したことでしょうし、アメリカ人は次の世でも神が祝福されるようにと祈った上で「今」を捉えたことと思います。アメリカ人に接し、また外国の戦争映画を見て、時計を見る行為の裏にそんなことがあったと思っています。

あるアメリカ人のクリスチャンが言っている次の言葉も、日本人なら、自分ならどう考えるか比較してみるのに良いと思います。
「勇気は戦場に限られるものではなく、或いは家に押し入った泥棒を勇敢に取り押さえることだけに限られるのものでもない。勇気が本当に試されるのは、もっと目立たないところにある。それは、誰も見ていなくても忠実さを保つ、…理解されていなくても信念を保つという、内なる心の試しである」(『Choices That Change Lives』)
やはりクリスチャンであった笹森順造について、「表舞台に立つ一方で、人からはずいぶんと裏切られたものです。『剣道をやる人間には悪い人はいない』という信念を持ってもいました。ただ本当に剣道家に騙されたとき、私が『剣道家にも悪い人がいるじゃないか』と言うと、『あの人は本当の意味で剣道をやっていなかったのだ』と答えるような人でした」と語っていますが、父君も内なる心(魂)の練磨が出来た人だったと思います。
親団体が公益財団法人の認可を得て、公認道場にはそれを維持する高いモラルが求められていますが、「あの人は本当の意味で合気道をやっていなかったのだ」と言われることのないよう、八千代市に限らず合気道をやっている道場の会員一人一人が神様(サムシンググレート、ハイヤーセルフ)を相手にして心を引き締めて行きたいと思います。

posted by 八千代合気会 at 11:15| お勧めの本

2014年06月17日

開祖の合気(3)

開祖の言葉のように「合気」や「相気」「相機」という言葉が昔からあったのは確かで、2011年11月24日にブログで取り上げた時には「武田惣角師も小野派一刀流を修めているので、大東流の合気は『敵強引にくればわれふわりとはずし』辺りからの連想で名付けられたものではないでしょうか」という考えを述べました(ただし、一刀流の「合気をはずす」という概念で、意味が真逆になりますが)。
その後、2012年9月13日に『合気の創始者 武田惣角』(池月映著)を紹介した時、「第二部の『合気の糸口』では、合気の語源が禅密功(気功)の『陰陽合気法』から来たのではないかと推測しています。武田惣角師が語った合気の秘法が『大東流会報』に載りましたが、『陰陽合気法』は呼吸法によって臍下丹田に気を充実させ、気力集中をはかって精神統一をするというもので、五指を握り、静かに入息するを「陰」、五指を強く開き、出息するを「陽」と呼ぶ、とあり、この呼吸法を続けることによって、頭脳明晰となり、眼力は鋭く、『心』『気』『力』一致し、大勇猛心を養い、特に両手十指それぞれの活用により、神通力を高める、と記されています」と述べました。大東流の「合気」は、この「陰陽合気法」から来たというのが著者の研究結果です。

「陰陽合気法」は「いんようごうきほう」と読むのが正しいそうですが、“池月映のブログ”の「武田惣角探訪135 http://blogs.yahoo.co.jp/ikezuki2/archive/2012/01/22」にこの考えが詳しく述べられているので次に引用します。
「合気の語源のまとめをします。合気のアイキは語源辞典にはありません。辞書には合気道、大東流が出てきます。剣術用語の合気は相気と同じで、アイキの語感から合気になったと思います。
 大東流の説明では合気陰陽法(あいきいんようほう)からきているとありますが、疑問が二つあります。気も陰陽も中国の思想です。陰陽は陰陽五行のように最初にくるもので、熟語で後にくるのは大東流しかない。それも、アイキは日本語の訓読みで、陰陽は音読みになり、四文字熟語として訓読み、音読みがごっちゃになっているのはおかしい。昔の漢文や経典はだいたい音読みです。合気、合気陰陽法はどこから引用したのか、核心部分の説明がない。
 史実(大東流内で伝えられている史実)に語られている古事記、新羅三郎、甲斐武田家、会津藩の文献、史料に合気という文字があったという証拠はない。もし、あれば古い言葉になり語源辞典に載っていたでしょう。ないということは新しい言葉といえる。
 おそらく、合気は合い気で、間に『い』が入っていた。私は日本では非公開の瑜祗経(真言宗)の修行課程にある禅密功の陰陽合気法から、合気を引用したと考えました。そうなると、アイキではなくゴウキと読むのが正しい。非公開の合気の文字も、インド語の経典瑜祗経と中国の禅密気功が紹介され判明した。
 二文字の漢字では、相気、合鍵、気合、場合、寄合、組合などは訓読みで、江戸時代以降の新しい日本語でしょう。大東流の合気陰陽法、合気鍛錬法、合気不動縛り(不動金縛りのこと)、合気ツキなどは戦後の造語だと思います。時宗遺稿集の気合法、神通力法、合気法は密教の修行法です。
 では、惣角はどうして合気をゴウキではなくアイキを名乗ったのか。惣角も易師万之丞も本来なら密教を修行できる身分ではない。それも、大本山の高僧ぐらいしかできない高度な修行をしたので、密教の掟もあり真実を語れない。だから、惣角は密教を感じさせない合気(アイキ)を使い、合気の説明を一切しなかった。
 植芝盛平は惣角の合気から引用して合気道と名付けた。気を合わせる、愛気などの説明をしてます。合気は気を合わせる技術なのは正しいのでしょう。剣道、柔道、茶道、華道は音読みですが、合気道は訓読みと音読みの組み合わせで、なんとなく不自然です。ゴウキドウのほうが漢字としては自然です」

一刀流や無住心剣術以外に「合気」という言葉が出てくる近世の文献では、国立国会図書館に『武道秘訣 合氣之術』(武骨居士著、明治25年12月10日出版)と『武道秘訣 合氣之術』(無名氏著、明治33年4月26日発行)が所蔵されています。内容は全く同じもので、「故に合氣の術に要する。迅速無間の読心術を施さんとするには」とか「合氣の術にも、亦一個の得物を要するものあり、曰く、他なし掛声是れなり」と書かれていて、この本では「敵人読心の術」と「掛声の気合」を「合氣」としています。

大東流は、武田惣角師が遺している明治32年(1899)の『英名録』に「大東流柔術」の字が見られ、この頃から伝授が始まっているので、『武道秘訣 合氣之術』はそれ以前の発行です。この本の影響があったかどうかは分かりませんが、大東流の「合気」という術理又は技法は伝授を始めた頃からあったと考えるのが妥当だと思います。佐川幸義宗範の父 子之吉氏の大正2年(1913)9月3日のノートに「片手を両手でつかまれたる時、その手を押しだし前より“合気をかけ”後ろにまわり、しょい投げること」という記録が遺されているそうです。
また、惣角師も教える時に「技をかけながらホラこれが合気だこれも合気だと言ってやっていた」そうです。

一刀流、無住心剣術、大東流などの「合気」が、「従来の武芸者が口にする合気」ということになります。

大東流の合気は、武田惣角師は言葉で表わしたことはないと思いますので、惣角師の後を継いだ佐川幸義宗範が与えた定義、「相手を無力化する技術」「敵の力を無にする技術」ということに従って、開祖の合気との違いを明確にしたいと思います。この明確にする目的は、武道流派の比較を論ずるためではなく、稽古の目標を見定めたいがためです。
posted by 八千代合気会 at 10:04| 日記

2014年06月06日

すぐわかる日本の神々

鎌田東二先生が監修し、稲田智宏氏と堀越光信氏の共著で、平成17年(2005)12月に東京美術から出版されました。副題は『聖地、神像、祭り、神話で読み解く』です。

鎌田先生の博士論文の概要が発表されているので引用します(http://homepage2.nifty.com/moon21/ronbun03.html)。
「『国学者』(古学者)の多くがわが国固有の言語特性と優秀性を闡明しようとする意図を持っていたが、それを全面展開したのは平田篤胤である。また、同時代の国学者たちも競ってその言語特性を明らかにしようと情熱を傾けた。山口志道、中村孝道は、そうした江戸時代後期の傍流国学者群像の一人であり、後に出口王仁三郎に甚大な影響を与えることになる。山口志道と中村孝道は、言霊を生命的に理解し、声と呼吸の分節の中に宇宙論的かつ神話的な世界創成の過程を見て取ろうとした。

 山口志道は『天地の水火(かみ、註:そのまま『いき』と読んでいるものもあるhttp://kotodamart.eco.coocan.jp/mizuhonote01.htm)と人間(ひと)の水火(いき)と同一(なることを知りて、家国を治の本は己が呼吸の息に在ることを知る)』と主張し、五十音と片仮名の発生を呼吸と結びつけて解釈し、それをさらに『古事記』上巻の神々の発生と結びつけた。それに対して、中村孝道は『七十五声は即ち天地の声』と主張し、五十音ではなく、七十五音の音義を解釈し、特に『ス声』に着目した。同時代の平田篤胤にも同様の視点と志向性があるが、その言霊思想は神代文字論にも及び、特に『ウ声』を五十音の根本と考えた。

 平田篤胤の国学研究は多岐にわたり、近代の民俗学および霊学の先駆的研究となった。この三者の言霊思想や国学研究、霊学研究は、霊学者・本田親徳や言霊思想家・大石凝真素美を介して、大本教の出口王仁三郎に多大な影響を与えると同時に、その思想と実践の基盤を提供した。大石凝真素美は中村孝道の言霊七十五声説を元に、山口志道の『火水』の象徴図形を加えてみずからの言霊説を展開した。大石凝は七十五声を独特の十八稜図(コンペイトウの象)に表し、その中心に『ス声』と○(マルチョン)を位置づけた。これらの言霊論を整序し、統合し、さらには『言霊隊』なる組織『言霊閣』という建物を作って言霊の言語実践をしたのが出口王仁三郎である。

 出口王仁三郎は言霊学に基づいて『オホモト(大本)』や『タニハ(丹波)』を解釈し、言霊学と鎮魂帰神の行法を含む霊学を大本教の宗教活動の根幹に据えた。そして、浅野和三郎や谷口正治(雅春)や友清歓真などの神道系新宗教の指導者の宗教活動に大きな影響を与えた。大本から分派した友清歓真と岡田茂吉の言霊論は出口王仁三郎に対する距離に基づいて展開された。友清はより批判的・超克的に、岡田はより共感的・継承発展的に言霊論を展開した。友清歓真は従来の言霊説の牽強付会ぶりを批判し、独自の音霊法を提唱・実践した。それに対して、岡田茂吉は言霊を浄霊という病気治療の実践と結びつけた」

開祖によると「合気道は『古事記』の営みである」ということですから、山口志道の『水穂伝(みづほのつたえ)』に「是ぞ神国の教なる。既に古事記の神代の巻と唱るも、火水與(かみよ)の巻と云義にして、天地の水火を與(くみ)て万物を生し、人間の水火を與て言(モノイフ)ことの御伝なり」とあることから考えて、特に『古事記(神代の巻:上巻、開祖の言葉では一巻)』の神々について知ることができれば開祖の教えを知ることが容易になると思います。

「イントロダクション」に、「『神』という言葉は、喩(たと)えて言えばパソコンの『フォルダ』のようなものである。さまざまな情報や形態や状況を、とりあえずその中に入れ込むことで、関連するものをすべて包み込む。『神』とは日本人が抱いてきたある特定の感情や力や現象を取り込んだ『フォルダ』である」と書かれています。私は、開祖の教えを理解するためには、神(神名)とは力又は働きを表すものという捉え方が良いと思っていますので、そのような観点で参考にしたいと思いました。
例えば、伊豆能売神(大本や開祖は伊都能売)は「伊豆は厳瓮(いつへ・神聖な土器)などの厳で、斎(つつし)み清めることを意味し、汚穢をすすいで清められたことを表した神である」ということで、何となく開祖がおっしゃられていたことの意味が分かると思います。

大本については、「出口なおに『艮(うしとら)の金神(こんじん)』が懸り」、「その上田(喜三郎、出口王仁三郎)は審神(さにわ)によってなおに懸った金神を国常立(くにとこたち)尊と判断した」、「祭神は大本皇大神(おほもとすめおほかみ)という。これは天地万物の創造神の独一真神、また国常立尊や豊雲野(とよくもぬ)尊といった諸神の総称である」、「大本ではこの国常立尊を国祖神と見なすが、厳格さゆえに太古に他の神々によって、悪神として封じ込められていた」、「高天原を追放された素戔嗚(すさのお)尊は人々の罪を一身に受けた贖罪(しょくざい)神であり、さらに救世主だともされ、厳霊(いずみたま)と瑞霊(みずみたま)を統合した伊都能売霊(いずのめのたま)の神格を王仁三郎が体現しているともいう」と書かれています。

「神様をまつるということ」に、「神道は自然崇拝の宗教である。ただしこれを、神道は自然を崇めているのだ、とだけ考えていては、一面的な理解になってしまう」「総体的に見れば、自然=神というよりも、自然の中に潜む神秘的な命の働きを日本人は感得して『神』と見なしていた、とするべきだろう。つまり自然を通して神を感じていたゆえに、自然は神なのである」とありますが、ここから「神人合一」と「我即宇宙」が同じ意味であることが分かります。

「心身を浄める斎戒と禊祓い」に、「神と直接に向き合うためには、それなりの準備が必要となる。俗世間の日常的な穢れを落とさなければ神との交感はできないし、何よりも無礼を働くことになってしまう。それで祭に先立って行われるのが斎戒である」、「心身を清めるための方法のひとつに禊がある。…通常の禊は清水を浴びることだが、神社の地理的条件によっては川や海において行われる」とあり、開祖の行動や言葉の意味が分かります。

「祝詞と言霊」に、「祝詞を奏上することの背景には言霊思想がある。言葉は霊力を持ち、声に出した『言』は現実の『事』になると考えられてきた。神の名を唱えれば神は現れる。…したがって祝詞は単に神へと語りかける言葉なのではなく、神の威力を発揮させるための呪言(じゅごん)だといえるだろう」ということなので、お経を上げることとは少し意味が違うように思います。開祖が、毎日、神名を上げて祝詞を呪された気持ちを感じました。

誓約(うけひ、宇気比)は「神意や真実を得る方法」、太占(ふとまに、布斗麻邇)は「卜占」という意味で、これが本来の意味でしょうが、開祖が使えわれている意味は少し違っています。

「神楽」は「神の降臨を意味する…。つまり本来の神楽とは、神が人の体を借りて舞い、神意を顕すことにあった。やはり『歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽(あそ)ぶ』(記)ものなのである」とのことで、開祖の神楽舞も同じものかと思います。

「第V章 神々の系譜」に『古事記』と『日本書紀』に出てくる神々の説明があり、とても参考になりますが、スサノオは『古事記』では「建速須佐之男命・速須佐之男命・須佐之男命」で、『日本書紀』では「素戔嗚尊・神素戔嗚尊・速素戔嗚尊」と書かれていることが分かります。

開祖にお会いした時、道場(市民体育館でしたが)を「ここは多賀の里じゃ」と言われましたが、この本の「多賀大社」に「主祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。『古事記』には伊邪那岐神が『淡海(近江)の多賀に坐す』とあって、古くから当地で祀られていた」と書かれています。

『古事記(上巻)』に基礎を置く合気道ですが、『古事記』が和漢混交体で記されていたため、「漢文に慣れた知識人には評価されなかったようで、大きく取り上げられることはなかった。江戸時代になって国学者の本居宣長が注目してようやく、古典としての価値が認められるようになる」とのことです。

どの神社がどういうご利益があるかという本ではないので、八千代合気会の会員にも開祖のお話を理解するための参考になると思います。
posted by 八千代合気会 at 16:02| お勧めの本

2014年06月02日

開祖の合気(2)

藤田昌武先生の「合気という言葉自体を特別に取り上げ定義・説明はしていません」は、先生が総務部長であった当時の財団法人合気会 合気道本部道場としての公式に近い見解だと思います。合気道では大東流でいう「合気」のような取り上げ方はしていません、ということのようです。

斎藤守弘先生の「合気道はそもそも植芝盛平先生から伝わったもので、先生から伝えられた合気を、現在正しく伝えているのはうちしかない」という説明は「武産合気」という「合気」を指して言われているようです。斎藤先生は、「近ごろ、武産と言う言葉を簡単に口にしているが、武産とはいったいなんであるか分かっているのだろうか、何なのか分かっていれば、少なくとも日本の合気道はかなりの進歩があって良いはずである。武産とは合気道の原理を研鑽することにより、無限の技が生まれてくると言う、実技の問題である」(1993年 茨城県合気道連盟だより第16号)という言葉を遺されています。

望月稔先生の「合気の気は『やる気』。すなわち闘志です」というのは、如何にも望月先生らしいきっぱりとした捉え方だと思いますが、「合気は愛気じゃよ」という開祖の説明とは異なっているのではないでしょうか。開祖について習っていた時期が皇武館道場時代なので、その当時は「やる気」で良かったのかもしれません。確かに『武道』(昭和13年刊)には「氣勢を以て」という言葉が何か所か出ています。

既に触れましたが、最近(とは言っても、開祖の没後、大東流のことが世に知られるようになってから)、「大東流の合気」とこれに対比して「合気道の合気」という言葉が使われるようになっているので、『月刊フルコンタクトKARATE』の特集はそれに沿ったものだと思います。これは、「大東流の合気」がとても不思議で素晴らしいものであると認識されるようになったことに因ると思いますが、私は、「大東流の合気」と少し違ったもの(modifyしたもの)として「合気道の合気」があると考えると開祖のおっしゃられた合気(又は合気道)が後進に正しく伝わらないのではないかと危惧します。

「『合気』という名は、昔から有るが、『合』は『愛』に通じるので、私は自分の会得した独特の道を『合気道』と呼ぶ事にした。従って、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異なるのである」。(植芝盛平監修・植芝吉祥丸『合氣道』p.50)

「『合気』という名は、昔から有るが」と言われているとおり、「合気(あいき)」という言葉は一刀流では「合打 敵と打合ってどうしても合打となって中々勝負がつきにくいことがある。われが面を打つと敵も面を打ち、敵が小手を打つにわれも小手を打ち、われ突に出ると敵も突いてくる。吾が一尺進むと敵も一尺進み、われが五寸退くと敵も五寸退く、いつまでたっても合気となって勝負がつかない。遂には無勝負か共倒れになることがある。これは曲合(間合)が五分と五分だからである。こんな時は合気をはずさなければならない。合気をはずすのには先ず攻防の調子を変えなければならない。わが遅速長短の調子の旋律を急に変え、横縦上下の喰違いの形をとり、心に於て敵の気を離れ、互いに引張りを解き放し、敵強引にくればわれふわりとはずし、敵無為となればわれ厳しく打つ。かく手を変え品をかえるとわが曲合の利が生れてくる。これを利してそこに乾坤一擲の大技をかけると目が覚めるような新鮮な勝が我手中に帰する事になる」(笹森順造著『一刀流極意』)と述べられている意味で古くから使われていました。本来の言葉「相機」が「相気」から「合気」へと変わったのではないかと考えられています。
また、『天真独露』(無住心剣術 小田切一雲)に「兵法諸流、先を取るを以て至要と為す。恐らくは不可也。我先を好めば則ち敵もまた先を取らんと欲す。此則ち先々之先也。是の意にして合気之術也。敵もし我の不意を討たば則ち敵は常に先々、我は以て後也。故に負を蒙る。剣術は無益の数ならんか。然らず。ただ先と後とに拘らずして、無我の体、円空の気を備ふれば、すなわち千変万化して勝理常に己に有り。人、恬淡虚無なれば、その気乾坤に充満し、その心古今に通徹す。神霊万像に昭臨して、白日晴天に麗らかなる如し。一物前に現るれば、見聞に随て、意已に生じ、気已に動く。若しこれに執着すれば、則ち神霊忽ち昏晦して浮雲大虚を覆ふが如く、最初の天真之妙心を失却して、散乱麁動の妄意に転倒せむ。これ則ち合気の為す所なり。平日の工夫修養合気を離るるの一法にあるのみ」とあり、一刀流と同じく攻防の調子(拍子)が敵と同じになってしまうという意味で「合気」という言葉を使っています。
posted by 八千代合気会 at 22:06| 日記

2014年05月28日

日本人の坐り方

矢田部英正氏が著者で、平成23年(2011)2月に集英社から集英社新書として出版されました。

カバーの裏に、「畳や床の上に直接腰を下ろして『坐る』。私たちが普段、何気なく行っている動作は、日本人が長い年月をかけて培ってきた身体文化だ。しかもそれは、『正坐』のみを正しい坐とするような堅苦しいものではなく、崩しの自由を許容し、豊かなバリエーションを備えた世界なのである。古今の絵巻、絵画、仏像、画像などから『坐り方』の具体例を描き出して日本人の身体技法の変遷を辿り、その背後には衣服や居住環境の変化、さらには社会や政治の力学までが影を落としていることを解き明かす画期的論考!」と書かれています。

序章に「座」と「坐」の違いが述べられていて、「そもそも『座』という言葉自体が、その場に流れる『雰囲気』や『空気感』を意味する言葉でもあるのだが、学問的には表記の上でひとつの約束事が決められている。まず『坐』という文字を使った場合、人のすわった『形』や『動作』をあらわし、そこにマダレが被(かぶ)さって『座』となると、すわる『場所』を意味するようになる。解釈はそこからさらに広がって、『歌舞伎座』や『俳優座』といった劇場の呼び名にもなり、人々の集う『空間』や『共同体』、さらにはその場に流れている『空気の質感』までも含むようになっていく」という説明があります。
学問的には「座技」ではなく「坐技」が正しい表記で、「正坐」「跪坐(きざ)」のように書くのが良いということが分かりますが、昭和37年(1962)1月発行の『合氣道技法』では「坐技」、平成9年(1997)9月発行の『規範合気道 基本編』では「座法」「座り方」と書かれているように、一般的には「坐」が使われなくなって「座」に移行しているようです。

時代劇を見ていて、源平時代や戦国時代と江戸時代とでは武士の坐り方が違っているのは正しい時代考証によるもののようです。これは徳川幕府が制定した武家儀礼によるところが大きく、「正月の将軍への拝謁のときの坐り方が、室町時代には『安坐』や『胡坐』であったのに対して、江戸時代の二代将軍秀忠の頃には『端坐(正坐)』となるなど、この間、坐り方の作法に変化が生じている」ということです。「将軍に拝謁するもっとも格式の高い儀礼のなかで、忠誠を誓う大名たちの坐法は、各々の存在を大きく見せる安坐や胡坐よりも、慎ましく膝を閉じて『かしこまった』坐り方がより好ましいと考えられたにちがいない」とのことで、時代が下っていくにしたがって、この坐り方が女性たちの間で広まっていったのは、当時の服飾様式の変化(キモノの身幅が狭くなっていった)と密接に結びついているようだとのことです。

明治13年(1883)に東京府内の小学校73校で小笠原流の礼法教育が行われることになり、「両足を揃えて立ち、止まり、左の足より、一足ずつ後の方へ引き、爪先を立てながら、両膝をつき、両足の拇指を、重ねて坐すべし、坐せる時、直に其手を膝上に置き、腋(わき)のあたりに、鶏卵一個ずつ挟みて、落さぬようなる心得に、腕を据えるべし」という正坐が教えられたそうです。

そうすると、根本術理の合気を正坐した状態の合気揚げで練る大東流は、起源がそれ程古くないと考えるのが妥当ではないかと思います。

最後の章は「坐り方ガイド」で、「短時間の『端坐』であれば、膝下の血行を促す健康上の効果も得られる」、「ただし問題は『膝』である。足先のしびれを通り越して膝が痛くなるような状態は、相当長い時間坐り続けた結果として引き起こされるものであるから、たとえ芸事の修練であっても、膝を痛めるほどの長時間の『端坐』は控えるべきで、せいぜい1時間以内に留めた方が良い」との注意があります。

1冊、30分で読めるような本を、ということで書かれたもので、読みやすく、また、説得力のある各種の絵画や画像などから、よく分かる本にまとまっています。
posted by 八千代合気会 at 08:57| お勧めの本

2014年05月27日

開祖の合気(1)

天の浮橋について調べていた時、ハワイの合気道三元会のブログで“Floating Bridge of Heaven”と訳されていることを知りました。日本語でもよく理解できない概念を英語に置き換えて理解しようとされていることを知り、頭が下がる思いと、日本語が分かるはずの日本人が「開祖のお話は難しくて分からなかった」ということで済ましていてはならないという強い思いがしました。
Floating bridgeといえばhttp://www.nauticexpo.com/prod/marine-floor-europe/floating-bridges-24116-396079.htmlの写真のようなものをイメージするでしょうし、『古事記』などの知識があればWikipediaの「国生み」などに掲載されている「天瓊(あめのぬぼこ)を以て滄海(そうかい)を探るの図」(小林永濯・画)に描かれている雲の橋をイメージするでしょうか。

この合気道三元会が、「合気」の意味について合気道と大東流の著名な先生方の意見をまとめていて、そこに開祖の「この道は、天の浮橋に最初に立たなければならないのです。天の浮橋に立たねば合気は出て来ないのです」という言葉が引用されています。http://www.aikidosangenkai.org/blog/survey-says-aiki/
このブログの大東流合気柔術 練心館の前田武氏の言葉までは、『月刊フルコンタクトKARATE』の1996年1月号の特集「秘技・合気の秘密」からの引用だと思います。この開祖の言葉も含めて、その後に掲載されている方々の言葉は他の資料から引用して付け加えられているようです。

改めて『月刊フルコンタクトKARATE』の記事を引用します。
「・櫻井文夫(合気道SA代表師範)
 合気は相手が固体化したときに出やすいんです。人体には多くの関節があり、バラバラに動いているので、なかなか固体化することはありませんが、「腕を強く握ってごらんなさい」などと、あらかじめ教示を与えておくんです。すると、筋肉が緊張して腕が固体化し、合気がかかりやすくなる。
 よく合気道家の先生が自分の力を誇示するために腕を握らせたりするのは、相手を固体化させるためなんです。強く握れば握るほど、相手の思うツボなんですよ。
 かりに強く握らなかったとしても、上手な人なら膝を使った早い動きで、相手に一瞬ビクッとさせておいて、その反射を利用して瞬間的に合わせるんです。ちょうど、釣りをして、魚が餌に食らいついた瞬間に、竿を合わせるような感じで。
 でも、本当に合気が使いこなせるというのなら、演武などの約束事ではなく、自由な戦いの中でも使いこなせるはずなんです。そうは言っても、先ほど述べたように、合気にはいろいろな身体的条件の一致が必要となるわけで、自由な戦いの中でそれを使いこなすには、合気そのものに変革が必要なんです。
 にもかかわらず、現行合気道は自由な発想での戦いを忌み嫌って、やっていることは派手に飛んでみせる演武と、素人相手に奇術師まがいの合気技を見せることでしょう。
 合気にも2種類あると思うんですよ。一つは静的な状況(自由な戦い)で使われる合気。現行合気道は《静の合気》ばかり追求して、《動の合気》については検証しようとすらしない。僕に言わせれば、現行合気道がやっている合気は、ただのマジック…合気マジックにすぎませんよ。

・高岡英夫(運動科学研究所所長)
 合気道では、力線をずらしたり、タイミングや弾みを利用したり、テコの原理を利用したりという、巧みな力学的技術のエッセンスを総称して「合気」と言い、またそうした技術を充分に発揮するための土台となる自己と相手の認識・意識的関係をも「合気」という概念を含めている流派が多いようです。
 合気柔術は、合気道に比較して、そういう考え方を採用する流派は少ないですね。合気柔術では、概して「合気」を巧妙な力学的技術のエッセンスとしてではなく、相手の運動制御機構そのものを自己の支配下に置きコントロールする技術のエッセンスとして考える場合が多いのです。
 力学的段階の合気を「第一の合気」とすると、これは相撲のいなし、腕の返し・押っつけ・投げなどや空手の蹴りに対するすくい投げなどの熟達した実例はいくらでもふくまれていることが分かります。言い換えれば力学的には損な関係の中で“相手に勝る筋力”で制することを許容するかどうか。これが「第一の合気」についての、合気道と他の格闘技の違いということになるのです。合気道とは、こうした筋力性をゼロに、反対に「第一の合気」を100%に近づける徹底した努力と言えるでしょう。
 運動制御機構を支配する合気を「第二の合気」とすると、この初歩的な実例は、柔道の「崩し」などにも見ることができます。「体の崩し」ではある種の体幹起立筋の反射(つんのめり反射)を巧妙に引き起こしてやることで、一瞬運動制御機構に混乱を起こし支配下に置くことを狙います。つんのめり反射を僅かでも引き起こすことができれば、その後の技は格段に掛け易くなるわけです。しかしこうした生理反射のみを利用するのは、「第二の合気」としては初歩の初歩と言わざるを得ません。

・森恕(大東流合気柔術琢磨会 総務長)
 私たちが考えている合気というのは、「無意識的な防御反応、あるいは防御本能に基づく動きをこちらで刺激して身体操作をすること」。これが合気の神髄だと思うんですね。
 柔術の場合は、相手の身体を動かして、倒したり、投げたり、抑えたりということも目的としています。だから、相手の身体操作方法に技法のエッセンスが集まってくる。そのエッセンスを集めて、さらにその上に意識的動きを封じて本能的動きを誘い出して倒す…そのためのコツ、心得、考え方が合気だと思います。
 だから、視点の置き方が、従来の人がやっている剣技を中心にした<仕手>側の心法ではなく、柔術は<受け手>側の心法でないといけないのではないか。それに注目してやるのが合気柔術ではないかと思っているわけです。
 <仕手>についての心法というのは、気の力とか呼吸法とか、言わば「力」に注目したものになってくるか、あるいは武田時宗先生が「先々の先」だとかいう言い方をして、タイミングというところに視点が置かれているんですが、受け手の心法に注目すると、「<受け手>の防御本能や反応に注目する技法」に結実していくんです。
 ですから、心法と身法を分けるとすれば、大東流合気柔術は心法であり、単純な身体の技術ではない。だけど、相手の心や神経、本能に着目した技術ですから、変な言い方ですけど、「相手の心法」ではないか。身法をふまえた心法、それも相手の心…神経、本能を含めた、相手の心法に注目した技術です。

・井上祐助(大東流合気柔術幸道会 総本部長)
 言葉や文章ではなく、実技を通じて伝えてゆくべきものであるだけに、定義したり、本に書いたりしたこともありません。人とそれぞれの個性というものがあるように、修業の過程でその者の個性ないし特徴を見ながら、「それを伸ばしてやるにはどうすればよいのか」という部分に重点を置いて教えています。その結果、私と違った合気を身につけたとしても構わないと思います。それがその人の持ち味なのですから。

・近藤勝之(大東流合気柔術本部 本部長)
 大東流の技は5つの基本(礼儀、目付、呼吸、間合、残心)を習得し、合気による崩しが加わることで完成します。柔術の崩しと合気による崩しは異なるので、必ずしも合気=崩しではありませんが、最初の段階では「崩し」と理解してよいでしょう。相手の虚をついて崩すこともありますが、合気による崩しは相手が触れた瞬間に崩していなければなりません。そのためにも、基本の修得が必要不可欠となるのです。

・前田武(大東流合気柔術 練心館 師範)
 「集中力」ではなく、触れることで相手を無抵抗にさせることだと思います。接点から気を出して、丹田から足へと伝えることによって相手を動けない状態にしてしまう。あとは投げようが倒そうが、こちらの意のままです。師匠の松田敏美には「力を入れるな」と教わりました。師の手を握ったときの感触を覚えておいて、あとは自分でいろいろ試行錯誤することで身につくはずです。私の場合には30年ぐらい掛かりましたね。

・吉丸慶雪(合気練体会 主宰)
 合気というものは伸筋を使い相手を崩す「技術」で、その原理は全て合理的に説明が出来ます。そして多くの人が気と呼んでいるものは、この伸筋の力を指しているもので、神秘的な意味での「気の力」は存在しません。ただ、この伸筋の働きは、使っている人が「力を使っている」という意識が出来ないため、多くの人はこれを指して「気の力」と呼んでいるわけです。ですから合気と気は分けて考える必要があるのです。

・望月稔(総合武道養正館 館長)
 合気の気は「やる気」。すなわち闘志です。闘志と闘志のぶつかり合い。それが合気道だと思います。気には強いものもあれば弱いものもある。しかし、それらは修練によって強くなるものです。私のところにも女か男か分からないような若者が入門してきますが、稽古が進むにつれて、道場での態度も引き締まってくる。つまり、やる気が出てくる。やる気のある者は、より積極的に稽古の取り組むようになる。それが大切なのです。

・藤田昌武(財団法人合気会 本部道場師範)
 合気会は合気道を国内外に推進・普及している中心団体として活動していますが、合気という言葉自体を特別に取り上げ定義・説明はしていません。合気道は競技体系を持っていませんので、約束稽古・型稽古を通じて体の鍛錬をすると同時に、相手と合い和する心の鍛錬を目的にしています。そして、こうした稽古を通じて、誰もが持っている合気も養われ、発揮されてゆくと考えています。

・斎藤守弘(合気道 茨城道場 師範)
 合気道はそもそも植芝盛平先生から伝わったもので、先生から伝えられた合気を、現在正しく伝えているのはうちしかない。今の多くの合気道家は、合気を求めるあまり、先生の伝えた稽古を疎かにしている。それでは合気を得ることは出来ない。合気は本来誰もが持っているものだが、それは正しい型の稽古を繰り返すことにより修得しなければならず、それなくして合気を得ることはない。

・中野仁(合気道養神会 本部道場師範)
 合気を得るには、理屈によるものと体によるものがあります。どちらも合気という答を求めているのですが、戦後の新しい流派の多くは、過程を飛ばして理屈により答えを求めているようです。私達はそれと違い、基本動作や指導稽古等の過程、体を使った稽古を通じて合気を習得する方法をとっています。また、合気は必ずしも神秘的なものではなく、敵との間合いや殺気を感じる等のことも含めて合気であると思います。」

それぞれの先生方が「合気」というものをどのように捉えられているかを知ることが出来ると思います。
posted by 八千代合気会 at 02:26| 日記

2014年05月03日

腰痛

住田憲是(かずよし)医師が監修して、平成19年(2007)2月に主婦の友社から出版されました。副題は『よくわかる最新医学』です。

住田医師は、AKA-博田法という比較的新しい手技療法を中心に整形外科領域の痛みに限定して、その診断と治療に専念されている整形外科医です。
「はじめに」に、「日本人の約80%の人は、一生の間に必ず1回は腰痛になるといわれています。…そして、腰痛の治療は、現在、整形外科で行っている手術や薬物療法などがベストで、これらの治療で治らない腰痛は、がまんするしかないと信じている患者さんたちが多いと思われます。…腰痛のほんとうの原因が神経領域以外にある場合に、整形外科医にはそれがわからず、必要のない椎間板ヘルニアや脊柱管狭窄症などの手術を行ってしまうことがあります。腰痛の85%は、仙腸関節という骨盤にある関節の機能異常や炎症が原因です。通常、みなさんを悩ませている腰痛は、ほとんどがこの仙腸関節に原因があります。本書は、約85%の腰痛をよくすることができるAKA-博田法についてくわしく説明しています」と書かれています。

この本が発刊された翌年、私もぎっくり腰で身動きが出来なくなりました。整形外科に2箇所、民間療法を含めて合計8箇所で治療を受けましたが、治療を受けた帰りも数十メートル歩くのが大変な状態でした。そんな時にこの本に出会って、9番目の治療法としてこのAKA-博田法を選びました。この本には専門的な説明がありますが、そのことはよく分からなくても治癒率を明記してあったのでそれを信じることにしたのです。そして、初めての治療で、帰りに歩けたのとクリニックに来ているお年寄りにお尋ねしたところ「効きますよ」ということであったので、治療を続けることにして、やっと重度のぎっくり腰から解放されました。

八千代合気会の会員で、何人かぎっくり腰や腰痛で稽古が続けられなくなった人がいますが、その時にこの療法を知っていれば今も一緒に稽古が出来ていたのに、と残念に思います。

仙腸関節の関節包の炎症が、腰痛や肩こりの原因になっているという新しい理論で、他の手技療法のこともあってか、健康保険の適用が認められていませんが、腰痛持ちの人は手術を回避できるかもしれないので、試すつもりで治療を受けられるのも良いかと思います。仙腸関節に軽く触れる程度の治療なので、逆に悪化させるという心配はないと思います。
仙腸関節から遠隔の部位の痛みも取れるとのことで、この本には例がありませんが、私の場合、夜中や自動車の運転中に起こる「こむら返り」も解消しました。

AKA-博田法から見た、腰痛を防ぐ日常生活の注意点として「中腰にならないこと」「同じ姿勢を長くとらないようにする」「疲れをためないこと」「冷やさないこと」の4つのポイントが挙げられていますが、このホームページの「リンク」の「その他」をクリックして「腰痛がある方のために(参考)」を開くと、前屈・後屈体操(youtsuu)を転載していますので、併せて取り入れてみて下さい。オフィスでも30分か1時間に1回の割合で、一度に3回だけ前屈・後屈体操をすると良いそうです。
日本AKA医学会(http://www.aka-japan.gr.jp/)のページには、指導認定医一覧や指導認定医mapが載っていますので、ご確認下さい。全国で100名の認定医がいますが、私が治療を受けた頃は54名でした。

仙腸関節の可動域を拡げることは武道の身体操作とも関連があるという理論があって、関節運動学研究会で「第11回 ビデオ上映−身体操作の極意(甲野善紀・高岡英夫) AKAにおける特殊な身体操作とはどのようなものかを解説。甲野善紀の「井桁の理論」と高岡英夫の「身体意識」を、AKA技術にどのようにして取り入れていく必要があるのかを考察」(http://www.arthro-reflex.com/info/enkaku.html)という研究もされているようです。
posted by 八千代合気会 at 13:05| お勧めの本